吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

それ違うんじゃないの?――新聞の小説評について

さて、少ししつこいようですが、芥川賞受賞作『あらおらでひとりいぐも』を巡る言説の中でどうしても見逃すことのできないのが新聞記者の論評です。

多くの新聞が、この小説を「老境を生きるための小説」だとか、著者を「こども時代の夢を叶えた人」だとか評しています。全くの「筋違い」だと僕は思います。

 

読売新聞「編集手帳」1・18朝刊

「若竹さん自身、岩手県出身で、作家をめざして何年も苦闘をかさねたが、かつてなじんだ方言に着目したとたん、筆が進んだという」

――この記者は、「方言」を小説を書くためのひとつの「文章手法」「テクニック」としてしか捉えていない、のが明らかです。

 

読売新聞「よみうり寸評」1・19夕刊

「子供の頃の自分を呼び戻す。それが生き生きとした第二の人生につながるという」

「若竹千佐子さんも、作家になることが小学校時代からの夢だったとか。ときには後ろを振り返るのもいい、」

――小説は、老後を生きるための「人生のハウツー本」ではありません。

――「言語」は、社会的栄達を手にするための「手段」ではありません。

 

朝日新聞天声人語」1・18朝刊

「豊饒な東北言葉を駆使し、孤独を生きる女性を描いた」

「健康や家計と並んで備えておきたいのは、孤独の飼いならし方、老後の慈しみ方ではないか。『玄冬小説』の広がりに期待したい。」

――どうやったら、こんな読み違いに辿り着けるのでしょうか。

――この文章の書き手は、小説を読む時に楽しさなんて感じていないことが明白です。

 

この人たちは「ことば・言葉」を、単なる「道具」や「手段」としてしか捉えていません。

芥川賞を獲るための「道具」、夢を叶えるための「道具」、孤独な老後を生きるための「道具」、だと考えているのです。

そして、「文字」を駆使して、褒められる「上手い文章」を書いて、金を稼いで飯を食うための「道具」なのです。

これが、「文字優位の価値観」と「書き言葉・話しことばの標準語主義」に誑かされて、「書き言葉の標準語」で社会的上昇を手にした人の言語観なのです。

(僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』で、東北大震災を巡る「天声人語」と「編集手帳」を酷評しました。そのせいかどうか、朝日新聞と読売新聞には拙著は完全に無視されました)

 

繰り返し、繰り返し、僕は言います。

「ことば」は、決して「何かをするための道具」ではありません。

「ことば」は、ヒトが人であるための存在基盤なのです。

「ことば」は、「生活」であり、「人生」そのものなのです。

 

若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、「わたし」の奥に潜む「おら」を取り戻すことによる「人生の再生の物語」に他ならないのです。

芥川賞発表と、今期のテレビドラマの「ことば」

昨日、第157回芥川賞が発表されました。吉村がイチ押ししていたおらおらでひとりいぐもが見事受賞。よかったですねぇ、若竹千佐子さん、おめでとうございます。

 

方言は好き?嫌い? 

で、「63歳の新人」と言うことで、早速テレビメディアでは大きく扱っていたのですが、その扱い方に首を傾げる箇所が幾つか。

テレビ朝日報道ステーション」では、富川アナが生インタビューで若竹さんに「遠野弁がお好きなんですね?」と質問。

いや、違うでしょ。

「方言」は、好きとか嫌いとか言う次元の問題じゃないんですよね。

人間存在の原点としての「ことば」の問題です。

少なくとも、若竹千佐子さんはこの小説を通して、「おら」と「わたし」との乖離に象徴されている2018年の日本社会の在り様と我が人生の在り方を問うているんですよね。

無頓着に「アナウンサー標準語」を使ってビジネスしている人には、この「ことばと生活」の問題はわからないんだろうなぁ、と苦笑してしまいました。

更に、フジテレビ「ニュース+α」では、ナレーション原稿を読んでいるアナウンサーのイントネーションが、「オラオラでひとりいぐも」と発音されていて爆笑してしまいました。

そりゃないでしょ。

読んでいておかしいと思わないんでしょうかね、担当ディレクターも聞いていて何か変だと思わないんでしょうかねぇ。もう少し勉強しましょうよ、「ことば」について。

 

