『M1グランプリ』創設の真実 ――中村計著『笑い神 M1、その純情と狂気』を裁断する――
昨年11月に出版された中村計著『笑い神 M1、その狂気と純情』(文藝春秋社)を読んだ。「M1グランプリ」を創設した者の一人として興味を抱いたからだ。「プロローグ」に「漫才とは何か、笑いとは何か。その核心を、その真髄を覗き見たくなった」と書かれてあったので、少し期待をしながら読んだ。
しかしながら、読み進めるうちに苦笑は失笑に変わり、読み終えた時には失望を通り越して呆れてしまった。
あまりにひどい本である。このような「間違いだらけ」の論考で、世間をたぶらかしてはいけない、と私は思う。関西弁の話しことばで表現すれば「中村さん、わかりもせぇへんのに、何、たいそうなこと言うてんねん」である。
中村氏が、それまでの自分の人生とは縁遠かった「お笑い」というフィールドを題材にして、たくさんの時間をかけて、多くの人達に話を聞かれた労苦は評価する。しかし、本著は「漫才」「笑い」「M1」について、なんら正鵠を射ていない。「漫才とは何か・笑いとは何か」という、とても興味深い探求心に触発された作業であるにもかかわらず、その「核心」にも「真髄」にもまったく辿り着けていない。「的外れ」もいいところである。それどころか、多くの「事実誤認」と「論理矛盾」と「妄説」に満ちている。
その理由は明らかである。中村氏は論考を進めるにあたり、典拠不明の通説に疑うことなく依拠しており、取材対象者の発言の真意をくみ取る作業をおろそかにしており、論理の破綻に気がついていながらも大仰な修飾形容でそれをごまかしているところにある。
「ノンフィクションライター」としてこれからも仕事を続けられるのであれば、もっと謙虚に「事実の諸相」と「表現者の倫理」に従わなければならない、と私は考える。
これより以下に、『笑い神 M1、その純情と狂気』中で、中村氏が犯している数々の事実誤認を指摘し、明らかに間違っている言語論理を正し、私が知る限りにおいての『M1』創設のゆきさつと発案に至る状況などについて書く。
なお本論考の主旨は、「M1グランプリ」の創出過程を補助線としながら、その中で明らかになる「話すことば」と「お笑い芸人という存在」と「漫才という笑芸」の相関をたくさんの人に知ってもらうことにある。
【本論稿を書く筆者の立場について】
まず、この文章を書く私の立場を最初に明確にしておく。
私は、1974年4月にABC・朝日放送に入社し、2007年3月に同社を退職するまで、34年間をABCのテレビマンとして働いた。
2001年の時点では、ABC朝日放送のテレビ制作部長の立場にあり、ABC社内で『テレビ番組・M1グランプリ』の創設を発議し、第1回『M1』・第2回『M1』の制作総責任者を務めた。制作部長をしていたので、番組のエンドロールに名前は載せていない。
2007年にABCを早期退職してからは、社会言語学の視点から「ことば」と「暮らし」と「日本社会」について研究する大学教員となった。
中村氏の『笑い神』を読んで、「M1」についてのあまりに多い事実誤認と、「ことば」についての明らかに間違った考えと、「お笑い芸人」についての無理解を知り、「表現者の良心」に基づいてこの論稿を書くことにした。
【中村氏は「M1」を発案した島田紳助の思念を探る努力を怠っている】
中村氏は、『笑い神』において、『M1』というイベント並びにテレビ番組の核心を「賞金1千万円の漫才コンテスト」と捉えて、何度も繰り返している。
「賞金1千万円の漫才コンテスト」というフレーズを紳助の口から初めて聞いた谷良一・吉本興業プロデューサーの反応を「めちゃくちゃびっくりしましたね。(中略)賞金を聞いて、それはおもしろい、と」と言った、と紹介し、朝日放送の森本茂樹プロデューサーの反応を「なんや、それ、と。紳助さんはやっぱり頭ええなと思いました」と紹介している(85p)。谷氏と森本氏が、本当にそのとおりに中村氏に答えたのかどうか定かではないが、少なくとも中村氏が両氏の反応をそのように理解したことは確かであろう。
もう一点、中村氏は、『M1』の核心を「単なる漫才番組ではない格闘技」だと、捉えている。それについても『笑い神』の中で何度も繰り返して触れている。
しかし、「賞金1千万円のコンテスト」や「漫才の格闘技」などというフレーズを「コンセプト(基本理念)」とは言わない。それらは、世間の注目を惹きつけるための「惹句・キャッチフレーズ」に過ぎない。「コンセプト(基本理念)」とは、文字どおり、「アイデア」や「キャッチフレーズ」と言った耳目に触れる表層の「意匠」を産み出すための、「根底にある思弁」のことである。
『笑い神』における中村氏の最大の欠点は、紳助が口にして、その後にマスメディアによって流布された「賞金1千万円・格闘技」という表面上のキャッチフレーズに踊らされて、それを発想した島田紳助という「お笑い芸人の思念」に迫る努力しなかったことである。
中村氏の思考は、ことごとく「表に出た単語や発言」に絡め取られており、その背後に潜む「心情や思索」に迫る洞察力を欠いている。
ノンフィクションライターとして「M1」を扱うのであれば、誰が考えても、まず初めに訊ねるべき取材対象者は島田紳助であろう。しかしながら、『笑い神』において中村氏が紳助に直接インタビューを申し込んだ形跡は皆無である。断られたのなら、その旨を書けばよい。中村氏なりの「M1の核心」が得られたと思ったのなら、それを紳助にぶつけて問うてみればよかった。
また、インタビューができなかったのであれば、周辺の人々へのインタビューに先駆けて『ご飯を大盛にするオバチャンの店は必ず繁盛する』(幻冬舎新書)や『哲学 島田紳助・松本人志』(幻冬舎よしもと文庫)や『島田紳助100の言葉』(ヨシモトブックス)など、紳助が「漫才・笑い・生き方」について残した書籍に目を通して、「M1」の発想に至った島田紳助という「お笑い芸人」の思弁について探る努力をしなければいけなかった。
中村氏はこの基本的な作業をおろそかにして、いたずらに多くの「M1」関係者やお笑い芸人へのインタビューを重ねたため、「M1」だけでなく、「お笑い芸人」の存在形態や、「漫才を産み出す素材としての『ことば』」の本質に近づくことができなかった、のだ。
そして、中村氏のもう一つの大きな欠点は、「お笑い芸人」の思弁や、「笑芸」の論理を充分に理解していないまま、取材して得た事柄をパッチワークのようにつなぎ合わせたために、多くの点で論理矛盾が生じているにもかかわらず、それらを大仰な漢字形容詞句で誤魔化しているところ、にある。「ごまかし」はバレるものなのだ。
それらの箇所を具体的に指摘してゆこう。
【「M1」を発想させた2001年当時の「漫才」を巡る状況について】
中村氏によれば、「M1」の企画としてのスタートは、読売テレビの楽屋における紳助と谷氏の面談の後日の会話による、とされている(84p)。その前提として、中村氏は、2001年春の時点において「漫才は壊滅状態にあった」と書いている。
「その頃、漫才の未来には希望の破片すら落ちていなかった」(81p)
「九O年代に入ると、漫才番組は本場・関西では命脈を保っていたものの、関東ではほぼ壊滅状態となる。」(83p)(下線は筆者)
なんと陳腐で、なんと大仰な形容だろう。「中村さん、冷静になろうよ」である(この「冷静になろうよ」は第153回芥川賞選考の際、山田詠美氏が書いたひとことであり、文章表現者に対する最も厳しい文言である)。
中村氏の記述は、いったいどこの文章や誰の証言に基づいているのだろうか。おそらくWikipediaなどの記載を無邪気に引用したのだろう、と推察する。2001年当時、「笑芸」や「エンターテイメント」の世界とは無縁の仕事をされていた中村氏が、当時の「漫才」の状況を肌感覚で知らなかったことは仕方ないとしても、本一冊分の論考の出発点とするのであれば、もっと謙虚に歴史と向き合わなければいけない。もっと資料を読んで勉強してこなければいけない。
