『M1グランプリ』創設の真実 ――中村計著『笑い神 M1、その純情と狂気』を裁断する――
昨年11月に出版された中村計著『笑い神 M1、その狂気と純情』(文藝春秋社)を読んだ。「M1グランプリ」を創設した者の一人として興味を抱いたからだ。「プロローグ」に「漫才とは何か、笑いとは何か。その核心を、その真髄を覗き見たくなった」と書かれてあったので、少し期待をしながら読んだ。
しかしながら、読み進めるうちに苦笑は失笑に変わり、読み終えた時には失望を通り越して呆れてしまった。
あまりにひどい本である。このような「間違いだらけ」の論考で、世間をたぶらかしてはいけない、と私は思う。関西弁の話しことばで表現すれば「中村さん、わかりもせぇへんのに、何、たいそうなこと言うてんねん」である。
中村氏が、それまでの自分の人生とは縁遠かった「お笑い」というフィールドを題材にして、たくさんの時間をかけて、多くの人達に話を聞かれた労苦は評価する。しかし、本著は「漫才」「笑い」「M1」について、なんら正鵠を射ていない。「漫才とは何か・笑いとは何か」という、とても興味深い探求心に触発された作業であるにもかかわらず、その「核心」にも「真髄」にもまったく辿り着けていない。「的外れ」もいいところである。それどころか、多くの「事実誤認」と「論理矛盾」と「妄説」に満ちている。
その理由は明らかである。中村氏は論考を進めるにあたり、典拠不明の通説に疑うことなく依拠しており、取材対象者の発言の真意をくみ取る作業をおろそかにしており、論理の破綻に気がついていながらも大仰な修飾形容でそれをごまかしているところにある。
「ノンフィクションライター」としてこれからも仕事を続けられるのであれば、もっと謙虚に「事実の諸相」と「表現者の倫理」に従わなければならない、と私は考える。
これより以下に、『笑い神 M1、その純情と狂気』中で、中村氏が犯している数々の事実誤認を指摘し、明らかに間違っている言語論理を正し、私が知る限りにおいての『M1』創設のゆきさつと発案に至る状況などについて書く。
なお本論考の主旨は、「M1グランプリ」の創出過程を補助線としながら、その中で明らかになる「話すことば」と「お笑い芸人という存在」と「漫才という笑芸」の相関をたくさんの人に知ってもらうことにある。
【本論稿を書く筆者の立場について】
まず、この文章を書く私の立場を最初に明確にしておく。
私は、1974年4月にABC・朝日放送に入社し、2007年3月に同社を退職するまで、34年間をABCのテレビマンとして働いた。
2001年の時点では、ABC朝日放送のテレビ制作部長の立場にあり、ABC社内で『テレビ番組・M1グランプリ』の創設を発議し、第1回『M1』・第2回『M1』の制作総責任者を務めた。制作部長をしていたので、番組のエンドロールに名前は載せていない。
2007年にABCを早期退職してからは、社会言語学の視点から「ことば」と「暮らし」と「日本社会」について研究する大学教員となった。
中村氏の『笑い神』を読んで、「M1」についてのあまりに多い事実誤認と、「ことば」についての明らかに間違った考えと、「お笑い芸人」についての無理解を知り、「表現者の良心」に基づいてこの論稿を書くことにした。
【中村氏は「M1」を発案した島田紳助の思念を探る努力を怠っている】
中村氏は、『笑い神』において、『M1』というイベント並びにテレビ番組の核心を「賞金1千万円の漫才コンテスト」と捉えて、何度も繰り返している。
「賞金1千万円の漫才コンテスト」というフレーズを紳助の口から初めて聞いた谷良一・吉本興業プロデューサーの反応を「めちゃくちゃびっくりしましたね。(中略)賞金を聞いて、それはおもしろい、と」と言った、と紹介し、朝日放送の森本茂樹プロデューサーの反応を「なんや、それ、と。紳助さんはやっぱり頭ええなと思いました」と紹介している(85p)。谷氏と森本氏が、本当にそのとおりに中村氏に答えたのかどうか定かではないが、少なくとも中村氏が両氏の反応をそのように理解したことは確かであろう。
もう一点、中村氏は、『M1』の核心を「単なる漫才番組ではない格闘技」だと、捉えている。それについても『笑い神』の中で何度も繰り返して触れている。
しかし、「賞金1千万円のコンテスト」や「漫才の格闘技」などというフレーズを「コンセプト(基本理念)」とは言わない。それらは、世間の注目を惹きつけるための「惹句・キャッチフレーズ」に過ぎない。「コンセプト(基本理念)」とは、文字どおり、「アイデア」や「キャッチフレーズ」と言った耳目に触れる表層の「意匠」を産み出すための、「根底にある思弁」のことである。
『笑い神』における中村氏の最大の欠点は、紳助が口にして、その後にマスメディアによって流布された「賞金1千万円・格闘技」という表面上のキャッチフレーズに踊らされて、それを発想した島田紳助という「お笑い芸人の思念」に迫る努力しなかったことである。
中村氏の思考は、ことごとく「表に出た単語や発言」に絡め取られており、その背後に潜む「心情や思索」に迫る洞察力を欠いている。
ノンフィクションライターとして「M1」を扱うのであれば、誰が考えても、まず初めに訊ねるべき取材対象者は島田紳助であろう。しかしながら、『笑い神』において中村氏が紳助に直接インタビューを申し込んだ形跡は皆無である。断られたのなら、その旨を書けばよい。中村氏なりの「M1の核心」が得られたと思ったのなら、それを紳助にぶつけて問うてみればよかった。
また、インタビューができなかったのであれば、周辺の人々へのインタビューに先駆けて『ご飯を大盛にするオバチャンの店は必ず繁盛する』(幻冬舎新書)や『哲学 島田紳助・松本人志』(幻冬舎よしもと文庫)や『島田紳助100の言葉』(ヨシモトブックス)など、紳助が「漫才・笑い・生き方」について残した書籍に目を通して、「M1」の発想に至った島田紳助という「お笑い芸人」の思弁について探る努力をしなければいけなかった。
中村氏はこの基本的な作業をおろそかにして、いたずらに多くの「M1」関係者やお笑い芸人へのインタビューを重ねたため、「M1」だけでなく、「お笑い芸人」の存在形態や、「漫才を産み出す素材としての『ことば』」の本質に近づくことができなかった、のだ。
そして、中村氏のもう一つの大きな欠点は、「お笑い芸人」の思弁や、「笑芸」の論理を充分に理解していないまま、取材して得た事柄をパッチワークのようにつなぎ合わせたために、多くの点で論理矛盾が生じているにもかかわらず、それらを大仰な漢字形容詞句で誤魔化しているところ、にある。「ごまかし」はバレるものなのだ。
それらの箇所を具体的に指摘してゆこう。
【「M1」を発想させた2001年当時の「漫才」を巡る状況について】
中村氏によれば、「M1」の企画としてのスタートは、読売テレビの楽屋における紳助と谷氏の面談の後日の会話による、とされている(84p)。その前提として、中村氏は、2001年春の時点において「漫才は壊滅状態にあった」と書いている。
「その頃、漫才の未来には希望の破片すら落ちていなかった」(81p)
「九O年代に入ると、漫才番組は本場・関西では命脈を保っていたものの、関東ではほぼ壊滅状態となる。」(83p)(下線は筆者)
なんと陳腐で、なんと大仰な形容だろう。「中村さん、冷静になろうよ」である(この「冷静になろうよ」は第153回芥川賞選考の際、山田詠美氏が書いたひとことであり、文章表現者に対する最も厳しい文言である)。
中村氏の記述は、いったいどこの文章や誰の証言に基づいているのだろうか。おそらくWikipediaなどの記載を無邪気に引用したのだろう、と推察する。2001年当時、「笑芸」や「エンターテイメント」の世界とは無縁の仕事をされていた中村氏が、当時の「漫才」の状況を肌感覚で知らなかったことは仕方ないとしても、本一冊分の論考の出発点とするのであれば、もっと謙虚に歴史と向き合わなければいけない。もっと資料を読んで勉強してこなければいけない。
中村氏の「2001年春の漫才の状況」についての認識はまったくの間違いである。事実として、2001年春において「漫才」という笑芸は決して「壊滅的な状況」にはなかった。それどころか少なくとも「表面的には活況を呈していた」のである。そして、この「表面的には活況を呈していた」ことこそが、「M1」の出発点となるのである。
吉本興業の本拠地たるNGK(なんばグランド花月)は1987年に新装開業して以来賑わっていた。東京では、「極楽とんぼ」や「ココリコ」らを輩出した銀座7丁目劇場が1999年に閉場し、また今田耕司や東野幸次が活躍した渋谷公園通り劇場が1998年に閉場したものの、それらを融合する形で2001年4月には新宿に「ルミネtheよしもと」が開場されて賑わっていた。多くの若者たちが「漫才」や「コント」などの「お笑い」を観るために劇場に来ていた。この間1995年にはNSC(吉本総合芸能学院)の東京校が開校されており、1期生から「品川・正司」らを輩出し、多くの若者たちが「漫才師」を目指して押し寄せていた。
また、テレビ画面の中には、NSC大阪の1期生であるダウンタウン(松本・浜田)が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』や『ダウンタウンDX』などで活躍し、それらの番組には「漫才」出身のお笑い芸人たちが多く出演していた。もちろん、先輩芸人たる「明石家さんま」や「島田紳助」もいくつものテレビ番組に出演しており、そこでも漫才師出身のお笑い芸人たちが「ひな段芸人」として登場していた。
しいて言うならば、テレビ番組の「ソフト(中身)」として「漫才芸」そのものの露出は少なくなっていた、であろう。
こういった事実を押さえずに「希望の破片すら落ちていなかった」とか「壊滅状態にあった」とのおおげさな記述は事実誤認も甚だしい。
もし、中村氏が言うように、当時の「漫才」が本当に壊滅状態にあったのであれば、吉本興業は全社を挙げて「漫才」の復権に取り組んでいたはずであろう。多くの社員を「漫才の復権」に取り組くませていたはずである。興行会社としての吉本興業にとって、「漫才」と「新喜劇」が商品の2大柱であることは、すべての社員たちが熟知しているからだ。インタビュー中で、谷氏も「吉本の柱は、漫才と新喜劇」と言っているではないか。
それなのに「漫才プロジェクト」に配属されたのが、数百人いる社員の中で当時43歳だった谷良一氏ただ一人であった、というのは明らかに論理が矛盾している。少し文章が書ける人ならば、また、少し文章が読める編集者ならば、誰でも気づくだろう。
【表面的な賑わいの背後に「忍びよる衰微」を感知する能力】
2001年初頭において漫才は「表面的には活況を呈していた」と前段に書いたが、このことこそが、「漫才師出身のお笑い芸人・島田紳助」が『M1』を発想する源となるのである。つまり、島田紳助は「お笑いの表面的な活況」の奥に、「本質的な衰微」を見て取っていたのだ。
同じく表面的な活況の背後に「衰退の萌芽」を感じ取っていた人間が、吉本興業の中に一人いた。それは、当時の吉本興業にあって制作部門の責任者を勤めていた木村政雄氏である。木村氏は80年代の「漫才ブーム」創出者の一人であり、吉本興業東京進出を担った人間である。当時の肩書きは制作担当・常務取締役であった。その木村が、「漫才の衰退」を予感して、早めに「深い所からの、漫才の再建」にとりかかるようにと抜擢したのが、優秀さを認めていた43歳の谷良一氏だったのである。だから、「漫才再建プロジェクト」と言いながら、命じられたのは谷ただ一人であり、具体的に何をどうするかの指示命令はなかったのである。
『笑い神』で「M1」を扱う以上、当時の吉本興業の制作部門の責任者であった木村政雄へのインタビューを欠いているのも論考として致命的な欠陥である。
『笑い神』は、このように前提としての事実をしっかりと押さえずに、巷間に流布されているような説や取材者から聞いた話を、無批判に大仰な形容でつないでいる。だから、「M1」のコンセプト(発想に至る基本理念)が把握できなかったし、「お笑い芸人」の存在形態にも迫れていない、のである。
ケンドーコバヤシ氏の「中村さんがやっている行為が、一番寒いと思いますよ」(114p)は、決して笑って逃げられるような口撃ではない。「冷静になろうよ」と同じくらい、表現者に対しての厳しい一撃である。
【お笑い芸人にとって「ことば」は唯一の武器である】
私にとっての「M1」との関わりは、谷良一氏と島田紳助が交わした会話の数か月前にさかのぼる。それは、2001年1月の末、お正月番組の熱気も治まり世間もテレビ番組も平常を取り戻してきた頃であった。
場所は、ABC朝日放送の旧社屋(北区大淀南2丁目)のスタジオ棟にあった「a控室」である。部屋には、まもなく始まる番組収録に備えて着替えを始めた紳助と、その服を折りたたむ付き人さんが一人いた。その頃、島田紳助はABC朝日放送で月曜日夜の11時過ぎから放送される『クイズ紳助くん』に司会者として出演しており、隔週の月曜日の夕方に収録のためABCに来ていた。
楽屋に入った私に、紳助は「誠さん」と呼びかけてきた。
当時、私はABC朝日放送の編成制作局でテレビ制作部長を勤めていた。テレビ番組のそれぞれは、担当プロデューサーと担当ディレクターが責任を持って運営しているので、制作部長である私がひとつひとつの番組の現場に顔を出す必要はないし、かえって邪魔になることもあるのだが、こと『紳助くん』に関しては別の意味合いがあった。それは、紳助・さんまと私が1974年春の「業界の同期入社」に始まる長年の友人としての付き合いがあったからである。
1974年の春、島田紳助と明石家さんまは高校を卒業するとすぐに吉本興業という芸能の世界に入ってきた。紳助は「島田洋之助・今喜多代」の弟子になり、明石家さんまは「笑福亭松之助」の弟子となった。私の方は大学を卒業して1974年の4月にABC朝日放送に入社して、1ケ月の新人研修を経たのちにテレビ制作部に配属された。1974年の5月に私たちは「なんば花月」の楽屋で知り合い「業界の同期生」としての人生をスタートさせたのである。だから、歳は私の方が5歳上だが「業界入り」は紳助・さんまの方が2月早い。そこから、ある時は友人としてお茶を飲んでは喋り、ある時は出演タレントと演出テレビマンとしての間柄で付き合いを続けていたのである。
そんな関係があるから、私は『クイズ紳助くん』の収録がある日は、スケジュールの許す限り、番組収録の前か後に必ず楽屋に顔を出して、紳助と色んな話をしていたのである。
「a控室」での二人の会話に戻ろう。
お互いの近況を話したり、家族の話をしたり、正月番組の感想を話したりした後、紳助は「誠さん、最近のお笑い芸人は『ことば』が弱なってる、と思いませんか」と言ったのである。続けて、こう言った。
「最近の若いやつは、俺らや俺らの先輩たちが切り開いた平坦な道ばっかり歩いとる」
「あいつら、闘いよらん。お笑い芸人の武器は『ことば』しかないんですよね。で、闘わない「ことば」は弱いんですわ」
「武器は闘うことでしか磨かれへんのですわ。やっぱ、真剣な『闘いの場』が要るんですかねぇ」
ほどなく紳助は収録開始を告げるフロアーディレクターの声に急かされてスタジオへ向かった。私の方は、紳助の言ったことを反芻しながらデスクへ戻った。
この「下線部」にこそ、島田紳助という優れたお笑い芸人の「言語観」と「お笑い芸人観」が在る。そして、ここから「M1」が発想されるのである。
【「M1グランプリ」の基本理念(コンセプト)とは】
翻訳と解説を後に回して、結論を先に明示しておこう。
「M1グランプリ」の「コンセプト(基本理念)」とは、
「漫才という笑芸の武器である『ことば』を鍛え直す」
「漫才師という生業の存り方を漫才師自らが問い直す」この2点、である。
この2点に迫らない「M1についての言説」には、ほとんど意味はない。
紳助を始めとして「お笑い芸人」という者は、抱いている思念をこのような一般社会的な解説用語や分析用語を用いて世間相手にしゃべりはしない。世間や聴衆を相手にする時には、表面上「ただ楽しく笑ってもらう」ことのみを目指しているように見せる。言わば、「わかってもらえる人間だけわかってくれればええ」である。
とは言いながらも、上記の「コンセプト(基本理念)」に気付いてくれる人間が増えるようにと、世間や、マスコミや、多くのお笑い芸人たちを、自分の思念に巻き込むべく、島田紳助は「賞金1千万円の漫才コンテスト」「漫才の格闘技」という、「惹句・キャッチフレーズ」を考え付いたのである。
中村計氏も、まんまとそのキャッチフレーズに踊らされている一人である。同じく、表面上のキャッチフレーズにのみ踊らされて右往左往した何人かの芸人たちの姿については、『笑い神』の中に、本来あるべき角度とは違う「斜めからの灯り」で照射されている。
