吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

今こそ読まれるべき小説、「ことばと生活」を巡って

 

吉村の第158回芥川賞はこれ!

芥川賞の候補作の中に『おらおらでひとりいぐも』という小説が入っていたので、気になって読みました。

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で、で、で、です。
素晴らしい!です。
 
小説という形式で、こんなに見事に「ことばと人生」のありようをつづった文章に久々に出会いました。
年明けの選考結果がどうであれ、僕の中では「第158回芥川賞」は、これに決まり!
 
明治維新から150年、戦後70年、そしてあの東北大震災から6年が経ち、平成の終わりが近付き、3年後には東京オリンピックを迎えようとしている今だからこそ、この小説はすべての日本人に読まれるべきだと、僕は強く思います。
 
もともと、この作品は河出書房新社の「文藝賞」を受賞したもので、作者の若竹千佐子さんが63歳という年齢であるところから、「史上歳年長受賞」や「63歳の新人による『玄冬(げんとう)』の物語」などというキャッチフレーズが宣伝文句として新聞紙上に踊っていました。
 

母語」を再発見する小説

その、『おらおらでひとりいぐも』ですが、まずは、書き出しからしてイイ!のです。
 
「あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなっ てきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如(なんじょ)にすべがぁ
 何如(なじょ)にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたごどねでば、なにそれぐれ
 だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後 まで一緒だがら
 あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
 決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」
 
東北弁の「話しことば」の文字化。
「おら」と「おめ」の対話によって、これから始まる物語の展開を提示します。
 
物語は、東京オリンピックの年に、そのファンファーレに吸引され るかのようにして東北の故郷を飛びだして東京に出て行った桃子さんが、50年の時を経た後に、身内から湧きあがる「東北弁 丸出しの声」と対話しながら、人生の「これまで」「いま」「これから」を語ってゆく、という結構になっています。
 
東北の故郷を離れて50年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりの桃子さんなのですが、老年になった近頃、東北弁丸出しの言葉が心の中に溢れてくるのです。
「晩げなおかずは何にすべから」
「おらどはいったい何者だべ」
「卑近も抽象も、たまげだことにこの頃は全部東北弁で」 なのです。
 
そして、その根っこのところにあるのは、「おら」という一人称の 「母語」の再発見です。
 
つまり、『おらおらでひとりいぐも』という小説は、近代日本の産 業社会と制度教育が与えた「わたし」というお仕着せの一人称の奥部にある「おら」を再確認した主人公・桃子さんが、その「おら」という「ことば」を軸にして、これまでの自分の人生を見つめ直し、自分の生きてきた「日本の近代」を問い直している小説なのです。
 
この小説についての論評の幾つかが、「方言の豊かさ」などと論じていますが、それは的を外していると思います。
決して「標準語VS方言」の問題ではなく、「方言の面白さ」 の問題でもありません。
ことは、「ことばと人生」の問題、だと僕は考えます。
 
「標準語」とはこの世に実在しない、架空の言語概念です。
この世にあるのは、一人一人が日々の暮らしの中で使う「訛りを含んだ生活ことば」だけ、なのです。
そして、「生活ことば」は、それぞれが必ず訛っているのです。
それは、人それぞれの人生が決して標準化・画一化されえない「個別の人生」であることと同義です。
 
作者は、桃子さんの頭の中に出てくる他者に、
「東北弁とは最古層のおらそのものである。
 もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである」 と言わせます。
 
「わたし」と「おら」の対比、「おら」と「おめ」の会話。
桃子さんの人生を語ることは、私たち日本人が生きてきた「近代」を語ることになっているのです。
『おらおらでひとりいぐも』は、若竹千佐子さんが「人生で書いた小説」だと言えるでしょう
 
そして、この小説の上手い点は、主人公と頭の中の他者との会話という体裁を取ることによって、地の文章までもを自然に東北弁と標準語との混交で書ける文体を産み出したところにあります。
例えば、昨年の芥川賞受賞作『影裏』(沼田真佑・著)などのように、これまでも、「方言」を使った小説は幾つもあったのですが、その多くは「 」で示される登場人物の会話部分に限られており、小説の大部分をなす地の文章は標準語の文章で書かれていました。
 

東北弁で思い出す本

最近出た本で、「ことばと生活」について考えさせられるものが、 もう一冊ありました。
『東北おんば訳 石川啄木のうた』(編著・新井高子 未来社)です。
 
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 
啄木の有名な短歌が、岩手県大船渡の「おんば」 と呼ばれる年配の女性たちの「ことば」によると、
 
  東海の小島の磯の砂っぱで(ひんがすのこずまのえそのすかっぱで)
  おらァ 泣ぎざぐって(おらぁ なぎざぐって)
  蟹ど戯れっこしたぁ(がにどざれっこしたぁ)
 
と、なります。
場所不明だった「東海」が、ものの見事に「リアス式の三陸海岸」 の風景を立ち上がらせてくれます。
 

井上ひさし吉里吉里人』

ここで、「東北弁」を使った小説の先駆者である、井上ひさしを思い出しました。
 
岩手県のどこかにある「吉里吉里村」が、経済大国・日本から独立して独立国家を作るという小説『吉里吉里人』です。
ユーモア満載で、抱腹絶倒の小説なのですが、僕がいちばん好きなのは、「吉里吉里国歌」の2番です。
 
  吉里吉里人は眼はァ澄んで居で(ちりちりづんはまんなごはァすんでえで)
  頬ぺたと夢はァ脹れでで(ほぺたとゆんめはァふぐれでで)
  男性器と望みはァ大きくて(だんべとのんぞみはァおっきくて)
  女性器と思慮はァ練れでえんだちゃ(べちょことすりょはァねれでえんだちゃ)
 
