吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

私から見た『M-1グランプリ』創設をめぐる事実――後編

2001年12月25日に放送された、第1回『M-1グランプリ』の「審査員の選定」についての経緯を私から見た事実として記します。

【番組制作についての責任と権限の所在】

谷氏は『M-1はじめました。』において、11月のある日ある時に朝日放送テレビ制作部長であった私が吉本興業の谷氏を朝日放送局舎に呼び出して、複数の社員が取り囲む空間で「審査員選定作業が遅れていること」を叱責した、と書いています。

裁判での主張書面で、私は、このような出来事はなかったし、あり得ないと主張しました。

その根拠は明白です。

谷氏に「審査員を選定する」最終的な権限がなかったからです。

権限のない作業チームメンバーの一人である谷氏を呼んで叱責する意味がないからです。

テレビ番組「M-1グランプリ」を制作する現場責任者は、私の部下であって朝日放送テレビ制作部員であった市川憲寿氏(2013年に54歳で早逝)でした。

市川氏がチーフプロデューサーという立場で番組内容に権限と責任を有していたのです。

市川氏を中心に、番組企画部から山村啓介氏と栗田正和氏が補佐プロデューサーとして加わり、吉本興業から谷氏が加わっての4人が作業チームの主要メンバーでした。

もし私が「審査員選定作業の遅れ」を叱責する必要があるなら、目の前のデスクに座っている朝日放送テレビ制作部員の市川氏を叱責するはずです。

 

谷氏の記述では、審査員の選定作業のみならず、テレビ番組「M-1グランプリ」の制作に関してもすべて谷氏が権限と責任を有していたかのように書かれています。

それは事実誤認です。こう言える理由も明快です。

谷氏は吉本興業という一興業会社の社員であって、放送局の社員ではないからです。

 

【テレビ局は公共の電波を使う責任を持つ】

テレビ番組を放送するには「電波」を使うのですが、「電波」は国民共有の公共財であり、それゆえに政府総務省から許認可を得た放送事業者しか扱えないことに法律で定められています。

つまり、2001年8月6日の朝日放送社内での機関会議決定以降は、テレビ番組「M-1グランプリ」は私が部長を務める朝日放送テレビ制作部が責任部署として制作責任を持ち、テレビ制作部員である市川寿憲氏がチーフプロデューサーとして番組制作の現場責任と権限を持って進めた、というのが厳然たる事実なのです。

M-1」全体を大きなピラミッドとして考えると、谷氏は紳助氏の発案を「イベントM-1」として土台構築するについては大きな尽力をされましたが、最上階部分の「テレビ番組・M-1グランプリ」を構築するには朝日放送が制作責任と放送責任を担ったのです。

この、番組制作を巡る責任と権限の所在についての「事実認識の相違」が最もよく現れたのが「審査員の選定」に関してです。

 

【審査員選定の思想的根拠】

谷氏はテレビ番組『M1グランプリ』を、「漫才プロジェクト」の一環、もしくは「漫才プロジェクト」そのものとして捉えていたことを繰り返し述べています。

「漫才プロジェクト」とは吉本興業の社内で谷氏が木村政雄制作部長から命じられた業務で、「衰退している漫才を復興させること」だったそうです。

つまり、「漫才」や「落語」や「漫談」や「コント」や「喜劇」などたくさんある「笑芸能」の中で、とりわけ「漫才」というジャンルを活性化させることを目的とした企画だった、と理解できます。

しかし、「漫才プロジェクト」なる企画は吉本興業社内の業務であり、私や市川氏が属していた朝日放送としてはあずかり知らぬものでした。

 

「漫才の復興」を目的としていた谷氏は、「M-1グランプリ」の審査員選定の基準を、「漫才のことを知り尽くしている人」(67p)「漫才やお笑いの経験者、笑いに関係している人だけにする」(68P)と設定した、と述べています。

しかしながら結果的事実として、「M1グランプリ」第1回の審査員は、漫才経験者から島田紳助松本人志西川きよしの3人、落語界から春風亭小朝、コント・演劇界からラサール石井、演劇界から鴻上尚史放送作家・小説界から青島幸男、の7人でした。

