圧巻の演技と演出――NHK「西郷どん」渡辺謙vs鹿賀丈史――ドラマのリアリティ
大学の前期授業終わり、なんだかんだで、twitterの更新も「いとをかし」ブログの更新も滞ってしまいました。「インフルエンザで倒れてるんちゃうかぁ」とメールで安否を気遣って下さった方々、ありがとうございました。誠さんは元気です。
真剣に見てるドラマってありますか?
さてさて、先日、女子大生たちと「ドラマのことば」とリアリティについて話をしていたら、学生に「せんせぇ、大丈夫ですよー」って言われました。
うんっ、どういうこと? と思う僕に、
「誰も、テレビのドラマがリアルなんて思ってませんからぁ。だってぇ、山田涼介や藤ケ谷大輔みたいな男子が身近にいるわけないしー、私たちだって広瀬すずや吉岡里帆みたいに女子力パンパンじゃないですからぁ」
「みんな、ファンタジーだと思って見てるから安心して下さーい」
「それより、先生みたいに真剣にドラマ見てたら、面白くないでしょう」
うーんっ、なるほど!
と、変に納得させられたのでありました。
現代の若者にとって「テレビドラマ」はそんな位置付けなのかも知れませんね。
かつて「テレビドラマ」を喰い入るように見ていた僕達世代とは大きく違うようです。
でも翻って考えれば、それだけ「真剣に見る」に値するドラマが今は無い!って言うことの証しなんでしょうけどね。
さて、そんな中で、「生活ことば」の強さをしっかり認識しようと言っている僕としては、今期ドラマの最高作として、NHK大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』を強く推奨します。
前回のブログにも少し書きましたが、『西郷どん』は脚本・演出のレベルが違います。そして、それに応える俳優たちの演技力が素晴らしい、のです。
渡辺健と鹿賀丈史、圧巻の演技!
1月28日(日)放送の「西郷どん・第4回 新しき藩主」
薩摩藩主の座を譲ろうとしない父・斉興(なりおき・鹿賀丈史)に、退位を迫る嫡男・斉彬(なりあきら・渡辺謙)が、まさしく身命を賭して対峙するシーンでした。
斉興「わぁしが、易々と隠居すちょぉと思うとか」
斉彬「父上、薩摩の主にふさわしき振る舞いをなされませ」
斉興「わしゃぁ、おまえが、好かぁーん!」
斉彬「これは、父上と私の、最後のいくさです」
舶来物のピストルを取り出して、ロシアンルーレットで父・斉興に迫る息子・斉彬。
先に引き金を引く斉彬の必死の形相と涙。続いてピストルを渡され、震えながら引き金を引こうとする斉興の苦悶の表情と身震い。
いやぁ、実に見ごたえがありました。
日本のテレビドラマで、これだけの殺気迫るシーンは記憶にありません。
早くも2018年のテレビドラマ・ベストシーン賞を、お二人に差し上げたいと思います。
(ちなみに2017年は朝ドラ『ひよっこ』での木村佳乃さんで、
「ちゃんと名前があります。」
「茨城の奥茨城村で生まれ育った、矢田部実という人間を探してください、とお願いしてるのです」
という台詞を、茨城訛りで涙を噛みしめてしゃべったシーン、でした。)
リアリティはことばから
で、この場面のリアリティを成立させている最も大きい要素は、父・斉興(なりおき)と息子・斉彬(なりあきら)の二人がしゃべる「ことば」です。
斉興は「薩摩ことば」で、斉彬は「江戸ことば」です。
その理由は、斉興が薩摩で生まれ育ったのに対し、斉彬は嫡男でありながら江戸で生まれて江戸で育ってきたからです。
「ことば」は、その人の「生活」と「人生」を現します。
ここを的確に押さえていることが、ドラマシーンに奥行きを与えているのです。
若き日の西郷吉之助や大久保正助の先生である赤山靭負(あかやまゆきえ)が、切腹を命じられ死を覚悟して門弟たちを集めて語るシーン。
演じる俳優は沢村一樹です。
「こげんしてみたら、おはんらもこの芋と同じじゃな。
この芋ちゅうのは、ひとつとして同じ形のもはなかぁ。
この桶ん中入れて、ごろーっと洗えばお互いにぶつかり合うて、きれぇーに泥が落ちる。
おはんらも同じじゃ。一人一人、姿、形も違えば、一人一人考え方も違う。
これからもぶつかり合い、切磋琢磨して立派な侍になってくれぇ、それがオイの最後の願いじゃ」
沢村一樹は、鹿児島県の出身なので、今回の「セリフ作り」はそんなには難しくなかったかも知れません。
が、彼は去年の朝ドラ『ひよっこ』では、有村架純演じる主人公・矢田部みね子の父親である奥茨城村の農民・矢田部実を演じました。もちろん「茨城訛り」で。