おもしろいでしょ。豊かでしょ。
何と言っても、身体性と土着性に裏付けられた「ことば」が強い!です。
 
吉里吉里の住民は言います。
「わたしたちにとって吉里吉里語は宿命なのです。
 父を、そして母を選ぶことができないように、わたしたちは自分の生まれる土地の言葉を選ぶことはできません。」
「わたしたちはもう東京からの言葉で指図をされるのはことわる。
 わたしたちの言葉でものを考え、仕事をし、生きていきたい。」
 

がんばっぺ!宮城

もう一つ、思い出しました。
2011年の東北大震災の時に、東京のマスメディアから発信された「絆」や「希望」や「復興」などで彩られた言葉がとても薄っぺらく聞こえたのに対して、救援隊員のヘルメットに書かれていた「がんぱっぺ!みやぎ」や、腕章に書かれていた「けっぱれ!岩手」や、「まげねど!女川・石巻がどれだけ心に響いたか。
 

芸人も自分の育った土地のことばを使ってほしい

少し、余分なのですが。
僕は、『お笑い芸人の言語学』で、「お笑い芸人のことば」に「標準化されないことばと生活」を読み取ったのですが、今やお笑いの世界では「標準語」に対抗する形での「関西弁」だけが幅をきかせ過ぎているのではないか、と思っています。
 
「関西弁」が「お笑い」のための「ビジネス日本語」になるのを危惧しています。
もっと多彩な「生活ことば」で「お笑い」をやって欲しいのです。
 
「千鳥」は、岡山弁訛りの関西弁で頑張っています。
博多華丸・大吉」、地元福岡での放送だけでなく、東京発のテレビでももっと博多訛りを使っても良いと思います。
「カミナリ」、せっかくNHK朝ドラ『ひよっこ』 があんなに茨城訛りを日本全国に広めてくれたのですから、 もっともっと堂々と茨城訛りを使ってほしい。
 

小説であり言語学であり社会学であり人類学

『おらおらでひとりいぐも』に話を戻します。
この本は優れた小説であると同時に、とても優れた言語学の本でもあり、社会学の本でもあり、人類学の本でもある、と思います。
僕たちが生まれながらに身につけた「母語」の大切さ、そして「母語」を核にして膨らんでいく「日々の暮らしのことば」。
「ことば」から考える、社会と人生。
 
「優れた表現」というものは、ジャンルを超えて「人間の本質」に迫るものなんだなぁ、としみじみと感じたのです。
そして、「小説」っていう表現形式は、やっぱり素敵なものですね。

M-1補足と、朝日放送スキャンダル

M-1グランプリ」の余波が、まだ色んなところで続いていますね。

僕も、創設プロデューサーとして、前回のブログで今年の「M-1」について思うところを書いたのですが、その後、教えている大学生たちからたくさんの質問を受けました。

 

で、その応答の中から、少し。

まず、僕が漫才師さんたちの「力」を判定する基準にしている「声」について、です。

「声」と言うと、多くの人が「大きい声か、小さい声か、ですか?」と尋ねてくるのですがそうではありません。「声」が「強いか、弱いか」なのです。

 

マイクに乗る「声」とは

ご存知のように、人間の身体は「管楽器」です。身体の中から吐き出す息を、喉・口蓋・舌・歯・唇、で加工調音することによって、息が音になり「声」になります。

で、上手い漫才師さん達は、身体全体を使って、腹の底から息を出しているんですよね。ですから「声」がしっかりしていて「強い」んです。

「声」は音波ですから、たとえ小さくても「強い声」は棒状になって相手にきちんと届きますし、マイクにもしっかりと乗ります。

逆に喉から上だけ、口先だけで喋っている「声」は、大きくても拡散してしまうのでマイクに乗りにくいですし、やかましいと感じられてしまうんです。

 

上手な漫才師さんの「声」って、すごく聞き取り易い。

今回の「M-1」の出演者で言えば、「和牛」の川西くん、「ジャルジャル」の福徳くん、「さや香」の石井くん、の「声」は大きくないけど挨拶の一言目からはっきりと聞き取れましたでしょ。

漫才師さん達は、育ってきた人生の過程の中で、また芸人になってからは舞台の喋りの中で、「強い声」を身に付けてゆきます。僕はこれを「芸人の素力」と呼んでいます。

この「素力」の上に、「ボケと突っ込み」といったテクニックや「ネタの練り込み」が成立するんです。

漫才師さん達と直接に話しをしたら、彼らの「声」がふだんから「太くて、強い」ことにきっとびっくりしますよ。これは漫才師さんだけでなく、舞台俳優さんにも共通しています。ですから「舞台声」とも言います。

 

実は、「声」についてのこの秘密――別に秘密でもないんですが――は、漫才や演劇だけでなく、僕らの実生活でのコミュニケーションにとても役に立つことなので、今後の参考にしてほしいなと思います。

 

続く朝日放送関係のスキャンダルについて

さて、さて、「M-1」でせっかく名を上げた、我が古巣の朝日放送だったのですが、今週は全く別のことで話題になってしまいました。

「女優・藤吉久美子の不倫疑惑」、かの文春砲です。

知人から朝日放送が話題になってるでぇ」と言われて、最初は何のことかわからなかったのですが、週刊文春を買って読んでみて初めてわかりました。

藤吉久美子の不倫相手は、朝日放送のプロデューサー!」だったんですね。

 

