「どの口が言うとんねん」――テレビ出演者の精神的堕落
前回のブログで、NHK「クローズアップ現代+」のディレクターさんを始めとするテレビ制作者たちの精神的堕落について書いたのですが、今回はテレビの出演者の精神的堕落について書くことにします。
週刊文春12月7日号に載った「宮根誠司・隠し子の母激白」という記事を巡る問題です。
記事の内容は、かって宮根くんと恋愛関係にあった女性が、彼の子供を産んで育ててきた過程において、彼のついた嘘を明らかにして不実を責める、というものでした。
ここで、僕が「宮根くん」と呼んでいる理由は、今からもう20年ほど前になりますが、まだ彼が朝日放送の社員アナウンサーであった頃に、僕が「おはよう朝日です」という番組の担当制作部長をしていたからで、彼とは先輩後輩・上司部下の関係にあったからです。
問題は、「都合の悪いことは隠す」こと
で、僕が問題にするのは、文春の記事内容ではありません。
そもそも、こういったスキャンダル記事の内実は、当事者にしかわからないもので、事の真偽は他人がとやかく言っても仕方のないことだと、僕は思っています。
問題なのは、この「立派なスキャンダル」に対する、宮根くんを始めとするテレビ出演者たちや番組制作者たちの対応する態度です。
11月30日(木)に週刊文春が発売されてから、宮根くん本人も、テレビ番組「ミヤネ屋」も、いっさいこの問題について触れていません。
そして、他局のワイド情報番組でも、この件についてはいっさい触れてないようです。
(すべての情報番組を見ているわけではないので、もし扱った番組があったら教えて下さい)
これって、おかしくないですか?
視聴者一般の感覚からして、とても変ですよね。
「ベッキーと川谷絵音の不倫」「松居和代と船越栄一郎」「山尾志桜里議員の不倫」など、など。
週刊誌が発信元のスキャンダルを、大勢のスタッフを動員して追いかけて、厖大なエネルギーを費やしてパネルや素材VTRを作って長時間にわたって特集していたのは「ミヤネ屋」を始めとする情報番組でしたよね。
本来は「個人のプライバシー」に属する事柄までを、「マスコミの知る権利」なる理不尽な権力を振りかざして、世間に晒していたのはあなた達ではないのですか。
「政治家の疑惑」についても、「大相撲の日馬富士と貴ノ岩」についても、何度も「当事者にきちんと説明して欲しいものです」という発言を聞きました。
他人のスキャンダルについて、あれほど厳しく執拗に迫ってきた宮根くんと「ミヤネ屋」の皆さんが、自分のことについては一切語らないというのは理屈に合いません。
自分のことは棚に上げて、他人のしくじりや失態をあげつらう、それは卑怯なふるまいであり、精神的に堕落した行いです。
僕が宮根誠司を評価した理由
僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』において、タレント・宮根誠司をかなり高く評価しました。それは、彼が政治や経済や国際といった、通常は「難しい業界用語」で語られているフィールドを、「まぁ、いやぁ、ほぼほぼこういうことでっしゃろ」などの庶民の生活感覚に基づく「生活ことば」で語ってくれた数少ないタレントだからです。
それこそが、宮根誠司の魅力の根源であり、「ミヤネ屋」が大阪制作にも拘わらず全国ネットたりえている本当の理由だと僕は考えています。
宮根くん、君が大切にすべきは「生活ことば」で語られる、庶民の「生活感覚」ではないのでしょうか。
現在の君に多くの視聴者は、その「生活感覚」に依拠してこう言うでしょう。
「宮根はん、そりゃないわ」
そして、今後あなたが政治家や有名人に「誠実な説明」を求めた時には、
「どの口が言うとんねん」と突っ込むでしょう。
これは蛇足かもしれませんが……
宮根くん、あなたのしくじりは、彼女と恋愛をし子どもを設けたことではありません。
それは、あくまで個人的な恋愛の一実態です。
彼女をして、「週刊誌への告白」という「社会的な形」を取るように追いこんだことが失態なのです。
個人的な問題の範疇を超えて「社会的な形」を取ったことがらは、「社会的な対応」でしか収束できないものです。
あなたの取るべき対処法は、「公器たるテレビ」を仕事の場としているあなたが、そのテレビの中できちんと彼女に対応して、問題を個人の事柄に収納することです。
それが、はからずも「社会的な場」に引っ張り出されてしまって困惑しているであろう、あなたを大好きだと言ってくれている娘さんの個人的尊厳を守る唯一の対処法だと、僕は思うのです。
ジャーナリストって何をする人なんですか
そして、もっと問題にすべきは、宮根くんを取り巻いている出演者の皆さんです。
春川正明さん、あなたは読売テレビの解説委員長であり元報道部長でしょう。
橋下五郎さん、あなたは読売新聞の特別編集委員でしょう。
お二人とも、組織に属しているとはいえ、「ジャーナリスト」の肩書きを持って言説を張っている方なのではないですか。
「ジャーナリスト」の本旨は、「社会的権力」の不正や歪みを突くところにあります。
そして、現在の日本において「テレビ自身が強大な社会的権力」であることは明らかです。