俳優vs脚本家・演出家の思考力
『西郷どん』の優れている点は、脚本家と演出家が「ことばと生活」の関係をしっかりと捉えており、俳優陣がそれに応えて、脇役から子役に至るまで各々の登場人物が使う「ことば」を、しっかりと考えて修練しているところです。
「薩摩訛り」のせいで聞き取りにくいところがある、との視聴者評もあるようですが、気にすることはありません。だいたい僕たちの日常会話は、当事者以外は聞き取れない部分があるのが普通ですからね。そして、日本語は質的な同一性が高いので少しくらい聞き取れなくても充分に意味は通じています。
で、演じている俳優からすれば、この「ことば作りから役作りへ」というプロセスはかなりの役者エネルギーを使う作業です。民放テレビドラマの、安直な「標準語セリフ・東京語セリフ」に対応するのに比べて数十倍の役者エネルギーを使います。
これは、決して『西郷どん』が歴史ドラマであるからではなくて、たとえ現代ドラマであったとしても、ひとえにドラマ制作者の「ことばと生活」に対する思考力の問題です。
俳優は、脚本や演出の力量に応じて演技力を発揮するものなのです。
『西郷どん』に比べれば、民放ドラマに費やす役者のエネルギーは全く軽いものです。
セリフは、よほどのことが無いかぎり「標準語近似値としての現代東京語」で済みますし、そもそも「配役の使うことば」について注文を出す演出家なんてほとんど居ません。
「ことば作り」にそれだけ無神経だということは、人生の背景をも含めた「役作り」にも当然無頓着だということです。
顔の売れているアイドル男優や美人女優のキャスティングが何より大事な要素となっているので、彼らや彼女らに「生活感のあることば」を修練させる時間もありませんし、注文しても出来ないことがわかっている、という理由もあります。
こうして、人気アイドル男優と美人女優の取り合わせの組み換え、ドラマの舞台は東京、職場でも家庭内でも故郷でも「標準語・東京語」のセリフ、というテレビドラマが飽きもせず再生産されていきます。
その実、「ことばと生活」に鈍感なテレビ演出家たちは、優れた役者たちからは表現者としては見下されているのだ、ということに早く気づいて欲しいと思うのですが。
標準語でもいいドラマとよくないドラマ
さて、安直な「標準語・東京語」セリフばかりの民放ドラマですが、逆に言うと、ドラマの舞台が東京で、しかも仕事(ビジネスシーン)が中心の展開ならば、さほど違和感を感じることなく見れる、とも言えます。
それは、「標準語・東京語」が、「ビジネス日本語」だからです。
この観点を含んで、前回に続いて幾つかの僕なりのドラマ評を。
『BG・身辺警護人』テレビ朝日・木曜9時枠
木村拓哉(キムタク)ドラマ。テレ朝として木曜9時枠は牙城のドラマ枠です。
米倉涼子演じる大門未知子の『ドクターX』を手掛けた、かの内山聖子さんがGP。
さすがに共演者の粒がそろっていて、キムタクの押さえた演技にも渋さがあり、今のところ僕は毎回見ています。
第2回目の、裁判官夫妻の苦渋を描いた井上由美子脚本は良くできていた、と思います。
ただ、第1回目のように少し砕けた会話シーンで、
「ボディガードが倒れちゃったら」「むき身になっちゃうでしょ」
「向こう、帰んないんだったら」
のように、促音便や撥音便がやたら出てくるといっぺんに興覚めします。
アイドルやアイドル出身タレントの会話には、この「~しちゃう」「~しないんだ」が頻発するもので、そこは演者本人や演出家が留意すべきでしょう。
ちなみに、これらに「~さぁ」を足すと、即席ものまね東京弁ができあがりますよね。
「僕さぁ、上野にパンダ見に行っちゃったりするんだけどさぁ」という風に。
『anone』日本テレビ・水曜10時枠
あの『カルテット』や『いつか、きっとこの恋を思い出して泣いてしまう』や、遡れば『東京ラブストーリー』を書いた阪本裕二の脚本で、演出は日テレが誇る水田伸生なので少し期待しました。
ショートカットの広瀬すずは可愛いのですが、ドラマ展開はわかりにくく複数の登場人物たちの出会いや繋がりに無理が目立つご都合主義ですね。
多分、親子関係に傷を抱える人たちをグランドホテル形式で結ぼうとしているんだと思いますが、それにしては必然性も奥行きも足りません。
田中裕子がシリアスで、小林聡美と阿部サダヲがコミカルで、広瀬すずはどっちつかずで全体として何がなんだか良くわからないです。
そもそもドラマの展開場所、どこ設定なの?
