吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

今こそ読まれるべき小説、「ことばと生活」を巡って

 

吉村の第158回芥川賞はこれ!

芥川賞の候補作の中に『おらおらでひとりいぐも』という小説が入っていたので、気になって読みました。

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で、で、で、です。
素晴らしい!です。
 
小説という形式で、こんなに見事に「ことばと人生」のありようをつづった文章に久々に出会いました。
年明けの選考結果がどうであれ、僕の中では「第158回芥川賞」は、これに決まり!
 
明治維新から150年、戦後70年、そしてあの東北大震災から6年が経ち、平成の終わりが近付き、3年後には東京オリンピックを迎えようとしている今だからこそ、この小説はすべての日本人に読まれるべきだと、僕は強く思います。
 
もともと、この作品は河出書房新社の「文藝賞」を受賞したもので、作者の若竹千佐子さんが63歳という年齢であるところから、「史上歳年長受賞」や「63歳の新人による『玄冬(げんとう)』の物語」などというキャッチフレーズが宣伝文句として新聞紙上に踊っていました。
 

母語」を再発見する小説

その、『おらおらでひとりいぐも』ですが、まずは、書き出しからしてイイ!のです。
 
「あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなっ てきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如(なんじょ)にすべがぁ
 何如(なじょ)にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたごどねでば、なにそれぐれ
 だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後 まで一緒だがら
 あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
 決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」
 
東北弁の「話しことば」の文字化。
「おら」と「おめ」の対話によって、これから始まる物語の展開を提示します。
 
物語は、東京オリンピックの年に、そのファンファーレに吸引され るかのようにして東北の故郷を飛びだして東京に出て行った桃子さんが、50年の時を経た後に、身内から湧きあがる「東北弁 丸出しの声」と対話しながら、人生の「これまで」「いま」「これから」を語ってゆく、という結構になっています。
 
東北の故郷を離れて50年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりの桃子さんなのですが、老年になった近頃、東北弁丸出しの言葉が心の中に溢れてくるのです。
「晩げなおかずは何にすべから」
「おらどはいったい何者だべ」
「卑近も抽象も、たまげだことにこの頃は全部東北弁で」 なのです。
 
そして、その根っこのところにあるのは、「おら」という一人称の 「母語」の再発見です。
 
つまり、『おらおらでひとりいぐも』という小説は、近代日本の産 業社会と制度教育が与えた「わたし」というお仕着せの一人称の奥部にある「おら」を再確認した主人公・桃子さんが、その「おら」という「ことば」を軸にして、これまでの自分の人生を見つめ直し、自分の生きてきた「日本の近代」を問い直している小説なのです。
 
この小説についての論評の幾つかが、「方言の豊かさ」などと論じていますが、それは的を外していると思います。
決して「標準語VS方言」の問題ではなく、「方言の面白さ」 の問題でもありません。
ことは、「ことばと人生」の問題、だと僕は考えます。
 
「標準語」とはこの世に実在しない、架空の言語概念です。
この世にあるのは、一人一人が日々の暮らしの中で使う「訛りを含んだ生活ことば」だけ、なのです。
そして、「生活ことば」は、それぞれが必ず訛っているのです。
それは、人それぞれの人生が決して標準化・画一化されえない「個別の人生」であることと同義です。
 
作者は、桃子さんの頭の中に出てくる他者に、
「東北弁とは最古層のおらそのものである。
 もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである」 と言わせます。
 
「わたし」と「おら」の対比、「おら」と「おめ」の会話。
桃子さんの人生を語ることは、私たち日本人が生きてきた「近代」を語ることになっているのです。
『おらおらでひとりいぐも』は、若竹千佐子さんが「人生で書いた小説」だと言えるでしょう
 
そして、この小説の上手い点は、主人公と頭の中の他者との会話という体裁を取ることによって、地の文章までもを自然に東北弁と標準語との混交で書ける文体を産み出したところにあります。
例えば、昨年の芥川賞受賞作『影裏』(沼田真佑・著)などのように、これまでも、「方言」を使った小説は幾つもあったのですが、その多くは「 」で示される登場人物の会話部分に限られており、小説の大部分をなす地の文章は標準語の文章で書かれていました。
 