前述の「a控室」での会話の後も、隔週での私と紳助との挨拶会話は続いた。
そして、3月のある日、紳助はこう言った。
「誠さん、こないだから言うてる、『漫才の、真剣な闘いの場』、あれ作りましょうや。思いついたんです、『M1』にしましょう、『K1』からもらいました。で、賞金を1千万にするんですわ。みなを本気にさせるんですわ。」
「誠さん、手伝うてもらえませんか。」
私は即座に答えた。
「よっしゃ、全力あげて実現させるわ。任せといて」
「で、そのこと、吉本では誰と話したらええ?」
紳助は、「木村さんと谷君にだけ話してます。聞いてください」と答えた。
おそらく、『笑い神』で中村氏が書いたように、この間に、紳助と谷良一の「M1」についての最初の話し合いがなされたのだろう。この論稿を読む人に誤解して欲しくないので言うが、私と谷氏のどちらが先に「M1」の話を紳助と交わしたか、などと低次元の功名争いをしようとしているのではない。そんなことは問題ではない。「M1」を発案するに至った、お笑い芸人・島田紳助の真意を、少しでも多くの人に理解してほしいのである。
【「漫才ブーム」から「M1」につながる思弁の過程】
2001年初頭における、「お笑い芸人の『ことば』が弱なっとる。真剣な『闘いの場』が要るんかなぁ」と言った島田紳助の苛立ちを、その時点で正しく受け止めることができたのは、吉本興業の社内ではおそらく木村政雄ただ一人だっただろう。芸人仲間では明石家さんまとオール巨人だけだっただろう。
それは、彼らが、1980年の春に沸き起こり1981年の冬に消滅した「漫才ブーム」の当事者であったか、もしくは渦のすぐ傍にいてその盛衰を見届ける眼力を持っていたかに依る。あの「漫才ブーム」を同時代的にどのように深く「経験」したか、ということである。
紳助の思弁の中では、「漫才ブーム」から「M1」は一本の筋できちんとつながっている。私は、その間の歴史的な経緯と、紳助を初めとする何人かのお笑い芸人の「言語観と生活思想」とを文字として残すべく、2017年に『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版)を出版した。残念ながら同著は先行資料として中村氏には目を通していただけなかったようである。
中村氏は、「漫才ブーム」について「M1以前、ほんの一瞬だけ、漫才はエンターテイメント業界の頂点に立ったことがある。1980年にフジテレビで始まった『THE MANZAI』が火付け役となり、『漫才ブーム』が巻き起こったのだ」(82p~83P・下線は筆者)と『笑い神』で書いている。またしても空疎にして大仰な形容語句である。「漫才ブーム」の2年間は、「ほんの一瞬」であろうか。おそらくWikipediaなどからの引用に基づく記述だと思われるが、このような皮相的な俗説が世の中に定着するのを恐れて、私は『お笑い芸人の言語学』を書いたのだ。「笑芸」や「漫才」には門外漢だったと素直に言われている中村氏のために、失礼ながら拙著の一部分を要約しておく。「M1」を読み解くために不可欠だからである。
「漫才ブーム」のような2年にわたる社会現象が理由もなしにいきなり起こるはずはない。「漫才ブーム」には、5年間に及ぶ助走があったのである。それは1975年から5年間にわたって、ABC朝日放送のラジオ番組プロデューサーであった岩本靖男氏が中心となって、若手の漫才師や落語家や笑芸作家たちが集まった「笑芸の改革」運動であった。彼らは月に1回ほど「翔べ翔べ若手漫才の会」というイベントを開催した。そこに集まった関西芸人の中でリーダー役を果たしたのが島田紳助であり、関東芸人の中でリーダー役を果たしたのがビートたけしだった。岩本らが追求したのは「次代の笑い」であり、中核とした考えは「若者の生活を『若者のことば』で語る面白さ」であった。この動きに関わっていた業界人の中に、吉本興業の木村政雄や大﨑洋(後の吉本興業社長)もいたのである。
その「笑芸改革」運動が関西圏で着実に波動を広げてきたところに、フジテレビの横澤彪が別用で来阪し、木村政雄が横澤を岩本靖男に紹介した。その時たまたま目の前にあった「翔べ翔べ若手漫才の会」の次回イベントの企画書を読んだ横澤は即座に共鳴した。そこで、岩本は自分たちが進めていた「笑芸改革」の運動を、全国規模のムーブメントに拡充してくれることを期待して木村政雄と横澤彪の二人に「企画書のペーパー」ごと渡したのである。その3ケ月後にフジテレビで「THE MANZAI」が始まり、世に言う「漫才ブーム」が湧き起こることになる
「漫才ブーム」とは、ABC朝日放送の岩本靖男が「種をまいて」、フジテレビの横澤彪と吉本興業の木村政雄が「育てた」芸能ムーブメントである。
この「翔べ翔べ若手漫才の会」から「THE MANZAI」へと引き継がれた「笑芸改革運動」の中核をなしていた思想とは「笑いを創る『ことば』の改革」だった。
紳助やたけしらが闘った相手は、目先では「やすし・きよし」や「てんや・わんや」らの先輩漫才師であったが、深いところで目指した標的は、1960年代から70年代にかけて日本社会の経済成長路線を牽引した「標準化の思想」だった。日本全国を「東京」をお手本にして「標準的に、均一的に」発展させよう、という考えである。「標準化思想」の言語的現れが「標準語近似値としての東京語」であったがゆえに、島田紳助は「島田紳助弁」で闘い、ビートたけしは「ビートたけし弁」に固執して闘ったのである。
戦後日本の産業社会や学校教育や出版メディアや放送メディアを支配していた「東京をお手本とする標準化」に対する疑義を、かれらは「標準化されない生活ことば」によって、「標準化されない生活」を語って「笑い」にする、ことで意志表明したのである。
これが、紳助が言うところの「俺らは『ことば』で闘ってきた」の内実である。目先の闘い相手は、先輩漫才師たちや同輩漫才師たちであるが、もっと大きな意味で言えば「制度としてのことば」の中に落としこまれている「社会規範」との闘いであったのだ。
「漫才ブーム」から「M1」へとつながる、お笑い芸人・島田紳助の「言語・観」や「生活思想性」を読み取ろうとしない中村氏は、「漫才ブーム」の背景すら探ろうとしないでとおり一遍の通説に依拠している。したがって、そこからつながる「M1」のコンセプト(基本理念)が見えるはずもない。
【「漫才」の本質が「ケンカ」って、何のこと?】
中村氏は『笑い神』の前半部で、紳助が「M1」第1回目の記者会見で「単なる漫才番組ではないです。命をかけた、格闘技」といった発言に踊らされて、
「紳助は誇張したのではない。本質を暴いたのだ」と言い、
「関西における『お笑い』とは――。誤解を恐れずに言えば、ケンカである」と、書いている(86p~87p)。
何を頓狂なことを言っているのだろう。筋違いにも程がある。
「誤解」しようにも何にも、その前に中村氏の言いたいことが私には理解できない。「笑い」の本質は「ケンカ」なの?「関西の笑い」と「関東の笑い」は違うものなの?「ケンカ」って、誰と誰が「喧嘩」をするの?「何をめぐってケンカ」するの?
前後の文脈からむりやりに推測するに、漫才コンビの片割れと片割れが「どちらが、よりオモシロイか?」を巡って舞台の上で「喧嘩する」と読める。あるいは、複数の漫才コンビたちが「どの組が一番オモシロイか?」を巡って大勢の聴衆の前で「競い合う・喧嘩する」との意味にも取れる。
お洒落なレトリック(修辞)だと思って書かれたのだろうが、中村氏の文章は、主語と述語が対応していないので日本語として明晰性を欠いている。意味の不明瞭な文章である。
おそらく、ご本人もそのことには気が付いているのだろう。『笑い神』の中盤部、153Pでは「漫才コンビ・笑い飯」を高く評価するくだりで、「漫才とは何か?ひとまず、こう言える。ケンカだ。人のケンカほど見ていて楽しいものはない。笑い飯の漫才が熱量を帯びるのは、そもそもが『おれの方がおもしろい』という本当の喧嘩だからだ」という記述に変化している。
とんでもない、と私は思う。
漫才師のコンビの二人が舞台上で「俺らのどちらがおもしろいか」を巡って本気で喧嘩をしている訳がない。そんなやりとりを見て聞いて、観客が楽しめるはずがない。人が本気でケンカをしている所を見て楽しむなど、よほどの悪趣味であろう。
「漫才」は、漫才師の「ことばのやりとり」を聞いて聴衆が楽しむ芸能、である。近代漫才の父、と呼ばれる秋田實氏の言を借りれば、「漫才は、私たちの日常生活をネタにした、『話しことば』による無邪気な笑いである」に相違ない。
紳助が世間向きに発した「格闘技」という惹句に囚われ続けている中村氏は、「M1」どころか「漫才」の本質についても、「笑い」の本質にも、近づくことができないでいる。
「賞金1千万円の漫才コンテスト」という惹句についても同様である。もし、第3回大会からチーフプロデューサーを勤めた朝日放送の森本茂樹が「なんや、それ、と。紳助さんはやっぱり頭ええなと思いましたね。金額どうこうじゃない。まずは話題性ですよ」(85p)と本当に言ったのだとしたら、わが後輩ながら情けない限りである。表現者の端くれたるテレビマンなら、大事なのは「話題性」ではなくて「内容の充実度」だ、と言うべきだろう。
【闘う武器としての「ことば」】
「漫才ブーム」やそれに続く80年代から90年代にかけての「笑いの時代」を、島田紳助やビートたけしや明石家さんま達は、「ことば」を武器として闘って生き延びてきた。そのことがわかることによって、2001年初頭において紳助が私に向かって言った、「最近、お笑い芸人たちの『ことば』が弱なってきた、と思うんですよね」の意味するところが初めて理解できるだろう。
「漫才」は「話しことば」を用いて、観客を楽しませる芸能である。「ことば」の原点が、視覚化された「文字」ではなく、「話されるオトのことば」であることは、フェルディナン・ソシュールが明らかにした「言語の基礎」である。「話しことば」は人間の身体から出るものだから、身体性・肉体性を伴っているのは当然である。「漫才」を成立させている要素の中に、漫才師の「眼・鼻・口」の表情や、身振り・手振りが含まれているのは、この理由によっている。
紳助やたけしやさんまらは、その「ことば」を唯一の武器にして、長期間にわたって、先輩芸人や同時代芸人たちと戦い、ひいては「標準化」という「戦後日本の社会規範」と闘ってきたのである。当然のことながら、「闘い」に生き残った者はごくわずかであった。多くの漫才師や落語家やコメディアンたちが戦いに敗れて去ってゆき、あるいは疲れはてて凋落の中に死んでいった。冷たい世間はそのことを忘れているだけだ。
その果実として、紳助やたけしやさんまは「人気者」の位置を獲得し、かれらに続く若手のお笑い芸人たちが「テレビの中の出演者」の椅子を得て、更にはたくさんの若者たちが「お笑い芸人になりたい」を「夢」や「希望」と言い始めたのである。
2001年初頭の時点における、そのような状況を見て、紳助は、「最近の若いお笑い芸人は闘いよらん。俺らや俺らの先輩たちが切り開いた平坦な道ばっかり歩いとる」と嘆いたのである。
紳助やたけしやさんまらの優れたお笑い芸人は、しっかりとした「言語観」と日々の暮らしを生きる「生活思想」を持っている。それを表に出さないだけだ。
【審査員の選定に見える「コンセプト(基本理念)」】
『笑い神』における中村氏の、「事実誤認」の指摘にもどろう。
「M1」の審査員の選定についてのくだり、である(86p)。
谷氏が代弁するという形で、中村氏は紳助の発言として、「その頃の審査員というと、実際、漫才をやったことのない人が多かったんですよ。作曲家とか、大学の教授とか、いわゆる文化人。(中略)もっとちゃんとした人に、その日の漫才の出来のみで、その場で点数を出してもらおうと」と書いている(下線は筆者)。
「審査員の選定」について紳助は、そのようなことは言ってはいない。そう考えてもいなかった。
谷氏や中村氏が言うとおりなら、「漫才の経験者」だけが「審査員適格者」だ、ということになるではないか。そうではないことは、「第1回M1の審査員」の顔ぶれを見たら一目瞭然である。第1回「M1」の審査員は、島田紳助・西川きよし・松本人志・青島幸男・鴻上尚史・ラサール石井・春風亭小朝、の7人である。漫才経験者は、紳助・西川・松本の3人だけである。
おかしいではないか。この点を中村氏は説明できない。説明できないからごまかしている。
当然であろう、「M1のコンセプト」を理解できてないからである。「漫才」という笑芸を理解できてないからである。自分の犯している論理矛盾におそらく中村氏はうすうす気が付いているのだろう。第1回の「M1」の審査員が決定したくだりについて、中村氏は「多士済々なメンバーだった」(108P)と記述している。論理で説明できないことを大仰な形容や派手な漢字形容で逃げている。自著の中の86pと108pの齟齬について、中村氏は知らん顔して頬かむりをしている。
【審査員の選定にこそコンテストの思想性が現れる】
第1回「M1」の審査員選定は、紳助と木村政雄と谷氏と私が話し合いを重ねながら進めた。交渉の実務については、谷氏はじめ数人の吉本興業の制作部員と私の部下の朝日放送テレビ制作部員たちが、各々の人脈や交渉ルートを使って当たった。
その選定基準は、「『話しことば』について明確な考え」を持っている人、である。理由は、「漫才は話しことばを使う芸能」だからであり、紳助の発想の源が「弱なった『ことば』を鍛え直したい」だったからである。その上に知名度や話題性を加味したのである。
「コンセプト(基本理念)」とは、そういうものであるべきだ、と私は考えている。
審査員それぞれの「選定」についてすこし補足を加えておこう。2022年時点での「M1審査員」にもつながること、だからである。
審査員でもあり、「審査委員長もやるわ」と言った紳助については省いていいだろう。
紳助以外を選ぶ、となった時に、誰もが思いつくのは「ビートたけし・明石家さんま・タモリ」の「ビッグ3」だっただろう。単なる「話題性」だけの尺度からすれば、これ以上の話題性はないからだ。当然、私たちの間でも少しだけ話題にはなった。しかし、これは成立しない。
まず「明石家さんま」であるが、紳助と同期入社以来の盟友であり吉本興業に所属する芸人なので声をかけるのは易しいのだが、木村政雄は開口一番「さんま君は違う」と言った。紳助も「うん、さんまは違う」と応えた。その理由は、明石家さんまという芸人は、もちろん優れた「言語観」や「芸人観」を持っているのだが、それを論じるタイプの人間ではない、ということだ。さんまは人並み外れて優れた「実践者」なのである。木村氏も紳助も、またさんま自身もそのことをよくわかっている。ちなみに、当時の吉本興業の中で、明石家さんまを「さんま君」と呼び、島田紳助を「紳助君」と呼べたのは木村氏ただ一人である。
次に「ビートたけし」である。たけしは紳助と一緒に「漫才ブーム」を牽引した立役者であり、歳の差はあるものの「戦友」であった。が、たけしは既に1989年に『その男、凶暴につき』で映画監督としてデビューしており、彼の「反標準化」思想は映画というフィールドで発揮されつつあった。今さら「漫才コンテスト」の審査員は引き受けないだろう、と私たちは判断した。たけしは、朝日放送が制作する『たけしの万物創世紀』という科学ドキュメンタリー番組に出演してもらっていたので接点はあったのだが、あえて「M1審査員」としての声はかけなかった。
次は「タモリ」であるが、タモリは最初から私たちの選択肢にはなかった。その理由は彼の「言語観」である。タモリは「ことばは最高のオモチャである」という言語道具説に立脚したお笑い芸人である。彼の「4ケ国語マージャン」芸などは、そこから生まれている。「ことば」はお笑い芸人にとって唯一の武器である、という紳助の言語思想や「M1」創設の主旨とは相容れない。
以上が「ビッグ3」を審査員に選ばなかった理由である。
コンテストの審査員というものは、主催者側の「思想性」に従って選ばれるのである。したがって、論理に基づかないで「知名度」や「話題性」などを基準に審査員を選んでいるようなコンテストからは決して「権威」や「価値」が生まれはしない。
第1回「M1」の審査員で登場してもらった方々のことを述べよう。
まずは、鴻上尚史氏である。
鴻上氏は劇団「第三舞台」を率いていた劇作家・演出家である。演劇とは、俳優が「身体とことば」を使って行う芸能である。当然のことながら鴻上氏はしっかりとした「ことば観」を持っていた。1983年に『朝日のような夕日をつれて』で演劇界にデビューした鴻上氏の芝居は、その軽妙なセリフや音楽ダンスを取り入れた演出手法などで80年代の演劇界に刺激を与えた。いわば、紳助と同時代に違うフィールドで「ことばの闘い」をやってきた人、と言える。