前回も取り上げましたが、
『女子的生活』NHK金曜10時
うーん、やはり神戸や兵庫県の「生活ことば」は出てきませんでしたね。
女装の主人公・小川みき、が出身地である兵庫県香住に出張で帰るのですが、ドラマ展開は標準語。父親や兄貴との会話はときどき関西弁訛りで基本的には標準語。
「ありえへん」ですよねぇ。
かろうじて、添えもの人物として出てくる地方在住デザイナーの母役である山村紅葉が「いったい何をしとるんかねぇ、どんくさいわぁ」と関西弁訛り。
日本のテレビドラマはだいたいこうなんですよね。
主要登場人物は標準語で、筋運びに関係ない点景人物だけが地方訛り、でしゃべる。
もったいなかったですね、せっかく面白い題材のドラマに取り組んだのに。
『ドキュメント72時間』がおもしろくて
で、思いがけない拾い物がありました。
それは、『女子的生活』のチャンネルをそのままにしていたら、NHKで9時50分から始まった『ドキュメント72時間』でした。
1月19日には、東京の江東区にあるパン屋さんの店前の72時間。
人気のパン屋さんの紹介番組かな、と思ったら全く違いました。
そのパン屋さんにパンを買いに来る人達へのインタビューで綴る72時間、なのでした。
いやぁ、思いがけず聞き入ってしまいました。
しょっちゅう買いに来る奥さん、家族の朝食用で買いに来た女子高生、手作り野採と買ったパンを交換する老人仲間、車いすを押して1時間かけて歩いてきた老母と中年の娘さん。
72時間の定点観測インタビューで、見事に「2018年の東京下町の生活」を描き出していました。
1月26日には、年末年始にかけての青函連絡船の72時間。
青森から函館の往き来、に船に乗る人達へのインタビューで綴りました。
新婚旅行以来36年ぶりに乗るという老夫婦、そこには娘夫婦と孫がいました。出稼ぎで東京に行ってる中年男性が、北海道への帰省を終えて正月を待たずに再び東京へ帰る。
ひときわ印象に残ったのは、21歳の長距離トラックの運転手さん。
「オヤジ、トラックの運転手で、オヤジ亡くなっでぇ・・・」
そして、高校で同級生だったという3人の若者、そのうち一人は東京で大学生、
「いいよね、帰ってきたら標準語使わなくていいからね」
「『おれ』『わたし』って言わなくても、『わ』でいいからね」
2018年、日本の各地でちゃんと「生活ことば」で生きてる人たちが居るんだなぁ、と僕はしみじみと思ったのでありました。
テレビは、現代の私たちにとって「最大の言語教育メディア」の面を持っています。
テレビ番組制作に関わる人間が、もっと「ことば」と「生活」を考えることから、新しいテレビ表現が産まれるのではないか、と僕は考えています。
それ違うんじゃないの?――新聞の小説評について
さて、少ししつこいようですが、芥川賞受賞作『あらおらでひとりいぐも』を巡る言説の中でどうしても見逃すことのできないのが新聞記者の論評です。
多くの新聞が、この小説を「老境を生きるための小説」だとか、著者を「こども時代の夢を叶えた人」だとか評しています。全くの「筋違い」だと僕は思います。
読売新聞「編集手帳」1・18朝刊
「若竹さん自身、岩手県出身で、作家をめざして何年も苦闘をかさねたが、かつてなじんだ方言に着目したとたん、筆が進んだという」
――この記者は、「方言」を小説を書くためのひとつの「文章手法」「テクニック」としてしか捉えていない、のが明らかです。
読売新聞「よみうり寸評」1・19夕刊
「子供の頃の自分を呼び戻す。それが生き生きとした第二の人生につながるという」
「若竹千佐子さんも、作家になることが小学校時代からの夢だったとか。ときには後ろを振り返るのもいい、」
――小説は、老後を生きるための「人生のハウツー本」ではありません。
――「言語」は、社会的栄達を手にするための「手段」ではありません。
「豊饒な東北言葉を駆使し、孤独を生きる女性を描いた」
「健康や家計と並んで備えておきたいのは、孤独の飼いならし方、老後の慈しみ方ではないか。『玄冬小説』の広がりに期待したい。」
――どうやったら、こんな読み違いに辿り着けるのでしょうか。