いずれにしても、これで選考委員各氏の選評を読むのが楽しみです。

小説を読むのも楽しいのですが、芥川賞直木賞は選考委員を勤めている作家諸氏の選評を読むのがもう一つの楽しみなんですよね。

 

今期期待のドラマは『女子的生活』

さて、今日の話題は1月スタートのテレビドラマについて、です。

各局とも今期クールのドラマが出そろいましたね。

趣味と興味から、僕は、各局のドラマのスタート1回目か2回目をOAか録画かで見ます。

そこで面白そうならば、そのドラマは続けて見ますし、ダメと思えば打ち切りします。

 

で、今期最も期待していたのが、NHK・金曜10時『女子的生活』なんです。

まず、設定がオモシロイ。

志尊淳が演じる主人公・小川みき、は性別は男性なんだけど女装していて内面は女性というトランスジェンダー。しかも恋愛対象は女性。この複雑な人柄をどう演じるか。

しかも、ドラマが展開される場所は神戸のファッション会社。

制作はNHK大阪(業界ではBKと言います)、制作統括は、朝ドラ『べっぴんさん』を作った三鬼一希さん。

どれだけリアルな生活感の中で、複雑な「性別違和」を描き出してくれるだろうか、と。

 

ここは東京?それとも神戸?

残念!でした、今のところですが。

女性そのものに見える志尊淳の立ち居ふるまいは綺麗だし、「ほっこり系」で男を惹きつける小芝風花も魅力的だし、間に挟まれる「LINE的吹き出し」による女性心理の描写もとてもよくわかるのです。

が、もっとも肝心な台詞がすべて「東京標準語」なんですよね。

それは「ありえへん!」でしょう。

神戸に住んで暮らしている人間が日常会話で、「だってさぁ」とか「男って面白いじゃん」とか「そんなわけないでしょ」とか語頭アクセントで言わへんでしょう。

原作は確か東京が舞台だったと思うのですが、それをわざわざ神戸に移した意味はどこにいったのでしょうか。

 

それらしき「生活ことば」をしゃべるのは、三宮の高架下商店街とおぼしき所にあるコロッケ屋さんの夫婦だけ。「いっつもきれいやなぁ、お姉ちゃん、まけとくわ」とかね。

時々映るポートタワーや、港の風景だけがここが神戸であることを示しています。

まさしく借り物の風景、神戸は「借景」に過ぎません。

港と街路のロングショット以外は、どう見てもこれは東京のビジネス街で展開されているドラマです。

 

リアリティはことばから生まれる

「日本のドラマにはリアリティがない。だからつまらない。日本人は2年間、テレビドラマを作るのを止めて海外ドラマを見て勉強する方がよい」と言ったのは、デーブ・スペクター氏ですが、リアリティの根本は「台詞」にあります。

 

とても挑戦的で斬新な設定のドラマだけに、「台詞」の標準語主義が残念です。

とは言いながら、次回の3話目には主人公・小川みきの出自や過去が語られるそうなのでそこで「生活ことば」が出てくるかどうかを期待しています。

 

ところで、このNHKの金曜10時枠は、今、日本のテレビドラマ界で注目すべき新しいことにどんどん挑戦しており、高く評価すべきだと僕は思っています。

昨秋には、NHK名古屋(CK)の制作で『マチ工場のオンナ』というドラマを作りました。

名古屋郊外を舞台にして、父親の残した町工場を引き継いで女社長になる専業主婦を内山理名が演じたドラマです。

これも惜しむらくは、「台詞」が「東京標準語」であったために「名古屋郊外で暮らす人たち」のリアリティを充分に出すには至りませんでした。

が、このように「東京以外」で暮らしている現代日本人をドラマで描こうとしている制作者の努力はいつか実を結ぶ時が来るだろう、と僕は考えています。

 

「台詞」のリアリティに最も注意と努力を払っているのは、やはりNHK大河ドラマ」の『西郷どん(せごどん)』です。

時代物だからでもあるのですが、登場人物ひとり一人の話す「ことば」は見事に考証されており、鈴木亮平演じる西郷吉之助はじめ、若者から老人や子役に至るまでが「薩摩の生活ことば」を身に付けて演じているからこその見ごたえです。

 

さて、民放各局のドラマは相変わらず無邪気な「東京標準語ドラマ」が並んでいます。

で、今のところ全てを見ているわけではありませんが、幾つかについて。

 