お二人には、そのことを是非とも周囲の人々に教え諭して、テレビ制作者やテレビ出演者の精神的堕落に自覚を促して欲しい、と思うものです。
最後に、僕は決して「スキャンダル」が好きではありません。
しかし、「スキャンダル」の社会的効用は認める者です。
それは「スキャンダル」とは、権力を持たない一般民衆が「権力」に対抗できる一つの手段であるからです。
偉い政治家や、有名なタレントを悪く言える「スキャンダル」が成立する日本は、その限りにおいて、健全な民主主義社会であると言えるのです。
日本のテレビメディアのあり方を批評する
新聞の書評欄や文化面で取り上げられて気になった本があると、その新聞記事を切リ抜いてストックしておく癖があります。
決して、その全部を読み切ることはできなくて、多くはストックファイルの中で眠ったままになるのですが。
で、そのファイルの中にあった気になる本の一つが、谷口功一・首都大学東京教授の手になる『日本の夜の公共圏』でした。
これは、10月12日(木)の読売新聞の文化面で紹介されていた本で、何と「スナック」について初めて学術的に研究した本!だと言うので、「スナック」好きな僕としては、絶対に買って読もう、と思ってたのです。
しかも、「スナック」には、インフォーマルなコミュニティーを形成する「地域の夜の公民館」としての機能がある、なんてとても優れた解析ではありませんか。
そんな時に、谷口さんの「テレビ取材への苦言」というブログを読みました。
NHKの「クローズアップ現代+」担当ディレクター氏からの取材依頼文の非礼さ、及び過去にもあったテレビ制作者からの非常識な取材依頼の態度について、谷口さんが怒ると言うより呆れているご様子がよくわかりました。
で、テレビのディレクター・プロデューサーを34年間やった後に大学教員となった僕としては、ここは一言書いておきたい、と思いパソコンに向かっています。
結論から言うと、谷口さんのおっしゃるとおり、です。
日本のテレビマンの多くは、「勘違い」をしています。
テレビ制作者の椅子に座っただけで、自分が「偉い」と思っているから、取材相手や出演者に対して傲慢無礼な態度を平気で取るようになってしまうのです。
この「勘違い」を産み出す理由は二つある、と僕は考えています。
一つは、谷口さんもおっしゃっているように、「テレビ自身が強大な社会的権力であること」を、テレビマンが自覚していない点です。
これは、政治・経済を扱うジャーナリズム担当者だけではなく、娯楽・情報を扱うエンターテイメント担当者にも当てはまる傲慢さです。
「テレビ局が聞いてるんだから」とか「テレビに出してやるんだから」と言った思い上がりは、テレビ局の社員を筆頭に制作会社のプロダクションディレクターにまで蔓延しています。
そして、もう一つは、先の「テレビが強大な社会的権力」たりえている根本にある事柄で、「電波は国民共有の財産であり、テレビ局とは電波の運用を国民から負託されている免許事業者である」ことをテレビ局経営者がきちんと認識していない点です。
本来なら、テレビ局の新入社員教育はまずこの第一歩から教えるべきだと僕は思うのです。
「私たちは、国民共有の財産である電波を使うことを許された特権者なのです。
だからこそ視聴者に大きな影響力を与えることができると同時に、大きな責任と義務を背負っていることを自覚してください」と。
ところが、このような基礎教育をやっているテレビ局なんてありません。
それどころか、私企業としての営利追求を社是として「視聴率獲得・営業売上アップ」のみを社員にいつも呼び掛けています。
その端的な例が、自社が出資制作した映画が公開される時には、朝から晩まで出演俳優が各番組にゲストとして出まくる、というもの。
自社が関わっているイベント事業なら、まるで重大な社会的事件でもあるかのようにニュース番組でもことさら大きく取り上げます。その会場に行ってみたら、なんのことはない、そのテレビ局の幟ばかりだったというのはよくある話です。
こういう放送を平気でやっている経営者の下で働いているテレビマンには、「権力者としての自覚なんか産まれようがないんですよね。残念なことながら。
「電波の公共性」は、NHKだけでなく民放にもあてはまるはずなのに、です。
「権力は密の味、マスコミ権力は極上の蜜の味」と言ったのは、『メディアの支配者』の中川一徳さんだったと思うのですが。
テレビの世界から「公器」という言葉が消えて久しいです。
テレビ局の廊下には、「祝・視聴率三冠王」とか「祝・視聴率15%超」とかの貼り紙が溢れています。
このような私企業としての利益追求に邁進する経営姿勢が、現場のテレビマンたちの精神的腐敗を産んでいるのだと僕は考えています。
日本のテレビマンたちの「勘違い」は一人一人の意識の問題もあるのですが、それ以上に日本のテレビの企業構造の問題が大きく横たわっている、と僕は認識しています。
とは言いながら、谷口先生、そして「スナック研究会」ブログの読者のみなさん、
テレビのディレクターやプロデューサーの中にも謙虚で真面目な人間も少なからず居るということをお知りおきいただければ幸いです。