――この文章の書き手は、小説を読む時に楽しさなんて感じていないことが明白です。
この人たちは「ことば・言葉」を、単なる「道具」や「手段」としてしか捉えていません。
芥川賞を獲るための「道具」、夢を叶えるための「道具」、孤独な老後を生きるための「道具」、だと考えているのです。
そして、「文字」を駆使して、褒められる「上手い文章」を書いて、金を稼いで飯を食うための「道具」なのです。
これが、「文字優位の価値観」と「書き言葉・話しことばの標準語主義」に誑かされて、「書き言葉の標準語」で社会的上昇を手にした人の言語観なのです。
(僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』で、東北大震災を巡る「天声人語」と「編集手帳」を酷評しました。そのせいかどうか、朝日新聞と読売新聞には拙著は完全に無視されました)
繰り返し、繰り返し、僕は言います。
「ことば」は、決して「何かをするための道具」ではありません。
「ことば」は、ヒトが人であるための存在基盤なのです。
「ことば」は、「生活」であり、「人生」そのものなのです。
若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、「わたし」の奥に潜む「おら」を取り戻すことによる「人生の再生の物語」に他ならないのです。
芥川賞発表と、今期のテレビドラマの「ことば」
昨日、第157回芥川賞が発表されました。吉村がイチ押ししていた『おらおらでひとりいぐも』が見事受賞。よかったですねぇ、若竹千佐子さん、おめでとうございます。
方言は好き?嫌い?
で、「63歳の新人」と言うことで、早速テレビメディアでは大きく扱っていたのですが、その扱い方に首を傾げる箇所が幾つか。
テレビ朝日「報道ステーション」では、富川アナが生インタビューで若竹さんに「遠野弁がお好きなんですね?」と質問。
いや、違うでしょ。
「方言」は、好きとか嫌いとか言う次元の問題じゃないんですよね。
人間存在の原点としての「ことば」の問題です。
少なくとも、若竹千佐子さんはこの小説を通して、「おら」と「わたし」との乖離に象徴されている2018年の日本社会の在り様と我が人生の在り方を問うているんですよね。
無頓着に「アナウンサー標準語」を使ってビジネスしている人には、この「ことばと生活」の問題はわからないんだろうなぁ、と苦笑してしまいました。
更に、フジテレビ「ニュース+α」では、ナレーション原稿を読んでいるアナウンサーのイントネーションが、「オラオラでひとりいぐも」と発音されていて爆笑してしまいました。
そりゃないでしょ。
読んでいておかしいと思わないんでしょうかね、担当ディレクターも聞いていて何か変だと思わないんでしょうかねぇ。もう少し勉強しましょうよ、「ことば」について。
いずれにしても、これで選考委員各氏の選評を読むのが楽しみです。
小説を読むのも楽しいのですが、芥川賞や直木賞は選考委員を勤めている作家諸氏の選評を読むのがもう一つの楽しみなんですよね。
今期期待のドラマは『女子的生活』
さて、今日の話題は1月スタートのテレビドラマについて、です。
各局とも今期クールのドラマが出そろいましたね。
趣味と興味から、僕は、各局のドラマのスタート1回目か2回目をOAか録画かで見ます。
そこで面白そうならば、そのドラマは続けて見ますし、ダメと思えば打ち切りします。
で、今期最も期待していたのが、NHK・金曜10時『女子的生活』なんです。
まず、設定がオモシロイ。
志尊淳が演じる主人公・小川みき、は性別は男性なんだけど女装していて内面は女性というトランスジェンダー。しかも恋愛対象は女性。この複雑な人柄をどう演じるか。
しかも、ドラマが展開される場所は神戸のファッション会社。
制作はNHK大阪(業界ではBKと言います)、制作統括は、朝ドラ『べっぴんさん』を作った三鬼一希さん。
どれだけリアルな生活感の中で、複雑な「性別違和」を描き出してくれるだろうか、と。
ここは東京?それとも神戸?