民放ドラマ評――やっぱり標準語主義

TBS・日曜9時『99.9』

松潤の主演する弁護士ドラマ。今シリーズも脇には香川照之、そして女性は木村文乃

アリバイ崩しなどの謎解きは面白く、法廷での逆転劇は痛快でした。

が、良く考えると無理なアリバイを作ってまで殺人を犯す動機も必然性もゼロ。

そしてもちろんのこと、展開されるドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。

 

NTV・土曜10時『もみ消して冬』

山田涼介の主演。脇に波瑠と小沢征悦

兄が天才外科医で、姉が敏腕弁護士で、本人はキャリア警察官、ですって。

もちろんドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。

生活感の伴わないセリフで成立するのは、せいぜい薄っぺらいコメディードラマです。

 

フジテレビ・月曜9時海月姫

芳根京子の主演に、女装の瀬戸康史が織りなすライトコメディ。いわゆる「フジの月9」。

セリフは基本的には「東京標準語」ですが、主人公は地方出身者なので時々言いわけのように「訛りのあることば」が使われています。

「もう来んでください、おどろしかぁ、東京には男のお姫さまがいます」

無理に挿入した「訛りことば」は、笑いの要素ではあっても、ドラマのリアリティを担保するものではありません。

 

フジテレビ系・火曜9時『FINAL CUT』

テレビのワイドショーの歪んだ報道のせいで自殺した母親のために復讐する主人公、を亀梨和也が演じます。

制作はKTVカンテレで、刺激的なストーリイです。

ここで余談を一つ。

東京キー局が制作するドラマに比べて、関西局が制作するドラマの方が挑戦的な内容のものが多いです。その理由は、東京キー局が潤沢な制作予算を持っている上に、人気の高い俳優のキャスティングに優位な力を持っているからで、関西局のテレビマンたちはそのビハインドを乗り越えるために「企画と脚本」で俳優事務所を口説かざるを得ないからです。

週刊誌報道に復讐すると言う内容の『ブラックリベンジ』もYTV読売テレビの制作でした。

テレビドラマを見る時は、どの局が制作しているのかを知っておくのも判断材料の一つです。

 

 

さて、こうやって見てくると、総じて日本のテレビドラマの中の「ことば」は「弱い標準語」の不自然な台詞に溢れており、お笑い芸人たちの「強い生活ことば」にはまだまだ勝てていない、と僕はしみじみ思うのです。

 

『おらおらでひとりいぐも』ではありませんが、標準化された「わたし」のような「ことば」ではなく、身体性と土着性に基づいた「おら」のように強い「ことば」で生活や出来事を描くドラマが現れることを僕は待っています。

近畿大学の新年広告――今年も笑わせてくれました!

お正月の新聞紙面には、 今年これから話題になりそうなことが先取りして盛られています。
2018年と言えば、『ピョンチャン・オリンピック』に、『 藤井・羽生フィーバーの将棋界』に、NHK大河ドラマ・ 西郷どん(せごどん)』などなど。
写真やインタビューなど、てんこ盛り。
 

新聞――お正月の楽しみは企業広告

それはそれで面白いのですが、 もう一つ僕が楽しみにしているのが、各種企業の一面PR
各社の宣伝担当と、広告代理店などのCMディレクターたちが、 腕によりをかけた力作ぞろい、なんですよね。
 
化粧品の資生堂、車のトヨタ・日産、住宅の積水ハウス、生命保険各社。
担当したCMディレクターさんたちは、きっと去年の11月から12月にかけて、胃に穴があくほど苦しんだんでしょうね。
 

今年も攻めていた「近大の広告」

で、で、やっぱり今年も僕を大笑いさせてくれたのは、あの近畿大学の広告」でありました。
1月3日の新聞朝刊を、社会面からめくっていったら、第二社会面の次にいきなり眼に飛びこんできたのが、
『謹んで新年のお詫びを申し上げます』の文字!
えっ、何、これっ!
年明けからいきなり、「三菱マテリアル」や「神戸製鋼所」に続く新たな大企業のお詫び?
綾小路きみまろなら、「中高年のみなさま、謹んでお喜びを申し上げます。その顔で、よくぞこれまで生きていらっしゃいました」だけど。
 
で、よーく見ると、あの『近大の広告』なのでありました。

 

