2020年M-1は、「優勝該当者なし」です
年に2回選ばれる芥川賞と直木賞に「該当作なし」という選考結果がある。
そのひそみにならえば、今回の2020年M-1グランプリは「優勝該当者なし」と言うのが、私の感想である。
理由は単純で、出演者のいずれもが「優勝基準に達していない」と、私は思うからである。
とは言いながら、テレビ番組・M-1グランプリでは審査員諸氏による相対評価で採点されるので、その結果として2020年M-1が「マヂカルラブリー」の優勝に終わったことは周知の事実である。
その結果に対して、SNS上や各所で様々な論議が交わされていることも踏まえて、少しだけ私の考えを述べようと思う。
それは、M-1を創出した人間の一人として、これからのM-1のためにも何がしかのエールを送りたい、と思うからである。
「会話」が成立していない!
去年2019年の「M-1」が、「コーンフレーク」のミルクボーイというとてつもなく面白いお笑い芸人の登場で腹を抱えて笑っただけに、今年はあまり期待をしないで観た「M-1」だった。
優勝した「マヂカルラブリー」を巡って、「あれは果たして漫才と呼べるのか?」という多くの疑問が投げかけられている。とても素直な疑問だ、と思う。
だが、そこで「漫才とは何か?」という概念を巡る神学的な論争を展開することに大した意味はない。
「漫才」の定義などは、あってないようなものだし、そもそも「定義」などは人為的な概念操作にすぎないものだから、それに囚われる必要はない。
ただ、しかし、ここで「概念的」ではない「物理的」な状況を考慮することには大きな意味がある。
その「物理的な状況」とは何かと言えば、「漫才」なる芸能は「二人で演じる笑芸である」ということだ。(かつての『かしまし娘』のように、3人で演じる場合も勿論ある)
つまり、舞台上に「二人の人間が居る」ということである。
「二人で居る」からには、「二人で居る」だけの必然性がなければいけない。
そうでなければ「二人で居る」ことの有効的な意味はない。
漫才は「会話」である
そして、「二人で居る」ことの必然性とは、それぞれ個別の存在である「二人の演者」の間に相互浸透性があること、であろう。
相互浸透性があって初めて、「一人」+「二人の関係」+「一人」となり、「1+1=2」以上の存在が生まれることになる。
そして、この相互浸透性を成立させるためのメディアが「オトのことば」なのである。
つまり、「ことばによる会話」があって初めて「二人の人間の相互浸透性」は成立するのだ。
この視点から言って、今回のM-1出場者の多くには「会話」が成立していなかった、と私は見たのである。
優勝した「マジカルラブリー」も、「おいでやすこが」も、二人の演者の間に「会話」は成立していない。もしくは「会話」を最初から拒んでいる。あくまで「ピン芸人」が舞台上に二人居る、に過ぎない。
ここで、私が、古いタイプの「しゃべくり漫才」だけを良しとしているのではない、ことは理解してもらいたい。
なぜなら、「会話」を成立させるためのメディアである「オトのことば」は、そもそもが「肺・喉・口」といった身体の諸器官を駆使して営まれる表現機能であるから、「オトのことば」以前の「身振り・手振り」や「顔の表情」や「身体の動き」そのものも、幅広い意味で「相互浸透性」を成立させるための手段であることは間違いないからである。
だからこそ、「オト」のない「パントマイム」も、「オト」の途切れた「間(ま)」も、笑いを産むことができるのである。
しかしながら、その無音の「マイム」も「間」も、「『オトのことば』を使った相互浸透性」があって初めて成立するものである、ということが重要なのである。
今年のM-1は漫才ではなく「一人芸」
繰り返しになるが、今回のM-1の出場者の多くには、この「会話による相互浸透性」を築こうとしている演者が少なかった、と思う。
だから、「マヂカルラブリー」の野田クリスタル氏が、どんなに懸命に「極端に揺れる電車内」の客の動きを演じていようと、「よう動くなぁ、オモロイ動きするなぁ」と感心はするものの私には笑えなかった。