そして、当該の「クローズアップ現代+」のディレクターさん、
NHKの社員ディレクターさんなのか、NHKエンタープライズなどの関連会社ディレクターさんなのかはわかりませんが、少なくともNHKは民放のディレクターや民間の下請け制作会社のディレクターに比べれば、はるかに制作時間に余裕もあるし、視聴率獲得の縛りも少ないはずですよね。
是非、今夜は「場末のスナック」に行って、「あまり美味しくないおつまみ」でも食べながら、聴き上手なママさんを相手にグチをこぼしてください。
社会的な肩書など通用しない空間で、矢沢永吉なりAKB48なりを思いっきり歌ってください。
なにはともあれ、表現者たる者、研究者がたくさんの時間とエネルギーを使って得た成果を安易に拝借するのではなく、自らが取材テーマに時間とエネルギーを費やすべきでしょう。
あなた自身が「スナック」を何度も体験して、「スナックとは何か」を考えるところから始めましょうよ。
僕たちが『日本の夜の公共圏』から学ぶべきは、「新進気鋭の実業家やクリエイター達のビジネスヒント」などではなくて、僕たち自身の日々の暮らしに関わる「規模の大小を問わない【新しい公共性】を考えること」と、それを支える「水商売の人たちの【地道なコミュニケーションの努力】について知ること」なんだ、と僕は思うのです。
2017年・テレビドラマ総括 最優秀作品はNHK『ひよっこ』
11月の末で、少々気が早いのですが、僕なりの2017年テレビドラマの「評価まとめ」をしておきたいと思います。
と言うのも、気になっているドラマの初回スタートを見届けたので。
この秋冬ドラマで僕が最も期待していたのは、実はNHKの金曜夜10時『マチ工場のオンナ』だったのです。
まぁ、なんと地味な選択!と、お思いでしょうがこれにはちゃんとした理由があるのです。
名古屋の生活をもっと見たかったのに……
11月24日(金)夜・午後10時にスタートした『マチ工場のオンナ』は、久しぶりにCK、つまりNHK名古屋放送局が制作するドラマなんです。
テレビ業界では、NHKの東京をAK、大阪をBK、名古屋をCKと呼びます。
それぞれJOAK・JOBK・JOCKというコールサインの略称ですね。
で、久しぶりのCK制作のドラマで、名古屋近郊の町工場を舞台にするというので、「生活感」あふれるドラマかなぁ、と期待してたんです。が、残念!
内山理名はじめ登場人物たちは、とても名古屋近郊で暮らしている人たちとは思えない「きれいな標準語」でしゃべってました。
父親役の館ひろしが「何するんだ、このタワケ」という単語だけがかろうじて名古屋ことばで、古参従業員の竹中直人や柳沢慎吾にいたってはまるで東京下町の職人みたいなアクセントとイントネーションでしゃべってました。
「生活感のないことば」で「生活」は描けない!簡単な理屈だと思うんですがねぇ。
NHKに限らずですが、東京に在るテレビ局で、東京に住んでいるディレクターがドラマを作ると、ほぼ間違いなくそのドラマの中で出演者が話すセリフは「標準語」です。
――ドラマで話す「ことば」は標準語でなければならない――
なんて、いったい誰が何時決めたんでしょうか?
この「ドラマの標準語主義」が、日本のテレビドラマを面白くなくしている最大の理由だ、と僕は思っています。
「標準語」って、いわば「産業社会のためのビジネス日本語」なので、政治や経済の情報を伝達したり、オフィスで会議したりする場のための「ことば」としては良いのですが、家族や親しい友だちと誰もあんな「ことば」ではしゃべらないでしょ。
「標準語の台詞」には、「生活」のリアリティが無い!
ということに、どうしてテレビの演出家たちは気が付かないんでしょうか。
それだけ彼らが、「ことば」に関して無思慮、鈍感、だからと言っていいでしょう。
「日本のテレビドラマはひどすぎる。キャスティング先行で作るから。
リアリティの無さ、演技レベルのひどさは先進国の中でぶっちぎり。
日本のテレビは2年間ドラマ制作をやめて勉強し直したほうがいい。」
と言っているのは、かのデーブ・スペクターです。(「新潮45」9月号)
ドラマ寸評
さて、めぼしいドラマの寸評をしてみましょう。
TBS・日曜夜9時 日曜劇場『陸王』
確か、ドラマの舞台は埼玉県行田市のはずで、足袋製造会社「こはぜ屋」の四代目社長の宮沢紘一(役所広司)は地元で生まれ育ったに違いないんです。20名の従業員たちも地元で産まれて暮らしている人たちのはず。行田って群馬県境すぐ近く。
なのに、話されている「ことば」は、なぜか「標準語」なんですよね。
「こはぜ屋」はどう見ても東京都内にある、としか思えないんです。
ところが、地銀である「埼玉中央銀行」のお偉いさんを演じている桂雀々だけは関西弁。
どうなってんですかね。
フジテレビ・月9ドラマ『民衆の敵~世の中おかしくないですか?』
篠原涼子演じる、40歳の主婦が「あおば市の市会議員」になって世の中に異議申し立てをするという話。
もちろん出演者は全員が「標準語」でしゃべります。
夫婦の失職がきっかけなのですが、生活が本当に立ちゆかなくなったら「栃木に帰ろう」との台詞が出てくるからには、彼女は栃木生まれなんでしょうか?