愛媛県新居浜の出身で、高校生時代には毎週土曜日の「吉本新喜劇」を見るのが何よりの楽しみだった、という履歴も「M1」の審査員に相応しかった。過去に私が演出したテレビ番組に「第三舞台」として出演していただいたことがあり、その縁を頼りに私が出演交渉をした。快諾していただいた。
二人目は、ラサール石井氏である。
コントトリオ『コント赤信号』の一員であり、『オレたちひょうきん族』で紳助とも共演し、80年代の「笑いの時代」を生きてきた同世代人である。コメディアンであると同時に、劇団「テアトル・エコー」に在籍していた経歴もあり、「笑い」に対する見識や時代に対する鋭い批評性を持っていることを紳助がよく知っていたところから審査員に選んだ。彼の鋭い批評眼は、後に『笑いの現場~ひょうきん族前夜からM1まで』(角川SSC新書)として文字化されている。
三人目は、春風亭小朝氏である。落語家である。
漫才も落語も、「話しことば」で笑いを産み出す芸能である。落語は噺家が一人で何役も演じてしゃべらなければならない。その意味では漫才よりも、よほど「ことば」についての見識を必要とする。同じく「話しことば」を使う芸能として、落語というフィールドから「漫才のことば」を見る視点が「M1」というコンテストには不可欠だ、と私たちは考えたのである。後年、立川志らく氏が「M1」の審査員をやるに当たって、「審査員の中で私だけが漫才師じゃないんですが、いいんでしょうか」と言っているが、それに対しては「いいのです、落語家だからいいのです」と現在の主催者は論理で答えるべきである。
四人目は、青島幸男氏である。
テレビ番組『シャボン玉ホリデー』を担当する放送作家としてスタートしながら、歌謡曲『スーダラ節』や『明日があるさ』などの作詞もやり、後には小説『人間万事塞翁が丙午』で直木賞を受賞するなど多方面にわたる「表現」を成した人である。つまり、「眼で見る文字の言葉」にも「話すオトのことば」にも精通している人である。「漫才のことば」を計るコンテストには、こういう人こそ審査員に相応しいのである。青島幸男氏の審査員起用を強く推したのは木村政雄である。慧眼である。
鴻上尚史、ラサール石井、春風亭小朝、青島幸男、の4人の審査員の選考理由を読んでいただければ「M1」というコンテストの本質が見えてくるだろう、と思う。中村氏は、「M1のコンセプト(基本理念)」がつかめていないため、コンセプトを具現化する「審査員選び」の実相にも迫ることはできなかった。
「苦戦したが、スタッフの粘りで審査員もほぼ固まりかけた」(108p)
「こうして七人の審査員が出そろった。(中略)多士済々なメンバーだった」(108p)
自著の中の論理矛盾も平気でごまかしている。こんな杜撰な「ノンフィクション」はない。
【松本人志の審査員として「役割」とは何か】
松本人志の審査員起用について、中村氏は「最後の大物は、なかなか首を縦に振らなかった。ダウンタウンの松本である。若手から『神』と崇められる松本が出るか否かで、大会の格が大きく変わってくる」(108p)と書いている。確かに松本が出れば「格」は上がるであろう。しかし、そんな理由で私たちが松本を口説くはずもないし、それを聞いたら松本は決して引き受けはしなかっただろう。
中村氏はことごとく「お笑い芸人」という者の心情が理解できない人らしい。
ここで重要なことは、紳助が松本に言った「やらなあかん。お前の役目や」である。考えるべき重要なヒントが色んなところに落ちているのに中村氏はそれに気がつかない。
「役目」とは何なのか、なぜ松本に「役目」があるのか、である。これに先立ち紳助は私たちに「松本は俺が口説きます。あいつには責任があるんです」とも言った。
「役目」と「責任」。翻訳と解説をしよう。
ダウンタウン・松本人志と浜田雅功は、NSC(吉本総合芸能学院)の1期生である。昔ながらの芸人弟子修行を経ずにNSCを卒業して漫才師になり、テレビの人気タレントになった。そのおかげで、多くの若者たちがダウンタウンを目指してNSCに押し寄せるようになった。あたかも、専門学校や大学へ進学するような感覚で「お笑い芸人」を目指し始めたのである。NSCを卒業したら自動的に有名タレントになれるかのような錯覚を抱いて。
そんな彼ら彼女らの「ことば」は最初から弱い。「ことば」で何かと闘うという動機が無いからである。
また、紳助やさんまやビートたけしらは「お笑い芸人」なる生業(なりわい)は決して若者が「夢」や「憧れ」の対象にするべき存在ではない、と考えている。「お笑い芸人」は、野菜ひとつ作りはしない、魚一匹獲りはしない、ネジ1本作るわけでもない。近代産業社会の枠組みからは「ハズレた」存在であり、いわば「マージナル(境界線)」を生きている存在である。そういう存在者が、親からもらった「身体」と親からもらった「ことば」のみを武器にして産業社会と対峙して「笑い」を産み出して生きている。そういう自覚もなく、「夢」や「希望」という虚像を与えたのは、ダウンタウンの成功にも責任があるのではないか――紳助はこう言っているのである。
だからこそ、錯覚を抱いて「お笑い芸人」の世界に入ってきた者に対しては、早く気付かせてちゃんとした正業の世界に戻してやることがお前の役割ではないか――こう言っているのである。
その説得を受けて松本人志は「M1」の審査員を引き受けたのである。ここに、島田紳助や松本人志といった一流「お笑い芸人」の「言語観」や「存在論」を見取るべきであろう。
【審査員西川きよし、の意味について】
西川きよし氏の審査員起用は、2001年当時の全若手漫才師に対する「参加勧誘(プロパガンダ)」の意味合いが大きい。70年代の「漫才界」の英雄が「横山やすし・西川きよし」だったことは明白である。「やすし・きよし」のコンビは既に1989年に解散していたし、横山やすしは既に1996年に他界していたが、西川きよし氏は吉本興業の中においても「漫才のレジェンド」であったことは間違いない。その西川きよしが審査員を勤めることによって全若手漫才師に対して「M1」への参加出場を促したのである。これも木村政雄が強く主張した人選であった。
中村氏は西川きよし氏のことを「西川は翌年、審査員を外され」とか「紳助さんが外した」とか書いているが、二人に対して失礼この上ない記述である。
さて、こうして7人の第1回目審査員を並べてみたら私たち「M1」創設者たちが考えていた「コンセプト(基本理念)」はおのずから浮かび上がってくる。
真ん中に審査委員長の紳助を置いて、右端に先輩世代の「漫才」の雄たる西川きよし、左端に若手世代のヒーローたる松本人志、その間に「ことば」を生業としている異ジャンルの人が二人ずつ。その7人が「漫才のことばを鍛え直す場」が「M1グランプリ」なのである。
この考えは2回目以降も基本的に変えてはいない。
そして、間違えてこの世界に入ってきた若者たちには「お笑い芸人」とはどんな存在なのか、はたして自分は「お笑い芸人」として人生を全うして良いのかを、自分で考え欲しいと思って、その猶予期間を10年間としたのである。「10年あったらわかるやろ」と。
これが「参加資格:結成10年」の意味であり、『「M1グランプリ」は10年間やって止める』ことを出発時点で決めていた理由である。
【ABC朝日放送が「M1」を制作している理由、について】
出発点においての時代状況の把握からして間違っており、「M1」創設時の「コンセプト」すら正しく理解できていないために、『笑い神』の叙述は細部に至るまで間違いだらけなのだが、細かい点の指摘はもう止めておく。
ただ、次の点についてだけは声を大にして叱っておく。
「M1プロジェクトは東京キー局にフラれ続け、最後の最後でABCに拾われた」(195p)
何を言っているのだ。中村計氏は取材不足である。
私の古巣であるABC朝日放送の名誉のために、そして今も頑張って「M1」を続けているABC朝日放送のテレビマン達の名誉のために、はっきりと事実を明らかにしよう。
「『M1グランプリ』は企画発想の初期から、ABC朝日放送がテレビ番組化を約束していた」のである。決して、東京キー局が捨てたアイデアをABCが拾ったのではない。
前述したように、2001年の初頭に私は紳助から「ちかごろのお笑い芸人は『ことば』が弱なっとる。芸人にとって唯一の武器である「ことば」を鍛え直す場が要るんかなぁ」という苛立ちを聞き、3月になって「真剣な闘いの場を創ろうと思うんです。K1からもらって『M1』ていう名前にしましょう。力を貸してください」と言われた。
私は即座に「よっしゃ、全力を挙げて支えるわ」と答えた。しかし、テレビ制作部長の立場では「全国規模のイベントを展開し、全国ネットのテレビ番組をゴールデン帯で長時間にわたって押さえる」ほどの権限はない。デスクに帰るなり私は上司である和田省一編成制作局長に話を上げた。和田氏は、かつて紳助と一緒に報道番組『サンデープロジェクト』を立ち上げ人間であり、その温厚にして聡明な人柄からして紳助が最も信頼しているテレビマンであった。和田氏も即座に紳助の発案を全力で支えることに賛同してくれた。そこには、長年にわたってABCの番組に出演してくれている島田紳助への恩返しと、長年にわたって多くの所属タレントをABCの番組に出してくれている吉本興業への厚誼の意味合いも含まれていた。
さっそく翌日に吉本の谷良一氏にABCに来てもらい、その時点での紳助の発案内容を確認し合った。そして谷氏に「この話を吉本で知っているのは誰?」と訊ねたところ「今のところ木村政雄だけです」との答えが返ってきた。そこで、ABCは和田・吉村ラインで、吉本は木村・谷ラインで動くことを決めた。
しかし、ここから「M1」の実現化までにはまだまだ多くの障壁があった。
和田は取締役・編成制作局長であったが、あくまで朝日放送の人間である。木村は制作担当・常務取締役であったが、あくまで吉本興業の人間である。取締役であるからには尚のこと、それぞれ自分の所属する組織の外交的な立場と利益を考えなければならない。つまり、会社として通すべき筋道がある、ということなのだ。
そこで、和田と木村と吉村の3人で食事会を兼ねて作戦会議を開くことにした。春の終わりころであった。場所は桜ノ宮にある「太閤園」でやった。この席に谷氏は含まれていない。
理由は、4人の年齢差とこれまでの付き合いの深さとによる。木村氏は昭和21年生まれ、和田氏は昭和22年生まれ、吉村は昭和25年生まれで、番組制作やタレント交渉を通して長年に及ぶ付き合いを持っていた。谷氏は私より7歳も下で吉本興業制作部の一プロデューサーであった。会社組織全体の動向や利益を考えるにはまだ若過ぎた。
その席で、朝日放送の和田から吉本興業の木村に対して「紳助さんが企画発案した『M1』に私たちは全力を挙げて協力します。一番いい形でのテレビ番組化を図りましょう。ただ最終的には朝日放送が責任を持って番組化することを約束します。」との口約束がなされたのである。
それを踏まえて、私が木村氏に「吉本興業さんとしては、この話はまずフジテレビに持ってゆかないといけないんじゃないですか」と投げかけた。その理由は1980年の「漫才ブーム」以降、吉本興業が東京に進出して全国区化をするにあたって最も支えてくれたのが「横澤彪のいるフジテレビ」だったからである。ここ20年でお世話になってきたフジテレビに対して、新しく吉本が起こそうとしているビッグイベントを情報提供もなしに他局で進めたのでは木村氏の顔が立たない、吉本としての立場がないだろうと忖度したのである。
木村氏は「誠さん、それでいいんですか」と訊いてきた。私は「いいです、構いません」と応じた。紳助の発案意図を最適な形で現実化させるには、イベントを全国レベルで展開させテレビ番組としては東京キー局がゴールデンタイムの大きな枠をあてがって系列局全体を動かすのが理想的だからである。ABC朝日放送は東京局に負けないほどの制作力を持ってはいるがしょせん在阪の準キー局であり、使えるゴールデン枠にも限りがある。
和田も私も、「M1」の企画をABCで独占する気はさらさらなかった。私としては、紳助がこの話を誰よりも先に私に相談してくれただけで充分に嬉しかったのである。ちなみに、私はかって紳助が大阪に家族を残して初めて東京に進出した際に木村氏と一緒になって『極楽テレビ』という番組をプロデュースしたことがある。その『極楽テレビ』はあまりの低視聴率のためのゴールデンプライム5回で打ち切り、というテレビ史に残る不名誉な記録を作ってしまい、島田紳助というタレントの黒歴史を作ってしまったという過去を持っている。
こういうやりとりの結果、フジテレビに対しては吉本興業の木村氏が制作担当の取締役レベルを相手に企画打診をすることになった。同時に制作現場のプロデューサー相手への打診は谷氏が並行して行うことにした。
「M1」くらいの大きな企画の場合には、現場クラスからの企画提案と取締役クラスでの事前承認が並行していないと上手くはいかないのである。日本テレビとTBSに対しても同様の進め方をすることにした。
次は朝日放送の立場からの筋通しである。
島田紳助が発案した企画を吉本興業が全国展開するイベントで、それを大阪準キー局である朝日放送が東京キー局のテレビ朝日になんの事前相談もなしにテレビ特番化すれば「失礼」のそしりを免れない。もしテレビ朝日が番組化してくれるのであれば、朝日放送は準キー局として全面的に協力できる。ましてやこの時点で、6月に入ったら和田は出向してテレビ朝日の取締役に就任することが決まっていたのである。和田の立場がない。
そこで、テレビ朝日に対しては朝日放送の取締役・編成制作局長の和田から、テレビ朝日の番組制作担当常務に企画提案をすることにした。ここでも現場の番組制作プロデューサーレベル相手には谷氏が吉本の立場から企画打診を並行して進めるようにした。
こうして、吉本興業と朝日放送というそれぞれの会社組織としての筋道を通す形で「M1」は東京の各キー局へ打診されたのである。その結果が、東京キー局はどこも「M1」の企画には乗ってはこなかったのである。
フジテレビには既に横澤彪はいなかった。横澤氏は定年を待たずして1995年3月にはフジテレビを退職して吉本興業の東京支社長へと転身していた。「横澤彪のいなくなったフジテレビ」には、もはや紳助の「お笑い芸人の『ことば』を鍛え直す」の意味を理解してくれる人間はいなかった、ということである。
テレビ朝日は、「この話は朝日放送さんが最初に聞いたのだから、どうぞ朝日放送さんで」とやんわりと返された。
こうして「M1」の企画は、吉本興業と朝日放送がそれぞれ企業としての筋を通した結果として、ABC朝日放送の手元に戻ってきたのである。
中村氏が書いたように、確かに「M1プロジェクトは東京キー局にフラれ続け」たのだが、決して「最後の最後にABCに拾われた」のではなく、「最後にはABCに戻ってきた!」のである。私は喜んで、ABCの社内会議で「M1グランプリ」を発議した。
中村さん、ノンフィクションライターなら、もっとちゃんと取材して書こうよ。
【ノンフィクションを書くに際して】
ノンフィクションを書くに際して気をつけなければいけないことは、まずは前提とする事実についての先行記述を鵜呑みにしないことである。複数の資料に当たって事実の確定に務めなければいけない。特にWikipediaなどに安易に依拠してはいけない。これは、私たち大学教員が常々学生諸君に諭していることである。
また、インタビューして得られた証言についても、それを鵜呑みにすることなく複数の人間に当たって違う角度からの証言と照らし合わせることが不可欠である。それは証言者の証言を疑うことではなく、証言者の果たした歴史的役割を正しく確定させるために必要なことなのである。インタビューに応じてくれた人への敬意である。
人は誰でも、思い違いや記憶間違いをするもの、だからである。
『笑い神』に即して言えば、「M1」立ち上げに重要な役割を果たした谷良一氏の場合がそうである。確かに谷氏は「M1」の創設に大きな役割をなした人で、全国規模での予選の仕組み作りや、プロダクションの垣根を越えた参加者の呼びかけや、オートバックスというスポンサーの開拓など彼がいなかったら「M1」ができなかったことは確かである。
しかしながら、谷氏は当時まだ43歳であり、吉本興業を代表してテレビ局各社の取締役レベルと対等に話ができる立場ではなかった。また、吉本興業の会社内においても多くの社員に号令をかける権限は有してはいなかったし、古参の芸人たちに命令を下せる立場でもなかった。そういった社内行政や対外的な交渉を吉本興業を代表して行ったのは、制作担当常務であった木村政雄氏であった。「M1」は木村政雄氏なくしては誕生しなかったのである。
谷氏の功績を確定させるためにも、やはり中村氏は木村政雄氏にインタビューをすべきだった、と私は思う。
