吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

【報道記者の言語学】森喜朗記者会見で見えた日本のマスコミ記者の不甲斐なさ

2月4日()の午後2時から行われた、森喜朗東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長の発言撤回記者会見をリアルタイムで見た。

「報道記者」と呼べるのは、TBSラジオ・沢田記者だけだった。

彼以外は、残念ながら「腑抜け記者たち」としか言いようがない。

政治記者の質問レベルが低かった

ことの発端は、2月3日()に森氏がJOC(日本オリンピック委員会)評議員会に出て挨拶をした際に、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言をしたこと、ならびに「女性は競争意識が強い。誰か一人が手を挙げて言うと、自分も言わないといけないと思うんでしょうね。それでみんなが発言される」という発言をしたこと、である。

4日の記者会見は、これに対する釈明の記者会見であった。

 

ここで私が注目したのは、会場に居て「質問」をしたマスコミ各社の記者たちの「質問レベルの低さ」である。

それは「言語レベル」の低さであり、「論理レベル」の低さである。

 

今や、ネット環境やSNSの発達によって、新聞社やテレビ局の記者が「情報の特権階級者」でなくなってきている時代であるにも拘わらず、彼ら・彼女らは相変わらず昔ながらの立場から脱却できていないことを露呈してしまった。

それが残念なのである。

 

20数分間の記者会見で、延べ7人の記者が「質問」をしたのだが、その中で明確な論理をもって「自分のことば」で森氏に質問をしたのはTBSラジオの沢田記者だけであった。

だから、森氏は沢田記者の質問に対して露骨に嫌な顔をし、しまいには「もう、そういう話は聞きたくない」と質問をさえぎり、そっぽを向いたのである。

そして、その後には「おもしろおかしくしたいから聞いてんだろ」と威圧までしたのである。

 

沢田記者以外の6人の記者は、老獪な政治家である森氏の恫喝的な態度や非論理的な言い廻しに惑わされて聞くべきことを聞けなかった。

わかりやすく言えば「びびった」のである。

読者や視聴者である一般民衆が、素直に「知りたい・聞きたい」と思うことを聞きだせなかったのである。

 

マスコミ報道の責務

「報道の本質とは、事実を伝えることです」

これは、アメリカ映画でジャーナリズムを題材にした『アンカーウーマン』で、主人公のタリ―・アトウォーターが語る言葉である。

 

では、今回の森氏の記者会見において、臨場していた報道記者たちが「追求すべき事実」とは何であったのか。

それは、森喜朗という人の「女性観」である。

巷の一般民衆が知りたかったことは、森喜朗という人が「女性」という存在を本心でどう思っているのか、である。

これこそが「追求すべき事実」だったのだ。

 

ここで間違ってはいけないのは、ジャーナリズムの使命は「森喜朗の女性観」を倫理的に裁くことではない、ということである。

森氏がどのような「女性観」を持っていようと、それは個人の「思想・信条の自由」に属する。

裁くのは「事実」を明らかにした後のことであり、裁く者はマスコミではなく、JOC(日本オリンピック委員会)自身であり、社会であり、一般民衆なのである。

スコミの役割とは、判断のための材料としての「事実」を伝えることに他ならない。

 

記者が明らかにすべきことは何だったか

この、基本に立って、今回の「森喜朗の記者会見」とその「質疑応答」を振り返ってみよう。

まず会見の冒頭で森氏は、

「昨日のJOC評議会での発言につきましては、オリンピック・パラリンピックの精神に反して不適切な表現があったと、このように認識しております。そのために、深く反省をしております。そして発言を致しました件については撤回をしたい。以上であります」

「お詫びをして訂正、撤回をする、ということを申し上げた訳であります。以上です」

と読み上げた。

 

一般民衆の日常生活における「言語感覚」を基に考えればすぐに次の疑問が湧いてくるだろう。

「しゃべった事実は無しにはならんやろう」

「発言したことについては撤回する、ということは心の中ではそう思ってるということなの」

「日頃から思っているからつい出た本音だろ」

素直な疑問である。

そして報道記者たちに聞いて欲しいのはこの点であった。

 

的外れな質問をする記者たち

しかしながら、こういった民衆の素朴な疑問に立脚した質問はほとんど出なかった。

1.本質を外した質問の幹事社記者

「幹事社の日本テレビです」という女性記者。

最初の質問は「今回の発言が国内外から多くの批判が上がっています。会長の中で辞任しなければならないと考えたことはあったのですか?」と、いきなり本質を外した政治的対処方についての質問。

「辞任するという考えはありません」と森氏に一言で返されてしまった。

続いて、もう一問、「IOCは(中略)オリンピックにおける男女平等を掲げています。(中略)大会のトップとして今後世界、国内にどのように説明されてゆくのでしょうか?」とまたしても筋を外した状況論についての質問。

これに対して森氏は「私は組織委員会の理事会に出た訳ではないんですよ。(中略)あくまでもJOC評議員会に出て挨拶したということです」と、自分の発言の内容についてではなく発言した場と状況について長々と説明。

質問した日本テレビの女性記者は、その答えに対して何らの言及もしなかった。

 