あーら、まぁ、何ということでしょう。

先週は「隠し子の母・激白」で宮根誠司くん、彼は元・朝日放送のアナウンサー。

今週は「女優の不倫相手」で、現役の朝日放送ドラマプロデューサー。

二人とも、僕の後輩なんです。

 

うーん、いささか辛いですね。

朝日放送」人は、倫理観念に乏しい人間ばかりのように思われそうで。

 

で、宮根くんも、Aプロデューサーも、きちんと自らの従事するメディアにおいて、正々堂々と記者会見して思うところを述べるべきだ、と僕は思います。

なぜなら、免許事業たるテレビは「紛れもない社会的権力」であり、その出演者も制作者も「社会的権力者」だからです。

「権力」は「責任と義務」に裏付けられているもの、だからです。

 

それをしないかぎり、

「ABC制作の情報番組は全て芸能コーナーがあるけど、この問題はやっぱりスル―ですかね?他人に厳しく身内に甘い朝日放送

というネット上に現れた、一般庶民の「素直で強い声」に反論はできないのではないでしょうか。

 

このスキャンダルの話題、ブログに上げるかどうかを少しばかり悩みました。

ですが、「朝日放送 M-1グランプリ創設プロデューサー」として発言している者として、二つのスキャンダル報道について「スル―」するのは良くない、と思って上げました。

M-1グランプリ――M-1史上最高の面白さ!でした

 12月恒例の「M-1グランプリ」今年は格別に盛り上がりました。

勝戦での最後の審査員投票が「4対3」というのも実に劇的でした。

そして、放送が終わった後も、他のテレビ番組やラジオや週刊誌などでその余熱がいまだに続いていますね。

 

僕も、数日前にはMBSラジオで「笑い飯」の哲夫くんが熱気を込めてしゃべっているのを聞きましたし、今も雑誌「プレイボーイ」でオール巨人さんの「M-1最終決戦で僕が和牛に票を入れたワケ」を読んだところです。

審査員の松ちゃんの「ボクは面白いと思ったなぁ」、上沼恵美子さんの「聞かんといて」、オール巨人さんの誌上コメントと言い、笑芸戦場の最前線にいる人たちの論評は、さすがに的確でオモシロイ。

まるで、直木賞の選評を読んでいるような、一級のコメントでした。

 

島田紳助が「M-1グランプリ」を作った

「M-1」がこんなにも盛り上がるイベントになったことを一番喜んでくれているのは、あの島田紳助さんだと思っています。

「M-1」に関わったすべてのお笑い芸人さん、マネージャーさん、テレビスタッフの皆さん、「M1の今」があるのは島田紳助という優れた一人の芸人の熱意の賜物だ、ということを忘れないで欲しい、と思います。

 

思えば、2000年の春の時点で、「漫才師は闘わないと強くならないんです。強い漫才師を育てるためのイベントを作りたいんです」と言いだした時に、島田紳助の真意を汲み取れる人間は業界にはほとんどいませんでした。

拙著お笑い芸人の言語学にも書きましたが、最初に彼の意図を正しく理解したのが吉本興業谷良一プロデューサー。谷くんは全国規模のスポンサーとして「オートバックス」を口説いて、その店舗空間を使って日本全国からの予選を組み立てて頂上を目指す、というイベントの枠組みを構築しました。

そして、それを「テレビ番組 M-1グランプリ」として番組立てして電波に乗せる、という役割を勤めたのが、僕でした。

当初の社内会議で、営業・編成から「えーっ、漫才の勝ち抜きイベントに賞金が1000万、何考えてんねん」と言われたことを良く覚えています。

大阪の朝日放送の立派なキラーコンテンツになりました。

それどころか「M-1」は日本の笑芸界の最高のコンテンツになりました。

紳助さん、ありがとう!です。

 

 吉村誠の「M-1グランプリ」採点

さて、僕なりに「M-1」出場者の何組かの、ファーストラウンドの採点を書いてみます。

僕の判定基準は「声」と「ことば」です。

「声」とは、大きいか小さいかではなくて、お客さんの身体にちゃんと届く「声」が出せているかどうか、です。

「ことば」とは、お客さんの頭と心にちゃんと届く「ことば」を使えているかどうかです。

その上に「ネタ」や「テクニック」が成立すると僕は考えているからです。

 

「和牛」98点

最終決戦に出るだけあって、10組のレベルはとても高かったのですが、その中で最もしっかりとした「声」で、最も自然な「ことば」でしゃべりが出来ていたのは「和牛」でした。川西君も水田君も、決して大きな声でしゃべくるわけではありませんが、全身を使って「声」を出しているので、最初のひとことから明瞭に聞き取れます。

しかも誰にでもわかる「生活ことば」でネタを展開、既に一流漫才師のしゃべくりになっている、と思います。

特に、一回戦での「ウェディングプランナー」のネタは秀逸で、前半でのプランナーと新婦、後半での新郎と新婦の切り替わりが抜群でした。

あれを決勝戦でやっていたら、と思うのですが、そこがガチンコ勝負の「M-1」の非情さ面白さ、でもあるので仕方ないと言えば仕方ないですね。

 

優勝したとろサーモン」95点

面白いし、声もよく出ているのですが「ことば」に生硬さが時々出るのが僕は気になりました。それはオール巨人さんが指摘したように「北朝鮮」だとか「日馬富士」だとかの生乾きの時事ネタ用語もそうなのですが、根底には宮崎出身の二人が「漫才のための関西弁」に合わせている不自然さと、それを補うために久保田くんがかなり無理してキャラクター作りをしている所にあるのではないか、と思います。