明らかに谷氏が設定した選定基準とは違っています。

その理由は、審査員の選定に関しては番組制作責任者である私と現場責任者である市川プロデューサーが、紳助氏の「M-1着想の思想的根源」にまで遡って考えて「審査員選定の基準」を決めたからです。

 

【紳助氏の「M-1グランプリ」着想に至る思想的な背景】

私は、番組収録のために隔週の月曜日に朝日放送に来ていた島田紳助氏と、収録の前後にスタジオ棟のa控室で雑談するのを常としていました。

それは出演タレントと制作部長という役割を超えて、1974年にこの業界に入った同期生としての間柄と、紳助氏にとって初めてのテレビ番組司会役や東京進出時の番組担当プロデューサーを務めたという間柄を通しての長い交友関係から来るつながりから生まれた慣わしでした。

そして、2001年の1月の終わりから2月初め頃、紳助氏は私に

「誠さん、近頃のお笑い芸人たちは『ことば』が弱なってる、思うんです。そう思いませんか。あいつらは闘いよらん。俺らや先輩たちが切り開いた平坦な道しか歩きよらん。」

お笑い芸人の武器は『ことば』しかないんですよね。武器は磨かな錆びてしまう。武器を磨くには闘いしかないんですわ。やっぱ、真剣な闘いの場みたいなんが要るんですかねぇ。」と話しかけてきました。

そのとき私は「うーん、そうやなぁ」と軽く返しただけでしたが、これ以降何度もそんな会話を繰り返すことになりました。

 

この発言にこそ、島田紳助という希代の優れたお笑い芸人の「お笑い芸人観」と「笑いを産み出す『ことば』観」が顕れているのです。

紳助氏の「お笑い芸人観」とは、本来的に「お笑い芸人」なる存在は産業社会の中からはみ出している存在者であり、枠外者であるがゆえにその社会の歪みを視ることができ、その気づきを笑いに換えることを生業にして生きている人間である、ということです。

紳助氏の「笑いを産み出す『ことば』観」とは、社会の枠外者である「お笑い芸人」はその社会で通用している『ことば』に対する批評性を抱いていなければならない、なぜなら『ことば』には必ず社会規範が落とし込まれているからである、戦後日本においては「標準性」という規範が社会生活全体を覆っていたので、俺ら世代のお笑い芸人はそれと闘いながら「80年代の漫才ブーム」や「90年代の笑いの時代」を生きてきたのだ、ということです。

 

やがて2001年4月頃に、紳助氏は「誠さん、こないだから言うてた『闘いの場』のことですが。ええのん思い付きました。賞金1000万円の漫才コンテストですわ。日本全国の若手漫才師がやる真剣勝負です。名前は『M-1』にします、『K-1』からもらいました。誠さん、これ手伝うてくれませんか」と話してきました。

ここが私にとっての「M-1グランプリ」のスタート地点です。

つまり、島田紳助氏の発想の根底に、ある種の思想性・理念を見ていたのです。

そのような思惟のことをコンセプト(基本理念)と呼ぶのだと私は考えています。

「賞金1000万円」だとか「ガチンコ真剣勝負」だとかは、世間やマスコミを惹きつけるための惹句(キャッチフレーズ)であり、鎧の上に纏う意匠(デザイン)にしか過ぎません。

 

【審査員選定の基本的な考え】

審査員選定についての最初の会議は、9月か10月で、場所は吉本興業の東京支社か朝日放送の東京支社であったと思います。正確な日付けと場所については覚えていません。

参加者は、実務作業チームのメンバーに加えて朝日放送から私が、吉本興業からは木村政雄氏が加わりました。会議の途中からは島田紳助氏も加わりました。

この時点で、紳助氏の企画発想の根底にある考えを「弱くなっている『お笑い芸人のことば』を鍛え直すための闘いの場を設定する」意図だ、と理解していたのは、おそらく木村政雄氏と私の二人だったのだ、と思います。