子役までが家庭の中で無理して「きれいな標準語」でしゃべるシーンに出会うとホントに興ざめです。
「このドラマの登場人物たち、おかしくないですか?」
日本テレビ・土曜10時『先に生まれただけの僕』
主演は櫻井翔。
蒼井優・多部未華子・井川遥、など共演女優は本来演技のうまい人たちなんですが。
まぁ、主役がアイドルのドラマは「アイドル標準語」しか無理ですよね。
フジテレビ・木曜10時『刑事ゆがみ』
芝居巧者の二人がとても幼稚な大人にしか見えません。
TBS・火曜10時『監獄のお姫さま』
小泉今日子・菅野美穂・満島ひかり・夏帆・坂井真紀、と、それぞれが主役を張れそうなクラスの無駄に豪華な女優陣が全く生活感のないセリフでしゃべります。キャスティング先行ドラマの典型。
脚本・宮藤官九郎でもスベる時はある。
不思議な「科捜研の女」
それにしても、テレビ朝日『科捜研の女』はいつ見ても不思議です。
「被害者を殺そうと、犯人が持ち込んだ、ってこと?」
沢口靖子も内藤剛志も、京都の鴨川のほとりを歩きながらずっと「標準語」でしゃべるんです。「おい、何か言いたそうな顔してるぞ」「うん、でも根拠のない話だから」
榊マリコは京都府警の科捜研でしょ、事件は京都で起きてるんじゃなかったんですか?
ことば以外のリアリティ
いや、テレビドラマは「生活のリアリティ」なんかは求めてはいないんだ!と開き直る演出家も居るかも知れませんね。
そうですね、逆に「生活のリアリティ」を捨てて、他の構成要素のリアリティを固めて成功しているのが、
テレビ朝日・木曜9時『ドクターX』でしょう。
「私、失敗しませんので」の米倉涼子演じる大門未知子が見ごたえあるのは、医学や医療界や大学界のディテイルがしっかりと押さえられているからです。
大門未知子からは病院以外の「生活」は捨象されています。
『ひよっこ』――リアリティのあることば
で、で、今年のテレビドラマの中で、最も「生活のリアリティ」に気を配り、出演者の話すセリフを「生活ことば」で綴ったドラマ、それはNHK朝ドラ『ひよっこ』です!
脚本家・岡田恵和は、奥茨城で生まれ育った矢田部みね子(有村架純)と彼女を取り巻く家族や友人たちの「生活」を、活き活きとした「生活ことば」で綴りました。
集団就職で東京墨田区向島にある「向島電機・乙女寮」に集った、みね子たち若い女の子が車座になって話すシーン。(5月2日・放送)
「んだよね」(茨城ことば)
「んだべぇ」(福島ことば)
「んだすなぁ」(青森ことば)
「んだんだ」(秋田ことば)
「んだゎ」(山形ことば)
短い台詞のやりとりに、彼女たち一人一人が背負っている故郷と家族と人生が立ち現われています。
それぞれの人生が訛っているように、「生活ことば」はそれぞれ訛っているのです。
それは決して「方言」の問題ではありません。
『ひよっこ』ベストシーン
「生活」と「ことば」の関係を最も優れて描き出したシーンは、4月14日の放送分です。
東京に出稼ぎに行った父・実が行方不明になったのを、母・美代子が東京・赤阪の警察署に出向いて捜索願いを頼むシーンでした。
警察官が言います。
「でもね奥さん、見つかると思わない方がいいよ。
出稼ぎで東京に来て、しんどくてどこかに消えてゆく失踪者がくさるほどいるんですよ」
「本当にね、茨城(いばらぎ)から来て、御苦労なんだけど」
この後の台詞です。
美代子(木村佳乃)
――少し、間があって――「いばら、キ、です」
――涙を流しながら ――「いばらギ、じゃなくて、いばら、キ、です」
――キッ、と顔を上げて警察官を見て――「やたべ、みのる、と言います」
「私は、わたしは、出稼ぎ労働者をひとり探してくれと頼んでいるのではありません」
「ちゃんと、名前があります。
茨城(いばらき)の奥茨城村で生まれ育った、矢田部実(やたべみのる)という人間
を探してください、と、お願いしているのです」
――力強く――「ちゃんと、ちゃんと、名前があります!」
――椅子から立ち上がって――「お願いします」
奥茨城の農村に生まれ育った一人の女として、人生の全ての誇りと存在をかけて見知らぬ警察官に懇願する矢田部美代子。
その美代子を、見事な奥茨城訛りのアクセントとイントネーションで演じた木村佳乃。
岡田恵和、会心の台詞!
木村佳乃、渾身の演技!