きっと、このあたりが「とろサーモン」の今後の課題となるでしょう。

でも、素直に、「優勝おめでとう!」です。

 

「ミキ」92点

すごい頑張りでしたね。

でも、その「すごく頑張ってるーッ」と見えてしまうことが残念なところです。

僕が思うには、胸から上だけを使って一生懸命に声を張り上げているので、どんなに大きな声でしゃべっても音が拡散して、自分たちが思うほどにはお客さんには届いていないんです。本人も疲れるでしょうし、お客さんにも「ことば」が明瞭には届かないので「うるさい」と感じられてしまいます。

だから逆に声を出さずに身体で「金」や「令」を表現した時に大きな笑いになりましたよね。あれはとっても面白かったです。

彼らのスピード感は若手ならではの魅力でした。

 

「カミナリ」

今回の10組のうちで、関西弁の話者でなかったのは「カミナリ」と「マジカルラブリー」と「ゆにばーす・はら」でした。

その意味もあって、僕は「カミナリ」にはかなり期待をしてたのですが。

竹内くんと石田くんは、茨城県(いばらき)出身の幼馴染みらしいのですが、石田くんがせっかく活き活きとした「茨城なまりのことば」でツッコミを入れているのに対して、ボケの竹内くんの「ことば」が「中途はんぱな標準語」になっている分、弱いんです。

二人の使う「ことば」の落差がネックになっているのではないでしょうか。

キャラクターとしての立ち位置をしっかりさせること、それを踏まえて「しゃべることば」をしっかりさせること、が課題だと思いました。

 

 

いずれにしても、「M-1グランプリ 2017」本当に見ごたえがありました。

テレビを見て久しぶりにワクワク・ドキドキしました。

テレビって、まだまだ素敵なことがたくさん出来るメディアなんですよね。

島田紳助さん、素晴らしい置き土産をありがとう!

「どの口が言うとんねん」――テレビ出演者の精神的堕落

前回のブログで、NHKクローズアップ現代+」のディレクターさんを始めとするテレビ制作者たちの精神的堕落について書いたのですが、今回はテレビの出演者の精神的堕落について書くことにします。

 週刊文春12月7日号に載った「宮根誠司・隠し子の母激白」という記事を巡る問題です。

記事の内容は、かって宮根くんと恋愛関係にあった女性が、彼の子供を産んで育ててきた過程において、彼のついた嘘を明らかにして不実を責める、というものでした。

 ここで、僕が「宮根くん」と呼んでいる理由は、今からもう20年ほど前になりますが、まだ彼が朝日放送の社員アナウンサーであった頃に、僕が「おはよう朝日です」という番組の担当制作部長をしていたからで、彼とは先輩後輩・上司部下の関係にあったからです。

 

問題は、「都合の悪いことは隠す」こと

で、僕が問題にするのは、文春の記事内容ではありません。

そもそも、こういったスキャンダル記事の内実は、当事者にしかわからないもので、事の真偽は他人がとやかく言っても仕方のないことだと、僕は思っています。

 

問題なのは、この「立派なスキャンダル」に対する、宮根くんを始めとするテレビ出演者たちや番組制作者たちの対応する態度です。

11月30日(木)に週刊文春が発売されてから、宮根くん本人も、テレビ番組「ミヤネ屋」も、いっさいこの問題について触れていません。

そして、他局のワイド情報番組でも、この件についてはいっさい触れてないようです。

(すべての情報番組を見ているわけではないので、もし扱った番組があったら教えて下さい)

 

これって、おかしくないですか?

視聴者一般の感覚からして、とても変ですよね。

 

ベッキー川谷絵音の不倫」「松居和代と船越栄一郎」「山尾志桜里議員の不倫」など、など。

週刊誌が発信元のスキャンダルを、大勢のスタッフを動員して追いかけて、厖大なエネルギーを費やしてパネルや素材VTRを作って長時間にわたって特集していたのは「ミヤネ屋」を始めとする情報番組でしたよね。

本来は「個人のプライバシー」に属する事柄までを、「マスコミの知る権利」なる理不尽な権力を振りかざして、世間に晒していたのはあなた達ではないのですか。

 

「政治家の疑惑」についても、「大相撲の日馬富士貴ノ岩」についても、何度も「当事者にきちんと説明して欲しいものです」という発言を聞きました。

 

他人のスキャンダルについて、あれほど厳しく執拗に迫ってきた宮根くんと「ミヤネ屋」の皆さんが、自分のことについては一切語らないというのは理屈に合いません。

自分のことは棚に上げて、他人のしくじりや失態をあげつらう、それは卑怯なふるまいであり、精神的に堕落した行いです。

 

僕が宮根誠司を評価した理由

僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』において、タレント・宮根誠司をかなり高く評価しました。それは、彼が政治や経済や国際といった、通常は「難しい業界用語」で語られているフィールドを、「まぁ、いやぁ、ほぼほぼこういうことでっしゃろ」などの庶民の生活感覚に基づく「生活ことば」で語ってくれた数少ないタレントだからです。

それこそが、宮根誠司の魅力の根源であり、「ミヤネ屋」が大阪制作にも拘わらず全国ネットたりえている本当の理由だと僕は考えています。

 

宮根くん、君が大切にすべきは「生活ことば」で語られる、庶民の「生活感覚」ではないのでしょうか。

現在の君に多くの視聴者は、その「生活感覚」に依拠してこう言うでしょう。

「宮根はん、そりゃないわ」

そして、今後あなたが政治家や有名人に「誠実な説明」を求めた時には、

「どの口が言うとんねん」と突っ込むでしょう。

 