残念!でした、今のところですが。
女性そのものに見える志尊淳の立ち居ふるまいは綺麗だし、「ほっこり系」で男を惹きつける小芝風花も魅力的だし、間に挟まれる「LINE的吹き出し」による女性心理の描写もとてもよくわかるのです。
が、もっとも肝心な台詞がすべて「東京標準語」なんですよね。
それは「ありえへん!」でしょう。
神戸に住んで暮らしている人間が日常会話で、「だってさぁ」とか「男って面白いじゃん」とか「そんなわけないでしょ」とか語頭アクセントで言わへんでしょう。
原作は確か東京が舞台だったと思うのですが、それをわざわざ神戸に移した意味はどこにいったのでしょうか。
それらしき「生活ことば」をしゃべるのは、三宮の高架下商店街とおぼしき所にあるコロッケ屋さんの夫婦だけ。「いっつもきれいやなぁ、お姉ちゃん、まけとくわ」とかね。
時々映るポートタワーや、港の風景だけがここが神戸であることを示しています。
まさしく借り物の風景、神戸は「借景」に過ぎません。
港と街路のロングショット以外は、どう見てもこれは東京のビジネス街で展開されているドラマです。
リアリティはことばから生まれる
「日本のドラマにはリアリティがない。だからつまらない。日本人は2年間、テレビドラマを作るのを止めて海外ドラマを見て勉強する方がよい」と言ったのは、デーブ・スペクター氏ですが、リアリティの根本は「台詞」にあります。
とても挑戦的で斬新な設定のドラマだけに、「台詞」の標準語主義が残念です。
とは言いながら、次回の3話目には主人公・小川みきの出自や過去が語られるそうなのでそこで「生活ことば」が出てくるかどうかを期待しています。
ところで、このNHKの金曜10時枠は、今、日本のテレビドラマ界で注目すべき新しいことにどんどん挑戦しており、高く評価すべきだと僕は思っています。
昨秋には、NHK名古屋(CK)の制作で『マチ工場のオンナ』というドラマを作りました。
名古屋郊外を舞台にして、父親の残した町工場を引き継いで女社長になる専業主婦を内山理名が演じたドラマです。
これも惜しむらくは、「台詞」が「東京標準語」であったために「名古屋郊外で暮らす人たち」のリアリティを充分に出すには至りませんでした。
が、このように「東京以外」で暮らしている現代日本人をドラマで描こうとしている制作者の努力はいつか実を結ぶ時が来るだろう、と僕は考えています。
「台詞」のリアリティに最も注意と努力を払っているのは、やはりNHK「大河ドラマ」の『西郷どん(せごどん)』です。
時代物だからでもあるのですが、登場人物ひとり一人の話す「ことば」は見事に考証されており、鈴木亮平演じる西郷吉之助はじめ、若者から老人や子役に至るまでが「薩摩の生活ことば」を身に付けて演じているからこその見ごたえです。
さて、民放各局のドラマは相変わらず無邪気な「東京標準語ドラマ」が並んでいます。
で、今のところ全てを見ているわけではありませんが、幾つかについて。
民放ドラマ評――やっぱり標準語主義
TBS・日曜9時『99.9』
松潤の主演する弁護士ドラマ。今シリーズも脇には香川照之、そして女性は木村文乃。
アリバイ崩しなどの謎解きは面白く、法廷での逆転劇は痛快でした。
が、良く考えると無理なアリバイを作ってまで殺人を犯す動機も必然性もゼロ。
そしてもちろんのこと、展開されるドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。
NTV・土曜10時『もみ消して冬』
山田涼介の主演。脇に波瑠と小沢征悦。
兄が天才外科医で、姉が敏腕弁護士で、本人はキャリア警察官、ですって。
もちろんドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。
生活感の伴わないセリフで成立するのは、せいぜい薄っぺらいコメディードラマです。
フジテレビ・月曜9時『海月姫』
芳根京子の主演に、女装の瀬戸康史が織りなすライトコメディ。いわゆる「フジの月9」。