中村氏の「2001年春の漫才の状況」についての認識はまったくの間違いである。事実として、2001年春において「漫才」という笑芸は決して「壊滅的な状況」にはなかった。それどころか少なくとも「表面的には活況を呈していた」のである。そして、この「表面的には活況を呈していた」ことこそが、「M1」の出発点となるのである。
吉本興業の本拠地たるNGK(なんばグランド花月)は1987年に新装開業して以来賑わっていた。東京では、「極楽とんぼ」や「ココリコ」らを輩出した銀座7丁目劇場が1999年に閉場し、また今田耕司や東野幸次が活躍した渋谷公園通り劇場が1998年に閉場したものの、それらを融合する形で2001年4月には新宿に「ルミネtheよしもと」が開場されて賑わっていた。多くの若者たちが「漫才」や「コント」などの「お笑い」を観るために劇場に来ていた。この間1995年にはNSC(吉本総合芸能学院)の東京校が開校されており、1期生から「品川・正司」らを輩出し、多くの若者たちが「漫才師」を目指して押し寄せていた。
また、テレビ画面の中には、NSC大阪の1期生であるダウンタウン(松本・浜田)が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』や『ダウンタウンDX』などで活躍し、それらの番組には「漫才」出身のお笑い芸人たちが多く出演していた。もちろん、先輩芸人たる「明石家さんま」や「島田紳助」もいくつものテレビ番組に出演しており、そこでも漫才師出身のお笑い芸人たちが「ひな段芸人」として登場していた。
しいて言うならば、テレビ番組の「ソフト(中身)」として「漫才芸」そのものの露出は少なくなっていた、であろう。
こういった事実を押さえずに「希望の破片すら落ちていなかった」とか「壊滅状態にあった」とのおおげさな記述は事実誤認も甚だしい。
もし、中村氏が言うように、当時の「漫才」が本当に壊滅状態にあったのであれば、吉本興業は全社を挙げて「漫才」の復権に取り組んでいたはずであろう。多くの社員を「漫才の復権」に取り組くませていたはずである。興行会社としての吉本興業にとって、「漫才」と「新喜劇」が商品の2大柱であることは、すべての社員たちが熟知しているからだ。インタビュー中で、谷氏も「吉本の柱は、漫才と新喜劇」と言っているではないか。
それなのに「漫才プロジェクト」に配属されたのが、数百人いる社員の中で当時43歳だった谷良一氏ただ一人であった、というのは明らかに論理が矛盾している。少し文章が書ける人ならば、また、少し文章が読める編集者ならば、誰でも気づくだろう。
【表面的な賑わいの背後に「忍びよる衰微」を感知する能力】
2001年初頭において漫才は「表面的には活況を呈していた」と前段に書いたが、このことこそが、「漫才師出身のお笑い芸人・島田紳助」が『M1』を発想する源となるのである。つまり、島田紳助は「お笑いの表面的な活況」の奥に、「本質的な衰微」を見て取っていたのだ。
同じく表面的な活況の背後に「衰退の萌芽」を感じ取っていた人間が、吉本興業の中に一人いた。それは、当時の吉本興業にあって制作部門の責任者を勤めていた木村政雄氏である。木村氏は80年代の「漫才ブーム」創出者の一人であり、吉本興業東京進出を担った人間である。当時の肩書きは制作担当・常務取締役であった。その木村が、「漫才の衰退」を予感して、早めに「深い所からの、漫才の再建」にとりかかるようにと抜擢したのが、優秀さを認めていた43歳の谷良一氏だったのである。だから、「漫才再建プロジェクト」と言いながら、命じられたのは谷ただ一人であり、具体的に何をどうするかの指示命令はなかったのである。
『笑い神』で「M1」を扱う以上、当時の吉本興業の制作部門の責任者であった木村政雄へのインタビューを欠いているのも論考として致命的な欠陥である。
『笑い神』は、このように前提としての事実をしっかりと押さえずに、巷間に流布されているような説や取材者から聞いた話を、無批判に大仰な形容でつないでいる。だから、「M1」のコンセプト(発想に至る基本理念)が把握できなかったし、「お笑い芸人」の存在形態にも迫れていない、のである。
ケンドーコバヤシ氏の「中村さんがやっている行為が、一番寒いと思いますよ」(114p)は、決して笑って逃げられるような口撃ではない。「冷静になろうよ」と同じくらい、表現者に対しての厳しい一撃である。
【お笑い芸人にとって「ことば」は唯一の武器である】
私にとっての「M1」との関わりは、谷良一氏と島田紳助が交わした会話の数か月前にさかのぼる。それは、2001年1月の末、お正月番組の熱気も治まり世間もテレビ番組も平常を取り戻してきた頃であった。
場所は、ABC朝日放送の旧社屋(北区大淀南2丁目)のスタジオ棟にあった「a控室」である。部屋には、まもなく始まる番組収録に備えて着替えを始めた紳助と、その服を折りたたむ付き人さんが一人いた。その頃、島田紳助はABC朝日放送で月曜日夜の11時過ぎから放送される『クイズ紳助くん』に司会者として出演しており、隔週の月曜日の夕方に収録のためABCに来ていた。
楽屋に入った私に、紳助は「誠さん」と呼びかけてきた。
当時、私はABC朝日放送の編成制作局でテレビ制作部長を勤めていた。テレビ番組のそれぞれは、担当プロデューサーと担当ディレクターが責任を持って運営しているので、制作部長である私がひとつひとつの番組の現場に顔を出す必要はないし、かえって邪魔になることもあるのだが、こと『紳助くん』に関しては別の意味合いがあった。それは、紳助・さんまと私が1974年春の「業界の同期入社」に始まる長年の友人としての付き合いがあったからである。
1974年の春、島田紳助と明石家さんまは高校を卒業するとすぐに吉本興業という芸能の世界に入ってきた。紳助は「島田洋之助・今喜多代」の弟子になり、明石家さんまは「笑福亭松之助」の弟子となった。私の方は大学を卒業して1974年の4月にABC朝日放送に入社して、1ケ月の新人研修を経たのちにテレビ制作部に配属された。1974年の5月に私たちは「なんば花月」の楽屋で知り合い「業界の同期生」としての人生をスタートさせたのである。だから、歳は私の方が5歳上だが「業界入り」は紳助・さんまの方が2月早い。そこから、ある時は友人としてお茶を飲んでは喋り、ある時は出演タレントと演出テレビマンとしての間柄で付き合いを続けていたのである。
そんな関係があるから、私は『クイズ紳助くん』の収録がある日は、スケジュールの許す限り、番組収録の前か後に必ず楽屋に顔を出して、紳助と色んな話をしていたのである。
「a控室」での二人の会話に戻ろう。
お互いの近況を話したり、家族の話をしたり、正月番組の感想を話したりした後、紳助は「誠さん、最近のお笑い芸人は『ことば』が弱なってる、と思いませんか」と言ったのである。続けて、こう言った。
「最近の若いやつは、俺らや俺らの先輩たちが切り開いた平坦な道ばっかり歩いとる」
「あいつら、闘いよらん。お笑い芸人の武器は『ことば』しかないんですよね。で、闘わない「ことば」は弱いんですわ」
「武器は闘うことでしか磨かれへんのですわ。やっぱ、真剣な『闘いの場』が要るんですかねぇ」
ほどなく紳助は収録開始を告げるフロアーディレクターの声に急かされてスタジオへ向かった。私の方は、紳助の言ったことを反芻しながらデスクへ戻った。
この「下線部」にこそ、島田紳助という優れたお笑い芸人の「言語観」と「お笑い芸人観」が在る。そして、ここから「M1」が発想されるのである。
【「M1グランプリ」の基本理念(コンセプト)とは】
翻訳と解説を後に回して、結論を先に明示しておこう。
「M1グランプリ」の「コンセプト(基本理念)」とは、
「漫才という笑芸の武器である『ことば』を鍛え直す」
「漫才師という生業の存り方を漫才師自らが問い直す」この2点、である。
この2点に迫らない「M1についての言説」には、ほとんど意味はない。