 これは蛇足かもしれませんが……

宮根くん、あなたのしくじりは、彼女と恋愛をし子どもを設けたことではありません。

それは、あくまで個人的な恋愛の一実態です。

彼女をして、「週刊誌への告白」という「社会的な形」を取るように追いこんだことが失態なのです。

個人的な問題の範疇を超えて「社会的な形」を取ったことがらは、「社会的な対応」でしか収束できないものです。

あなたの取るべき対処法は、「公器たるテレビ」を仕事の場としているあなたが、そのテレビの中できちんと彼女に対応して、問題を個人の事柄に収納することです。

それが、はからずも「社会的な場」に引っ張り出されてしまって困惑しているであろう、あなたを大好きだと言ってくれている娘さんの個人的尊厳を守る唯一の対処法だと、僕は思うのです。

 

ジャーナリストって何をする人なんですか

そして、もっと問題にすべきは、宮根くんを取り巻いている出演者の皆さんです。

春川正明さん、あなたは読売テレビの解説委員長であり元報道部長でしょう。

橋下五郎さん、あなたは読売新聞の特別編集委員でしょう。

お二人とも、組織に属しているとはいえ、「ジャーナリスト」の肩書きを持って言説を張っている方なのではないですか。

 

「ジャーナリスト」の本旨は、「社会的権力」の不正や歪みを突くところにあります。

そして、現在の日本において「テレビ自身が強大な社会的権力」であることは明らかです。

お二人には、そのことを是非とも周囲の人々に教え諭して、テレビ制作者やテレビ出演者の精神的堕落に自覚を促して欲しい、と思うものです。

 

 

最後に、僕は決して「スキャンダル」が好きではありません。

しかし、「スキャンダル」の社会的効用は認める者です。

それは「スキャンダル」とは、権力を持たない一般民衆が「権力」に対抗できる一つの手段であるからです。

北朝鮮のような独裁国家には「スキャンダル」が存在しません。

偉い政治家や、有名なタレントを悪く言える「スキャンダル」が成立する日本は、その限りにおいて、健全な民主主義社会であると言えるのです。

日本のテレビメディアのあり方を批評する

新聞の書評欄や文化面で取り上げられて気になった本があると、その新聞記事を切リ抜いてストックしておく癖があります。

決して、その全部を読み切ることはできなくて、多くはストックファイルの中で眠ったままになるのですが。

 

で、そのファイルの中にあった気になる本の一つが、谷口功一・首都大学東京教授の手になる『日本の夜の公共圏』でした。

これは、10月12日(木)の読売新聞の文化面で紹介されていた本で、何と「スナック」について初めて学術的に研究した本!だと言うので、「スナック」好きな僕としては、絶対に買って読もう、と思ってたのです。

しかも、「スナック」には、インフォーマルなコミュニティーを形成する「地域の夜の公民館」としての機能がある、なんてとても優れた解析ではありませんか。

 

そんな時に、谷口さんの「テレビ取材への苦言」というブログを読みました。

snacken.hatenablog.com

NHKの「クローズアップ現代+」担当ディレクター氏からの取材依頼文の非礼さ、及び過去にもあったテレビ制作者からの非常識な取材依頼の態度について、谷口さんが怒ると言うより呆れているご様子がよくわかりました。

 

で、テレビのディレクター・プロデューサーを34年間やった後に大学教員となった僕としては、ここは一言書いておきたい、と思いパソコンに向かっています。

 

結論から言うと、谷口さんのおっしゃるとおり、です。

日本のテレビマンの多くは、「勘違い」をしています。

テレビ制作者の椅子に座っただけで、自分が「偉い」と思っているから、取材相手や出演者に対して傲慢無礼な態度を平気で取るようになってしまうのです。

この「勘違い」を産み出す理由は二つある、と僕は考えています。

 

一つは、谷口さんもおっしゃっているように、「テレビ自身が強大な社会的権力であること」を、テレビマンが自覚していない点です。

これは、政治・経済を扱うジャーナリズム担当者だけではなく、娯楽・情報を扱うエンターテイメント担当者にも当てはまる傲慢さです。

「テレビ局が聞いてるんだから」とか「テレビに出してやるんだから」と言った思い上がりは、テレビ局の社員を筆頭に制作会社のプロダクションディレクターにまで蔓延しています。

 

そして、もう一つは、先の「テレビが強大な社会的権力」たりえている根本にある事柄で、「電波は国民共有の財産であり、テレビ局とは電波の運用を国民から負託されている免許事業者である」ことをテレビ局経営者がきちんと認識していない点です。

 

本来なら、テレビ局の新入社員教育はまずこの第一歩から教えるべきだと僕は思うのです。

「私たちは、国民共有の財産である電波を使うことを許された特権者なのです。

 だからこそ視聴者に大きな影響力を与えることができると同時に、大きな責任と義務を背負っていることを自覚してください」と。

 

ところが、このような基礎教育をやっているテレビ局なんてありません。

それどころか、私企業としての営利追求を社是として「視聴率獲得・営業売上アップ」のみを社員にいつも呼び掛けています。

その端的な例が、自社が出資制作した映画が公開される時には、朝から晩まで出演俳優が各番組にゲストとして出まくる、というもの。

自社が関わっているイベント事業なら、まるで重大な社会的事件でもあるかのようにニュース番組でもことさら大きく取り上げます。その会場に行ってみたら、なんのことはない、そのテレビ局の幟ばかりだったというのはよくある話です。