セリフは基本的には「東京標準語」ですが、主人公は地方出身者なので時々言いわけのように「訛りのあることば」が使われています。
「もう来んでください、おどろしかぁ、東京には男のお姫さまがいます」
無理に挿入した「訛りことば」は、笑いの要素ではあっても、ドラマのリアリティを担保するものではありません。
フジテレビ系・火曜9時『FINAL CUT』
テレビのワイドショーの歪んだ報道のせいで自殺した母親のために復讐する主人公、を亀梨和也が演じます。
制作はKTVカンテレで、刺激的なストーリイです。
ここで余談を一つ。
東京キー局が制作するドラマに比べて、関西局が制作するドラマの方が挑戦的な内容のものが多いです。その理由は、東京キー局が潤沢な制作予算を持っている上に、人気の高い俳優のキャスティングに優位な力を持っているからで、関西局のテレビマンたちはそのビハインドを乗り越えるために「企画と脚本」で俳優事務所を口説かざるを得ないからです。
週刊誌報道に復讐すると言う内容の『ブラックリベンジ』もYTV読売テレビの制作でした。
テレビドラマを見る時は、どの局が制作しているのかを知っておくのも判断材料の一つです。
さて、こうやって見てくると、総じて日本のテレビドラマの中の「ことば」は「弱い標準語」の不自然な台詞に溢れており、お笑い芸人たちの「強い生活ことば」にはまだまだ勝てていない、と僕はしみじみ思うのです。
『おらおらでひとりいぐも』ではありませんが、標準化された「わたし」のような「ことば」ではなく、身体性と土着性に基づいた「おら」のように強い「ことば」で生活や出来事を描くドラマが現れることを僕は待っています。
近畿大学の新年広告――今年も笑わせてくれました!
新聞――お正月の楽しみは企業広告
今年も攻めていた「近大の広告」
ジャーナリズムから生まれる広告
標準化された価値を超えるナマズの広告
今こそ読まれるべき小説、「ことばと生活」を巡って
吉村の第158回芥川賞はこれ!
「母語」を再発見する小説
東北弁で思い出す本
井上ひさし『吉里吉里人』
がんばっぺ!宮城
芸人も自分の育った土地のことばを使ってほしい
小説であり言語学であり社会学であり人類学
M-1補足と、朝日放送スキャンダル
「M-1グランプリ」の余波が、まだ色んなところで続いていますね。
僕も、創設プロデューサーとして、前回のブログで今年の「M-1」について思うところを書いたのですが、その後、教えている大学生たちからたくさんの質問を受けました。
で、その応答の中から、少し。
まず、僕が漫才師さんたちの「力」を判定する基準にしている「声」について、です。
「声」と言うと、多くの人が「大きい声か、小さい声か、ですか?」と尋ねてくるのですがそうではありません。「声」が「強いか、弱いか」なのです。
マイクに乗る「声」とは
ご存知のように、人間の身体は「管楽器」です。身体の中から吐き出す息を、喉・口蓋・舌・歯・唇、で加工調音することによって、息が音になり「声」になります。
で、上手い漫才師さん達は、身体全体を使って、腹の底から息を出しているんですよね。ですから「声」がしっかりしていて「強い」んです。
「声」は音波ですから、たとえ小さくても「強い声」は棒状になって相手にきちんと届きますし、マイクにもしっかりと乗ります。
逆に喉から上だけ、口先だけで喋っている「声」は、大きくても拡散してしまうのでマイクに乗りにくいですし、やかましいと感じられてしまうんです。
上手な漫才師さんの「声」って、すごく聞き取り易い。
今回の「M-1」の出演者で言えば、「和牛」の川西くん、「ジャルジャル」の福徳くん、「さや香」の石井くん、の「声」は大きくないけど挨拶の一言目からはっきりと聞き取れましたでしょ。
漫才師さん達は、育ってきた人生の過程の中で、また芸人になってからは舞台の喋りの中で、「強い声」を身に付けてゆきます。僕はこれを「芸人の素力」と呼んでいます。
この「素力」の上に、「ボケと突っ込み」といったテクニックや「ネタの練り込み」が成立するんです。