「情報特権階級」としての「記者クラブ」の持ち回り番であろうが、このようなレベルの記者がマスコミを代表する「幹事社」として代表質問をしてはいけない。

こういった事の積み重ねが、若者たちの新聞離れ・テレビ離れをもたらしているのである。

いいかげんに日本のマスコミ各社は自分たちの時代遅れに気がつかなければならない。

 

2.お礼を言ってしまう記者

2人目が「日刊ゲンダイと申します」と言った男性記者。

JOCから真意の問い合わせ等々、ございましたでしょうか?」と質問し、「さぁ、私はわかりませんが(後略)」と答えた森氏に、「森会長の方から説明する意思はございますでしょうか?」と重ねたが、森氏が語気強く「そんな必要ないですよ、今ここでしたんだから」と言われると「わかりました。ありがとうございます」。

どう見ても、森氏の威圧的な語気にひるんでスゴスゴと退却したとしか見えなかった。

 

質問に答えた相手に礼を言うのは敬意があってよいが、今回の場合は怖気づいただけではないか。

 

3.質問意図がはっきりしていない記者

3人目は「TBSの城島と申します」と初めて名乗った女性記者。

「オリンピックの理念に反するような発言であったと思いますが、ご自身が何らかの形で責任を取らないということが、逆に、開催への批判を強めてしまうものではないか、と思うのですがどうお考えでしょうか?」

質問の前段と後段の論理がずれているから、聞いていて、文意がはっきりしない日本語である。

それは質問している城島記者の論理がはっきりしていないからである。

 

しかし、ここで森氏はこう答えてしまった。

「今あんたがおっしゃるとおりのことを最初に申し上げたじゃないですか。誤解を生んではいけないので撤回します、と申し上げている。オリンピック精神に反すると思い、そう申し上げている」。

 

城島記者はここを突っこまなければいけなかった。

森氏は、はからずも自分の発言した内容がオリンピック精神に反する「女性蔑視」であることを認めているのである。ならば、城島記者は森氏が心の中でどう思っているかの「事実」を問わねばならなかったのである。

残念ながら、城島記者にそれだけの「言語感知能力」と「質問を重ねる論理力」が欠けていたと言わざるを得ない。

 

しかしながら、城島氏がきちんと姓を名乗ったことは大きく評価する。

権力者を相手にして、姓名をはっきりと名乗るということはとても大きな意味を持っていること、なのである。勇気の要ることなのである。

日本のマスコミでは、記者のほとんどが大きな新聞社やテレビ局に所属するサラリーマンで、生活も生命も基本的に保証されているから会社名だけを名乗って姓名を名乗らないことが多い。

会社の名前ははっきりと言うが、記者自身の名前は小声で付け足しのように言う者が多い。

 

しかし諸外国ではそうではない。

「ジャーナリスト」は基本的に、個人の生活と生命と人格を懸けた職業なのである。

下手をすれば命の危険に晒されることすら有るのだ。

それくらい「ジャーナリスト」という職業は覚悟のいる職業なのである。

 

今回の会見ではやっと、城島記者より後の質問者は誰もが姓を名乗るようになった。

 

4.質問の前に凄まれてしまった記者

4人目は「NHKの今井です」と名乗った女性記者。

いきなり森氏に「良くわかっています」と顔見知りであることをかぶせられてしまう。

もうここで「勝負」は終わっている。

既知の間柄であることを示す出会いがしらの一言で、質問をコントロールしょうとする権力者の常套的手法である。鋭い質問は期待できないことが予想された。

案の定、質問は、ロンドンブーツ1号2号の田村惇が聖火ランナーを辞退したことへの森氏の受け止めであったが、森氏の一方的な説明を拝聴して終わり、であった。

 

これだから、テレビも大新聞も「親しき仲にもスキャンダル」を標榜する新谷編集長率いる「週刊文春」に負けるのだ。

小さな出来事と思われるかも知れないが、NHKが自立した報道機関になれるかどうかは、こういう所から始まるのである。

 

5.切りこめなかった記者

5人目は「毎日放送の三沢と申します」と名乗った男性記者。

「やはり会長は基本的に女性は話が長いと思ってらっしゃるんですか?」と聞き、森氏が「最近、女性に話、聞かないんであまり分かりません」との答えを引き出した。

ここも、三沢記者は突っこむべき所であった。

「ならば、なぜ『女性の理事は話が長い』と言えるのか」「それは伝聞か、もしくは偏見に基づく独断的な女性差別ではないのか」と。

そして「発言の撤回」には拘わらず、森氏の思想・信条として「女性をそう観ている」という「事実」を追求するべきポイントであったはずだ。

しかし、三沢記者は追求できなかった。

 

6.6人目の、報道記者と呼ぶに足る記者

6人目に質問に立ったのが「TBSラジオの沢田」記者であった。

からして、まだ若い男性記者だと思われた。

「幾つか伺わせて下さい」と切り出した所、いきなり森氏に大きな声で「幾つかじゃなくて1つにしてください」と凄まれたが彼は怯まなかった。

 