このシーンに、2017年最優秀ドラマ賞をあげたい、と僕は思うのです。
テレビドラマでも、ちゃんと「生活」は描けるのです。
中村鋭一先輩のこと
全日本レベルで「エイちゃん」と言えば「ロックの矢沢永吉」のことでしょうが、関西圏で「エイちゃん」と言えば「六甲おろしの中村鋭一」のことなんですよね。
その「鋭ちゃん」こと中村鋭一さんが、11月6日に亡くなられました。87歳でした。
関西のスポーツ新聞は、各紙ともに裏一面で追悼記事を載せました。
中村鋭一さんは、1971年から77年にかけて朝日放送ラジオの『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、一人の出演者が生で長時間しゃべるというスタイルを初めて創りだしたことで民放ラジオの朝枠を変えました。出演者自らを「パーソナリティ」と呼び、聴取者を「リスナー」と呼ぶのも、この番組から始まったと言われています。
そして、何よりもあの「六甲おろし」ですよね。
熱烈な阪神タイガースファンだった鋭ちゃんが、「阪神タイガースの球団歌」のことを『六甲おろし』と呼んで、「さぁ、昨日は阪神が勝ったンやから朝から元気よく『六甲おろし』いこかぁ」と叫んで、「六甲颪に颯爽と、蒼天翔ける日輪の~」と高らかに歌ったところからこの歌が関西人みんなに拡がっていったんですよね。
型を破った「鋭ちゃん」ことば
で、このような功績の源はどこにあるのか、を考えてみたいのです。
中村鋭一さんの最大の功績は、「アナウンサーたる者は必ず標準語でしゃべらなければならない、そして放送は不偏不党であるべきだ」と言われていた時代に、堂々と「滋賀弁なまりの関西弁」でしゃべり、堂々と「わしは好きも嫌いもある一人のおっちゃんや」と宣言したところにあるのだ、と僕は思うのです。
つまり、「一人の生活者」として「訛りのある生活ことば」を、初めてラジオで駆使したアナウンサーであった、ということこそが日本のメディア言語史上に残る鋭ちゃんの最大の功績ではないでしょうか。
『六甲おろし』は、その現れが大きく結実した一つなんだと思います。
「鋭ちゃん」を支えたスタッフの思想
とは言いながら、鋭ちゃんのこのようなスタイルが出来上がった陰には、彼を支えた製作スタッフの優れた表現思想があったことをここで明かしておきたいと思います。
日本で初めてのパーソナリティ番組でどうしゃべったらいいのか思案していた鋭ちゃんに、プロデューサーの中川隆博さんがこう言ったのです。
「中村さんは滋賀の生まれでしょ、標準語なんかやめて関西弁で、とにかく自分の言葉でいきましょうや」
「中村さんは阪神ファンでっしゃろ、徹底的にタイガースの肩もってやりましょうや」
この言葉が、朝のラジオに革命をもたらしたのです。
名馬の陰に名伯楽あり、ですよね。
(このことは、僕が朝日放送に勤めていた時の仄聞と、「朝日放送50年史」に依ります)
「どこにもオモロイ人が生きてるなぁ」という口癖
さて、1977年に番組を降板し朝日放送も退社して中村鋭一さんは参議院選挙に出たのですが、その時は落ちました。
そして次の選挙までの間、77年~80年まで中村さんはテレビ番組『ワイドサタデー』(土曜午後3時~4時)の司会を勤めました。その時のディレクターの一人が僕だったんです。
『ワイドサタデー』は朝日放送を幹事局にして、四国放送や宮崎放送や九州朝日放送などの7局が系列をまたいだクロスネットという変形的なスタイルで共同制作する「生の旅番組」でした。西日本の各地を、海辺・山合い・町中・村の畑から生中継するという番組で、中村さんと一緒に、西日本の色々な山間海浜を旅しました。
20歳も年下の僕を「まことくん」と呼んで、「海も空も山も川も、日本は綺麗やなぁ、そんでどこにもオモロイ人が生きてるなぁ」と言うのが口癖でした。
一匹も釣れなかった『ワイドサタデー』
いまだに忘れられない『ワイドサタデー』のシーンがあります。
それは、愛媛県松山沖の来島海峡で、地元の「鯛釣り名人」に自称「釣り名人・鋭ちゃん」が挑むという企画でした。頃は4月、名物の桜鯛を釣り競う、という狙いです。
「さぁ、一時間でなんぼほど釣れるやろ。番組終わったら、鯛の刺身に鯛飯焚いて宴会やでぇ」と番組頭から張り切った中村鋭一さん。
ところが、10分経っても20分経っても、あたりの気配も無し。
「名人、どないなってますのんやろなぁ」と鋭ちゃん。
すると、名人が「ワシも長いことここで鯛釣りよるけんど、こないなことは初めてじゃなぁ。今日は来島の鯛連中は波の下でみんな横になって寝とるんじゃろ」
結局は、滋賀弁の鋭ちゃんと伊予弁の鯛釣り名人の二人が、ひねもす春の来島海峡の風景を借景に、人生のよもやま話しをする一時間となったのでした。
そして、僕が担当した『ワイドサタデー』の中で、この「一匹も釣れなかった来島海峡の鯛釣り」こそが最高の出来だったのです。
中村鋭一さまへ
「陽気に、楽しく、いきいきと」しゃべることこそが人生にとって最も大切なことなんだ、と教えてくれた中村鋭一さんに心より御礼を申し上げます。
トークイベント「ときを掬ぶ」レポート
2017年9月19日~10月1日、アートスペース虹でcross border works 遊糸による「ときを掬ぶ」展が開かれました。9月26日には良恩寺でトークセッションもさせていただきました。トークセッション中にはTwitterで実況したのですが、それをまとめたものをこちらで掲載いたします。
また、遊糸洞では現在、キックオフプログラム「ひとはなぜつくるのか」連続講座を開催中です。一回だけの出席も可能ですので、ぜひお越しくださいませ。
第6回「テレビと映画とことば」吉村誠
12月16日(土) 15:00~17:00
第7回「写真をめぐる物語」吉川直哉
1月20日(土) 15:00 ~17:00