また、テレビ番組としての「M1グランプリ」を担当したABC朝日放送のスタッフに対するインタビューでも同じことが言える。インタビューの対象者の多くは、第2回目、第3回目以降を担当した者たちである。
森本茂樹にしても、辻史彦にしても、みな私の後輩でありかつての部下であるが、番組立ち上げの「第1回M1グランプリ」においてはほとんど関わってはいない。テレビ番組において「第1回」の立ち上げ作業が最も重要なことは業界人の常識である。制作指揮を執った私の元で、第1回を担当したのは総合プロデューサーが山村啓介であり、演出面での責任プロデューサーが市川寿憲であり、中継面での責任プロデューサーが今村俊明であった。ちょっと調べたらかわるだろうに、中村氏はなぜその人間たちにインタビューをしなかったのか不思議でならない。
【「M1グランプリ」にあって、他のコンテストにないもの】
「笑芸」のみならず「テレビ業界」にも疎いのか中村氏の叙述には間違いが多い。
『笑い神』の104P、テレビ朝日に出向していた和田が、吉本興業の一プロデューサーである谷氏に対して「朝日放送の年末のゴールデン枠をM1のために割く」なんていう約束を口にするはずがない。和田はその時点ではテレビ朝日の人間なのであり、朝日放送の番組について発言する権限を有してはいない。また、和田はそういった職掌の範囲や自己の立場というものに人一倍ストイック(自制的)な人間である。
これはおそらく谷氏の記憶違いか、時系列の間違いだろう、と推測する。
谷氏に「朝日放送の年末のゴールデン枠をM1のために割く」ことを告げたのは、朝日放送の大阪本社に居た私・吉村誠制作部長と山本晋也編成部長である。
『笑い神』の193p~195pにかけて、「M1」と、他のコンテスト番組「R1グランプリ」「キングオブコント」「THE W」を比較したくだりの、「M1にあって、他のコンテストに欠けているもの。それはABCである」というのは誰がどう読んでも、主語と述語が対応していない奇妙な文章である。
中村氏が理解できていない「本質」を補足して、私なりに言い換えよう。
「『M1にあって、他のコンテストにないもの、それは『思想性』である」。
紳助が言った、「ちかごろのお笑い芸人は「ことば」が弱い。だから『ことば』を鍛え直す真剣な『闘いの場』を作りましょうよ」に込められた、「ことば・観」「お笑い芸人・観」「生活・観」であり、それを読み取るほどの「思想性」である。
この「思想性の有無」こそが、「M1」と他のコンテストを区分けしている本質である。
ちなみに、文章という「文字の書き言葉」を生業(なりわい)とされている中村氏に、「書き言葉が弱くなった」という事象について先見的に書いた先達を紹介しておく。
寺山修司である。劇作家にして詩人でもあった寺山は、1965年の『戦後詩』において、戦後詩の衰弱をもたらした原因として、印刷活字の画一性と標準性を指摘した。同時に、「書き言葉」だけでなく「話しことば」においても、「標準語」が「ことば」から身体性・肉声性・生活性をそぎ落してしまい、情報伝達のためだけの「社会の道具」に堕落してしまっていることを批判した。これを読めば、島田紳助が言う「お笑い芸人の「ことば」が弱くなった」の意味するところがわかるだろう、と思う。
【漫才コンビ「笑い飯」への讃歌として】
中村氏は、それまで縁遠かった「笑芸・漫才」を取材して調べるうちに、漫才コンビ「笑い飯」の漫才がとても気に入ったようである。それはそれでいい。好き嫌いは個人の自由なのだから。
しかし、ノンフィクションの論稿において、個人の感想を一般化して読者に押しつけてはいけない。
『笑い神』を読むと、「笑い飯」の『鳥人(とりじん)』や『機関車トーマス』や『奈良県立歴史民俗博物館』などのネタは「革命的」に面白く、毎回毎回出場のたびにぶっちぎりで優勝しても当然だった、というほどの賛辞に溢れている。そして、その評価の文言の多くは審査員である島田紳助と松本人志の「審査員コメント」に依拠している。
果たして、それで良いのだろうか。
だとするならば、「M1」の審査員は紳助と松本の二人だけでいい、となるではないか。そうではないだろう。発案者であり審査委員長を務める島田紳助、若手漫才師の多くから「神」のように崇められる松本人志、この二人すら「相対化」する視点を保つために木村政雄や私は、二人以外5人の審査員を置いたのである。
どのような「権威」も、どのような「権力」も絶対視してはいけない。絶対視からは、模倣と服従しか生まれないからである。それは政治や社会だけの命題ではなく、芸能や娯楽の領域においてもあてはまる命題である。「M1」が他のコンテストと違う点は「あらゆる権威」を相対化する視点を保っていることである。
さて、中村氏による「笑い飯」の評価に戻ろう。
『笑い神』によれば、「『ミスターM1』、または『M1の申し子』とよばれる笑い飯は、M1が生んだ最大のスターコンビ」とされている。
「えっ、そうなの」と私は首をかしげる。世の中のどれだけの人がそう思っているのだろう。
確かに、私も『鳥人』や『奈良県立歴史博物館』を初めて聞いた時は、変わった発想をするコンビだなぁ、と思った。しかし、奇抜さや物珍しさは、逆から見ればそれだけ一般性や普遍性から遠のく、ということでもある。
再び、近代漫才の父・秋田實の言を引いておく。
「漫才は、私たちの日常生活をネタにした『話しことば』による無邪気な笑い」である。
「笑い飯」の魅力と弱点を読み解く上で、示唆に富んでいる、と私は思う。
翻って、『笑い神』は、中村氏が大好きになった「漫才コンビ・笑い飯」に対する讃歌に徹すればよかったのでないか、と読後に思った。そこを無理やりに(おそらく、きっと、多分、編集者が売らんがための戦略として教唆したのだろう)世上で人気のある「M1グランプリ」とくっつけて論稿化したから、いびつなものになった。経糸である「M1の歴史」と、横糸である「笑い飯の漫才」が、こんがらがってもつれている。
【関西弁は関東弁より早いか】
最後に、中村氏の「言語論」上の明らかな間違いを指摘しておく。
中村氏は「漫才とは何か?笑いとは何か?」を探る前提として、「関西弁の方が関東弁よりも早い・テンポがいい」との「仮説」を立てて臨んでいる。これは「仮説」というより、「妄説」「虚説」である。
「関西弁」であろうが「関東弁」であろうが「東北弁」であろうが「博多弁」であろうが「三河弁」であろうが、地域方言そのものに「早い方言」や「遅い方言」などありはしない。そもそもすべての言語の存在実態は「方言」なのだが、あるのは「早口でしゃべる人」がいること、「ゆっくりしゃべる人」がいること、だけである。「ことば」を喋るスピードはその人ひとりひとりの個性的な特徴である。
それどころか、多くの関西弁話者は「東京弁はなんと早くてチャキチャキしてるんやろ」と感じている、と私は思う。古くから「関東弁はチャキチャキしてる」「関西弁ははんなりしてる」と言われている。この方が民衆の実感に近いのではないだろうか。私の世代の経験では、かつて昔のTBSテレビ『ザ・ベストテン』でアナウンサーの久米宏と俳優の黒柳徹子が、速射砲のような速さで「標準語風関東弁」をしゃべっているのを聞いて「関東弁はなんと早いんだろう」と驚いた記憶がなまなましい。
ここからも言えることだが、一般的に「耳になじみのないことば」は早く聞こえるものだ。英語の苦手な人がアメリカ人がしゃべるのを聞いて、「早くてわからん」と感じる、あれである。
おそらく千葉県で生まれ育ち、関東弁を「母語・母方言」として成長された中村氏が大学生になって京都に来て、初めて耳にした「関西弁」が耳に馴染みのない「ことば」でとても早く聞こえたか、身の周りに早口の関西弁話者がいたのでそう感じたのか、だろう。
ちなみに、今回この論稿を書くにあたって何人かの知り合いの言語学者に「関西弁が関東弁より早い」という先行研究があるか、を尋ねたところ「そのような研究は聞いたことがない。そもそも一つの方言と別の方言の話すスピードを比較するためには、無作為の何百何千何万という対象を何かの基準で計測しなければならず、それは無理だ」との答えであった。
いずれにしても、個人的な体験を一般化してはいけない。
次に、「話す速さ」と「笑いの生成」についてであるが、中村氏は「話すスピードが速い方が笑いを多く産み出せる」との論を採っているようである。
これは初歩的な間違いである。実は若手漫才師の多くが、一度はこの間違いを経由する。とにかく、大きな声で早口でまくしたてれば「笑い」が取れる、と勘違いしてしまう。
反証として、それこそ若手漫才師が「神」とあがめている「ダウンタウン・松本人志」のしゃべりを聞けばすぐわかる。松本の話している「関西弁のしゃべりことば」は決して早くない。どころか、大阪の町の中でしゃべっている一般の関西人より遅い。
「話す速さ」と「笑いの生成」とは無関係である。
さて、中村氏の「言語論上の間違い」を指摘したが、中村氏が「ことば」と「笑い」の相関関係の核心に近づいたところが少しだけある(せっかく近づいたと思ったとたんに、また離れて遠のくのが惜しい、のだが)。
それは、『笑い神』のプロローグ7pの「関西弁とは、なんと感情を乗せやすく、テンポのいい話し言葉なのか」という部分である(下線は筆者)。そうなのだ、「感情を乗せやすいことば」が「いいことば」であり、「笑い」を産み出すための強力な武器になりうる「強いことば」なのだ、ということである。
せっかく核心に近づいたと思ったとたんに、中村氏は6行後には「漫才における最強の話し言葉は関西弁である。そんな確信があった。」と、あっという間に核心から遠ざかる。違うのだ、「関西弁が強い」のではなく「感情を乗せやすいことばが強い」のだ。それは「関東弁」であろうが「博多弁」であろうが「土佐弁」であろうが「山形弁」であろうが何弁でもいいのだ。
「感情を乗せやすいことば」とは、私たちの「身体と生活」にしっかりと馴染んだ「暮らしのことば」である。家庭の中で、親や兄弟と、なんの意識もしないで自然にスッと口から出てくる「ことば」のことである。
ちなみに、「関西弁vs関東弁」という呪縛から逃れられない中村氏は、2022年の「M1」でウエストランドが優勝したことを捉えて「もう一つ衝撃的だったのは、彼らが、関東の言葉によるしゃべくり漫才で優勝したこと」と発言されていた(「現代ビジネス」による)が、的外れである。
ウエストランドの河本太も井口浩之も岡山県津山市の出身で、高校まで津山で暮らしていた。津山の「ことば」は「内輪東京式アクセント」といって、元々東京弁に近い方言である。これは「ことばは中央から(昔は京都が日本の中心だった)地方に波紋のように広がる」という柳田国男の言語周圏論で説明されており、近年では『探偵ナイトスクープ』の企画発案者である松本修氏が『アホ・バカ分布考』でそのことを立証している。
つまり、ウエストランドの「ことば」は関東弁ではなく津山弁が東京弁と混合したものである。両者はもともと言語的に近い。この点、同じ岡山県の出身であっても「千鳥」のノブは南部の井原市の出身で、大悟は瀬戸内海の北木島の出身で、二人とも関西式アクセントの話者であり、二人の「ことば」はウエストランドの「ことば」とはかなり違う。
もし今後とも中村氏が「漫才」や「笑い」について語られるのであれば、「漫才という笑芸」を成立させている「話されることば」について、もう少し基礎を勉強してから出直される方が良い、と思う。
私たちが日常生活で使っている「暮らしのことば」が一番「自然で強いことば」なのだ、という簡単な理屈に、簡単だからこそ多くの人は気が付きにくい。「ことば」を唯一の武器として生きる「お笑い芸人」も、この「ことばの原則」になかなか辿り着けないし、辿り着ける人間は数少ない。
その逆で、「弱いことば」を使って無理やりに「笑い」を作り出そうとする者は、不自然な「ネタ」なるものを一所懸命に構築して聞き手を惹きつけようとする。私たち人間の言語脳はとても優れているので「弱いことば」の使い手たちの「ことば」は一言二言聞いただけでその弱さや不自然さを感じとってしまう。経済的必要性のために習得した「職業用東京弁」や、漫才をするために習得した「漫才用関西弁」がそれである。その弱さをカバーしようとして「弱いことば」の話者は大きな声で怒鳴ったり早口でまくしたてたりする。これが下手な漫才の特徴である。
無理して「ネタ」なんて作らなくても、私たちの日々の暮らしには思わず笑ってしまうような出来事が満ち溢れているのに。
【最後に。「M1」は勲章を得るためにあるのか?】
『笑い神』の記述中で、中村氏に賛同する部分もある。
それは、「あくまで通過点のはずだったM1が、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている」(113p)という指摘である。再開した第11回目以降に露わになる変質は、審査員の選定に顕著である。審査員のほとんどを漫才経験者にしてしまったがゆえに、「ネタ」や「ボケ・ツッコミ」などの技術についての評価が著しくなってしまった。
とは言え、時々は創設当初の「漫才にとって『ことば』とは何なのか」という問いかけを思い出させるようなコンビが登場したりして、志の遺伝子を感じたりもするのである。
さて、今や「M1」は「グランプリ優勝者」や「M1ファイナリスト」なんていう新しい「勲章」を産み出すイベントになってしまった。しかし、「漫才師」にとって、「漫才」を楽しむ民衆にとって、はたしてそんな勲章には何ほどかの意味があるのだろうか。
かつて、芥川龍之介は
「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろうか?」(『侏儒の言葉』)
と書いて、勲章を誇る人間たちをからかった。
この有名な文章のすぐ前に、次の一文があることはあまり知られていない。
「殊に小児と似ているのは、喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うのかも問わず、欣然と敵に当たることである。」(下線は筆者)
中村計氏の『笑い神』がもたらした功績は、「M1グランプリ」なる闘いにおいて、「何のために闘う」のかを忘れて、「勲章獲り」にかけずりまわった多くのお笑い芸人たちの姿を私たちに見せてくれたこと、であろう。
大切なことは、「勲章」を得ることではなく、「何のために闘うのか」を自らに問うことである。
「勲章」を手にした漫才師が生き残るのではなく、「何のために闘うのか」を問うことのできたお笑い芸人だけが生き残るのである。
これからの「M1」に関わる多くの人たち、参加する漫才師たち、番組に携わるスタッフの人たちにこのことを忘れないで欲しい、と切に願う。「M1グランプリ」を創設した者の一人として。
―――以上―――
深夜の再放送ドラマ『いつ恋』
オリンピック編成の余波でしょうか、今、深夜に名作ドラマの再放送をやってくれています。
関西では水曜の深夜に『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016年フジテレビ)の再放送をしています。
5年経った今見ても、とってもいいドラマです。
リアリティある「暮らしのことば」の脚本
脚本家の坂元裕二は、『カルテット』や『大豆田とわ子と三人の元夫』などで都市生活者のオシャレな会話劇を描く作品で有名ですが、この『いつかこの恋を~』は違っています。
登場人物のひとりひとりが、どこで生れてどこで育ったのかがちゃんとわかるように「暮らしのことば」で喋るのです。
そのことによって、東京で生活している若者たちの「軽やかに見える生活」の背後に在る「本当の暮らし」が浮かび上がってきます。
会津生まれの練(れん)、大阪生まれの音(おと)、福岡出身の木穂子(きほこ)。
それぞれが心情を吐露する時に口にする「暮らしのことば」が、このドラマでの人生のリアリティを成り立たせているのです。
先日観たのは第5話でしたが、森川葵が演じる市村小夏の吐く「な~んで話変えんだべな。楽しいってオガシクネ。うわべばっか楽しそうなふりして嘘バッカ」という会津福島ことばが強烈に胸に響きました。
これは、1991年に『東京ラブストーリー』で華々しくデビューして以来、トレンディドラマの旗手として「東京の若者たち」の恋愛生活模様を「無頓着な東京語」で描いてきた坂元裕二が、25年の時間を経て「東京」を相対化する視点を持つに至った証だと僕は見ています。
まだ観ていない方に、これからの放送で必見のオススメは第7話です。
有村架純演じる杉原音が、福島の猪苗代湖の近くに暮らす曽田練のジイちゃん(田中泯)の人生最後の数日間の「暮らし」を、残された数枚の買い物レシートから読み解いてゆくシーンがあります。
このシーン、日本のドラマ史に残る名場面!だと僕は思っています。
ぜひ、ごらん下さい。
いいキャスティング!