最上段、白地に紺文字の『謹んで新年のお詫びを申し上げます』で、パッと読者の眼を惹きつけといて、
その下段に、紺地枠の白抜き文字で、『早慶近中東法明上』のキャッチコピー。
 
ボディコピーの本文を読めば、昨年2017年正月の紙面で『早慶近』とぶち上げたコピーのお詫び。

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近畿大学HP「広告アーカイブ」2016年度より
早慶」や「関関同立」など、これまでの「有名大学のくくり形容詞」に対して、「そろそろ誰かがツッコミ入れてもええんちゃいますのん」と独自の異議を申し立てたことへの訂正の態を取った、シャレと更なるPRなのでした。
 
センス抜群!
 

ジャーナリズムから生まれる広告

そして、この発想の根っこには、去年一年間の日本で続出した、数々の『お詫び』があることは確か、です。
「このハゲーっ!ちーがーうぅだぁろぉーっ」の豊田真由子さま。
「不倫疑惑」の山尾志桜里衆議院議員
政治家になる人とは、こんなにも厚かましく恥知らずな人たちなのか、と誰もが思ったものでした。
 
三菱マテリアル」や「神戸製鋼所」の長年にわたる隠蔽。
日産自動車」を始めとする自動車業界の無資格検査。
はては、「現役横綱暴行事件」。
 
その度に私たち誰もが感じたのは、【まごころのかけらも感じられない謝罪とお詫び】でした。
 
「近大の広告」には、批評精神がみなぎっています。
げに、「素晴らしいCM」とは、実に優れたジャーナリズム精神から産まれることの見本です。
 
2018年「近大の紙面広告」は、この「シャレのお詫びづくし」で以下を綴ります。
「2018年問題に関するお詫び」では、18歳人口の減少を押さえて。
近大マグロに関するお詫び」では、マグロだけでなく多くの魚の養殖を誇りながら食品問題を。
僕のテレビマンとして仕事がらみの思い出ですが、今から40年ほど前に『ワイドサタデー』という番組で和歌山県は白浜にある「近大水産学部養殖研究所」から、マグロ養殖の試行状況を生中継した時には、こんなになるとは予想できませんでした。
 

標準化された価値を超えるナマズの広告

何よりも、僕が「近大CM」を評価する理由は、「標準語化されない関西弁感覚」です。
今年も最下段には、
『今年も盛大にやらかすんで、先にお詫びしときます』とありました。
 
思えば、2016年正月の新聞紙面広告で、大きなナマズの顔写真を載せて、
『近大発のパチもんでんねん』
と関西弁のキャッチコピーが踊った時には、その一面を研究室の壁に貼ったものです。

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近畿大学HP「広告アーカイブ」2015年度より
ーーわて、近大生まれのうなぎのパチもん、「うなぎ味のナマズ」ですねん。
   パチもん、なめとったらあきまへんでーー
 
関西弁に限りません、何弁でも良いのです。
「標準化された規範価値」を超えることができるのは、「標準化されないことば」による生活思想です。
「近大のCM」は、一大学のPRにとどまらない、たくさんのことを含んでいる、と僕は思うのです。
 
関西電通のクリエーターさんたち、近畿大学広報部の皆さんに拍手!です。
素敵でオモロイCMをありがとう。

今こそ読まれるべき小説、「ことばと生活」を巡って

 

吉村の第158回芥川賞はこれ!

芥川賞の候補作の中に『おらおらでひとりいぐも』という小説が入っていたので、気になって読みました。

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で、で、で、です。
素晴らしい!です。
 
小説という形式で、こんなに見事に「ことばと人生」のありようをつづった文章に久々に出会いました。
年明けの選考結果がどうであれ、僕の中では「第158回芥川賞」は、これに決まり!
 