紳助を始めとして「お笑い芸人」という者は、抱いている思念をこのような一般社会的な解説用語や分析用語を用いて世間相手にしゃべりはしない。世間や聴衆を相手にする時には、表面上「ただ楽しく笑ってもらう」ことのみを目指しているように見せる。言わば、「わかってもらえる人間だけわかってくれればええ」である。
とは言いながらも、上記の「コンセプト(基本理念)」に気付いてくれる人間が増えるようにと、世間や、マスコミや、多くのお笑い芸人たちを、自分の思念に巻き込むべく、島田紳助は「賞金1千万円の漫才コンテスト」「漫才の格闘技」という、「惹句・キャッチフレーズ」を考え付いたのである。
中村計氏も、まんまとそのキャッチフレーズに踊らされている一人である。同じく、表面上のキャッチフレーズにのみ踊らされて右往左往した何人かの芸人たちの姿については、『笑い神』の中に、本来あるべき角度とは違う「斜めからの灯り」で照射されている。
前述の「a控室」での会話の後も、隔週での私と紳助との挨拶会話は続いた。
そして、3月のある日、紳助はこう言った。
「誠さん、こないだから言うてる、『漫才の、真剣な闘いの場』、あれ作りましょうや。思いついたんです、『M1』にしましょう、『K1』からもらいました。で、賞金を1千万にするんですわ。みなを本気にさせるんですわ。」
「誠さん、手伝うてもらえませんか。」
私は即座に答えた。
「よっしゃ、全力あげて実現させるわ。任せといて」
「で、そのこと、吉本では誰と話したらええ?」
紳助は、「木村さんと谷君にだけ話してます。聞いてください」と答えた。
おそらく、『笑い神』で中村氏が書いたように、この間に、紳助と谷良一の「M1」についての最初の話し合いがなされたのだろう。この論稿を読む人に誤解して欲しくないので言うが、私と谷氏のどちらが先に「M1」の話を紳助と交わしたか、などと低次元の功名争いをしようとしているのではない。そんなことは問題ではない。「M1」を発案するに至った、お笑い芸人・島田紳助の真意を、少しでも多くの人に理解してほしいのである。
【「漫才ブーム」から「M1」につながる思弁の過程】
2001年初頭における、「お笑い芸人の『ことば』が弱なっとる。真剣な『闘いの場』が要るんかなぁ」と言った島田紳助の苛立ちを、その時点で正しく受け止めることができたのは、吉本興業の社内ではおそらく木村政雄ただ一人だっただろう。芸人仲間では明石家さんまとオール巨人だけだっただろう。
それは、彼らが、1980年の春に沸き起こり1981年の冬に消滅した「漫才ブーム」の当事者であったか、もしくは渦のすぐ傍にいてその盛衰を見届ける眼力を持っていたかに依る。あの「漫才ブーム」を同時代的にどのように深く「経験」したか、ということである。
紳助の思弁の中では、「漫才ブーム」から「M1」は一本の筋できちんとつながっている。私は、その間の歴史的な経緯と、紳助を初めとする何人かのお笑い芸人の「言語観と生活思想」とを文字として残すべく、2017年に『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版)を出版した。残念ながら同著は先行資料として中村氏には目を通していただけなかったようである。
中村氏は、「漫才ブーム」について「M1以前、ほんの一瞬だけ、漫才はエンターテイメント業界の頂点に立ったことがある。1980年にフジテレビで始まった『THE MANZAI』が火付け役となり、『漫才ブーム』が巻き起こったのだ」(82p~83P・下線は筆者)と『笑い神』で書いている。またしても空疎にして大仰な形容語句である。「漫才ブーム」の2年間は、「ほんの一瞬」であろうか。おそらくWikipediaなどからの引用に基づく記述だと思われるが、このような皮相的な俗説が世の中に定着するのを恐れて、私は『お笑い芸人の言語学』を書いたのだ。「笑芸」や「漫才」には門外漢だったと素直に言われている中村氏のために、失礼ながら拙著の一部分を要約しておく。「M1」を読み解くために不可欠だからである。
「漫才ブーム」のような2年にわたる社会現象が理由もなしにいきなり起こるはずはない。「漫才ブーム」には、5年間に及ぶ助走があったのである。それは1975年から5年間にわたって、ABC朝日放送のラジオ番組プロデューサーであった岩本靖男氏が中心となって、若手の漫才師や落語家や笑芸作家たちが集まった「笑芸の改革」運動であった。彼らは月に1回ほど「翔べ翔べ若手漫才の会」というイベントを開催した。そこに集まった関西芸人の中でリーダー役を果たしたのが島田紳助であり、関東芸人の中でリーダー役を果たしたのがビートたけしだった。岩本らが追求したのは「次代の笑い」であり、中核とした考えは「若者の生活を『若者のことば』で語る面白さ」であった。この動きに関わっていた業界人の中に、吉本興業の木村政雄や大﨑洋(後の吉本興業社長)もいたのである。
その「笑芸改革」運動が関西圏で着実に波動を広げてきたところに、フジテレビの横澤彪が別用で来阪し、木村政雄が横澤を岩本靖男に紹介した。その時たまたま目の前にあった「翔べ翔べ若手漫才の会」の次回イベントの企画書を読んだ横澤は即座に共鳴した。そこで、岩本は自分たちが進めていた「笑芸改革」の運動を、全国規模のムーブメントに拡充してくれることを期待して木村政雄と横澤彪の二人に「企画書のペーパー」ごと渡したのである。その3ケ月後にフジテレビで「THE MANZAI」が始まり、世に言う「漫才ブーム」が湧き起こることになる
「漫才ブーム」とは、ABC朝日放送の岩本靖男が「種をまいて」、フジテレビの横澤彪と吉本興業の木村政雄が「育てた」芸能ムーブメントである。
この「翔べ翔べ若手漫才の会」から「THE MANZAI」へと引き継がれた「笑芸改革運動」の中核をなしていた思想とは「笑いを創る『ことば』の改革」だった。
紳助やたけしらが闘った相手は、目先では「やすし・きよし」や「てんや・わんや」らの先輩漫才師であったが、深いところで目指した標的は、1960年代から70年代にかけて日本社会の経済成長路線を牽引した「標準化の思想」だった。日本全国を「東京」をお手本にして「標準的に、均一的に」発展させよう、という考えである。「標準化思想」の言語的現れが「標準語近似値としての東京語」であったがゆえに、島田紳助は「島田紳助弁」で闘い、ビートたけしは「ビートたけし弁」に固執して闘ったのである。
戦後日本の産業社会や学校教育や出版メディアや放送メディアを支配していた「東京をお手本とする標準化」に対する疑義を、かれらは「標準化されない生活ことば」によって、「標準化されない生活」を語って「笑い」にする、ことで意志表明したのである。
これが、紳助が言うところの「俺らは『ことば』で闘ってきた」の内実である。目先の闘い相手は、先輩漫才師たちや同輩漫才師たちであるが、もっと大きな意味で言えば「制度としてのことば」の中に落としこまれている「社会規範」との闘いであったのだ。
「漫才ブーム」から「M1」へとつながる、お笑い芸人・島田紳助の「言語・観」や「生活思想性」を読み取ろうとしない中村氏は、「漫才ブーム」の背景すら探ろうとしないでとおり一遍の通説に依拠している。したがって、そこからつながる「M1」のコンセプト(基本理念)が見えるはずもない。
【「漫才」の本質が「ケンカ」って、何のこと?】
中村氏は『笑い神』の前半部で、紳助が「M1」第1回目の記者会見で「単なる漫才番組ではないです。命をかけた、格闘技」といった発言に踊らされて、
「紳助は誇張したのではない。本質を暴いたのだ」と言い、
「関西における『お笑い』とは――。誤解を恐れずに言えば、ケンカである」と、書いている(86p~87p)。
何を頓狂なことを言っているのだろう。筋違いにも程がある。
「誤解」しようにも何にも、その前に中村氏の言いたいことが私には理解できない。「笑い」の本質は「ケンカ」なの?「関西の笑い」と「関東の笑い」は違うものなの?「ケンカ」って、誰と誰が「喧嘩」をするの?「何をめぐってケンカ」するの?