東北弁で思い出す本

最近出た本で、「ことばと生活」について考えさせられるものが、 もう一冊ありました。
『東北おんば訳 石川啄木のうた』(編著・新井高子 未来社)です。
 
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 
啄木の有名な短歌が、岩手県大船渡の「おんば」 と呼ばれる年配の女性たちの「ことば」によると、
 
  東海の小島の磯の砂っぱで(ひんがすのこずまのえそのすかっぱで)
  おらァ 泣ぎざぐって(おらぁ なぎざぐって)
  蟹ど戯れっこしたぁ(がにどざれっこしたぁ)
 
と、なります。
場所不明だった「東海」が、ものの見事に「リアス式の三陸海岸」 の風景を立ち上がらせてくれます。
 

井上ひさし吉里吉里人』

ここで、「東北弁」を使った小説の先駆者である、井上ひさしを思い出しました。
 
岩手県のどこかにある「吉里吉里村」が、経済大国・日本から独立して独立国家を作るという小説『吉里吉里人』です。
ユーモア満載で、抱腹絶倒の小説なのですが、僕がいちばん好きなのは、「吉里吉里国歌」の2番です。
 
  吉里吉里人は眼はァ澄んで居で(ちりちりづんはまんなごはァすんでえで)
  頬ぺたと夢はァ脹れでで(ほぺたとゆんめはァふぐれでで)
  男性器と望みはァ大きくて(だんべとのんぞみはァおっきくて)
  女性器と思慮はァ練れでえんだちゃ(べちょことすりょはァねれでえんだちゃ)
 
おもしろいでしょ。豊かでしょ。
何と言っても、身体性と土着性に裏付けられた「ことば」が強い!です。
 
吉里吉里の住民は言います。
「わたしたちにとって吉里吉里語は宿命なのです。
 父を、そして母を選ぶことができないように、わたしたちは自分の生まれる土地の言葉を選ぶことはできません。」
「わたしたちはもう東京からの言葉で指図をされるのはことわる。
 わたしたちの言葉でものを考え、仕事をし、生きていきたい。」
 

がんばっぺ!宮城

もう一つ、思い出しました。
2011年の東北大震災の時に、東京のマスメディアから発信された「絆」や「希望」や「復興」などで彩られた言葉がとても薄っぺらく聞こえたのに対して、救援隊員のヘルメットに書かれていた「がんぱっぺ!みやぎ」や、腕章に書かれていた「けっぱれ!岩手」や、「まげねど!女川・石巻がどれだけ心に響いたか。
 

芸人も自分の育った土地のことばを使ってほしい

少し、余分なのですが。
僕は、『お笑い芸人の言語学』で、「お笑い芸人のことば」に「標準化されないことばと生活」を読み取ったのですが、今やお笑いの世界では「標準語」に対抗する形での「関西弁」だけが幅をきかせ過ぎているのではないか、と思っています。
 
「関西弁」が「お笑い」のための「ビジネス日本語」になるのを危惧しています。
もっと多彩な「生活ことば」で「お笑い」をやって欲しいのです。
 
「千鳥」は、岡山弁訛りの関西弁で頑張っています。
博多華丸・大吉」、地元福岡での放送だけでなく、東京発のテレビでももっと博多訛りを使っても良いと思います。
「カミナリ」、せっかくNHK朝ドラ『ひよっこ』 があんなに茨城訛りを日本全国に広めてくれたのですから、 もっともっと堂々と茨城訛りを使ってほしい。
 

小説であり言語学であり社会学であり人類学

『おらおらでひとりいぐも』に話を戻します。
この本は優れた小説であると同時に、とても優れた言語学の本でもあり、社会学の本でもあり、人類学の本でもある、と思います。
僕たちが生まれながらに身につけた「母語」の大切さ、そして「母語」を核にして膨らんでいく「日々の暮らしのことば」。
「ことば」から考える、社会と人生。
 
「優れた表現」というものは、ジャンルを超えて「人間の本質」に迫るものなんだなぁ、としみじみと感じたのです。
そして、「小説」っていう表現形式は、やっぱり素敵なものですね。