明治維新から150年、戦後70年、そしてあの東北大震災から6年が経ち、平成の終わりが近付き、3年後には東京オリンピックを迎えようとしている今だからこそ、この小説はすべての日本人に読まれるべきだと、僕は強く思います。
 
もともと、この作品は河出書房新社の「文藝賞」を受賞したもので、作者の若竹千佐子さんが63歳という年齢であるところから、「史上歳年長受賞」や「63歳の新人による『玄冬(げんとう)』の物語」などというキャッチフレーズが宣伝文句として新聞紙上に踊っていました。
 

母語」を再発見する小説

その、『おらおらでひとりいぐも』ですが、まずは、書き出しからしてイイ!のです。
 
「あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなっ てきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如(なんじょ)にすべがぁ
 何如(なじょ)にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたごどねでば、なにそれぐれ
 だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後 まで一緒だがら
 あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
 決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ」
 
東北弁の「話しことば」の文字化。
「おら」と「おめ」の対話によって、これから始まる物語の展開を提示します。
 
物語は、東京オリンピックの年に、そのファンファーレに吸引され るかのようにして東北の故郷を飛びだして東京に出て行った桃子さんが、50年の時を経た後に、身内から湧きあがる「東北弁 丸出しの声」と対話しながら、人生の「これまで」「いま」「これから」を語ってゆく、という結構になっています。
 
東北の故郷を離れて50年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりの桃子さんなのですが、老年になった近頃、東北弁丸出しの言葉が心の中に溢れてくるのです。
「晩げなおかずは何にすべから」
「おらどはいったい何者だべ」
「卑近も抽象も、たまげだことにこの頃は全部東北弁で」 なのです。
 
そして、その根っこのところにあるのは、「おら」という一人称の 「母語」の再発見です。
 
つまり、『おらおらでひとりいぐも』という小説は、近代日本の産 業社会と制度教育が与えた「わたし」というお仕着せの一人称の奥部にある「おら」を再確認した主人公・桃子さんが、その「おら」という「ことば」を軸にして、これまでの自分の人生を見つめ直し、自分の生きてきた「日本の近代」を問い直している小説なのです。
 
この小説についての論評の幾つかが、「方言の豊かさ」などと論じていますが、それは的を外していると思います。
決して「標準語VS方言」の問題ではなく、「方言の面白さ」 の問題でもありません。
ことは、「ことばと人生」の問題、だと僕は考えます。
 
「標準語」とはこの世に実在しない、架空の言語概念です。
この世にあるのは、一人一人が日々の暮らしの中で使う「訛りを含んだ生活ことば」だけ、なのです。
そして、「生活ことば」は、それぞれが必ず訛っているのです。
それは、人それぞれの人生が決して標準化・画一化されえない「個別の人生」であることと同義です。
 
作者は、桃子さんの頭の中に出てくる他者に、
「東北弁とは最古層のおらそのものである。
 もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである」 と言わせます。
 
「わたし」と「おら」の対比、「おら」と「おめ」の会話。
桃子さんの人生を語ることは、私たち日本人が生きてきた「近代」を語ることになっているのです。
『おらおらでひとりいぐも』は、若竹千佐子さんが「人生で書いた小説」だと言えるでしょう
 
そして、この小説の上手い点は、主人公と頭の中の他者との会話という体裁を取ることによって、地の文章までもを自然に東北弁と標準語との混交で書ける文体を産み出したところにあります。
例えば、昨年の芥川賞受賞作『影裏』(沼田真佑・著)などのように、これまでも、「方言」を使った小説は幾つもあったのですが、その多くは「 」で示される登場人物の会話部分に限られており、小説の大部分をなす地の文章は標準語の文章で書かれていました。
 

東北弁で思い出す本

最近出た本で、「ことばと生活」について考えさせられるものが、 もう一冊ありました。
『東北おんば訳 石川啄木のうた』(編著・新井高子 未来社)です。
 
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 
啄木の有名な短歌が、岩手県大船渡の「おんば」 と呼ばれる年配の女性たちの「ことば」によると、
 
  東海の小島の磯の砂っぱで(ひんがすのこずまのえそのすかっぱで)
  おらァ 泣ぎざぐって(おらぁ なぎざぐって)
  蟹ど戯れっこしたぁ(がにどざれっこしたぁ)
 
と、なります。
場所不明だった「東海」が、ものの見事に「リアス式の三陸海岸」 の風景を立ち上がらせてくれます。
 

井上ひさし吉里吉里人』

ここで、「東北弁」を使った小説の先駆者である、井上ひさしを思い出しました。
 
岩手県のどこかにある「吉里吉里村」が、経済大国・日本から独立して独立国家を作るという小説『吉里吉里人』です。
ユーモア満載で、抱腹絶倒の小説なのですが、僕がいちばん好きなのは、「吉里吉里国歌」の2番です。
 