漫才師さん達と直接に話しをしたら、彼らの「声」がふだんから「太くて、強い」ことにきっとびっくりしますよ。これは漫才師さんだけでなく、舞台俳優さんにも共通しています。ですから「舞台声」とも言います。
実は、「声」についてのこの秘密――別に秘密でもないんですが――は、漫才や演劇だけでなく、僕らの実生活でのコミュニケーションにとても役に立つことなので、今後の参考にしてほしいなと思います。
続く朝日放送関係のスキャンダルについて
さて、さて、「M-1」でせっかく名を上げた、我が古巣の朝日放送だったのですが、今週は全く別のことで話題になってしまいました。
「女優・藤吉久美子の不倫疑惑」、かの文春砲です。
知人から「朝日放送が話題になってるでぇ」と言われて、最初は何のことかわからなかったのですが、週刊文春を買って読んでみて初めてわかりました。
「藤吉久美子の不倫相手は、朝日放送のプロデューサー!」だったんですね。
あーら、まぁ、何ということでしょう。
先週は「隠し子の母・激白」で宮根誠司くん、彼は元・朝日放送のアナウンサー。
今週は「女優の不倫相手」で、現役の朝日放送ドラマプロデューサー。
二人とも、僕の後輩なんです。
うーん、いささか辛いですね。
「朝日放送」人は、倫理観念に乏しい人間ばかりのように思われそうで。
で、宮根くんも、Aプロデューサーも、きちんと自らの従事するメディアにおいて、正々堂々と記者会見して思うところを述べるべきだ、と僕は思います。
なぜなら、免許事業たるテレビは「紛れもない社会的権力」であり、その出演者も制作者も「社会的権力者」だからです。
「権力」は「責任と義務」に裏付けられているもの、だからです。
それをしないかぎり、
「ABC制作の情報番組は全て芸能コーナーがあるけど、この問題はやっぱりスル―ですかね?他人に厳しく身内に甘い朝日放送」
というネット上に現れた、一般庶民の「素直で強い声」に反論はできないのではないでしょうか。
このスキャンダルの話題、ブログに上げるかどうかを少しばかり悩みました。
ですが、「朝日放送 M-1グランプリ創設プロデューサー」として発言している者として、二つのスキャンダル報道について「スル―」するのは良くない、と思って上げました。
M-1グランプリ――M-1史上最高の面白さ!でした
12月恒例の「M-1グランプリ」今年は格別に盛り上がりました。
決勝戦での最後の審査員投票が「4対3」というのも実に劇的でした。
そして、放送が終わった後も、他のテレビ番組やラジオや週刊誌などでその余熱がいまだに続いていますね。
僕も、数日前にはMBSラジオで「笑い飯」の哲夫くんが熱気を込めてしゃべっているのを聞きましたし、今も雑誌「プレイボーイ」でオール巨人さんの「M-1最終決戦で僕が和牛に票を入れたワケ」を読んだところです。
審査員の松ちゃんの「ボクは面白いと思ったなぁ」、上沼恵美子さんの「聞かんといて」、オール巨人さんの誌上コメントと言い、笑芸戦場の最前線にいる人たちの論評は、さすがに的確でオモシロイ。
まるで、直木賞の選評を読んでいるような、一級のコメントでした。
島田紳助が「M-1グランプリ」を作った
「M-1」がこんなにも盛り上がるイベントになったことを一番喜んでくれているのは、あの島田紳助さんだと思っています。
「M-1」に関わったすべてのお笑い芸人さん、マネージャーさん、テレビスタッフの皆さん、「M1の今」があるのは島田紳助という優れた一人の芸人の熱意の賜物だ、ということを忘れないで欲しい、と思います。
思えば、2000年の春の時点で、「漫才師は闘わないと強くならないんです。強い漫才師を育てるためのイベントを作りたいんです」と言いだした時に、島田紳助の真意を汲み取れる人間は業界にはほとんどいませんでした。
拙著『お笑い芸人の言語学』にも書きましたが、最初に彼の意図を正しく理解したのが吉本興業の谷良一プロデューサー。谷くんは全国規模のスポンサーとして「オートバックス」を口説いて、その店舗空間を使って日本全国からの予選を組み立てて頂上を目指す、というイベントの枠組みを構築しました。