もう一つの見どころ。
2021年の現在から見て、2016年1月期時点での俳優陣の並びがスゴイんです。
女優陣は、主役の有村架純はNHK朝ドラ2013年の『あまちゃん』で小さな役で出演していた所から大ブレイクしていて『いつかこの恋~』では堂々たる主役です。
その対抗役が高畑充希ですが『いつかこの恋~』の放送時点ではまだブレイク前だったんですね、この後の2016年4月からのNHK朝ドラ『とと姉ちゃん』で主役を張ります。
そして、なんと2018年のNHK朝ドラ『半分、青い』で主役を張る永野芽郁が『いつかこの恋を~』では端役で出演しています。
もっと小さい役で松本穂香も出ています、後に『この世界の片隅に』で主役を勤めました。
後々、ゴールデンタイムのドラマの主役を張るようになる女優たちが『いつかこの恋~』にたくさん出てるんですねぇ。
男優陣もすごいです。
今や、それぞれが1時間ドラマの主役を張るメンバーです。
こうして見ると、『いつかこの恋を~』のキャスティングプロデューサーの伯楽眼の素晴らしさに驚きます。
作り手に大拍手!です。
2016年の放送時には視聴率的にあまり高い評価を得ませんでしたが、数年の時間を経過して視聴することで、この作品の素晴らしさがちゃんと評価できるのではないかと思います。
日本人のテレビ離れが言われるこの頃ですが、やはりテレビはまだまだ色々な可能性を持つ「表現メディア」だと、僕は思うのです。
【報道記者の言語学】森喜朗記者会見で見えた日本のマスコミ記者の不甲斐なさ
2月4日(木)の午後2時から行われた、森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の発言撤回記者会見をリアルタイムで見た。
「報道記者」と呼べるのは、TBSラジオ・沢田記者だけだった。
彼以外は、残念ながら「腑抜け記者たち」としか言いようがない。
政治記者の質問レベルが低かった
ことの発端は、2月3日(水)に森氏がJOC(日本オリンピック委員会)の評議員会に出て挨拶をした際に、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言をしたこと、ならびに「女性は競争意識が強い。誰か一人が手を挙げて言うと、自分も言わないといけないと思うんでしょうね。それでみんなが発言される」という発言をしたこと、である。
4日の記者会見は、これに対する釈明の記者会見であった。
ここで私が注目したのは、会場に居て「質問」をしたマスコミ各社の記者たちの「質問レベルの低さ」である。
それは「言語レベル」の低さであり、「論理レベル」の低さである。
今や、ネット環境やSNSの発達によって、新聞社やテレビ局の記者が「情報の特権階級者」でなくなってきている時代であるにも拘わらず、彼ら・彼女らは相変わらず昔ながらの立場から脱却できていないことを露呈してしまった。
それが残念なのである。
20数分間の記者会見で、延べ7人の記者が「質問」をしたのだが、その中で明確な論理をもって「自分のことば」で森氏に質問をしたのはTBSラジオの沢田記者だけであった。
だから、森氏は沢田記者の質問に対して露骨に嫌な顔をし、しまいには「もう、そういう話は聞きたくない」と質問をさえぎり、そっぽを向いたのである。
そして、その後には「おもしろおかしくしたいから聞いてんだろ」と威圧までしたのである。
沢田記者以外の6人の記者は、老獪な政治家である森氏の恫喝的な態度や非論理的な言い廻しに惑わされて聞くべきことを聞けなかった。
わかりやすく言えば「びびった」のである。
読者や視聴者である一般民衆が、素直に「知りたい・聞きたい」と思うことを聞きだせなかったのである。
マスコミ報道の責務
「報道の本質とは、事実を伝えることです」
これは、アメリカ映画でジャーナリズムを題材にした『アンカーウーマン』で、主人公のタリ―・アトウォーターが語る言葉である。
では、今回の森氏の記者会見において、臨場していた報道記者たちが「追求すべき事実」とは何であったのか。
それは、森喜朗という人の「女性観」である。
巷の一般民衆が知りたかったことは、森喜朗という人が「女性」という存在を本心でどう思っているのか、である。
これこそが「追求すべき事実」だったのだ。
ここで間違ってはいけないのは、ジャーナリズムの使命は「森喜朗の女性観」を倫理的に裁くことではない、ということである。
森氏がどのような「女性観」を持っていようと、それは個人の「思想・信条の自由」に属する。
裁くのは「事実」を明らかにした後のことであり、裁く者はマスコミではなく、JOC(日本オリンピック委員会)自身であり、社会であり、一般民衆なのである。
マスコミの役割とは、判断のための材料としての「事実」を伝えることに他ならない。
記者が明らかにすべきことは何だったか
この、基本に立って、今回の「森喜朗の記者会見」とその「質疑応答」を振り返ってみよう。
まず会見の冒頭で森氏は、
「昨日のJOC評議会での発言につきましては、オリンピック・パラリンピックの精神に反して不適切な表現があったと、このように認識しております。そのために、深く反省をしております。そして発言を致しました件については撤回をしたい。以上であります」
「お詫びをして訂正、撤回をする、ということを申し上げた訳であります。以上です」
と読み上げた。
一般民衆の日常生活における「言語感覚」を基に考えればすぐに次の疑問が湧いてくるだろう。
「しゃべった事実は無しにはならんやろう」
「発言したことについては撤回する、ということは心の中ではそう思ってるということなの」
「日頃から思っているからつい出た本音だろ」
素直な疑問である。
そして報道記者たちに聞いて欲しいのはこの点であった。
的外れな質問をする記者たち
しかしながら、こういった民衆の素朴な疑問に立脚した質問はほとんど出なかった。
1.本質を外した質問の幹事社記者
「幹事社の日本テレビです」という女性記者。
最初の質問は「今回の発言が国内外から多くの批判が上がっています。会長の中で辞任しなければならないと考えたことはあったのですか?」と、いきなり本質を外した政治的対処方についての質問。
「辞任するという考えはありません」と森氏に一言で返されてしまった。
続いて、もう一問、「IOCは(中略)オリンピックにおける男女平等を掲げています。(中略)大会のトップとして今後世界、国内にどのように説明されてゆくのでしょうか?」とまたしても筋を外した状況論についての質問。
これに対して森氏は「私は組織委員会の理事会に出た訳ではないんですよ。(中略)あくまでもJOCの評議員会に出て挨拶したということです」と、自分の発言の内容についてではなく発言した場と状況について長々と説明。
質問した日本テレビの女性記者は、その答えに対して何らの言及もしなかった。
「情報特権階級」としての「記者クラブ」の持ち回り番であろうが、このようなレベルの記者がマスコミを代表する「幹事社」として代表質問をしてはいけない。
こういった事の積み重ねが、若者たちの新聞離れ・テレビ離れをもたらしているのである。
いいかげんに日本のマスコミ各社は自分たちの時代遅れに気がつかなければならない。
2.お礼を言ってしまう記者
2人目が「日刊ゲンダイと申します」と言った男性記者。
「JOCから真意の問い合わせ等々、ございましたでしょうか?」と質問し、「さぁ、私はわかりませんが(後略)」と答えた森氏に、「森会長の方から説明する意思はございますでしょうか?」と重ねたが、森氏が語気強く「そんな必要ないですよ、今ここでしたんだから」と言われると「わかりました。ありがとうございます」。
どう見ても、森氏の威圧的な語気にひるんでスゴスゴと退却したとしか見えなかった。
質問に答えた相手に礼を言うのは敬意があってよいが、今回の場合は怖気づいただけではないか。
3.質問意図がはっきりしていない記者
3人目は「TBSの城島と申します」と初めて名乗った女性記者。
「オリンピックの理念に反するような発言であったと思いますが、ご自身が何らかの形で責任を取らないということが、逆に、開催への批判を強めてしまうものではないか、と思うのですがどうお考えでしょうか?」
質問の前段と後段の論理がずれているから、聞いていて、文意がはっきりしない日本語である。
それは質問している城島記者の論理がはっきりしていないからである。
しかし、ここで森氏はこう答えてしまった。
「今あんたがおっしゃるとおりのことを最初に申し上げたじゃないですか。誤解を生んではいけないので撤回します、と申し上げている。オリンピック精神に反すると思い、そう申し上げている」。
城島記者はここを突っこまなければいけなかった。
森氏は、はからずも自分の発言した内容がオリンピック精神に反する「女性蔑視」であることを認めているのである。ならば、城島記者は森氏が心の中でどう思っているかの「事実」を問わねばならなかったのである。
残念ながら、城島記者にそれだけの「言語感知能力」と「質問を重ねる論理力」が欠けていたと言わざるを得ない。
しかしながら、城島氏がきちんと姓を名乗ったことは大きく評価する。
権力者を相手にして、姓名をはっきりと名乗るということはとても大きな意味を持っていること、なのである。勇気の要ることなのである。
日本のマスコミでは、記者のほとんどが大きな新聞社やテレビ局に所属するサラリーマンで、生活も生命も基本的に保証されているから会社名だけを名乗って姓名を名乗らないことが多い。
会社の名前ははっきりと言うが、記者自身の名前は小声で付け足しのように言う者が多い。
しかし諸外国ではそうではない。
「ジャーナリスト」は基本的に、個人の生活と生命と人格を懸けた職業なのである。
下手をすれば命の危険に晒されることすら有るのだ。
それくらい「ジャーナリスト」という職業は覚悟のいる職業なのである。
今回の会見ではやっと、城島記者より後の質問者は誰もが姓を名乗るようになった。
4.質問の前に凄まれてしまった記者
4人目は「NHKの今井です」と名乗った女性記者。
いきなり森氏に「良くわかっています」と顔見知りであることをかぶせられてしまう。
もうここで「勝負」は終わっている。
既知の間柄であることを示す出会いがしらの一言で、質問をコントロールしょうとする権力者の常套的手法である。鋭い質問は期待できないことが予想された。
案の定、質問は、ロンドンブーツ1号2号の田村惇が聖火ランナーを辞退したことへの森氏の受け止めであったが、森氏の一方的な説明を拝聴して終わり、であった。
これだから、テレビも大新聞も「親しき仲にもスキャンダル」を標榜する新谷編集長率いる「週刊文春」に負けるのだ。
小さな出来事と思われるかも知れないが、NHKが自立した報道機関になれるかどうかは、こういう所から始まるのである。
5.切りこめなかった記者
5人目は「毎日放送の三沢と申します」と名乗った男性記者。
「やはり会長は基本的に女性は話が長いと思ってらっしゃるんですか?」と聞き、森氏が「最近、女性に話、聞かないんであまり分かりません」との答えを引き出した。
ここも、三沢記者は突っこむべき所であった。
「ならば、なぜ『女性の理事は話が長い』と言えるのか」「それは伝聞か、もしくは偏見に基づく独断的な女性差別ではないのか」と。
そして「発言の撤回」には拘わらず、森氏の思想・信条として「女性をそう観ている」という「事実」を追求するべきポイントであったはずだ。
しかし、三沢記者は追求できなかった。
6.6人目の、報道記者と呼ぶに足る記者
6人目に質問に立ったのが「TBSラジオの沢田」記者であった。
声からして、まだ若い男性記者だと思われた。
「幾つか伺わせて下さい」と切り出した所、いきなり森氏に大きな声で「幾つかじゃなくて1つにしてください」と凄まれたが彼は怯まなかった。
「冒頭『誤解を招く』とか『不適切な発言があった』とかいう発言があったんですが、どこがどう不適切だったと、会長としてはお考えなんですか?」と聞いた。
この日、初めての正鵠を射る質問だった。
だからこそ、森氏は一瞬言い淀んだ。
「えー、はい、『男女の区別』するような発言をした、ということですね」
「差別」と言わずに「区別」と、森氏が瞬時に頭の中で言い換えたことが推察される。
沢田記者はすかさず畳みかけた。
「オリンピック精神に反する、という話もされてましたけど、そういった方が組織委員会の会長をされることは適任なんでしょうか?」
森氏は一瞬顔を歪ませ、「さぁ、あなたはどう思いますか?」と切り返した。
すかさず沢田記者は「私は適任じゃないと思うんですが」と言った。
森氏は「そいじゃ、そういうふうに承っておきます」と答えた。
不機嫌を丸出しにした受け答えであった。
政治家や権力者に対する質問者のあるべき姿である、と私は沢田記者を高く評価する。
なぜか。
沢田記者は会見に臨んで、何を聞きだすかを事前にしっかりと見定めている。
聞きだすべきは「森喜朗の心中の事実」であることを見定めて、覚悟を持って聞いている。
沢田記者の追求によって、森氏は心の中で「女性の会議参加者はうっとうしい」と思っていることが明白になった。森氏は思想・信条として「女性を蔑視している」ことが明白になった。
一つの「事実」が明らかになったのである。
記者は、質問の論拠を自分の中に持たねばならない
沢田記者は「質問は1つに」という釘指しにも拘わらずに次の質問をした。
沢田「あと『わきまえる』という表現を使われていましたけれども、女性は『発言を控える立場だ』という認識ですか?」
森氏「いや、そういうことでもありません」
沢田「じゃ、なぜ、ああいう発言になったんですか?」
森氏「場所だとか、時間だとか、テーマだとか、そういう物にやっぱり合わせて話していくということが大事じゃないんですか(後略)」
沢田「それは女性と限る必要あるんですか?」
森氏「だから、私も含めてと言ったじゃないですか(中略)もう、そういう話は聞きたくない」
森氏は質問をさえぎり、そっぽを向いた。
さらに森氏は数秒後に、「おもしろおかしくしたいから聞いてんだろ」と沢田記者の方を振り返って睨みつけた。
それに対して沢田記者は「何を問題と思っているかを聞きたいから聞いているんです」と明確に答えた。
沢田記者は質問する論拠を自分の中にしっかりと持っていたから「私は~思っている」と、一人称を使った発言が出来たのである。
首相経験者であり「スポーツ業界の大御所」と言われる森氏を相手に「自分のことば」で堂々と対峙していた。
それに比べて、他の記者たちは「世間では~の声があるが」や「外国では~の反応があるが」などと、内在的な論拠を持っていないから、一人称を明示した質問ができない。