  吉里吉里人は眼はァ澄んで居で(ちりちりづんはまんなごはァすんでえで)
  頬ぺたと夢はァ脹れでで(ほぺたとゆんめはァふぐれでで)
  男性器と望みはァ大きくて(だんべとのんぞみはァおっきくて)
  女性器と思慮はァ練れでえんだちゃ(べちょことすりょはァねれでえんだちゃ)
 
おもしろいでしょ。豊かでしょ。
何と言っても、身体性と土着性に裏付けられた「ことば」が強い!です。
 
吉里吉里の住民は言います。
「わたしたちにとって吉里吉里語は宿命なのです。
 父を、そして母を選ぶことができないように、わたしたちは自分の生まれる土地の言葉を選ぶことはできません。」
「わたしたちはもう東京からの言葉で指図をされるのはことわる。
 わたしたちの言葉でものを考え、仕事をし、生きていきたい。」
 

がんばっぺ!宮城

もう一つ、思い出しました。
2011年の東北大震災の時に、東京のマスメディアから発信された「絆」や「希望」や「復興」などで彩られた言葉がとても薄っぺらく聞こえたのに対して、救援隊員のヘルメットに書かれていた「がんぱっぺ!みやぎ」や、腕章に書かれていた「けっぱれ!岩手」や、「まげねど!女川・石巻がどれだけ心に響いたか。
 

芸人も自分の育った土地のことばを使ってほしい

少し、余分なのですが。
僕は、『お笑い芸人の言語学』で、「お笑い芸人のことば」に「標準化されないことばと生活」を読み取ったのですが、今やお笑いの世界では「標準語」に対抗する形での「関西弁」だけが幅をきかせ過ぎているのではないか、と思っています。
 
「関西弁」が「お笑い」のための「ビジネス日本語」になるのを危惧しています。
もっと多彩な「生活ことば」で「お笑い」をやって欲しいのです。
 
「千鳥」は、岡山弁訛りの関西弁で頑張っています。
博多華丸・大吉」、地元福岡での放送だけでなく、東京発のテレビでももっと博多訛りを使っても良いと思います。
「カミナリ」、せっかくNHK朝ドラ『ひよっこ』 があんなに茨城訛りを日本全国に広めてくれたのですから、 もっともっと堂々と茨城訛りを使ってほしい。
 

小説であり言語学であり社会学であり人類学

『おらおらでひとりいぐも』に話を戻します。
この本は優れた小説であると同時に、とても優れた言語学の本でもあり、社会学の本でもあり、人類学の本でもある、と思います。
僕たちが生まれながらに身につけた「母語」の大切さ、そして「母語」を核にして膨らんでいく「日々の暮らしのことば」。
「ことば」から考える、社会と人生。
 
「優れた表現」というものは、ジャンルを超えて「人間の本質」に迫るものなんだなぁ、としみじみと感じたのです。
そして、「小説」っていう表現形式は、やっぱり素敵なものですね。

M-1補足と、朝日放送スキャンダル

M-1グランプリ」の余波が、まだ色んなところで続いていますね。

僕も、創設プロデューサーとして、前回のブログで今年の「M-1」について思うところを書いたのですが、その後、教えている大学生たちからたくさんの質問を受けました。

 

で、その応答の中から、少し。

まず、僕が漫才師さんたちの「力」を判定する基準にしている「声」について、です。

「声」と言うと、多くの人が「大きい声か、小さい声か、ですか?」と尋ねてくるのですがそうではありません。「声」が「強いか、弱いか」なのです。

 

マイクに乗る「声」とは

ご存知のように、人間の身体は「管楽器」です。身体の中から吐き出す息を、喉・口蓋・舌・歯・唇、で加工調音することによって、息が音になり「声」になります。

で、上手い漫才師さん達は、身体全体を使って、腹の底から息を出しているんですよね。ですから「声」がしっかりしていて「強い」んです。

「声」は音波ですから、たとえ小さくても「強い声」は棒状になって相手にきちんと届きますし、マイクにもしっかりと乗ります。

逆に喉から上だけ、口先だけで喋っている「声」は、大きくても拡散してしまうのでマイクに乗りにくいですし、やかましいと感じられてしまうんです。

 