こういう放送を平気でやっている経営者の下で働いているテレビマンには、「権力者としての自覚なんか産まれようがないんですよね。残念なことながら。

「電波の公共性」は、NHKだけでなく民放にもあてはまるはずなのに、です。

 

「権力は密の味、マスコミ権力は極上の蜜の味」と言ったのは、『メディアの支配者』の中川一徳さんだったと思うのですが。

 

テレビの世界から「公器」という言葉が消えて久しいです。

テレビ局の廊下には、「祝・視聴率三冠王」とか「祝・視聴率15%超」とかの貼り紙が溢れています。

このような私企業としての利益追求に邁進する経営姿勢が、現場のテレビマンたちの精神的腐敗を産んでいるのだと僕は考えています。

日本のテレビマンたちの「勘違い」は一人一人の意識の問題もあるのですが、それ以上に日本のテレビの企業構造の問題が大きく横たわっている、と僕は認識しています。

 

とは言いながら、谷口先生、そして「スナック研究会」ブログの読者のみなさん、

テレビのディレクターやプロデューサーの中にも謙虚で真面目な人間も少なからず居るということをお知りおきいただければ幸いです。

 

そして、当該の「クローズアップ現代+」のディレクターさん、

NHKの社員ディレクターさんなのか、NHKエンタープライズなどの関連会社ディレクターさんなのかはわかりませんが、少なくともNHKは民放のディレクターや民間の下請け制作会社のディレクターに比べれば、はるかに制作時間に余裕もあるし、視聴率獲得の縛りも少ないはずですよね。

是非、今夜は「場末のスナック」に行って、「あまり美味しくないおつまみ」でも食べながら、聴き上手なママさんを相手にグチをこぼしてください。

社会的な肩書など通用しない空間で、矢沢永吉なりAKB48なりを思いっきり歌ってください。

なにはともあれ、表現者たる者、研究者がたくさんの時間とエネルギーを使って得た成果を安易に拝借するのではなく、自らが取材テーマに時間とエネルギーを費やすべきでしょう。

あなた自身が「スナック」を何度も体験して、「スナックとは何か」を考えるところから始めましょうよ。

 

僕たちが『日本の夜の公共圏』から学ぶべきは、「新進気鋭の実業家やクリエイター達のビジネスヒント」などではなくて、僕たち自身の日々の暮らしに関わる「規模の大小を問わない【新しい公共性】を考えること」と、それを支える「水商売の人たちの【地道コミュニケーションの努力】について知ること」なんだ、と僕は思うのです。

2017年・テレビドラマ総括 最優秀作品はNHK『ひよっこ』

11月の末で、少々気が早いのですが、僕なりの2017年テレビドラマの「評価まとめ」をしておきたいと思います。

 

と言うのも、気になっているドラマの初回スタートを見届けたので。

この秋冬ドラマで僕が最も期待していたのは、実はNHKの金曜夜10時『マチ工場のオンナ』だったのです。

まぁ、なんと地味な選択!と、お思いでしょうがこれにはちゃんとした理由があるのです。

 

名古屋の生活をもっと見たかったのに……

11月24日(金)夜・午後10時にスタートした『マチ工場のオンナ』は、久しぶりにCK、つまりNHK名古屋放送局が制作するドラマなんです。

テレビ業界では、NHKの東京をAK、大阪をBK、名古屋をCKと呼びます。

それぞれJOAK・JOBK・JOCKというコールサインの略称ですね。

 

で、久しぶりのCK制作のドラマで、名古屋近郊の町工場を舞台にするというので、「生活感」あふれるドラマかなぁ、と期待してたんです。が、残念!

内山理名はじめ登場人物たちは、とても名古屋近郊で暮らしている人たちとは思えない「きれいな標準語」でしゃべってました。

父親役の館ひろしが「何するんだ、このタワケ」という単語だけがかろうじて名古屋ことばで、古参従業員の竹中直人柳沢慎吾にいたってはまるで東京下町の職人みたいなアクセントとイントネーションでしゃべってました。

「生活感のないことば」で「生活」は描けない!簡単な理屈だと思うんですがねぇ。

 

NHKに限らずですが、東京に在るテレビ局で、東京に住んでいるディレクターがドラマを作ると、ほぼ間違いなくそのドラマの中で出演者が話すセリフは「標準語」です。

――ドラマで話す「ことば」は標準語でなければならない――

なんて、いったい誰が何時決めたんでしょうか?

この「ドラマの標準語主義」が、日本のテレビドラマを面白くなくしている最大の理由だ、と僕は思っています。

 

「標準語」って、いわば「産業社会のためのビジネス日本語」なので、政治や経済の情報を伝達したり、オフィスで会議したりする場のための「ことば」としては良いのですが、家族や親しい友だちと誰もあんな「ことば」ではしゃべらないでしょ。

「標準語の台詞」には、「生活」のリアリティが無い!