それは木村氏が80年代の「漫才ブーム」を芸能事務所の側から牽引した人間であり、私が紳助氏と業界の同期生として仕事を共にしてきた、という世代的経験によるものかも知れません。

いずれにしても、この会議での紳助氏と木村氏と私の発言を通して、審査員選定の基準が「漫才という笑芸を産み出すための『話しことば』について、しっかりとした見識を持つ人」という論理があることが確認されたのです。

 

この作業は具体的なタレント名を挙げて適否を検討してゆく中でも行われました。

誰もが思いつくように、知名度からして当時「ビッグ3」と呼ばれていたタモリビートたけし明石家さんま、の名前がまず挙がりましたが判然とした理由で却下されました。

タモリ氏は「ことば」を「最高のおもちゃ」と捉える言語道具観に立脚している芸人で、「ことばは芸人にとって唯一の武器である」と考える紳助氏とは根本的な立脚点が異なります。

ビートたけし氏は「闘うことば」で80年代90年代を生き抜いてきた人で紳助氏とは言語思想的に通じる所がある人ですが、既にその「反・標準化思想」を映画というジャンルで実践していたのでおそらく出演は受けないだろうと予想されましたが交渉はすることにしました。

さんま氏は同じ吉本興業の所属ですが芸人としての資質が紳助氏とは全く違う実践家なので木村氏から即座に「無いですね」と否定されました。

このような討議を経て7人の審査員が決まってゆきました。

 

【第一回の審査員を選んだ理由】

まず島田紳助氏は発案者なので審査員であると同時に審査委員長を務めることになりました。

その次に紳助氏の考えを最も良く理解しているのは誰か、となり、ここで「松本人志ダウンタウン・松本)」の名が出てきます。

松本人志氏は「漫才という笑芸」における島田紳助氏の思想的承継者でもあるのです。

この時、紳助氏から「松本は俺が説得します。あいつは出なあかん、出る責任があるんです。」との発言がありました。

この発言を補足すると「今のように漫才師たちの『ことば』が弱くなった責任の一端は松本人志にもあるのだ」という意味です。

元来「お笑い芸人」なる者は産業社会の枠外者であるのに、ダウンタウンの二人がNSC吉本総合芸能学院)を出て早々に超有名人となったがために多くの若者があたかも産業社会への就職過程のようにNSCに入って「お笑い芸人」を目指すようになってきた、その結果として「批評性の無い、弱いことば」しか使えない若手の「お笑い芸人」が増えてきたのだ、という意味です。

だから「責任がある」なのです。

谷氏が書いているように「審査員の格が上がる」というような理由ではありません。

作業チームの出演交渉を経た後に紳助氏の直接の口説きによって松本氏は審査員を引き受けました。

 

松本人志氏が決まる前に、木村氏から「西川きよしさんを出してください」との要請がありました。

紳助氏と私とは一瞬怪訝な顔をしましたが木村氏が「これは吉本興業からのタレント行政です」と重ねて発言があり、了解しました。

この理由は、横山やすし・西川きよしのコンビは確かに70年代から80年代にかけて漫才界のトップを占めたコンビですが、彼らの「漫才ことば」は、紳助やビートたけしらの「80年代・漫才ブーム」世代からすれば「古い、職業漫才語」として見えていて、80年当時の紳助氏は「ええか、俺らが倒さなあかんのはやすきよの漫才やで」と言っていたように「闘う相手」であったからです。

そのことを知っていながら木村氏は西川きよし氏の起用を出したのです。

 

こうして、島田紳助松本人志西川きよし、という漫才経験者3人が決まったからには他の審査員としては「漫才のことば」を相対化する視点、つまり「漫才以外の笑芸」からの審査員が望ましいと私たちは考えました。

そこで、同じ「話しことば」を操る笑芸の「落語」界からということで春風亭小朝氏が挙がります。

小朝氏への出演交渉は、落語に暁通している市川氏が当たりました。

「漫才」に隣接しているコントの世界からラサール石井氏が挙がります。

ラサール石井氏は「コント赤信号」の出身ですが、既に演出家としても「笑いとことば」について一家言を持って活躍されていました。

 