第8回「スペシャルゲスト」
2月17日(土) 15:00~17:00
第9回「クロージング・セッション」(公開)
3月17日(土) 15:00~17:00
各回2500円(学生1200円) ※第9回は無料
会場:遊糸洞(大阪市北区堂島3-2-19 松岡ビル1F)
住所・氏名・電話番号・メールアドレスを記載の上、メールにてお申し込みください。
お申込み先:you.see.dou@gmail.com
トークイベント「ときを結ぶ」
(遊糸メンバーによるトークセッション)
2017年9月26日(火) 19時~ 良恩寺
小清水漸(彫刻家、遊糸代表)
上田順平(やきもの作家)
児玉靖枝(画家)
山口尚(ゲームクリエーター)
吉川直哉(写真家)
吉村誠(メディアプロデューサー)
ゲストアーティスト・北川淳一(テクノロジーアーティスト)
小清水氏から「尋常じゃない風貌」と紹介される吉村。#遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
上田順平氏「グループ展はリスクがあるけど、アートスペース虹に隅っこでいいから作品を置きたかったのと、このメンバーでやるのはこの一回しかないかもしれないと思ったので」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「私はこのメンバーの作家としての有り様を信じてますので、変な展覧会にはならないだろうとは思っていました」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「今まで垂線という作品に、石を置いたりしていたので、今回もそのように使えたらいいかなと」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「私は今回の作品展をやって本当によかったなと思っています。作り手として、今回のように何人かの人たちとクロスしながら、すれ違いながら、出会いながら、作品を作り上げていくことができるんだと。本当によかったなと思います。」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「僕は芸術家に憧れている一般人なんですけど。デジタルのものが人に伝えられるのか、ずっと悩んでます。小清水先生の作品にプロジェクションマッピングする、怖かったです」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「児玉さんの作品にも被せてますが、見ている人から「靄が動いてるな」という言葉が出てしまうのが、いいのかどうか。想像を狭めてしまっているのではないかと。でも僕嬉しかったです。小清水先生の作品にあてられるのは僕だけなんじゃないかな」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「粘りけが欲しくてお風呂の水に牛乳いれたり片栗粉いれたりしてたんですけど、北川くんの映像が採用されました。お風呂は詰まりました。」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉村誠「アートスペースというところで、芥川でも太宰でもないのに何で本を書く過程を展示してるのかと思うかもしれませんけど、僕の中では繋がってます。絵とか彫刻を見たとき言葉がなくても感じています。でもそれを外に出すのは言葉しかありません」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉村誠「芸術作品にタイトルがついてますけど、そのタイトルがあるのとないのとでは感じ方は違うのか」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉村誠「作品を見て喋る、個人個人を繋ぐのは言葉。そこに興味があります。これからも考えます。『お笑い芸人の言語学』を書いたときに、その後ろには様々な人の言葉があった」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉川直哉氏「僕、グループ展330回くらいやってるんですけど。今回の展覧会は普通の展覧会じゃないとは思っていて。僕はここ20年くらい人の撮った写真を写真に撮って作品にしています。主に自分の家族アルバムの写真で」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉川直哉氏「この展覧会に、僕は乗り遅れたんです。ミーティングも肝心なとき行けなくてね。展示している作品の下のペロッとなっているのは、出遅れた感です。水木しげる先生のぬりかべってあるでしょ、あんな感じです」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「吉川さんも吉村さんも山口さんも、美術の世界の人ではないですから、最初戸惑ったと思います。僕や上田さんや児玉さんが喋る言葉は異国の言葉に聞こえたかもしれませんが、戸惑っているだろうなと思いましたが意地悪で黙っていました」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉村誠「展示場所決めるときにね、みんな「あと二ミリ左に」とか言ってるんですよ。プロジェクションマッピングも位置合わせるのに何時間もかかったりする。僕途中で帰りましたけどね、それおもしろかったです」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「上田さんは小清水先生の作品にのせてますからね」上田順平氏「知らないうちにそうなってて、うわーと思いました」#遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