前後の文脈からむりやりに推測するに、漫才コンビの片割れと片割れが「どちらが、よりオモシロイか?」を巡って舞台の上で「喧嘩する」と読める。あるいは、複数の漫才コンビたちが「どの組が一番オモシロイか?」を巡って大勢の聴衆の前で「競い合う・喧嘩する」との意味にも取れる。
お洒落なレトリック(修辞)だと思って書かれたのだろうが、中村氏の文章は、主語と述語が対応していないので日本語として明晰性を欠いている。意味の不明瞭な文章である。
おそらく、ご本人もそのことには気が付いているのだろう。『笑い神』の中盤部、153Pでは「漫才コンビ・笑い飯」を高く評価するくだりで、「漫才とは何か?ひとまず、こう言える。ケンカだ。人のケンカほど見ていて楽しいものはない。笑い飯の漫才が熱量を帯びるのは、そもそもが『おれの方がおもしろい』という本当の喧嘩だからだ」という記述に変化している。
とんでもない、と私は思う。
漫才師のコンビの二人が舞台上で「俺らのどちらがおもしろいか」を巡って本気で喧嘩をしている訳がない。そんなやりとりを見て聞いて、観客が楽しめるはずがない。人が本気でケンカをしている所を見て楽しむなど、よほどの悪趣味であろう。
「漫才」は、漫才師の「ことばのやりとり」を聞いて聴衆が楽しむ芸能、である。近代漫才の父、と呼ばれる秋田實氏の言を借りれば、「漫才は、私たちの日常生活をネタにした、『話しことば』による無邪気な笑いである」に相違ない。
紳助が世間向きに発した「格闘技」という惹句に囚われ続けている中村氏は、「M1」どころか「漫才」の本質についても、「笑い」の本質にも、近づくことができないでいる。
「賞金1千万円の漫才コンテスト」という惹句についても同様である。もし、第3回大会からチーフプロデューサーを勤めた朝日放送の森本茂樹が「なんや、それ、と。紳助さんはやっぱり頭ええなと思いましたね。金額どうこうじゃない。まずは話題性ですよ」(85p)と本当に言ったのだとしたら、わが後輩ながら情けない限りである。表現者の端くれたるテレビマンなら、大事なのは「話題性」ではなくて「内容の充実度」だ、と言うべきだろう。
【闘う武器としての「ことば」】
「漫才ブーム」やそれに続く80年代から90年代にかけての「笑いの時代」を、島田紳助やビートたけしや明石家さんま達は、「ことば」を武器として闘って生き延びてきた。そのことがわかることによって、2001年初頭において紳助が私に向かって言った、「最近、お笑い芸人たちの『ことば』が弱なってきた、と思うんですよね」の意味するところが初めて理解できるだろう。
「漫才」は「話しことば」を用いて、観客を楽しませる芸能である。「ことば」の原点が、視覚化された「文字」ではなく、「話されるオトのことば」であることは、フェルディナン・ソシュールが明らかにした「言語の基礎」である。「話しことば」は人間の身体から出るものだから、身体性・肉体性を伴っているのは当然である。「漫才」を成立させている要素の中に、漫才師の「眼・鼻・口」の表情や、身振り・手振りが含まれているのは、この理由によっている。
紳助やたけしやさんまらは、その「ことば」を唯一の武器にして、長期間にわたって、先輩芸人や同時代芸人たちと戦い、ひいては「標準化」という「戦後日本の社会規範」と闘ってきたのである。当然のことながら、「闘い」に生き残った者はごくわずかであった。多くの漫才師や落語家やコメディアンたちが戦いに敗れて去ってゆき、あるいは疲れはてて凋落の中に死んでいった。冷たい世間はそのことを忘れているだけだ。
その果実として、紳助やたけしやさんまは「人気者」の位置を獲得し、かれらに続く若手のお笑い芸人たちが「テレビの中の出演者」の椅子を得て、更にはたくさんの若者たちが「お笑い芸人になりたい」を「夢」や「希望」と言い始めたのである。
2001年初頭の時点における、そのような状況を見て、紳助は、「最近の若いお笑い芸人は闘いよらん。俺らや俺らの先輩たちが切り開いた平坦な道ばっかり歩いとる」と嘆いたのである。
紳助やたけしやさんまらの優れたお笑い芸人は、しっかりとした「言語観」と日々の暮らしを生きる「生活思想」を持っている。それを表に出さないだけだ。
【審査員の選定に見える「コンセプト(基本理念)」】
『笑い神』における中村氏の、「事実誤認」の指摘にもどろう。
「M1」の審査員の選定についてのくだり、である(86p)。
谷氏が代弁するという形で、中村氏は紳助の発言として、「その頃の審査員というと、実際、漫才をやったことのない人が多かったんですよ。作曲家とか、大学の教授とか、いわゆる文化人。(中略)もっとちゃんとした人に、その日の漫才の出来のみで、その場で点数を出してもらおうと」と書いている(下線は筆者)。
「審査員の選定」について紳助は、そのようなことは言ってはいない。そう考えてもいなかった。
谷氏や中村氏が言うとおりなら、「漫才の経験者」だけが「審査員適格者」だ、ということになるではないか。そうではないことは、「第1回M1の審査員」の顔ぶれを見たら一目瞭然である。第1回「M1」の審査員は、島田紳助・西川きよし・松本人志・青島幸男・鴻上尚史・ラサール石井・春風亭小朝、の7人である。漫才経験者は、紳助・西川・松本の3人だけである。
おかしいではないか。この点を中村氏は説明できない。説明できないからごまかしている。
当然であろう、「M1のコンセプト」を理解できてないからである。「漫才」という笑芸を理解できてないからである。自分の犯している論理矛盾におそらく中村氏はうすうす気が付いているのだろう。第1回の「M1」の審査員が決定したくだりについて、中村氏は「多士済々なメンバーだった」(108P)と記述している。論理で説明できないことを大仰な形容や派手な漢字形容で逃げている。自著の中の86pと108pの齟齬について、中村氏は知らん顔して頬かむりをしている。
【審査員の選定にこそコンテストの思想性が現れる】
第1回「M1」の審査員選定は、紳助と木村政雄と谷氏と私が話し合いを重ねながら進めた。交渉の実務については、谷氏はじめ数人の吉本興業の制作部員と私の部下の朝日放送テレビ制作部員たちが、各々の人脈や交渉ルートを使って当たった。
その選定基準は、「『話しことば』について明確な考え」を持っている人、である。理由は、「漫才は話しことばを使う芸能」だからであり、紳助の発想の源が「弱なった『ことば』を鍛え直したい」だったからである。その上に知名度や話題性を加味したのである。
「コンセプト(基本理念)」とは、そういうものであるべきだ、と私は考えている。
審査員それぞれの「選定」についてすこし補足を加えておこう。2022年時点での「M1審査員」にもつながること、だからである。
審査員でもあり、「審査委員長もやるわ」と言った紳助については省いていいだろう。
紳助以外を選ぶ、となった時に、誰もが思いつくのは「ビートたけし・明石家さんま・タモリ」の「ビッグ3」だっただろう。単なる「話題性」だけの尺度からすれば、これ以上の話題性はないからだ。当然、私たちの間でも少しだけ話題にはなった。しかし、これは成立しない。
まず「明石家さんま」であるが、紳助と同期入社以来の盟友であり吉本興業に所属する芸人なので声をかけるのは易しいのだが、木村政雄は開口一番「さんま君は違う」と言った。紳助も「うん、さんまは違う」と応えた。その理由は、明石家さんまという芸人は、もちろん優れた「言語観」や「芸人観」を持っているのだが、それを論じるタイプの人間ではない、ということだ。さんまは人並み外れて優れた「実践者」なのである。木村氏も紳助も、またさんま自身もそのことをよくわかっている。ちなみに、当時の吉本興業の中で、明石家さんまを「さんま君」と呼び、島田紳助を「紳助君」と呼べたのは木村氏ただ一人である。
次に「ビートたけし」である。たけしは紳助と一緒に「漫才ブーム」を牽引した立役者であり、歳の差はあるものの「戦友」であった。が、たけしは既に1989年に『その男、凶暴につき』で映画監督としてデビューしており、彼の「反標準化」思想は映画というフィールドで発揮されつつあった。今さら「漫才コンテスト」の審査員は引き受けないだろう、と私たちは判断した。たけしは、朝日放送が制作する『たけしの万物創世紀』という科学ドキュメンタリー番組に出演してもらっていたので接点はあったのだが、あえて「M1審査員」としての声はかけなかった。