ということに、どうしてテレビの演出家たちは気が付かないんでしょうか。

それだけ彼らが、「ことば」に関して無思慮、鈍感、だからと言っていいでしょう。

 

「日本のテレビドラマはひどすぎる。キャスティング先行で作るから。

 リアリティの無さ、演技レベルのひどさは先進国の中でぶっちぎり。

 日本のテレビは2年間ドラマ制作をやめて勉強し直したほうがいい。」

と言っているのは、かのデーブ・スペクターです。(「新潮45」9月号)

 

ドラマ寸評

さて、めぼしいドラマの寸評をしてみましょう。

TBS・日曜夜9時 日曜劇場陸王

確か、ドラマの舞台は埼玉県行田市のはずで、足袋製造会社「こはぜ屋」の四代目社長の宮沢紘一(役所広司)は地元で生まれ育ったに違いないんです。20名の従業員たちも地元で産まれて暮らしている人たちのはず。行田って群馬県境すぐ近く。

なのに、話されている「ことば」は、なぜか「標準語」なんですよね。

「こはぜ屋」はどう見ても東京都内にある、としか思えないんです。

ところが、地銀である「埼玉中央銀行」のお偉いさんを演じている桂雀々だけは関西弁。

どうなってんですかね。

 

フジテレビ・月9ドラマ民衆の敵~世の中おかしくないですか?』

篠原涼子演じる、40歳の主婦が「あおば市の市会議員」になって世の中に異議申し立てをするという話。

もちろん出演者は全員が「標準語」でしゃべります。

夫婦の失職がきっかけなのですが、生活が本当に立ちゆかなくなったら「栃木に帰ろう」との台詞が出てくるからには、彼女は栃木生まれなんでしょうか?

子役までが家庭の中で無理して「きれいな標準語」でしゃべるシーンに出会うとホントに興ざめです。

「このドラマの登場人物たち、おかしくないですか?」

 

日本テレビ・土曜10時『先に生まれただけの僕』

主演は櫻井翔

蒼井優多部未華子井川遥、など共演女優は本来演技のうまい人たちなんですが。

まぁ、主役がアイドルのドラマは「アイドル標準語」しか無理ですよね。

 

フジテレビ・木曜10時『刑事ゆがみ』

主演は浅野忠信神木隆之介

芝居巧者の二人がとても幼稚な大人にしか見えません。

 

TBS・火曜10時監獄のお姫さま

 小泉今日子菅野美穂満島ひかり夏帆・坂井真紀、と、それぞれが主役を張れそうなクラスの無駄に豪華な女優陣が全く生活感のないセリフでしゃべります。キャスティング先行ドラマの典型。

脚本・宮藤官九郎でもスベる時はある。

 

不思議な「科捜研の女

それにしても、テレビ朝日科捜研の女はいつ見ても不思議です。

「被害者を殺そうと、犯人が持ち込んだ、ってこと?」

沢口靖子内藤剛志も、京都の鴨川のほとりを歩きながらずっと「標準語」でしゃべるんです。「おい、何か言いたそうな顔してるぞ」「うん、でも根拠のない話だから」

マリコ京都府警の科捜研でしょ、事件は京都で起きてるんじゃなかったんですか?

 

ことば以外のリアリティ

いや、テレビドラマは「生活のリアリティ」なんかは求めてはいないんだ!と開き直る演出家も居るかも知れませんね。

そうですね、逆に「生活のリアリティ」を捨てて、他の構成要素のリアリティを固めて成功しているのが、

テレビ朝日・木曜9時『ドクターX』でしょう。

「私、失敗しませんので」の米倉涼子演じる大門未知子が見ごたえあるのは、医学や医療界や大学界のディテイルがしっかりと押さえられているからです。

大門未知子からは病院以外の「生活」は捨象されています。

 

ひよっこ』――リアリティのあることば

で、で、今年のテレビドラマの中で、最も「生活のリアリティ」に気を配り、出演者の話すセリフを「生活ことば」で綴ったドラマ、それはNHK朝ドラひよっこです!

 

脚本家・岡田恵和は、奥茨城で生まれ育った矢田部みね子(有村架純)と彼女を取り巻く家族や友人たちの「生活」を、活き活きとした「生活ことば」で綴りました。

 

集団就職で東京墨田区向島にある「向島電機・乙女寮」に集った、みね子たち若い女の子が車座になって話すシーン。(5月2日・放送)

「んだよね」(茨城ことば)

「んだべぇ」(福島ことば)

「んだすなぁ」(青森ことば)

「んだんだ」(秋田ことば)

「んだゎ」(山形ことば)

短い台詞のやりとりに、彼女たち一人一人が背負っている故郷と家族と人生が立ち現われています。

それぞれの人生が訛っているように、「生活ことば」はそれぞれ訛っているのです。

それは決して「方言」の問題ではありません。

 

 

ひよっこ』ベストシーン

「生活」と「ことば」の関係を最も優れて描き出したシーンは、4月14日の放送分です。

東京に出稼ぎに行った父・実が行方不明になったのを、母・美代子が東京・赤阪の警察署に出向いて捜索願いを頼むシーンでした。

 

警察官が言います。

「でもね奥さん、見つかると思わない方がいいよ。

 出稼ぎで東京に来て、しんどくてどこかに消えてゆく失踪者がくさるほどいるんですよ」

「本当にね、茨城(いばらぎ)から来て、御苦労なんだけど」

 

この後の台詞です。

美代子(木村佳乃)

――少し、間があって――「いばら、キ、です」

――涙を流しながら ――「いばらギ、じゃなくて、いばら、キ、です」

 

――キッ、と顔を上げて警察官を見て――「やたべ、みのる、と言います」

「私は、わたしは、出稼ぎ労働者をひとり探してくれと頼んでいるのではありません」

「ちゃんと、名前があります。

 茨城(いばらき)の奥茨城村で生まれ育った、矢田部実(やたべみのる)という人間

 を探してください、と、お願いしているのです」

 

――力強く――「ちゃんと、ちゃんと、名前があります!」

――椅子から立ち上がって――「お願いします」

 

奥茨城の農村に生まれ育った一人の女として、人生の全ての誇りと存在をかけて見知らぬ警察官に懇願する矢田部美代子。

その美代子を、見事な奥茨城訛りのアクセントとイントネーションで演じた木村佳乃

 

岡田恵和、会心の台詞!