上田順平氏「遊糸の中で最近まで言葉出てこないくらい緊張してたんです」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「今回はみんなが素材でしたからね」
児玉靖枝氏「私は私から山口さんに当ててくださいって言った気がします。動くものって強いと思ってて」 #遊糸
児玉靖枝氏「増幅していく期待感があってね、山口さんに」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「僕は児玉ファンに刺されるんちゃうかと怖かったです。嬉しかったんですけど」
小清水漸氏「プロジェクションマッピングで言うと、もっとしっちゃかめっちゃかな柄でもよかったですけど、あえて靄に」#遊糸
小清水漸氏「あえて靄にして。体験として面白かったと思います」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
児玉靖枝氏「いつもより長く見てもらえましたね」#遊糸
吉川直哉氏「グループ展て喧嘩みたいなイメージがあって、それにうんざりしてるとこもあったんですけど、今回はちょっと違ったかなと。今回はそれぞれの名前が消えた、アノニマスみたいな、不思議な感じがしましたね」#遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
北川淳一氏「凄い人ばかりなのでどうしようと思ったのですが、やっているとき、年齢も地位も関係なく機材動かしたりして、それが嬉しかったです」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「それぞれの作品を全て受け入れるわけじゃなくて、少しくらいの違いは大丈夫、と思った展覧会でした」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
児玉靖枝氏「本来作品は一点一点独立してるんですけど、虹のスペースの中で完結するように空間を作りました」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
山口尚氏「上田さんは、もうダメや絶対ムリや入らへん、て言ってましたけど」
上田順平氏「始めは自分の中で素晴らしい展示空間を目指してたんやけど、今回は加担してしまおうと」#遊糸
上田順平氏「自分だったら絶対やらないような多さの作品を展示していて、まあアリかなと思ったり、自分じゃない人から見たらどう思われるんやろうと不安やったり」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水漸氏「今回の展覧会で、お互いのテリトリーが消えていくような感じがしました」#遊糸
小清水「吉村さんが最初、みんなが展示したあと色んなとこに紙を貼るのは駄目か、という話をされて、それは美術家にしたら一番嫌なことなんですよね。今回、作品の間にお互い我慢して譲ったんじゃなくて、被さることによって生まれてくる何らかが見つかったと思います」#遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
お客さん「この作品はあの作家、みたいなことが分かると思ったんですけど、分からないものもあり、たぶん分からなくてもええんやろうなと思った展覧会でした」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
吉川「これで終わりじゃなくて、また個人の活動にどんなふうにフィードバックしていくのか、また集まるのか」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
小清水「変化していくことがおもしろいんですよね。一瞬一瞬変わっていくことが楽しい。また別の人が加わるかもしれないし」 #遊糸
児玉「遊糸の活動は、もっと外に投げかけたいなと。展覧会もそうなんですけど、もう少し違う立ち位置が可能なんじゃないかな。展覧会って常に、内輪の自己満足と、外に発信していけるかってことがあって。今後もうちょっと積極的にいきたい」#遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
お客さん「みなさんそんな若くないのに新しいギャラリーを作ったりとか、すごいなと。みなさん、高齢者というか」
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
みんな「ちょwww」#遊糸
小清水「山口さんはゲームのことだったり忙しいけど、休むことはあっても遊糸洞に来てくれる。たぶんそれは、違う視点を求めに来ているんだと思う」 #遊糸
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
— 吉村誠 (@yosimuramakoto) 2017年9月26日
後半に出てきた「展示の空間を侵食しあう」という話題が興味深かったです。
普通だったら作品一点をそれだけとして、他から干渉されないように展示するらしいのですが、今回のアートスペース虹「ときを掬ぶ」展では、小清水氏の作品の上に上田氏の作品を置いたり、児玉氏の画の上に山口氏と北川氏の作品を乗せたり、吉村の展示の台座が小清水氏の作品だったりと、独立した作品のように見せかけて実は干渉しているされている、そんな展示をしていました。
それぞれの宇宙が他者とかかわりあう世界を、あの空間で表現されていたのかな、と今更ながら助手は思いました。
吉村的流行語大賞は……