次は「タモリ」であるが、タモリは最初から私たちの選択肢にはなかった。その理由は彼の「言語観」である。タモリは「ことばは最高のオモチャである」という言語道具説に立脚したお笑い芸人である。彼の「4ケ国語マージャン」芸などは、そこから生まれている。「ことば」はお笑い芸人にとって唯一の武器である、という紳助の言語思想や「M1」創設の主旨とは相容れない。
以上が「ビッグ3」を審査員に選ばなかった理由である。
コンテストの審査員というものは、主催者側の「思想性」に従って選ばれるのである。したがって、論理に基づかないで「知名度」や「話題性」などを基準に審査員を選んでいるようなコンテストからは決して「権威」や「価値」が生まれはしない。
第1回「M1」の審査員で登場してもらった方々のことを述べよう。
まずは、鴻上尚史氏である。
鴻上氏は劇団「第三舞台」を率いていた劇作家・演出家である。演劇とは、俳優が「身体とことば」を使って行う芸能である。当然のことながら鴻上氏はしっかりとした「ことば観」を持っていた。1983年に『朝日のような夕日をつれて』で演劇界にデビューした鴻上氏の芝居は、その軽妙なセリフや音楽ダンスを取り入れた演出手法などで80年代の演劇界に刺激を与えた。いわば、紳助と同時代に違うフィールドで「ことばの闘い」をやってきた人、と言える。
愛媛県新居浜の出身で、高校生時代には毎週土曜日の「吉本新喜劇」を見るのが何よりの楽しみだった、という履歴も「M1」の審査員に相応しかった。過去に私が演出したテレビ番組に「第三舞台」として出演していただいたことがあり、その縁を頼りに私が出演交渉をした。快諾していただいた。
二人目は、ラサール石井氏である。
コントトリオ『コント赤信号』の一員であり、『オレたちひょうきん族』で紳助とも共演し、80年代の「笑いの時代」を生きてきた同世代人である。コメディアンであると同時に、劇団「テアトル・エコー」に在籍していた経歴もあり、「笑い」に対する見識や時代に対する鋭い批評性を持っていることを紳助がよく知っていたところから審査員に選んだ。彼の鋭い批評眼は、後に『笑いの現場~ひょうきん族前夜からM1まで』(角川SSC新書)として文字化されている。
三人目は、春風亭小朝氏である。落語家である。
漫才も落語も、「話しことば」で笑いを産み出す芸能である。落語は噺家が一人で何役も演じてしゃべらなければならない。その意味では漫才よりも、よほど「ことば」についての見識を必要とする。同じく「話しことば」を使う芸能として、落語というフィールドから「漫才のことば」を見る視点が「M1」というコンテストには不可欠だ、と私たちは考えたのである。後年、立川志らく氏が「M1」の審査員をやるに当たって、「審査員の中で私だけが漫才師じゃないんですが、いいんでしょうか」と言っているが、それに対しては「いいのです、落語家だからいいのです」と現在の主催者は論理で答えるべきである。
四人目は、青島幸男氏である。
テレビ番組『シャボン玉ホリデー』を担当する放送作家としてスタートしながら、歌謡曲『スーダラ節』や『明日があるさ』などの作詞もやり、後には小説『人間万事塞翁が丙午』で直木賞を受賞するなど多方面にわたる「表現」を成した人である。つまり、「眼で見る文字の言葉」にも「話すオトのことば」にも精通している人である。「漫才のことば」を計るコンテストには、こういう人こそ審査員に相応しいのである。青島幸男氏の審査員起用を強く推したのは木村政雄である。慧眼である。
鴻上尚史、ラサール石井、春風亭小朝、青島幸男、の4人の審査員の選考理由を読んでいただければ「M1」というコンテストの本質が見えてくるだろう、と思う。中村氏は、「M1のコンセプト(基本理念)」がつかめていないため、コンセプトを具現化する「審査員選び」の実相にも迫ることはできなかった。
「苦戦したが、スタッフの粘りで審査員もほぼ固まりかけた」(108p)
「こうして七人の審査員が出そろった。(中略)多士済々なメンバーだった」(108p)
自著の中の論理矛盾も平気でごまかしている。こんな杜撰な「ノンフィクション」はない。
【松本人志の審査員として「役割」とは何か】
松本人志の審査員起用について、中村氏は「最後の大物は、なかなか首を縦に振らなかった。ダウンタウンの松本である。若手から『神』と崇められる松本が出るか否かで、大会の格が大きく変わってくる」(108p)と書いている。確かに松本が出れば「格」は上がるであろう。しかし、そんな理由で私たちが松本を口説くはずもないし、それを聞いたら松本は決して引き受けはしなかっただろう。
中村氏はことごとく「お笑い芸人」という者の心情が理解できない人らしい。
ここで重要なことは、紳助が松本に言った「やらなあかん。お前の役目や」である。考えるべき重要なヒントが色んなところに落ちているのに中村氏はそれに気がつかない。
「役目」とは何なのか、なぜ松本に「役目」があるのか、である。これに先立ち紳助は私たちに「松本は俺が口説きます。あいつには責任があるんです」とも言った。
「役目」と「責任」。翻訳と解説をしよう。
ダウンタウン・松本人志と浜田雅功は、NSC(吉本総合芸能学院)の1期生である。昔ながらの芸人弟子修行を経ずにNSCを卒業して漫才師になり、テレビの人気タレントになった。そのおかげで、多くの若者たちがダウンタウンを目指してNSCに押し寄せるようになった。あたかも、専門学校や大学へ進学するような感覚で「お笑い芸人」を目指し始めたのである。NSCを卒業したら自動的に有名タレントになれるかのような錯覚を抱いて。
そんな彼ら彼女らの「ことば」は最初から弱い。「ことば」で何かと闘うという動機が無いからである。
また、紳助やさんまやビートたけしらは「お笑い芸人」なる生業(なりわい)は決して若者が「夢」や「憧れ」の対象にするべき存在ではない、と考えている。「お笑い芸人」は、野菜ひとつ作りはしない、魚一匹獲りはしない、ネジ1本作るわけでもない。近代産業社会の枠組みからは「ハズレた」存在であり、いわば「マージナル(境界線)」を生きている存在である。そういう存在者が、親からもらった「身体」と親からもらった「ことば」のみを武器にして産業社会と対峙して「笑い」を産み出して生きている。そういう自覚もなく、「夢」や「希望」という虚像を与えたのは、ダウンタウンの成功にも責任があるのではないか――紳助はこう言っているのである。
だからこそ、錯覚を抱いて「お笑い芸人」の世界に入ってきた者に対しては、早く気付かせてちゃんとした正業の世界に戻してやることがお前の役割ではないか――こう言っているのである。
その説得を受けて松本人志は「M1」の審査員を引き受けたのである。ここに、島田紳助や松本人志といった一流「お笑い芸人」の「言語観」や「存在論」を見取るべきであろう。
【審査員西川きよし、の意味について】
西川きよし氏の審査員起用は、2001年当時の全若手漫才師に対する「参加勧誘(プロパガンダ)」の意味合いが大きい。70年代の「漫才界」の英雄が「横山やすし・西川きよし」だったことは明白である。「やすし・きよし」のコンビは既に1989年に解散していたし、横山やすしは既に1996年に他界していたが、西川きよし氏は吉本興業の中においても「漫才のレジェンド」であったことは間違いない。その西川きよしが審査員を勤めることによって全若手漫才師に対して「M1」への参加出場を促したのである。これも木村政雄が強く主張した人選であった。
中村氏は西川きよし氏のことを「西川は翌年、審査員を外され」とか「紳助さんが外した」とか書いているが、二人に対して失礼この上ない記述である。
さて、こうして7人の第1回目審査員を並べてみたら私たち「M1」創設者たちが考えていた「コンセプト(基本理念)」はおのずから浮かび上がってくる。
真ん中に審査委員長の紳助を置いて、右端に先輩世代の「漫才」の雄たる西川きよし、左端に若手世代のヒーローたる松本人志、その間に「ことば」を生業としている異ジャンルの人が二人ずつ。その7人が「漫才のことばを鍛え直す場」が「M1グランプリ」なのである。
この考えは2回目以降も基本的に変えてはいない。