「冒頭『誤解を招く』とか『不適切な発言があった』とかいう発言があったんですが、どこがどう不適切だったと、会長としてはお考えなんですか?」と聞いた。

この日、初めての正鵠を射る質問だった。

だからこそ、森氏は一瞬言い淀んだ。

「えー、はい、『男女の区別』するような発言をした、ということですね」

「差別」と言わずに「区別」と、森氏が瞬時に頭の中で言い換えたことが推察される。

沢田記者はすかさず畳みかけた。

「オリンピック精神に反する、という話もされてましたけど、そういった方が組織委員会の会長をされることは適任なんでしょうか?」

森氏は一瞬顔を歪ませ、「さぁ、あなたはどう思いますか?」と切り返した。

すかさず沢田記者は「私は適任じゃないと思うんですが」と言った。

森氏は「そいじゃ、そういうふうに承っておきます」と答えた。

不機嫌を丸出しにした受け答えであった。

 

政治家や権力者に対する質問者のあるべき姿である、と私は沢田記者を高く評価する。

 

なぜか。

沢田記者は会見に臨んで、何を聞きだすかを事前にしっかりと見定めている。

聞きだすべきは「森喜朗の心中の事実」であることを見定めて、覚悟を持って聞いている。

沢田記者の追求によって、森氏は心の中で「女性の会議参加者はうっとうしい」と思っていることが明白になった。森氏は思想・信条として「女性を蔑視している」ことが明白になった。

一つの「事実」が明らかになったのである。

 

記者は、質問の論拠を自分の中に持たねばならない

沢田記者は「質問は1つに」という釘指しにも拘わらずに次の質問をした。

沢田「あと『わきまえる』という表現を使われていましたけれども、女性は『発言を控える立場だ』という認識ですか?」

森氏「いや、そういうことでもありません」

沢田「じゃ、なぜ、ああいう発言になったんですか?」

森氏「場所だとか、時間だとか、テーマだとか、そういう物にやっぱり合わせて話していくということが大事じゃないんですか(後略)」

沢田「それは女性と限る必要あるんですか?」

森氏「だから、私も含めてと言ったじゃないですか(中略)もう、そういう話は聞きたくない」

森氏は質問をさえぎり、そっぽを向いた。

 

さらに森氏は数秒後に、「おもしろおかしくしたいから聞いてんだろ」と沢田記者の方を振り返って睨みつけた。

それに対して沢田記者は何を問題と思っているかを聞きたいから聞いているんです」と明確に答えた。

沢田記者は質問する論拠を自分の中にしっかりと持っていたから「私は~思っている」と、一人称を使った発言が出来たのである。

首相経験者であり「スポーツ業界の大御所」と言われる森氏を相手に「自分のことば」で堂々と対峙していた。

 

それに比べて、他の記者たちは「世間では~の声があるが」や「外国では~の反応があるが」などと、内在的な論拠を持っていないから、一人称を明示した質問ができない。

もっともらしい質問をしているように聞こえるが、論拠は借り物である。

だから「ことば」が弱い。

森喜朗という老練な政治家に易々とからめとられるほどに弱い。

 

7.切りこめなかった記者2

7人目で最後の質問者は「ハフポストの浜田です」と名乗る男性記者だった。

浜田記者は「先ほど、『女性が多いと時間が長くなる』という発言を『誤解』と表現した、と思うんですけどこれは『誤った認識だ』ということなんじゃないでしょうか?」と聞いた。

これに対して森氏は「そういうふうに聞いておるんです」と答え、更に「各協会や連盟で人事に非情に苦労しておられたようです」や「山下さんのJOC理事会で女性の理事枠を増やさなきゃいけない事で大変な苦労をしたと聞いた」と加えた。

 

続いて浜田記者は「女性が多いと会議が長い、というのはデータに基づいて根拠のある発言とは思えないんですけど」と突っこんだが、甘い。

質問する人間の論拠がずれ始めている。

森氏くらいの政治家になると、相手の論拠の揺れは絶対に見逃さない。

「さぁ、そういう事を言う人はどういう根拠でおっしゃったかは分かりませんけど(中略)そんな話を私は聞いたことを思い出して言ってるんです」と、自身の発言の根拠を「他人の噂話」にすり替えてしまった。

ここでも浜田記者が問いただすべきは「森氏の認識そのもの・森氏の女性観」であった。

「根拠がないのにあなたは女性差別的な発言をしたのですか?」と問うべきであったのだ。

いささか惜しい質問であった。

 

政治家や権力者は、巧みな弁舌や狷介な言い廻しでもって、自分の真意を隠したり誤魔化したりすることにたけている。

それに対して「誰にでもわかる民衆のことば」で「事実」を明らかにするよう迫るのが本当の意味での「ジャーナリスト」である。

「ことば・言葉」は「人格」の表象に他ならない、のだ。

 

 

並みいる多くの「報道記者たち」が、「情報の特権階級」に居ることに安住し、権力者に迎合した「弱弱しいことば」で質問を展開するという悲しい日本のマスコミの現実を改めて確認すると共に、一筋の光明を観た思いのする「森喜朗記者会見」であった。