もっともらしい質問をしているように聞こえるが、論拠は借り物である。
だから「ことば」が弱い。
森喜朗という老練な政治家に易々とからめとられるほどに弱い。
7.切りこめなかった記者2
7人目で最後の質問者は「ハフポストの浜田です」と名乗る男性記者だった。
浜田記者は「先ほど、『女性が多いと時間が長くなる』という発言を『誤解』と表現した、と思うんですけどこれは『誤った認識だ』ということなんじゃないでしょうか?」と聞いた。
これに対して森氏は「そういうふうに聞いておるんです」と答え、更に「各協会や連盟で人事に非情に苦労しておられたようです」や「山下さんのJOC理事会で女性の理事枠を増やさなきゃいけない事で大変な苦労をしたと聞いた」と加えた。
続いて浜田記者は「女性が多いと会議が長い、というのはデータに基づいて根拠のある発言とは思えないんですけど」と突っこんだが、甘い。
質問する人間の論拠がずれ始めている。
森氏くらいの政治家になると、相手の論拠の揺れは絶対に見逃さない。
「さぁ、そういう事を言う人はどういう根拠でおっしゃったかは分かりませんけど(中略)そんな話を私は聞いたことを思い出して言ってるんです」と、自身の発言の根拠を「他人の噂話」にすり替えてしまった。
ここでも浜田記者が問いただすべきは「森氏の認識そのもの・森氏の女性観」であった。
「根拠がないのにあなたは女性差別的な発言をしたのですか?」と問うべきであったのだ。
いささか惜しい質問であった。
政治家や権力者は、巧みな弁舌や狷介な言い廻しでもって、自分の真意を隠したり誤魔化したりすることにたけている。
それに対して「誰にでもわかる民衆のことば」で「事実」を明らかにするよう迫るのが本当の意味での「ジャーナリスト」である。
「ことば・言葉」は「人格」の表象に他ならない、のだ。
並みいる多くの「報道記者たち」が、「情報の特権階級」に居ることに安住し、権力者に迎合した「弱弱しいことば」で質問を展開するという悲しい日本のマスコミの現実を改めて確認すると共に、一筋の光明を観た思いのする「森喜朗記者会見」であった。
2020年M-1は、「優勝該当者なし」です
年に2回選ばれる芥川賞と直木賞に「該当作なし」という選考結果がある。
そのひそみにならえば、今回の2020年M-1グランプリは「優勝該当者なし」と言うのが、私の感想である。
理由は単純で、出演者のいずれもが「優勝基準に達していない」と、私は思うからである。
とは言いながら、テレビ番組・M-1グランプリでは審査員諸氏による相対評価で採点されるので、その結果として2020年M-1が「マヂカルラブリー」の優勝に終わったことは周知の事実である。
その結果に対して、SNS上や各所で様々な論議が交わされていることも踏まえて、少しだけ私の考えを述べようと思う。
それは、M-1を創出した人間の一人として、これからのM-1のためにも何がしかのエールを送りたい、と思うからである。
「会話」が成立していない!
去年2019年の「M-1」が、「コーンフレーク」のミルクボーイというとてつもなく面白いお笑い芸人の登場で腹を抱えて笑っただけに、今年はあまり期待をしないで観た「M-1」だった。
優勝した「マヂカルラブリー」を巡って、「あれは果たして漫才と呼べるのか?」という多くの疑問が投げかけられている。とても素直な疑問だ、と思う。
だが、そこで「漫才とは何か?」という概念を巡る神学的な論争を展開することに大した意味はない。
「漫才」の定義などは、あってないようなものだし、そもそも「定義」などは人為的な概念操作にすぎないものだから、それに囚われる必要はない。
ただ、しかし、ここで「概念的」ではない「物理的」な状況を考慮することには大きな意味がある。
その「物理的な状況」とは何かと言えば、「漫才」なる芸能は「二人で演じる笑芸である」ということだ。(かつての『かしまし娘』のように、3人で演じる場合も勿論ある)
つまり、舞台上に「二人の人間が居る」ということである。
「二人で居る」からには、「二人で居る」だけの必然性がなければいけない。
そうでなければ「二人で居る」ことの有効的な意味はない。
漫才は「会話」である
そして、「二人で居る」ことの必然性とは、それぞれ個別の存在である「二人の演者」の間に相互浸透性があること、であろう。
相互浸透性があって初めて、「一人」+「二人の関係」+「一人」となり、「1+1=2」以上の存在が生まれることになる。
そして、この相互浸透性を成立させるためのメディアが「オトのことば」なのである。
つまり、「ことばによる会話」があって初めて「二人の人間の相互浸透性」は成立するのだ。
この視点から言って、今回のM-1出場者の多くには「会話」が成立していなかった、と私は見たのである。
優勝した「マジカルラブリー」も、「おいでやすこが」も、二人の演者の間に「会話」は成立していない。もしくは「会話」を最初から拒んでいる。あくまで「ピン芸人」が舞台上に二人居る、に過ぎない。
ここで、私が、古いタイプの「しゃべくり漫才」だけを良しとしているのではない、ことは理解してもらいたい。
なぜなら、「会話」を成立させるためのメディアである「オトのことば」は、そもそもが「肺・喉・口」といった身体の諸器官を駆使して営まれる表現機能であるから、「オトのことば」以前の「身振り・手振り」や「顔の表情」や「身体の動き」そのものも、幅広い意味で「相互浸透性」を成立させるための手段であることは間違いないからである。
だからこそ、「オト」のない「パントマイム」も、「オト」の途切れた「間(ま)」も、笑いを産むことができるのである。
しかしながら、その無音の「マイム」も「間」も、「『オトのことば』を使った相互浸透性」があって初めて成立するものである、ということが重要なのである。
今年のM-1は漫才ではなく「一人芸」
繰り返しになるが、今回のM-1の出場者の多くには、この「会話による相互浸透性」を築こうとしている演者が少なかった、と思う。
だから、「マヂカルラブリー」の野田クリスタル氏が、どんなに懸命に「極端に揺れる電車内」の客の動きを演じていようと、「よう動くなぁ、オモロイ動きするなぁ」と感心はするものの私には笑えなかった。
「おいでやすこが」の「こがけん」氏が、途切れることなく歌い続けるのを聞いていても、「よう次から次へ色々な歌が続けられるなぁ」と感心はしても、「それでどうなるの」としか思えなかった。
当然と言えば当然なのだが、「演者二人の会話」が成立していない「漫才」では、演者の一人一人が自己の存在を主張することが目的となるため、一人で勝手に大きく動くか、一人で早口でがなり立てるか、になる。
それは「一人芸」である。
「二人でやる漫才」ではない。
「しゃべくり漫才」の形は取っていたが、「見取り図」も充分に「会話」は成立していなかった。
盛山晋太郎氏の、一方的な喚きに終始しており、「盛山+リリー」という二人の関係までは産み出すに至らなかった。だから笑えなかった。
「会話」を成り立たせようとしない「ことば」は弱い。
弱いから、声の大きさや速さという見せかけの武装をせざるを得ない、のだ。
かって「M1」を企画発案した島田紳助の意図は、「弱くなったお笑い芸人のことば」を鍛え直す場、を提供することであった。
「立川志らく」の論評について
一昨年の「上沼恵美子さん講評」を巡る後日談と、今年の「コロナ禍」の影響を受けてか、審査員は昨年とあえて同じ顔触れにしていた。
各審査員氏の講評は、視聴者や主催者や出場者に対してかなりの気遣いが見受けられ、いささか鋭さに欠けていたと思った。
わかりやすく言えば、「今年はレベルが低いから、講評は柔らかめにしておこう」という審査員諸氏の心根が透けて見えるようだったし、少なくとも審査員諸氏から見て自分の座を脅かすほどの脅威を感じる若手がいなかったことだけは確かである。
そんな中で、今回の審査員諸氏の講評で、立川志らく氏の談は傾聴に値する。
いわく、「漫才の闘いで、喜劇に票を入れていいのか葛藤した」の評である。
ここには、同じ「オトのことば」を使う笑芸である「落語」の領域から発せられた深い含蓄がある。
立川志らく氏は、他の所で「今の若手漫才師が仰ぎ見ているダウンタウンの漫才には、夢路いとし・喜美こいしが入っている」とも言っている。
さすがに正鵠を射た「笑論」である。
ダウンタウンの漫才は、決して派手に大きく動き廻るわけでもないし、早口や大声で怒鳴り立てるわけではない。
それどころか、どちらかと言えばゆっくりとしたしゃべりである。
それは、彼等の漫才が、先行する「紳助・竜介」や「ツービート」や「B&B」ら漫才ブームを牽引した早口・大声漫才に対してのアンチテーゼという意味合いを持っていたことにより、もう一世代前の「夢路いとし・喜美こいし」の漫才の精神を再生復活させた、という時代的な役割を担っていたということを意味しているからだ。
秋田實の漫才論
近代漫才の形を作ったと言われる秋田實がこう言っている。
「漫才は、日常の身近な話題をネタにして、健康で無邪気な笑いを産む芸能である」と。
ここには、進歩的なマルクス思想者から、庶民という一般民衆の日常生活に「本当のしあわせ」を見出そうとした人間の精神的な転回が隠されている。
一般民衆の日常生活とは「日常会話」の積み重ね、に他ならない。
「オトのことば」のやりとりの中にこそ、人間同士の「相互浸透性」は育まれ、「無邪気な笑いと幸せ」が生まれる、と秋田實は考えたのだろう、と私は思う。
やはり、2001年に「M-1」を立ち上げた時のように、審査員は「漫才」の世界からだけではなく「演劇」や「小説」や「落語」といった幅広い「言語表現」の世界から選んだ方が良い、と思う。
その方が、「漫才」という表現形式の本質を照射することができるだろう、と思うからである。
そして、受賞者ならびに決勝戦参加者への本当の評価は、これから一般の観客によって下されるのだろう。
「小説」と「漫才」と
かつて、第127回の直木賞の選考において、その時の審査員であった井上ひさしが、受賞作となった乙川優三郎の『生きる』を評してこう語ったことがある。
『これは、小説の勝利である』と。
その意味は、「文字」というメディアを使った「小説」という表現形式でしか成し得なかった「表現」への惜しみない賞賛であった。
「話すオトのことば」を使って、二人の人間が作り出す「漫才」という「表現形式」の力を、もう一度問い直す時が来ているのではないだろうか。
2020年の「M-1グランプリ」を見て、そんなことを感じたのであった。
「コロナ政治」の言語学――政治家のことば
豊かな「ことば」とは何か?
「自分の言いたいことがはっきり言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、聞き手も正しくそれを理解できる、そのような豊かな国語を創るため(後略)」(柳田国男 1961年「豊かな国語のために」より)
大学の今期の授業がすべて「オンライン授業」になって、いつもの数倍ほど手間ひまがかかり忙しくてブログもしばらくお休みしていたのですが、今回ばかりは「言語」に多少ともかかわる者として黙ってるわけにはいかない、と思い書くことにしました。
「37.5度以上の発熱が4日続く――目安ということが、相談とか、あるいは受診の一つの基準のようにとられた――我々からみれば誤解でありますけれど――」です。
テレビ報道でこれを聞いた私のとっさの突っこみは、
「おいおい、おっさん、何言うてんねん。それはないやろ!」でした。
一国の大臣の発言と、町の民衆の一人である私の感想と、この二つの「言葉の落差」にこそ、実は現代日本の「政治」と「生活」をめぐるとても大きくて重要な問題がはらまれている、と私は考えています。
加藤厚労相の「ことば」の誤解
根本的な問題は何か、というと、現代の日本の政治家の使う「言葉」は、大切なところがすべて「漢字語」であり、政治家の発言の多くは「漢字語を中心にして書かれた文を読んでいる」ということです。
これこそが、「日本の政治家の言葉」がわかりにくい理由であり、「日本の政治家の言葉」を弱くしている理由なのです。
上で取り上げた加藤厚労相の発言の「政治的な側面」はマスコミに出る政治評論家にまかせておいて、これを「言葉」の面から考えてみることの方が、より大切です。
「目安・相談・基準・誤解」など、漢字語で書くと、いかにも賢そうに偉そうに見えますし聞こえますが、それは決して本当に賢いことや偉いことを意味しません。
そもそも、漢字語はとても不正確な「言葉」なのです。
その意味するところが、とてもあいまいな「言葉」なのです。
そんな不正確な漢字語の意味を明瞭にしよう、と努力したり、漢字語を使ってでも、ぼんやりとした心の内や頭の中をはっきりとさせ、相手にしっかりと伝えよう、とするのが「文字を使う者」の誠実な営みのはずなのですが。
なかには、その不正確さを利用して、人をだましたり、煙に巻こうという人間が現われるのです。
加藤厚労相は、残念ながらその典型だと言わざるを得ません。
「書き言葉」に通じていて、「書き言葉」の修練を重ねることによって社会的高位置を獲得した「官僚」や「官僚上がりの政治家」は、「書き言葉」の特性をよく知っています。
加藤厚労相も、もともとは大蔵省の官僚です。
きっと、自分の優秀な「書き言葉・言語力」をもってしたら、一般民衆など簡単に言いくるめられる、と思ったのでしょう。
あえて意味の不正確な「目安・相談・基準」という漢字語を連ねておいて、「だから、みなさんが誤解したんだ」と言い逃れることができる、と考えたのでしょう。
そして、それはある程度は通用しました。
当日の記者会見に立ち会っていた、新聞やテレビなどの大手マスコミの記者たちは、目の前で発言された「言葉」に対して、突っこみを入れることをしなかった、からです。
それは、彼らもまた、加藤厚労相と同じく「漢字語の書き言葉」によって社会的高位置を獲得してきた人間だからだと僕は思います。
それに対して、町の一般民衆は、身近な「生活ことば」の地平から、
「おいおい、おっさん、それはないやろ。わしら、みな、37.5度で4日間、で動いてきたで。医療の現場の人間もそうやで」
と言ったのです。
かつては一般民衆は社会に対して発言する機会を持たない「情報下層者」だったのですが、現在はインターネット、SNSという発信機会を持っています。
また、「書き言葉」によって立身出世をしたわけではない「テレビタレント」たちが、一般民衆の「生活ことば」の反応をすくい上げたのです。
「漢字語の書き言葉」と「身近な生活ことば」と。
人間の使う「言語」として、どちらの「ことば」が強いか!