そして、間違えてこの世界に入ってきた若者たちには「お笑い芸人」とはどんな存在なのか、はたして自分は「お笑い芸人」として人生を全うして良いのかを、自分で考え欲しいと思って、その猶予期間を10年間としたのである。「10年あったらわかるやろ」と。
これが「参加資格:結成10年」の意味であり、『「M1グランプリ」は10年間やって止める』ことを出発時点で決めていた理由である。
【ABC朝日放送が「M1」を制作している理由、について】
出発点においての時代状況の把握からして間違っており、「M1」創設時の「コンセプト」すら正しく理解できていないために、『笑い神』の叙述は細部に至るまで間違いだらけなのだが、細かい点の指摘はもう止めておく。
ただ、次の点についてだけは声を大にして叱っておく。
「M1プロジェクトは東京キー局にフラれ続け、最後の最後でABCに拾われた」(195p)
何を言っているのだ。中村計氏は取材不足である。
私の古巣であるABC朝日放送の名誉のために、そして今も頑張って「M1」を続けているABC朝日放送のテレビマン達の名誉のために、はっきりと事実を明らかにしよう。
「『M1グランプリ』は企画発想の初期から、ABC朝日放送がテレビ番組化を約束していた」のである。決して、東京キー局が捨てたアイデアをABCが拾ったのではない。
前述したように、2001年の初頭に私は紳助から「ちかごろのお笑い芸人は『ことば』が弱なっとる。芸人にとって唯一の武器である「ことば」を鍛え直す場が要るんかなぁ」という苛立ちを聞き、3月になって「真剣な闘いの場を創ろうと思うんです。K1からもらって『M1』ていう名前にしましょう。力を貸してください」と言われた。
私は即座に「よっしゃ、全力を挙げて支えるわ」と答えた。しかし、テレビ制作部長の立場では「全国規模のイベントを展開し、全国ネットのテレビ番組をゴールデン帯で長時間にわたって押さえる」ほどの権限はない。デスクに帰るなり私は上司である和田省一編成制作局長に話を上げた。和田氏は、かつて紳助と一緒に報道番組『サンデープロジェクト』を立ち上げ人間であり、その温厚にして聡明な人柄からして紳助が最も信頼しているテレビマンであった。和田氏も即座に紳助の発案を全力で支えることに賛同してくれた。そこには、長年にわたってABCの番組に出演してくれている島田紳助への恩返しと、長年にわたって多くの所属タレントをABCの番組に出してくれている吉本興業への厚誼の意味合いも含まれていた。
さっそく翌日に吉本の谷良一氏にABCに来てもらい、その時点での紳助の発案内容を確認し合った。そして谷氏に「この話を吉本で知っているのは誰?」と訊ねたところ「今のところ木村政雄だけです」との答えが返ってきた。そこで、ABCは和田・吉村ラインで、吉本は木村・谷ラインで動くことを決めた。
しかし、ここから「M1」の実現化までにはまだまだ多くの障壁があった。
和田は取締役・編成制作局長であったが、あくまで朝日放送の人間である。木村は制作担当・常務取締役であったが、あくまで吉本興業の人間である。取締役であるからには尚のこと、それぞれ自分の所属する組織の外交的な立場と利益を考えなければならない。つまり、会社として通すべき筋道がある、ということなのだ。
そこで、和田と木村と吉村の3人で食事会を兼ねて作戦会議を開くことにした。春の終わりころであった。場所は桜ノ宮にある「太閤園」でやった。この席に谷氏は含まれていない。
理由は、4人の年齢差とこれまでの付き合いの深さとによる。木村氏は昭和21年生まれ、和田氏は昭和22年生まれ、吉村は昭和25年生まれで、番組制作やタレント交渉を通して長年に及ぶ付き合いを持っていた。谷氏は私より7歳も下で吉本興業制作部の一プロデューサーであった。会社組織全体の動向や利益を考えるにはまだ若過ぎた。
その席で、朝日放送の和田から吉本興業の木村に対して「紳助さんが企画発案した『M1』に私たちは全力を挙げて協力します。一番いい形でのテレビ番組化を図りましょう。ただ最終的には朝日放送が責任を持って番組化することを約束します。」との口約束がなされたのである。
それを踏まえて、私が木村氏に「吉本興業さんとしては、この話はまずフジテレビに持ってゆかないといけないんじゃないですか」と投げかけた。その理由は1980年の「漫才ブーム」以降、吉本興業が東京に進出して全国区化をするにあたって最も支えてくれたのが「横澤彪のいるフジテレビ」だったからである。ここ20年でお世話になってきたフジテレビに対して、新しく吉本が起こそうとしているビッグイベントを情報提供もなしに他局で進めたのでは木村氏の顔が立たない、吉本としての立場がないだろうと忖度したのである。
木村氏は「誠さん、それでいいんですか」と訊いてきた。私は「いいです、構いません」と応じた。紳助の発案意図を最適な形で現実化させるには、イベントを全国レベルで展開させテレビ番組としては東京キー局がゴールデンタイムの大きな枠をあてがって系列局全体を動かすのが理想的だからである。ABC朝日放送は東京局に負けないほどの制作力を持ってはいるがしょせん在阪の準キー局であり、使えるゴールデン枠にも限りがある。
和田も私も、「M1」の企画をABCで独占する気はさらさらなかった。私としては、紳助がこの話を誰よりも先に私に相談してくれただけで充分に嬉しかったのである。ちなみに、私はかって紳助が大阪に家族を残して初めて東京に進出した際に木村氏と一緒になって『極楽テレビ』という番組をプロデュースしたことがある。その『極楽テレビ』はあまりの低視聴率のためのゴールデンプライム5回で打ち切り、というテレビ史に残る不名誉な記録を作ってしまい、島田紳助というタレントの黒歴史を作ってしまったという過去を持っている。
こういうやりとりの結果、フジテレビに対しては吉本興業の木村氏が制作担当の取締役レベルを相手に企画打診をすることになった。同時に制作現場のプロデューサー相手への打診は谷氏が並行して行うことにした。
「M1」くらいの大きな企画の場合には、現場クラスからの企画提案と取締役クラスでの事前承認が並行していないと上手くはいかないのである。日本テレビとTBSに対しても同様の進め方をすることにした。
次は朝日放送の立場からの筋通しである。
島田紳助が発案した企画を吉本興業が全国展開するイベントで、それを大阪準キー局である朝日放送が東京キー局のテレビ朝日になんの事前相談もなしにテレビ特番化すれば「失礼」のそしりを免れない。もしテレビ朝日が番組化してくれるのであれば、朝日放送は準キー局として全面的に協力できる。ましてやこの時点で、6月に入ったら和田は出向してテレビ朝日の取締役に就任することが決まっていたのである。和田の立場がない。
そこで、テレビ朝日に対しては朝日放送の取締役・編成制作局長の和田から、テレビ朝日の番組制作担当常務に企画提案をすることにした。ここでも現場の番組制作プロデューサーレベル相手には谷氏が吉本の立場から企画打診を並行して進めるようにした。
こうして、吉本興業と朝日放送というそれぞれの会社組織としての筋道を通す形で「M1」は東京の各キー局へ打診されたのである。その結果が、東京キー局はどこも「M1」の企画には乗ってはこなかったのである。
フジテレビには既に横澤彪はいなかった。横澤氏は定年を待たずして1995年3月にはフジテレビを退職して吉本興業の東京支社長へと転身していた。「横澤彪のいなくなったフジテレビ」には、もはや紳助の「お笑い芸人の『ことば』を鍛え直す」の意味を理解してくれる人間はいなかった、ということである。
テレビ朝日は、「この話は朝日放送さんが最初に聞いたのだから、どうぞ朝日放送さんで」とやんわりと返された。
こうして「M1」の企画は、吉本興業と朝日放送がそれぞれ企業としての筋を通した結果として、ABC朝日放送の手元に戻ってきたのである。
中村氏が書いたように、確かに「M1プロジェクトは東京キー局にフラれ続け」たのだが、決して「最後の最後にABCに拾われた」のではなく、「最後にはABCに戻ってきた!」のである。私は喜んで、ABCの社内会議で「M1グランプリ」を発議した。
中村さん、ノンフィクションライターなら、もっとちゃんと取材して書こうよ。
【ノンフィクションを書くに際して】