近頃、世の多くの人もすなるブログといふものを、我もしてみんとしてすなり。
てな訳で、今日から、吉村誠ブログ「いとをかし」を始めます。
もともと友だち仲間としゃべる時に、話の終わりに「そうであることよ、いとをかし」
なんて言ってたのを看板にしたんですが、そう言えば吉本興業の若手芸人ネイビーズアフロの毎月のイベントタイトルが「いとをかし」でしたよね。
かぶってしまいましたが、ゴメンナサイね。
吉村的流行語大賞は「ち―が―う―だ―ろ―!」
さて、年末恒例「流行語大賞」の候補30語が11月10日に発表されましたね。
いつも楽しみながら見ていたのですが、今年は同日発売の『現代用語の基礎知識・創刊70周年号』に「ギャグで感じる70年」という文章を書いたこともあって、ひときわ興味を持って30語を見たのでありますよ。
で、で、「ち―が―う―だ―ろ―!」ですよ。
最初に字面を見て、「えっ、これ何やったかな、誰が言うたんやったかな」と、一瞬ピンとこなかったんですよね。そのうち「そうや、頭が欠けてるわ」と思い出しました。
これって、やっぱり「このハゲ―!」が頭にあって初めて完成句ですよね。
「このハゲ―!ち―が―う―だ―ろ―!」でこそ、あの豊田真由子議員の美しい顔が目に浮かんでくるのです。(僕は、真由子さまはかなりの美人だと思っています)
更には、実際の発声に近い表記にして、
「このハゲェ―っ!ちがうゥだァろォ―っ!」
と、一音ずつはっきり書けばなお一層、美人の真由子さまが怒り狂って叫んでいる声が聞こえてくるような気がします。
多分、世の中の多くの人が実際にこの言葉を口にする時には、成句の全体をしゃべっているでしょうね。
でも、まぁそこは、30語を選んだ「現代用語の基礎知識」の編集部さんたちからすれば「頭髪の薄い人たち」や「世間」に対する、まさしく「忖度」で「ち―が―う―だ―ろ―!」となったのでしょう。これこそ、いとをかし、ですね。
「活きたことば」はこういうことです
それはさておき、僕の中では、「2017年流行語大賞」は間違いなくこれに決まり!です。
2017年に、小さな子供から、若い男女、おっちゃんおばちゃん、じいちゃんばあちゃんに至るまでこれほど日本人の一般民衆に使われた言葉はないでしょう。
それは、30語の他の言葉のほとんどが作為的に「作られたことば」であるのに対して、この「ち―が―う―だ―ろ―!」だけが、生身の人間の身体からほとばしり出た「活き活きとしたことば」だったからですよね。この点において「強さ」が全く違います。
豊田真由子議員は、政治家としては何一つ功績らしきものを残しませんでしたが、「ことば」に関してはとても大きな功績を残したと言えるでしょう。
政治家の語る「ことば」や、マスコミで語られている「ことば」が、情報伝達のためだけの薄く弱い「ことば」であるのに対して、身体性に基づいた「ことば」が情緒に裏付けられた厚く強い「ことば」であることを彼女は身を持って示してくれたのです。
ただ真由子さまの場合、使う場所と使う相手を間違えていたのですが、ね。
予算委員会なんかで、あんな「ことば」で質問や追求をやってくれたら国会中継は視聴率30%間違いなしなんですけどねぇ。
おそらく、今の日本の言語空間に必要なのは、このようなことだと思います。
政治や経済や国際を、もっと「身体」や「生活」に密着した「ことば」で語ること。
思えば……
思えば、吉田茂の「バカヤロ―」だったり、池田勇人の「貧乏人は麦を喰え」だったり、小泉純一郎の「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」だったり、と歴史に残る政治家の「ことば」は決して高邁な言葉や難しい物言いではありません。
ですが、とてもよくわかる「ことば」なんですよね。
(もっともこれらの発言は、実際に話されたコンテクストからは後にマスコミによってデフォルメされているので、その点は補正して考えなければいけないのですが)
という訳で、吉村の選んだ「2017流行語大賞」は「ち―が―う―だ―ろ―!」でした。
このブログについて
元朝日放送プロデューサー、元宝塚造形芸術大学大学院教授の吉村誠のブログです。
よろしくお願いします。
現在、
同志社女子大学や関西看護医療大学で非常勤講師(マスコミ論、看護と芸術など)
著書:『お笑い芸人の言語学』(2017)ナカニシヤ出版
寄稿:『現代用語の基礎知識2018年』巻頭特集「ギャグで感じる70年」(2017)自由国民社
アートグループ「遊糸」のメンバーとして、イベントや作品展示なども行っています。
イベント:
メディア論、コミュニケーション論、言語に関する講演多数あり。
「新聞は疑いながら読もう、テレビは突っ込みながら見よう」
「話しことばと書き言葉」
「日常生活の言語論」等
大学、大学院での担当科目:
メディア・デザイン基礎セミナー、放送演習、映像、放送番組制作、放送演習、卒業制作・論文、コンテンツプロデュース、マスコミュニケーション論、メディア論、メディアリテラシー、ライティングスキル、エンターテインメント産業論、芸術、看護と芸術、批評論特論等
過去、
テレビ:「シャボン玉プレゼント」
「ワイドサタデー」
「パーティ野郎ぜ!」
「ヤングプラザ」
「ワイドABCDE~す」(創設)
「ナイトinナイト」
「M-1グランプリ」(創設プロデューサー)
映画:「ニワトリはハダシだ」(2004)
「血と骨」(2004)
「ビートキッズ」(2005)
「秋深き」(2008)
「The ショートフィルムズ みんな、はじめはコドモだった」(2008)等
他、多くの作品で制作委員会メンバーとして製作・宣伝に携わる。
また、大阪アジアン映画祭等、多くの映画祭に携わる。
演劇:「中之島演劇祭2006」プロデュース等
※このブログは助手が管理しています。