審査員の中で最も振幅が大きかったのは青島幸男氏でしょう。

シャボン玉ホリデー」などの放送作家から出て作詞家もやり、小説『人間万事塞翁が丙午』で直木賞を獲り東京都知事も務めた多才な人です。

青島氏を推挙したのは木村政雄氏です。

「漫才」を構成する「話しことば」だけでなく「文字の書き言葉」にも精通している人、という視点からの推挙でした。

島田紳助氏の「M-1」発想の根底を理解している人ならではの慧眼だと思いました。

木村氏は吉本興業側の総責任者として、『M-1グランプリ』の創出において大きな役割を果たされています。

 

さて、審査員で最後に決まったのは演劇界からの鴻上尚史氏でした。劇団「第三舞台」の主宰者で脚本家・演出家です。

一見、演劇と漫才は関係ないように思えますがそうではありません。演劇は俳優の「身体とことば」で成立しています。

特に「第三舞台」の演劇は代表作『朝日のような夕日を連れて』で顕著なように、機関銃のような早口のセリフが飛び交う芝居で、その斬新さが80年代90年代の日本の演劇シーンをリードしました。

それはちょうど「漫才ブーム」で速射砲のような早口で漫才をした紳助・竜介に通じるところがありました。

そして、私には1988年に朝日放送の深夜番組「寝る前に翔べ」を演出していた時に「第三舞台」に出演してもらった経緯があり、劇団の制作担当者とも面識があったのです。

鴻上氏は愛媛県新居浜市の出身で、毎週土曜日放送の「吉本新喜劇」を楽しみに家に帰る高校生だった、ということも知っていました。

そこで、朝日放送制作部のデスクから市川氏を横に置いて「第三舞台」の制作部に私が電話をかけて出演を交渉しました。

 

上記のように、私達は論理を持って「審査員の選定」を行いました。

これが、「M-1グランプリ」創出時に制作責任者を務めた私から見た「審査員選定」に関する事実です。

 

また最終的にテレビ放送に至るまでには、番組制作に直接の責任を負ったテレビ制作部員、CM販売を担ったテレビ営業部員、ネット各局との連携を担った編成部員、電波の送受信を担った技術部員、など総勢90名の朝日放送社員が「M-1グランプリ」の創出に関与したのです。

裁判でこれらの事実を論証した結果、当初は朝日放送テレビ制作部長の吉村氏はM-1グランプリの創出に何の貢献もしていない、テレビ制作部は番組制作を主導しなかった」と述べていた谷良一氏から、

「吉村氏が朝日放送の番組制作部の責任者という立場でM-1グランプリのテレビ番組の制作に携われたことを否定するつもりはなかった」「申し訳なく思っている」との文言が出されたので、私は和解に応じたのです。

 

【「M-1グランプリ」の意義があるなら】

テレビ番組「M-1グランプリ」に、多少とも時代的・社会的な意味合いがあったとするならば、第1回創出の際の「弱くなっている『お笑い芸人のことば』を鍛え直すための闘いの場を設定する」という意図、だっただろうと思います。

とは言え、残念ながら創出時に紳助氏や木村氏や私や市川氏が抱いていた幾ばくかの「表現思想性」が充分に受け止められて展開されたとは言えません。

M-1グランプリ』は回を重ねるにつれて権威化されて、出場と優勝が自己目的となってしまいました。

審査員もほとんどが漫才経験者で固められて「漫才の技量」を審査基準とする「年に一回の4分間競技漫才コンテスト」に変質してしまったように思います。

 

同時に「笑芸の一形式である漫才」の復興隆盛をもたらしたとも思えません。

たかだか「安全無害な笑芸能の一つ」として認知度を高めただけ、ではないでしょうか。

その結果として今やすっかり「バラエティタレントの排出装置」となった感があります。

時を経るごとに「出来事」の内在的な意味が変わるのは仕方ないことだとわかってはいるのですが、創出に関わった人間としてはいささか残念な思いです。