ノンフィクションを書くに際して気をつけなければいけないことは、まずは前提とする事実についての先行記述を鵜呑みにしないことである。複数の資料に当たって事実の確定に務めなければいけない。特にWikipediaなどに安易に依拠してはいけない。これは、私たち大学教員が常々学生諸君に諭していることである。
また、インタビューして得られた証言についても、それを鵜呑みにすることなく複数の人間に当たって違う角度からの証言と照らし合わせることが不可欠である。それは証言者の証言を疑うことではなく、証言者の果たした歴史的役割を正しく確定させるために必要なことなのである。インタビューに応じてくれた人への敬意である。
人は誰でも、思い違いや記憶間違いをするもの、だからである。
『笑い神』に即して言えば、「M1」立ち上げに重要な役割を果たした谷良一氏の場合がそうである。確かに谷氏は「M1」の創設に大きな役割をなした人で、全国規模での予選の仕組み作りや、プロダクションの垣根を越えた参加者の呼びかけや、オートバックスというスポンサーの開拓など彼がいなかったら「M1」ができなかったことは確かである。
しかしながら、谷氏は当時まだ43歳であり、吉本興業を代表してテレビ局各社の取締役レベルと対等に話ができる立場ではなかった。また、吉本興業の会社内においても多くの社員に号令をかける権限は有してはいなかったし、古参の芸人たちに命令を下せる立場でもなかった。そういった社内行政や対外的な交渉を吉本興業を代表して行ったのは、制作担当常務であった木村政雄氏であった。「M1」は木村政雄氏なくしては誕生しなかったのである。
谷氏の功績を確定させるためにも、やはり中村氏は木村政雄氏にインタビューをすべきだった、と私は思う。
また、テレビ番組としての「M1グランプリ」を担当したABC朝日放送のスタッフに対するインタビューでも同じことが言える。インタビューの対象者の多くは、第2回目、第3回目以降を担当した者たちである。
森本茂樹にしても、辻史彦にしても、みな私の後輩でありかつての部下であるが、番組立ち上げの「第1回M1グランプリ」においてはほとんど関わってはいない。テレビ番組において「第1回」の立ち上げ作業が最も重要なことは業界人の常識である。制作指揮を執った私の元で、第1回を担当したのは総合プロデューサーが山村啓介であり、演出面での責任プロデューサーが市川寿憲であり、中継面での責任プロデューサーが今村俊明であった。ちょっと調べたらかわるだろうに、中村氏はなぜその人間たちにインタビューをしなかったのか不思議でならない。
【「M1グランプリ」にあって、他のコンテストにないもの】
「笑芸」のみならず「テレビ業界」にも疎いのか中村氏の叙述には間違いが多い。
『笑い神』の104P、テレビ朝日に出向していた和田が、吉本興業の一プロデューサーである谷氏に対して「朝日放送の年末のゴールデン枠をM1のために割く」なんていう約束を口にするはずがない。和田はその時点ではテレビ朝日の人間なのであり、朝日放送の番組について発言する権限を有してはいない。また、和田はそういった職掌の範囲や自己の立場というものに人一倍ストイック(自制的)な人間である。
これはおそらく谷氏の記憶違いか、時系列の間違いだろう、と推測する。
谷氏に「朝日放送の年末のゴールデン枠をM1のために割く」ことを告げたのは、朝日放送の大阪本社に居た私・吉村誠制作部長と山本晋也編成部長である。
『笑い神』の193p~195pにかけて、「M1」と、他のコンテスト番組「R1グランプリ」「キングオブコント」「THE W」を比較したくだりの、「M1にあって、他のコンテストに欠けているもの。それはABCである」というのは誰がどう読んでも、主語と述語が対応していない奇妙な文章である。
中村氏が理解できていない「本質」を補足して、私なりに言い換えよう。
「『M1にあって、他のコンテストにないもの、それは『思想性』である」。
紳助が言った、「ちかごろのお笑い芸人は「ことば」が弱い。だから『ことば』を鍛え直す真剣な『闘いの場』を作りましょうよ」に込められた、「ことば・観」「お笑い芸人・観」「生活・観」であり、それを読み取るほどの「思想性」である。
この「思想性の有無」こそが、「M1」と他のコンテストを区分けしている本質である。
ちなみに、文章という「文字の書き言葉」を生業(なりわい)とされている中村氏に、「書き言葉が弱くなった」という事象について先見的に書いた先達を紹介しておく。
寺山修司である。劇作家にして詩人でもあった寺山は、1965年の『戦後詩』において、戦後詩の衰弱をもたらした原因として、印刷活字の画一性と標準性を指摘した。同時に、「書き言葉」だけでなく「話しことば」においても、「標準語」が「ことば」から身体性・肉声性・生活性をそぎ落してしまい、情報伝達のためだけの「社会の道具」に堕落してしまっていることを批判した。これを読めば、島田紳助が言う「お笑い芸人の「ことば」が弱くなった」の意味するところがわかるだろう、と思う。
【漫才コンビ「笑い飯」への讃歌として】
中村氏は、それまで縁遠かった「笑芸・漫才」を取材して調べるうちに、漫才コンビ「笑い飯」の漫才がとても気に入ったようである。それはそれでいい。好き嫌いは個人の自由なのだから。
しかし、ノンフィクションの論稿において、個人の感想を一般化して読者に押しつけてはいけない。
『笑い神』を読むと、「笑い飯」の『鳥人(とりじん)』や『機関車トーマス』や『奈良県立歴史民俗博物館』などのネタは「革命的」に面白く、毎回毎回出場のたびにぶっちぎりで優勝しても当然だった、というほどの賛辞に溢れている。そして、その評価の文言の多くは審査員である島田紳助と松本人志の「審査員コメント」に依拠している。
果たして、それで良いのだろうか。
だとするならば、「M1」の審査員は紳助と松本の二人だけでいい、となるではないか。そうではないだろう。発案者であり審査委員長を務める島田紳助、若手漫才師の多くから「神」のように崇められる松本人志、この二人すら「相対化」する視点を保つために木村政雄や私は、二人以外5人の審査員を置いたのである。
どのような「権威」も、どのような「権力」も絶対視してはいけない。絶対視からは、模倣と服従しか生まれないからである。それは政治や社会だけの命題ではなく、芸能や娯楽の領域においてもあてはまる命題である。「M1」が他のコンテストと違う点は「あらゆる権威」を相対化する視点を保っていることである。
さて、中村氏による「笑い飯」の評価に戻ろう。
『笑い神』によれば、「『ミスターM1』、または『M1の申し子』とよばれる笑い飯は、M1が生んだ最大のスターコンビ」とされている。
「えっ、そうなの」と私は首をかしげる。世の中のどれだけの人がそう思っているのだろう。
確かに、私も『鳥人』や『奈良県立歴史博物館』を初めて聞いた時は、変わった発想をするコンビだなぁ、と思った。しかし、奇抜さや物珍しさは、逆から見ればそれだけ一般性や普遍性から遠のく、ということでもある。
再び、近代漫才の父・秋田實の言を引いておく。
「漫才は、私たちの日常生活をネタにした『話しことば』による無邪気な笑い」である。
「笑い飯」の魅力と弱点を読み解く上で、示唆に富んでいる、と私は思う。
翻って、『笑い神』は、中村氏が大好きになった「漫才コンビ・笑い飯」に対する讃歌に徹すればよかったのでないか、と読後に思った。そこを無理やりに(おそらく、きっと、多分、編集者が売らんがための戦略として教唆したのだろう)世上で人気のある「M1グランプリ」とくっつけて論稿化したから、いびつなものになった。経糸である「M1の歴史」と、横糸である「笑い飯の漫才」が、こんがらがってもつれている。
【関西弁は関東弁より早いか】
最後に、中村氏の「言語論」上の明らかな間違いを指摘しておく。
中村氏は「漫才とは何か?笑いとは何か?」を探る前提として、「関西弁の方が関東弁よりも早い・テンポがいい」との「仮説」を立てて臨んでいる。これは「仮説」というより、「妄説」「虚説」である。
「関西弁」であろうが「関東弁」であろうが「東北弁」であろうが「博多弁」であろうが「三河弁」であろうが、地域方言そのものに「早い方言」や「遅い方言」などありはしない。そもそもすべての言語の存在実態は「方言」なのだが、あるのは「早口でしゃべる人」がいること、「ゆっくりしゃべる人」がいること、だけである。「ことば」を喋るスピードはその人ひとりひとりの個性的な特徴である。