そして、それを「テレビ番組 M-1グランプリ」として番組立てして電波に乗せる、という役割を勤めたのが、僕でした。
当初の社内会議で、営業・編成から「えーっ、漫才の勝ち抜きイベントに賞金が1000万、何考えてんねん」と言われたことを良く覚えています。
それどころか「M-1」は日本の笑芸界の最高のコンテンツになりました。
紳助さん、ありがとう!です。
吉村誠の「M-1グランプリ」採点
さて、僕なりに「M-1」出場者の何組かの、ファーストラウンドの採点を書いてみます。
僕の判定基準は「声」と「ことば」です。
「声」とは、大きいか小さいかではなくて、お客さんの身体にちゃんと届く「声」が出せているかどうか、です。
「ことば」とは、お客さんの頭と心にちゃんと届く「ことば」を使えているかどうかです。
その上に「ネタ」や「テクニック」が成立すると僕は考えているからです。
「和牛」98点
最終決戦に出るだけあって、10組のレベルはとても高かったのですが、その中で最もしっかりとした「声」で、最も自然な「ことば」でしゃべりが出来ていたのは「和牛」でした。川西君も水田君も、決して大きな声でしゃべくるわけではありませんが、全身を使って「声」を出しているので、最初のひとことから明瞭に聞き取れます。
しかも誰にでもわかる「生活ことば」でネタを展開、既に一流漫才師のしゃべくりになっている、と思います。
特に、一回戦での「ウェディングプランナー」のネタは秀逸で、前半でのプランナーと新婦、後半での新郎と新婦の切り替わりが抜群でした。
あれを決勝戦でやっていたら、と思うのですが、そこがガチンコ勝負の「M-1」の非情さ面白さ、でもあるので仕方ないと言えば仕方ないですね。
優勝した「とろサーモン」95点
面白いし、声もよく出ているのですが「ことば」に生硬さが時々出るのが僕は気になりました。それはオール巨人さんが指摘したように「北朝鮮」だとか「日馬富士」だとかの生乾きの時事ネタ用語もそうなのですが、根底には宮崎出身の二人が「漫才のための関西弁」に合わせている不自然さと、それを補うために久保田くんがかなり無理してキャラクター作りをしている所にあるのではないか、と思います。
きっと、このあたりが「とろサーモン」の今後の課題となるでしょう。
でも、素直に、「優勝おめでとう!」です。
「ミキ」92点
すごい頑張りでしたね。
でも、その「すごく頑張ってるーッ」と見えてしまうことが残念なところです。
僕が思うには、胸から上だけを使って一生懸命に声を張り上げているので、どんなに大きな声でしゃべっても音が拡散して、自分たちが思うほどにはお客さんには届いていないんです。本人も疲れるでしょうし、お客さんにも「ことば」が明瞭には届かないので「うるさい」と感じられてしまいます。
だから逆に声を出さずに身体で「金」や「令」を表現した時に大きな笑いになりましたよね。あれはとっても面白かったです。
彼らのスピード感は若手ならではの魅力でした。
「カミナリ」
今回の10組のうちで、関西弁の話者でなかったのは「カミナリ」と「マジカルラブリー」と「ゆにばーす・はら」でした。
その意味もあって、僕は「カミナリ」にはかなり期待をしてたのですが。
竹内くんと石田くんは、茨城県(いばらき)出身の幼馴染みらしいのですが、石田くんがせっかく活き活きとした「茨城なまりのことば」でツッコミを入れているのに対して、ボケの竹内くんの「ことば」が「中途はんぱな標準語」になっている分、弱いんです。
二人の使う「ことば」の落差がネックになっているのではないでしょうか。
キャラクターとしての立ち位置をしっかりさせること、それを踏まえて「しゃべることば」をしっかりさせること、が課題だと思いました。
いずれにしても、「M-1グランプリ 2017」本当に見ごたえがありました。
テレビを見て久しぶりにワクワク・ドキドキしました。
テレビって、まだまだ素敵なことがたくさん出来るメディアなんですよね。
島田紳助さん、素晴らしい置き土産をありがとう!