明らかです。
読書の中から得た「漢字語の書き言葉」より、暮らしの中で得た「生活ことば」の方が強い、のです。
ここに、「言語の本質」があります。
現代日本の政治家の「ことば」
さて、「漢字語で語る」のは加藤厚労相だけではありません。
「コロナ問題担当大臣」となった西村経済再生相もまた、「34県の多くは解除が視野に入ってくる」などと言います。
どんな日本語なんでしょう。
ふつうの日本語で言えば、「縛りを解くことを考えてもよい」ですよね。
なぜ、わざわざわかりにくい「漢字語」を連ねるのでしょう。
その方が、何だか偉そうに聞こえるし、賢そうに聞こえるからですよね。
西村経済再生相もまた、経済産業省の官僚から政治家になった人です。
また、与野党の政治家たちが、
「スピード感の欠如」などと言います。
どうして、「おそい」や「おそすぎる」ではいけないのでしょうか。
「すばやく」や「もっと早く」ではいけないのでしょうか。
その方が、だれにでもわかる日本語です。
政治家の使うような日本語をこども達に教えてはいけません。
こういう「言葉」が、日本の政治を私たちの「暮らし」から遠ざけてきたのです。
民衆がふだんの「暮らし」の中では使わないような「賢こそうな言葉」で政治を語ろう、とする意識とは、それによって自分を言語的な優位者に持ちあげようとする偽エリートの考えです。
安倍首相にしても同様です。
「9月入学問題に関しては、前広に検討したい」
この数十年間で私は初めて「まえびろ」という日本語を聞きました。
無理やり漢字語風にしたら、何だかもっともらしく聞こえるだろう、と思っている官僚が書いた用語を読んでいるのが明らかな答弁です。
また、
「学生支援に関して――速やかな対策を講じていって、ご判断をいただく」
おそらく「専門家会議にご判断いただく」と読みたかったのでしょうが、思わず「えっ、判断するのはあなたでしょう」と突っこみました。
他にも、ひんぱんに出てくる「ことば」に、「認識しているところでございます」や「承知しているところでございます」などがあります。
誰も、家庭の中や、親しい友達との会話の中で、こんな「ことば」は絶対に使いません。
ここにも「言語の本質」の捕らえ間違い、が表れています。
「読む」と「しゃべる」は違うのです!
「しゃべる」と「読む」の違い
ヒトは、身体や頭の中にある「ことば」しか「しゃべる」ことはできません。
しかし、身体や頭の中にない「言葉」でも「読む」ことはできるのです。
「文字」は、ヒトの身体の外にあるもの、だからです。
今回の「コロナ事態」で、世界の政治家と日本の政治家が大きく違うところがはっきりと見えました。
世界各国の政治家は、「しゃべっている」のです。
日本の政治家は「読んでいる」のです。
だから、あらかじめ質問書として提出された質問に対して、あらかじめ用意された「文章」だけしか答弁できないのです。
野党議員のほうも、そのほとんどは質問書を読んでいます。
だから、蓮舫議員のように、「質問文章」から外れて「しゃべってしまった」時には、「大学生、このまま授業料が払えなくてやめたら高卒ですよ」などという偽エリートの本心が表れてしまいます。
政治家のこのような「言葉」は弱くて、聞いている民衆の身体と心には届かないのです。
吉村・大阪府知事が、一般民衆から高い評価を受けている最大の理由は、彼が「読んでいる」のではなく、「しゃべっている」から、だと私は考えています。
それは「政策の内容」とは別の次元の「ことば」の次元の話、です。
安倍首相や、西村大臣や加藤大臣と比べてみたら一目瞭然です。
吉村知事は、会見の時や、テレビ番組に出演した時に、ほとんど目の前にスピーチ原稿を置いていません。数字の資料メモは持つことがあっても、カメラに向かってしゃべっています。
頭の中から出てくる「ことば」でしゃべっています。
それだけ、数値や医療用語を頭の中にしっかりと入れているのだ、ということが見て取れます。
「知識の言葉」ではなく「暮らしのことば」で
一般民衆というものは、その日その日を「しゃべって」懸命に生きている人間なので、どのような「ことば」が自分の暮らしにとって大切なものなのかを、身体で見極めるのです。
「知識の言葉」ではなく、「暮らしのことば」で、ヒトは生きているのです。
もう一つ。
ふだんの暮らしの中では使わないような「難しい漢字語」を使うことで、自分の知的な優位性を誇示しようと思う小汚い心根は、「漢字語」ではダメだと思ったら、次には「カタカナ外来語」をもってきてその優位性を誇示しようと企みます。
「ガバナンス」や「コンプライアンス」や「ダイバーシティ」や「サスティナビリティ」といった類の「言葉」です。
今回の「コロナ事態」でも、やはりそれが表れてきました。
「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」
始めは専門用語だったのでしょうが、いつのまにかそれを使うことが知的な特権階級の証のようになってきました。
そして、本来はそういった「言葉」を民衆にわかりやすく翻訳することが役目だったはずのマスコミもそこに加担するようになりました。
この視点から考えると、小池・東京都知事は「難しい漢字語」や「新奇なカタカナ外来語」を使うことによって自分の優位性を誇示しようとする「古いタイプの政治家」だと言えます。
「私は出口戦略という言葉を使いません。その代わりロードマップをお示しします」
決して「出口戦略」という言葉が最適だとは思いませんが、民衆の多くがその言葉に共通したイメージを抱くことができるようになったのなら、その言葉を使って多くの人のイメージ喚起力をまとめるのが良い「民衆政治家」だと思います。
使う「ことば」によって、政治的なヘゲモニー(主導性)をにぎろうとするのは、姑息な権力主義者の考えです。
「自分の言いたいことがはっきりと言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、聞き手も正しくそれを理解できる」ような「身近な生活のことば」で語ってこそ、「政治」は本当に私たち一般民衆のものになるのだと思います。
柳田国男は、
「日本語を『漢語』だらけにして、本来の豊かな表現力を失わせたのは『明治維新を引っ張った書生たち』である」と言いました。
また、
「うわべばかりのことばを雄弁に唱えるものがばっこする機会を作っている」とも言いました(「国語教育の古さと新しさ」1953年)。
「M-1」2019所感――「関西弁」が強いのではなく、「生活ことば」が強いのです!!
「漫才・頂上決戦」と銘打って、すっかり年末の風物詩となった「M-1」ですが、今回は決勝初出場の「ミルクボーイ」が優勝するという思わぬ展開で盛り上がって幕を閉じました。
さて、一昨年2018年版の時は、番組終了後の場外で予期せぬ「SNS乱闘」があったので、テレビ番組「M-1」を立ち上げたプロデューサーとして早い時点で所感をブログに上げたのですが、今回はあえてお正月番組などの熱気が落ち着いた時点で、私なりの所感を述べることにします。
そして、この所感の中には、もう時効だから話しても良いだろうと思う「M-1制作秘話」と、最近読んだ集英社新書『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(著者:ナイツ・塙宣之)に対する私なりの批評、ならびに小学館新書『芸人と影』(著者:ビートたけし)への書評が含まれていることを、あらかじめお断りしておきます。
2000年代の「M-1」と2015年からの「M-1」
現在の「M-1」の位置
2001年に始めたM-1ですが、20年も続くとその存在意義が変質してしまうのは、ある意味で仕方ないことだとは思います。
現在の「M-1」は、「4分間の競技漫才グランプリ」です。
それはそれで価値のあるテレビ番組だと思います。
今やM-1は、「漫才の頂上決戦」としての全国規模のイベントになり、テレビ番組としては高い視聴率を取れるキラーコンテンツとなりました。
優勝者には1000万円という破格の賞金が与えられ、多くのテレビ番組への出演機会が与えられるので、多くの漫才師たちにとって「金」と「名声」を得るための「夢」となっています。
つまり、今や、「M-1で優勝すること」が参加者たちの目的となっている訳です。
しかし、そもそもM-1の企画意図はそうではありませんでした。
最初の企画意図――芸人の武器を磨く場を作る
2000年に、ABC朝日放送のテレビ楽屋で島田紳助さんと初めてM-1についての話をした時の彼の発言は、
「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」
「芸人の武器は『ことば』しかありません。武器を磨くためには『戦いの場』が必要なんですわ」でした。
私は、この発言に賛同したのです。
私なりの解釈では、そこに1980年代の「漫才ブーム」を牽引してきた島田紳助という漫才師ならではの「言語思想観」がある、と思ったからです。
「漫才ブーム」とそれに続く「お笑いブーム」の結果、既に2000年の時点ではたくさんのお笑い芸人たちがテレビタレントとしての活躍の場を占めていました。
多くの若者たちは、「金」を稼ぐために、「有名」になりたいために、「お笑い芸人」を目指すようになっていました。
そんな風潮を作りだしたのは、私が働いていたテレビ業界です。
しかし、紳助さんは、そのように「お笑い芸人」が一般的な社会上昇の仕組みにからめとられてきてしまっていること、あたかもてっとりばやい就職口であるかのような風潮になっていることは、根本的に間違っている、と思っていたのだと推測します。
このことは、ビートたけしさんが小学館新書『芸人と影』でも書いているように、「芸人は、社会の底辺なんだ。世の中から落ちこぼれた人間で、夢見られるようなものや憧れられるようなもんではないんだ。」という認識と共通しています。
もう一つ、紳助さんがよく言っていたセリフに、
「お笑い芸人は、いつも何かと闘うてないとあかんのです」があります。
ここで「何か」とは、決して同僚の漫才師たちやお笑い芸人たちのみを意味してはいません。
「何か」とは、私たち民衆が日々の暮らしの中に持ちこまされている「社会規範」や「倫理観」や「道徳観」のことをも含んでいるのです。
本来、お笑い芸人という者は、一般社会の価値規範からは外れたところに生きていて、その位置から「世間の人を笑わせ」て金を稼いでいる者、のことです。
つまり、ビートたけしさんも言うように「お笑い芸人」とは本質的に「反・社会的、非・社会的」な存在なのです。
そして、そんな「お笑い芸人」の唯一の武器が「ことば」なのです。
第一回目「M-1」の成立過程~制作秘話~
島田紳助さんの企画意図に賛同したのは、私(当時、朝日放送制作部長)と私の上司であった和田省一氏(当時、朝日放送編成制作局長・常務)、そして吉本興業内部では谷良一プロデューサーとその上司である木村政雄氏(当時、吉本興業常務)でした。
この4人は、紳助さんとの付き合いも長く、彼の発言の真意をそれぞれが理解していたからです。
さて、ここからは、制作秘話になります。
今やM-1が押しも押されぬキラーコンテンツになったこともあり、多くの関係者も現役を引退しているので「時効」だと許してもらえるだろうと思い、これまで表に出さなかったことを書きます。
そのことによって、M-1を巡る様々な言説の不明な点が明らかになる、と考えるからです。
「M-1」を朝日放送が作る理由
私が勤務していた朝日放送は大阪にあります。
ANN朝日ネットワークは、東京のテレビ朝日(全国朝日放送)をキー局としています。
当然のことながら、全国ネットのテレビ番組を作って放送するには、東京のキー局で制作して放送する方が予算的にも宣伝的にも波及力の点からしても有利です。
また、吉本興業の1980年以降の東京各局との仕事上の付き合いから考えれば、フジテレビが最も深いという事情もありました。
そこで、私たちは、「最終的には朝日放送が必ず番組化するから」との約束をした上で、それぞれ会社員としての筋を通す道を取りました。
まず、吉本興業からはフジテレビに、朝日放送からはテレビ朝日に、「M-1」の企画意図と紳助さんの発言を伝えてテレビ番組化を打診したのです。
その結果、返ってきたことばは、「今さら、漫才のグランプリを決める番組なんて」でした。
おそらく打診を受けた両社の当事者にとっては、「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」という紳助さんの意味するところが正確には理解できなかったのだ、と思います。
こうして、私は「待ってました!」とばかりに、吉本興業の谷プロデューサーとタッグを組んでテレビ番組「M-1」の実現化へと向かったのです。
朝日放送テレビ制作局と吉本興業制作部との全面的な協力体制で進めました。
全国展開する予選の場所を選ぶにあたっての谷プロデューサーの努力は、並み大抵ではありませんでした。
日本全国に予選のできる場所を持っている企業ということで、「オートバックス」さんの協力を得られたことがアイデア具現化への大きな一歩となりました。
始まって数回の「M-1一次予選」は、各地のオートバックス店舗の店先広場だったのです。
山積みされたタイヤの前での予選風景を覚えていらっしゃる方もいるでしょう。
朝日放送としては、まずは「賞金1000万円」を含む製作費や放送枠を設定するための社内各部署への説明と説得をする難儀な会議を繰り返しました。
そして、出場資格者として、吉本興業だけではなく全ての芸能事務所に門戸を開くこと、すべての漫才師にチャンスを与えること、を宣言しました。
ちなみに、朝日放送は大阪にありますので、東京で番組制作をする際にはどこかのテレビスタジオを借りなければいけないのですが、当初はキー局テレビ朝日はスタジオを貸してくれませんでした。
1回目は世田谷にあるレモンスタジオ、2回目~4回目は有明スタジオから放送しました。
テレビ朝日が局内のスタジオを貸してくれるようになったのは、M-1が高い人気を得て定着した第5回目からです。
東京キー局と大阪準キー局との関係は、通常のニュース情報の集積や番組配信においては基本的には協力関係にあるのですが、このようにソフト制作においては競合関係でもあるのです。
塙宣之の誤謬1――『言い訳』の間違い
制作秘話に属することを書いたことで、なぜ「M-1」が東京のキー局での制作ではなく、大阪にあるABC朝日放送の制作するテレビ番組になったのか、がわかっていただけたと思います。
そして、ナイツ・塙さんが『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』で書かれた、
「そもそもM-1は吉本がお金を出し、吉本が立ち上げたイベントです。いわば、吉本が所属芸人のために設えた発表会なのです。」(同書・110P)
というのは、まったくの事実誤認であることがわかっていただけたと思います。
「M-1」は、朝日放送と吉本興業が力を合わせて、島田紳助という希代のお笑い芸人が考えたことを現実化させようとして作ったテレビ番組なのです。
なぜ「出場資格は結成10年以内」だったのか
さて、当初の「出場資格はコンビ結成10年以内」はなぜそうしたか、について。
その理由は、M-1が意図したものが「弱くなった『お笑い芸人のことば』を強くする」ことであり、「お笑い芸人の本来的な有り様」を認識してもらうことにあったからです。
つまり、「お笑い芸人」なんてものは決して「夢みるもの」や「憧れの対象」なんてものでなく、一般社会とは全く異なる物差しでしか計れない異質の社会だから、そこに勘違いして入ってきた若者に対して、10年経って芽が出ないなら早く気付いて正業の社会に帰って欲しい、間違えた「夢」からは早く醒めて欲しい、と考えたからです。
これが「参加資格10年」の理由です。
この点からしても、2015年以降に再開した「第二次M-1」では「参加資格15年」であり、当初とは異なる「漫才コンテスト」に変質したことがわかると思います。
審査員の設定
さて、漫才は「話しことば」を使う笑芸です。