それどころか、多くの関西弁話者は「東京弁はなんと早くてチャキチャキしてるんやろ」と感じている、と私は思う。古くから「関東弁はチャキチャキしてる」「関西弁ははんなりしてる」と言われている。この方が民衆の実感に近いのではないだろうか。私の世代の経験では、かつて昔のTBSテレビ『ザ・ベストテン』でアナウンサーの久米宏と俳優の黒柳徹子が、速射砲のような速さで「標準語風関東弁」をしゃべっているのを聞いて「関東弁はなんと早いんだろう」と驚いた記憶がなまなましい。
ここからも言えることだが、一般的に「耳になじみのないことば」は早く聞こえるものだ。英語の苦手な人がアメリカ人がしゃべるのを聞いて、「早くてわからん」と感じる、あれである。
おそらく千葉県で生まれ育ち、関東弁を「母語・母方言」として成長された中村氏が大学生になって京都に来て、初めて耳にした「関西弁」が耳に馴染みのない「ことば」でとても早く聞こえたか、身の周りに早口の関西弁話者がいたのでそう感じたのか、だろう。
ちなみに、今回この論稿を書くにあたって何人かの知り合いの言語学者に「関西弁が関東弁より早い」という先行研究があるか、を尋ねたところ「そのような研究は聞いたことがない。そもそも一つの方言と別の方言の話すスピードを比較するためには、無作為の何百何千何万という対象を何かの基準で計測しなければならず、それは無理だ」との答えであった。
いずれにしても、個人的な体験を一般化してはいけない。
次に、「話す速さ」と「笑いの生成」についてであるが、中村氏は「話すスピードが速い方が笑いを多く産み出せる」との論を採っているようである。
これは初歩的な間違いである。実は若手漫才師の多くが、一度はこの間違いを経由する。とにかく、大きな声で早口でまくしたてれば「笑い」が取れる、と勘違いしてしまう。
反証として、それこそ若手漫才師が「神」とあがめている「ダウンタウン・松本人志」のしゃべりを聞けばすぐわかる。松本の話している「関西弁のしゃべりことば」は決して早くない。どころか、大阪の町の中でしゃべっている一般の関西人より遅い。
「話す速さ」と「笑いの生成」とは無関係である。
さて、中村氏の「言語論上の間違い」を指摘したが、中村氏が「ことば」と「笑い」の相関関係の核心に近づいたところが少しだけある(せっかく近づいたと思ったとたんに、また離れて遠のくのが惜しい、のだが)。
それは、『笑い神』のプロローグ7pの「関西弁とは、なんと感情を乗せやすく、テンポのいい話し言葉なのか」という部分である(下線は筆者)。そうなのだ、「感情を乗せやすいことば」が「いいことば」であり、「笑い」を産み出すための強力な武器になりうる「強いことば」なのだ、ということである。
せっかく核心に近づいたと思ったとたんに、中村氏は6行後には「漫才における最強の話し言葉は関西弁である。そんな確信があった。」と、あっという間に核心から遠ざかる。違うのだ、「関西弁が強い」のではなく「感情を乗せやすいことばが強い」のだ。それは「関東弁」であろうが「博多弁」であろうが「土佐弁」であろうが「山形弁」であろうが何弁でもいいのだ。
「感情を乗せやすいことば」とは、私たちの「身体と生活」にしっかりと馴染んだ「暮らしのことば」である。家庭の中で、親や兄弟と、なんの意識もしないで自然にスッと口から出てくる「ことば」のことである。
ちなみに、「関西弁vs関東弁」という呪縛から逃れられない中村氏は、2022年の「M1」でウエストランドが優勝したことを捉えて「もう一つ衝撃的だったのは、彼らが、関東の言葉によるしゃべくり漫才で優勝したこと」と発言されていた(「現代ビジネス」による)が、的外れである。
ウエストランドの河本太も井口浩之も岡山県津山市の出身で、高校まで津山で暮らしていた。津山の「ことば」は「内輪東京式アクセント」といって、元々東京弁に近い方言である。これは「ことばは中央から(昔は京都が日本の中心だった)地方に波紋のように広がる」という柳田国男の言語周圏論で説明されており、近年では『探偵ナイトスクープ』の企画発案者である松本修氏が『アホ・バカ分布考』でそのことを立証している。
つまり、ウエストランドの「ことば」は関東弁ではなく津山弁が東京弁と混合したものである。両者はもともと言語的に近い。この点、同じ岡山県の出身であっても「千鳥」のノブは南部の井原市の出身で、大悟は瀬戸内海の北木島の出身で、二人とも関西式アクセントの話者であり、二人の「ことば」はウエストランドの「ことば」とはかなり違う。
もし今後とも中村氏が「漫才」や「笑い」について語られるのであれば、「漫才という笑芸」を成立させている「話されることば」について、もう少し基礎を勉強してから出直される方が良い、と思う。
私たちが日常生活で使っている「暮らしのことば」が一番「自然で強いことば」なのだ、という簡単な理屈に、簡単だからこそ多くの人は気が付きにくい。「ことば」を唯一の武器として生きる「お笑い芸人」も、この「ことばの原則」になかなか辿り着けないし、辿り着ける人間は数少ない。
その逆で、「弱いことば」を使って無理やりに「笑い」を作り出そうとする者は、不自然な「ネタ」なるものを一所懸命に構築して聞き手を惹きつけようとする。私たち人間の言語脳はとても優れているので「弱いことば」の使い手たちの「ことば」は一言二言聞いただけでその弱さや不自然さを感じとってしまう。経済的必要性のために習得した「職業用東京弁」や、漫才をするために習得した「漫才用関西弁」がそれである。その弱さをカバーしようとして「弱いことば」の話者は大きな声で怒鳴ったり早口でまくしたてたりする。これが下手な漫才の特徴である。
無理して「ネタ」なんて作らなくても、私たちの日々の暮らしには思わず笑ってしまうような出来事が満ち溢れているのに。
【最後に。「M1」は勲章を得るためにあるのか?】
『笑い神』の記述中で、中村氏に賛同する部分もある。
それは、「あくまで通過点のはずだったM1が、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている」(113p)という指摘である。再開した第11回目以降に露わになる変質は、審査員の選定に顕著である。審査員のほとんどを漫才経験者にしてしまったがゆえに、「ネタ」や「ボケ・ツッコミ」などの技術についての評価が著しくなってしまった。
とは言え、時々は創設当初の「漫才にとって『ことば』とは何なのか」という問いかけを思い出させるようなコンビが登場したりして、志の遺伝子を感じたりもするのである。
さて、今や「M1」は「グランプリ優勝者」や「M1ファイナリスト」なんていう新しい「勲章」を産み出すイベントになってしまった。しかし、「漫才師」にとって、「漫才」を楽しむ民衆にとって、はたしてそんな勲章には何ほどかの意味があるのだろうか。
かつて、芥川龍之介は
「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろうか?」(『侏儒の言葉』)
と書いて、勲章を誇る人間たちをからかった。
この有名な文章のすぐ前に、次の一文があることはあまり知られていない。
「殊に小児と似ているのは、喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うのかも問わず、欣然と敵に当たることである。」(下線は筆者)
中村計氏の『笑い神』がもたらした功績は、「M1グランプリ」なる闘いにおいて、「何のために闘う」のかを忘れて、「勲章獲り」にかけずりまわった多くのお笑い芸人たちの姿を私たちに見せてくれたこと、であろう。
大切なことは、「勲章」を得ることではなく、「何のために闘うのか」を自らに問うことである。
「勲章」を手にした漫才師が生き残るのではなく、「何のために闘うのか」を問うことのできたお笑い芸人だけが生き残るのである。
これからの「M1」に関わる多くの人たち、参加する漫才師たち、番組に携わるスタッフの人たちにこのことを忘れないで欲しい、と切に願う。「M1グランプリ」を創設した者の一人として。
―――以上―――