木村佳乃、渾身の演技!

 

このシーンに、2017年最優秀ドラマ賞をあげたい、と僕は思うのです。

 

テレビドラマでも、ちゃんと「生活」は描けるのです。

中村鋭一先輩のこと

全日本レベルで「エイちゃん」と言えば「ロックの矢沢永吉」のことでしょうが、関西圏で「エイちゃん」と言えば「六甲おろし中村鋭一」のことなんですよね。

その「鋭ちゃん」こと中村鋭一さんが、11月6日に亡くなられました。87歳でした。

関西のスポーツ新聞は、各紙ともに裏一面で追悼記事を載せました。

中村鋭一さんは、1971年から77年にかけて朝日放送ラジオの『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、一人の出演者が生で長時間しゃべるというスタイルを初めて創りだしたことで民放ラジオの朝枠を変えました。出演者自らを「パーソナリティ」と呼び、聴取者を「リスナー」と呼ぶのも、この番組から始まったと言われています。

 

そして、何よりもあの「六甲おろし」ですよね。

熱烈な阪神タイガースファンだった鋭ちゃんが、「阪神タイガースの球団歌」のことを『六甲おろし』と呼んで、「さぁ、昨日は阪神が勝ったンやから朝から元気よく『六甲おろし』いこかぁ」と叫んで、「六甲颪に颯爽と、蒼天翔ける日輪の~」と高らかに歌ったところからこの歌が関西人みんなに拡がっていったんですよね。

 

型を破った「鋭ちゃん」ことば

で、このような功績の源はどこにあるのか、を考えてみたいのです。

中村鋭一さんの最大の功績は、「アナウンサーたる者は必ず標準語でしゃべらなければならない、そして放送は不偏不党であるべきだ」と言われていた時代に、堂々と「滋賀弁なまりの関西弁」でしゃべり、堂々と「わしは好きも嫌いもある一人のおっちゃんや」と宣言したところにあるのだ、と僕は思うのです。

つまり、「一人の生活者」として「訛りのある生活ことば」を、初めてラジオで駆使したアナウンサーであった、ということこそが日本のメディア言語史上に残る鋭ちゃんの最大の功績ではないでしょうか。

六甲おろし』は、その現れが大きく結実した一つなんだと思います。

 

「鋭ちゃん」を支えたスタッフの思想

とは言いながら、鋭ちゃんのこのようなスタイルが出来上がった陰には、彼を支えた製作スタッフの優れた表現思想があったことをここで明かしておきたいと思います。

日本で初めてのパーソナリティ番組でどうしゃべったらいいのか思案していた鋭ちゃんに、プロデューサーの中川隆博さんがこう言ったのです。

「中村さんは滋賀の生まれでしょ、標準語なんかやめて関西弁で、とにかく自分の言葉でいきましょうや」

「中村さんは阪神ファンでっしゃろ、徹底的にタイガースの肩もってやりましょうや」

この言葉が、朝のラジオに革命をもたらしたのです。

名馬の陰に名伯楽あり、ですよね。

(このことは、僕が朝日放送に勤めていた時の仄聞と、「朝日放送50年史」に依ります)

 

「どこにもオモロイ人が生きてるなぁ」という口癖

さて、1977年に番組を降板し朝日放送も退社して中村鋭一さんは参議院選挙に出たのですが、その時は落ちました。

そして次の選挙までの間、77年~80年まで中村さんはテレビ番組『ワイドサタデー』(土曜午後3時~4時)の司会を勤めました。その時のディレクターの一人が僕だったんです。

 

『ワイドサタデー』は朝日放送を幹事局にして、四国放送宮崎放送九州朝日放送などの7局が系列をまたいだクロスネットという変形的なスタイルで共同制作する「生の旅番組」でした。西日本の各地を、海辺・山合い・町中・村の畑から生中継するという番組で、中村さんと一緒に、西日本の色々な山間海浜を旅しました。

20歳も年下の僕を「まことくん」と呼んで、「海も空も山も川も、日本は綺麗やなぁ、そんでどこにもオモロイ人が生きてるなぁ」と言うのが口癖でした。

 

一匹も釣れなかった『ワイドサタデー』

いまだに忘れられない『ワイドサタデー』のシーンがあります。

それは、愛媛県松山沖の来島海峡で、地元の「鯛釣り名人」に自称「釣り名人・鋭ちゃん」が挑むという企画でした。頃は4月、名物の桜鯛を釣り競う、という狙いです。

「さぁ、一時間でなんぼほど釣れるやろ。番組終わったら、鯛の刺身に鯛飯焚いて宴会やでぇ」と番組頭から張り切った中村鋭一さん。

ところが、10分経っても20分経っても、あたりの気配も無し。

「名人、どないなってますのんやろなぁ」と鋭ちゃん。

すると、名人が「ワシも長いことここで鯛釣りよるけんど、こないなことは初めてじゃなぁ。今日は来島の鯛連中は波の下でみんな横になって寝とるんじゃろ」

結局は、滋賀弁の鋭ちゃんと伊予弁の鯛釣り名人の二人が、ひねもす春の来島海峡の風景を借景に、人生のよもやま話しをする一時間となったのでした。

 

そして、僕が担当した『ワイドサタデー』の中で、この「一匹も釣れなかった来島海峡の鯛釣り」こそが最高の出来だったのです。

 

中村鋭一さまへ

「陽気に、楽しく、いきいきと」しゃべることこそが人生にとって最も大切なことなんだ、と教えてくれた中村鋭一さんに心より御礼を申し上げます。