「おいでやすこが」の「こがけん」氏が、途切れることなく歌い続けるのを聞いていても、「よう次から次へ色々な歌が続けられるなぁ」と感心はしても、「それでどうなるの」としか思えなかった。
当然と言えば当然なのだが、「演者二人の会話」が成立していない「漫才」では、演者の一人一人が自己の存在を主張することが目的となるため、一人で勝手に大きく動くか、一人で早口でがなり立てるか、になる。
それは「一人芸」である。
「二人でやる漫才」ではない。
「しゃべくり漫才」の形は取っていたが、「見取り図」も充分に「会話」は成立していなかった。
盛山晋太郎氏の、一方的な喚きに終始しており、「盛山+リリー」という二人の関係までは産み出すに至らなかった。だから笑えなかった。
「会話」を成り立たせようとしない「ことば」は弱い。
弱いから、声の大きさや速さという見せかけの武装をせざるを得ない、のだ。
かって「M1」を企画発案した島田紳助の意図は、「弱くなったお笑い芸人のことば」を鍛え直す場、を提供することであった。
「立川志らく」の論評について
一昨年の「上沼恵美子さん講評」を巡る後日談と、今年の「コロナ禍」の影響を受けてか、審査員は昨年とあえて同じ顔触れにしていた。
各審査員氏の講評は、視聴者や主催者や出場者に対してかなりの気遣いが見受けられ、いささか鋭さに欠けていたと思った。
わかりやすく言えば、「今年はレベルが低いから、講評は柔らかめにしておこう」という審査員諸氏の心根が透けて見えるようだったし、少なくとも審査員諸氏から見て自分の座を脅かすほどの脅威を感じる若手がいなかったことだけは確かである。
そんな中で、今回の審査員諸氏の講評で、立川志らく氏の談は傾聴に値する。
いわく、「漫才の闘いで、喜劇に票を入れていいのか葛藤した」の評である。
ここには、同じ「オトのことば」を使う笑芸である「落語」の領域から発せられた深い含蓄がある。
立川志らく氏は、他の所で「今の若手漫才師が仰ぎ見ているダウンタウンの漫才には、夢路いとし・喜美こいしが入っている」とも言っている。
さすがに正鵠を射た「笑論」である。
ダウンタウンの漫才は、決して派手に大きく動き廻るわけでもないし、早口や大声で怒鳴り立てるわけではない。
それどころか、どちらかと言えばゆっくりとしたしゃべりである。
それは、彼等の漫才が、先行する「紳助・竜介」や「ツービート」や「B&B」ら漫才ブームを牽引した早口・大声漫才に対してのアンチテーゼという意味合いを持っていたことにより、もう一世代前の「夢路いとし・喜美こいし」の漫才の精神を再生復活させた、という時代的な役割を担っていたということを意味しているからだ。
秋田實の漫才論
近代漫才の形を作ったと言われる秋田實がこう言っている。
「漫才は、日常の身近な話題をネタにして、健康で無邪気な笑いを産む芸能である」と。
ここには、進歩的なマルクス思想者から、庶民という一般民衆の日常生活に「本当のしあわせ」を見出そうとした人間の精神的な転回が隠されている。
一般民衆の日常生活とは「日常会話」の積み重ね、に他ならない。
「オトのことば」のやりとりの中にこそ、人間同士の「相互浸透性」は育まれ、「無邪気な笑いと幸せ」が生まれる、と秋田實は考えたのだろう、と私は思う。
やはり、2001年に「M-1」を立ち上げた時のように、審査員は「漫才」の世界からだけではなく「演劇」や「小説」や「落語」といった幅広い「言語表現」の世界から選んだ方が良い、と思う。
その方が、「漫才」という表現形式の本質を照射することができるだろう、と思うからである。
そして、受賞者ならびに決勝戦参加者への本当の評価は、これから一般の観客によって下されるのだろう。
「小説」と「漫才」と
かつて、第127回の直木賞の選考において、その時の審査員であった井上ひさしが、受賞作となった乙川優三郎の『生きる』を評してこう語ったことがある。
『これは、小説の勝利である』と。
その意味は、「文字」というメディアを使った「小説」という表現形式でしか成し得なかった「表現」への惜しみない賞賛であった。
「話すオトのことば」を使って、二人の人間が作り出す「漫才」という「表現形式」の力を、もう一度問い直す時が来ているのではないだろうか。
2020年の「M-1グランプリ」を見て、そんなことを感じたのであった。