M-1の設立意図は、「お笑い芸人の『ことば』を強くする」でしたから、単に「漫才のおもしろさ」のみを評価するだけではなく、漫才を成り立たせる前提となる「ことば」について評価軸を持っている人を審査員にしよう、と私たちは考えました。
その現れとして、劇作家であり演出家でもある鴻上尚史さんや、落語家の春風亭小朝さんや、番組構成作家から小説家になった青島幸男さん、といった方々に審査員を依頼したのです。
もちろん、笑芸ですから「おもしろく」てたくさん笑わせてくれる方が良いのは当然なので、ネタの選び方や話の構成力や展開のさせかたといった技量も大きな要素ではあります。
その視点からの審査員としてはベテラン漫才師が適格な訳ですから、当初は西川きよしさんに、後にはオール巨人さんに審査員を勤めていただきました。
この点、ここ数年の審査員の多くがベテラン漫才師である、というのは設立当初の意図からは大きく変わってきていると思います。
漫才師さんは、当然のごとく「ネタ」や「話のころがし」や「ボケ・ツッコミ」といった技量を重視し、「おもしろい漫才」「受けの大きな漫才」に高い得点をつけるでしょうから。
この結果として、最近の「M-1」は、「壮大にして空虚な漫才グランプリ」になってきているのではないか、と私は少し残念に感じています。
ただしこれは、審査員諸氏の責任ではなくて、番組を作っている制作者たちの意図の問題です。
もっとも、最初に書いたように、どんな事象も歳月を経るうちに変質してしまうのは仕方のないことではありますが。
松本人志さんと上沼恵美子さんの意義
そんな中で、M-1当初の紳助さんの意図していた部分を今も引き継いでくれているのは、松本人志さんと上沼恵美子さんだと私は見ています。
松本人志さんは、ある意味で島田紳助さんの「言語思想」の正統な継承者です。
その「言語思想」とは、「標準化されない生活ことばで笑いを産む!」です。
80年代の「漫才ブーム」において、「ツービート」や「紳助・竜介」が闘った相手は、しっかりと構成された台本に基づいて丹念に練習された「構築された話芸」でした。
それに対抗するために新参者の彼らが意識的に選び取った武器が、「未熟な若者の生活ことば」だったのです。
しかし、その時代において既成の先輩漫才師たちと闘うためには「新しいことば」という武器だけでは不十分であり、それをブンブン振り回す「しゃべりの猛烈なスピード」というテクニックまでもが必要だったのです。
「漫才ブーム」の先駆者であった「B&B」「ツービート」「紳助・竜介」の「猛烈なスピードのしゃべくり」は、いわばあの時代に闘うための時代的要請とも言える戦法だったのです。
そして、10年後、NSC1期生として現れた松本人志さんは、先輩たる紳助さんの「言語思想」を正しく受け止めながらも、「猛烈なスピード」という戦法とは違う「ゆっくりとした日常会話」という新たな戦法で登場したのです。
紳助さんが松本さんを見て、「あのスピードであの中味をやられたらかなわん、俺らの漫才の時代は終わった」と言ったという伝説は、こうして理解することができるのです。
そして、上沼恵美子さん。
一昨年のM1終了後に起こったSNS問題の際にも書きましたが、読み違えていけないのは彼女が天才女流漫才師と言われた「海原千里さんの熟年後の現在形」ではなく、「主婦・上沼恵美子というお笑いタレント」であるということです。
彼女は、結婚していったん引退した後、再び「主婦・上沼恵美子」として再登場しました。
その時、彼女が武器とした「ことば」は、「関西のオバちゃんの生活ことば」だったのです。
一見、社会規範などで標準化を余儀なくされているかに見える「主婦の生活」の中にある「標準化されない生活」を語るには、「標準化されないことば」が最適なんだということを自覚して再登場したところが、上沼恵美子さんの凄いところなのです。
今回の審査においても、「かまいたち」の講評をした際に、「腕上げたなぁ、あんたらフリートークできるわぁ」というコメントがありました。
「フリートーク」とは、作り上げられた「ネタ」を披露するしゃべりではなく、日常会話の延長上にしか成立しないものであることがとても良くわかっており、彼女が「ことば」についてのしっかりとした見識を持っていることの証左です。
こういった審査員の本質的な力量を見抜けないで、「M-1で優勝すること」のみを目的として登場する漫才師の何人かが、「好き嫌いで点数付けられたらかなわん。更年期障害やで」などと全く見当違いの場外発言をしてしまうのです。
芸人の武器はことばである
塙宣之の誤謬2――「関西弁が強い」のはなく「生活ことばが強い」
さて、集英社新書『言い訳』でナイツ・塙宣之さんは、「関東芸人はM-1で勝てないと思っている」と言い、その理由として「漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできている」と書いています。
そして、自分たちの漫才の「ことば」は「現在の関東の日常言葉であり、感情を乗せにくい。漫才に不向きなのでは」と書いています。
だから、「ヤホー漫才のように気持ちを入れない機械的な漫才に行きついた」と。
残念ながら、ここには「ことば」についての基本的な考え違いがある、と私は思います。
塙さんが、舞台の上でしゃべっている「ことば」は、塙さんが「人間として家庭生活で使っている生活ことば」ではなくて、漫才師として「職業用に使っている不自然なことば」だから弱いのです。
その「標準化された弱いことば」でおもしろいことをしゃべろうとするから、すべてを「ネタ、ネタ、ネタ」に作り上げるしかなくなるのです。
無理な「キャラ設定」をもしなくてはならなくなるのです。
こんなに不自然でしんどい言語生活はない、と思います。
「現在の関東の日常言葉」であっても、電車の中で交わされている若い女の子たちの「いやぁ、今年もクリぼっち、サミシマス。空から素敵な彼ピ、降ってこないかぁ、ぴぇん」なんて自然な会話は、感情の溢れるとても活き活きとした「ことば」です。
塙さんはこうも書いています。
「今でも佐賀弁は話せますし、感情移入しやすい部分もあります。ただ、現実問題として今さら僕が佐賀弁で漫才を始めるのも不自然ですし、僕が佐賀弁、土屋が東京言葉というのも明らかにおかしいでしょう。」と。
そんなことはありません。
佐賀で生まれ育った人間が東京に出て行ったのなら、「佐賀弁なまりの混じった東京ことば」でしゃべるのが最も自然なことは明らかです。
それでこそ初めて、「塙宣之」さんという人間にしか使えない「生活ことば」が表れ、「塙宣之さん」という生身の人間味が現れるのではないでしょうか。
「東京言葉が弱い」のではなく、「不自然に標準化されたことばが弱い」のです。
ビートたけしさんの「ことば」は「江戸下町弁」だから強いのではなく、「ビートたけし弁」だからいまだに強いのです。
島田紳助さんは、「島田紳助弁」を駆使することによって、やすし・きよしに代表されていた「ネタ構築漫才」を打破しました。
明石家さんまさんは「明石家さんま弁」によって、恋愛や若者風俗や世相に潜む「標準の不自然さ」をあぶり出してきました。
(このあたりについては、拙著『お笑い芸人の言語学』に詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください)
そして、松本人志さんは世代を超えて、先輩諸氏の「ことばについての考え」を継承発展させたのです。
おそらく松本さんが今後目指しているところは、「日常のおもしろさ」を「日常の生活ことば」で語って笑いにすること、更には「日常生活そのもの」を「笑える」ほどオモシロイことにすることではないか、と私は見ています。
芸人とことば
さて、これは塙さんが『言い訳』にも書いていらっしゃるように、「ことば」は意味伝達のための道具でなく、その前提として情緒・気持ちの交換という機能があり、人類ホモサピエンスがいつのまにか身につけた力です。
いわば「ことば」は、その人ならではの人生を物語る「存在の表象」なのです。
同時に、「ことば」は制度でもあります。
最も意識されにくい社会制度なのです。
私たちが、意識しないで、あるいは少し意識してしゃべっている「ことば」の奥には、その人が生きている社会の「規範」や「倫理」や「道徳」が深く深く潜んでいます。
そして、「お笑い芸人」とは、一般民衆が気づかないうちに絡め取られている「規範」や「倫理」や「道徳」を笑いによって価値紊乱させることのできる稀有な存在なのです。
ちなみに、私はナイツの漫才が嫌いな訳ではありません。
色々なスタイルの漫才や笑芸があっていいし、「弱いことば」であることを自覚した上で、「ネタ」を構築し磨きあげて「笑い」を産み出そうとしているナイツの話芸には、感嘆しながらいつも笑わされています。
「M-1優勝」は到達点ではない
M-1は、「漫才」という1つの笑芸の形式での「闘い」を通して、私たちの人生の最大の武器である「ことば」についての新たな気づきをもたらしてくれる好機なのです。
ネタやテクニックという技量をも競いながら、漫才師たちが自分の唯一の武器である「ことば」について、何かを発見したり、何かの自覚を得られればいい、と思って始めたつもりです。
ですから、「M1優勝」は決して到達点ではありません。
次の段階への出発点であって欲しい、と思っています。
昨年暮れの12月22日に、「M-1グランプリ2019」のOAが終わった後、テレビでは引き続いて「テレビ千鳥年末SP」が流れてきました。
大悟とノブが、とても自然に「岡山弁なまりの関西弁」で楽しく料理を作っていました。
私は、M-1以上に楽しく笑いながら見ました。
「千鳥」の二人も、M-1で優勝したコンビではありません。しかし、二人はM-1への出場をきっかけに何かをつかんだのだと思います。
M-1に優勝したけれどもその後にはあまり活躍していない人、逆にM-1に優勝はしなかったけれどもその後に大きく飛躍した人、色んな人たちがいます。
私たちが作り出した「闘いの場」は、「M-1~4分間の競技漫才グランプリ」というテレビ番組へと変質してしまいましたが、やはり最初に意図したものが何がしかの役には立っているのかなと、少し嬉しくなりました。
そして、願わくは、茨城弁なまりや山形弁なまりや東北弁なまりの「東京弁」など、もっと「活き活きとして自然な日本語」がテレビの中や一般社会の中で堂々と話されるようになって欲しいものだと思っています。
150年に及ぶ「日本の近代化」は、社会のあらゆる局面に「東京一極集中」をもたらしました。
そろそろ、私たちは歪んだ「一極集中」から卒業する時に来ているのではないでしょうか。
そして、「心の地方分権」は、まずは「生活のことば」からではないのかな、と私は思うのです。
2019年の「M-1」を見て感じたこと、それは言語の本質としての「話されるオトのことば」というものの面白さと、それを使った「漫才」という芸能の素晴らしさ、なのでありました。
台風19号の情報をテレビは事前にどれだけ伝えたか
大きな被害をもたらした台風19号。
今夜16日(水)も、民放の各テレビでは11時台のニュースで、その被害状況を伝えている。
しかし、その報道姿勢は果たして「公器」として適正なものだろうか。
そんな疑問を抱いていたところ、メディア・コンサルタントの境治さんが、「通常編成を飛ばして、台風を伝え続けたNHK」との論稿をブログに上げてくださった。
一読して、「そのとおり」と思い、触発された私の考えを書く。
12,13日の台風情報
まず、私は12日(土)朝から13日(日)の夜にかけて、ほとんどテレビをつけっぱなしで台風情報を見ていた。
それは私が大阪に住んでいるにもかかわらず、今回の台風が並みはずれて規模が大きくて、近畿にもその影響が少なからずはあるだろう、と予測していたからであり、去年の台風では2日間にわたっての停電を経験していたからであり、更にはさかのぼって1995年の「阪神淡路大震災」をテレビマンとして伝えた体験があるからである。
で、12日、13日の2日間テレビを見ていたのだが、まともに台風情報を伝えてくれていたのはNHKだけだった。途中で何回もチャンネルを回してみたが、民放テレビは既存のニュース枠と報道番組枠では台風情報を流していたが、それ以外はほとんどが通常編成のバラエティやスポーツ番組をやっていた。
この間の、「台風情報」に費やされた時間配分を、境治さんの論稿は明確に図表であらわしてくれている。それを見て、「あぁ、やっぱりそうだったんだ」と納得した。
境さんの解析によれば、NHKは12日(土)の朝から13日(日)の20時にかけて、「通常編成を飛ばして、台風を伝えつづけていた」のである。
民放の中では、テレビ朝日とTBSがある程度の時間を割いていて、日本テレビとフジは少なく、テレビ東京はほとんど伝えていなかった。
やはり、というか、さすが、というか、NHKはなんだかんだと言っても「電波は公共の財産」であり、「放送は公益に資するためのもの」という電波使用の原則をよく理解している電波事業者だと改めて思った。
気象庁の情報発表を十分に報道しないメディア
そもそも気象庁が、10月9日から「特別な大きさの台風」とか、「これまでに経験したことのないような大雨」という異例の表現情報を流し続けてくれていたのである。
それを受けてNHKは、「まだ風や雨がひどくならない金曜日までに準備を」との情報を、数日前から伝え続けた。
ネット上でもネットユーザーらが気象庁の発表より前から大型台風発生の可能性を指摘していた。
それに対して、民放のテレビ局はどれだけの情報を国民に伝えたであろうか。
台風が最も接近した12日(土)の夜のゴールデンタイムにおいても、民放は通常のバラエティやドラマやスポーツ番組を放送し、申し訳程度のL字画面で台風情報を流していた。
電波は国民共有の財産である
営利企業である民間放送といえども、テレビ局の事業は「国民共有の財産である電波」を特権的に使うことを許された免許事業者である。
放送は、あくまで「公共の利益に資するため」と放送法にも明記されている。
こんな、「未曾有の天災」が予測される時こそ、テレビは「国民のための電波使用」という大原則の精神を発揮すべきではなかったのか。
それなのに、である。
台風が去って、大きな被害が明らかになってきた後で、民放テレビはその被害状況をこれでもかこれでもか、と伝える。
もちろん、被害を報道することにも意味はある。
それは、次なる事態に備えてであり、次の被害を少なくするためであろう。
しかし、被害状況にあれだけの人員や機材を投入するなら、なぜ事前にもっと大切で緊急な情報を伝えることに力を注がないのだろうか。
歴史にIF(イフ・もしも)はないが、これまでにないほど大きな台風が襲来する直前の12日に民放テレビの各局が、通常番組を飛ばしてその迫りくる台風情報を伝えてくれていたら、視聴者の避難行動を促して今回の被害のいくらかは防ぐことができたのではないだろうか。
被災を娯楽のように消費するテレビメディア
そして、昨日今日の民放テレビのニュース番組や情報番組では、あいもかわらず被災者に対して、「今のお気持ちはいかがですか」と、神妙な顔をしながら無遠慮に質問する記者やアナウンサーが居る。
映像は、刺激的な画像を切り取ってくりかえし、おどろおどろしいBGMまで付けている。
それは、「世界仰天ニュース」を作っている表現姿勢と同じ心根である。
現在の日本の民放テレビは、残念ながら「災害」を「他人事の情報」として消費している、と言わざるをえない。
さらに、言い訳のように「寄付の呼びかけ」を行っている。
それを言うくらいなら、民放テレビ局は、12日13日に通常放送をして得た収益(一日平均で5億~7億)をこそ率先して寄付してしかるべきだろう。
現在の日本の民放テレビは、あの「阪神・淡路大震災」からも、「3・11東日本大震災」からも、何事も学んではいない。
すべての民放の経営者は、社長から編成担当取締役から編成局長・報道局長に至るまで、もう一度「放送のあり方」を自問すべきである。
日本人の「テレビ離れ」を招いているのは「テレビ局自体」である、と私は思う。