上手な漫才師さんの「声」って、すごく聞き取り易い。

今回の「M-1」の出演者で言えば、「和牛」の川西くん、「ジャルジャル」の福徳くん、「さや香」の石井くん、の「声」は大きくないけど挨拶の一言目からはっきりと聞き取れましたでしょ。

漫才師さん達は、育ってきた人生の過程の中で、また芸人になってからは舞台の喋りの中で、「強い声」を身に付けてゆきます。僕はこれを「芸人の素力」と呼んでいます。

この「素力」の上に、「ボケと突っ込み」といったテクニックや「ネタの練り込み」が成立するんです。

漫才師さん達と直接に話しをしたら、彼らの「声」がふだんから「太くて、強い」ことにきっとびっくりしますよ。これは漫才師さんだけでなく、舞台俳優さんにも共通しています。ですから「舞台声」とも言います。

 

実は、「声」についてのこの秘密――別に秘密でもないんですが――は、漫才や演劇だけでなく、僕らの実生活でのコミュニケーションにとても役に立つことなので、今後の参考にしてほしいなと思います。

 

続く朝日放送関係のスキャンダルについて

さて、さて、「M-1」でせっかく名を上げた、我が古巣の朝日放送だったのですが、今週は全く別のことで話題になってしまいました。

「女優・藤吉久美子の不倫疑惑」、かの文春砲です。

知人から朝日放送が話題になってるでぇ」と言われて、最初は何のことかわからなかったのですが、週刊文春を買って読んでみて初めてわかりました。

藤吉久美子の不倫相手は、朝日放送のプロデューサー!」だったんですね。

 

あーら、まぁ、何ということでしょう。

先週は「隠し子の母・激白」で宮根誠司くん、彼は元・朝日放送のアナウンサー。

今週は「女優の不倫相手」で、現役の朝日放送ドラマプロデューサー。

二人とも、僕の後輩なんです。

 

うーん、いささか辛いですね。

朝日放送」人は、倫理観念に乏しい人間ばかりのように思われそうで。

 

で、宮根くんも、Aプロデューサーも、きちんと自らの従事するメディアにおいて、正々堂々と記者会見して思うところを述べるべきだ、と僕は思います。

なぜなら、免許事業たるテレビは「紛れもない社会的権力」であり、その出演者も制作者も「社会的権力者」だからです。

「権力」は「責任と義務」に裏付けられているもの、だからです。

 

それをしないかぎり、

「ABC制作の情報番組は全て芸能コーナーがあるけど、この問題はやっぱりスル―ですかね?他人に厳しく身内に甘い朝日放送

というネット上に現れた、一般庶民の「素直で強い声」に反論はできないのではないでしょうか。

 

このスキャンダルの話題、ブログに上げるかどうかを少しばかり悩みました。

ですが、「朝日放送 M-1グランプリ創設プロデューサー」として発言している者として、二つのスキャンダル報道について「スル―」するのは良くない、と思って上げました。

M-1グランプリ――M-1史上最高の面白さ!でした

 12月恒例の「M-1グランプリ」今年は格別に盛り上がりました。

勝戦での最後の審査員投票が「4対3」というのも実に劇的でした。

そして、放送が終わった後も、他のテレビ番組やラジオや週刊誌などでその余熱がいまだに続いていますね。

 

僕も、数日前にはMBSラジオで「笑い飯」の哲夫くんが熱気を込めてしゃべっているのを聞きましたし、今も雑誌「プレイボーイ」でオール巨人さんの「M-1最終決戦で僕が和牛に票を入れたワケ」を読んだところです。

審査員の松ちゃんの「ボクは面白いと思ったなぁ」、上沼恵美子さんの「聞かんといて」、オール巨人さんの誌上コメントと言い、笑芸戦場の最前線にいる人たちの論評は、さすがに的確でオモシロイ。

まるで、直木賞の選評を読んでいるような、一級のコメントでした。

 

島田紳助が「M-1グランプリ」を作った

「M-1」がこんなにも盛り上がるイベントになったことを一番喜んでくれているのは、あの島田紳助さんだと思っています。

「M-1」に関わったすべてのお笑い芸人さん、マネージャーさん、テレビスタッフの皆さん、「M1の今」があるのは島田紳助という優れた一人の芸人の熱意の賜物だ、ということを忘れないで欲しい、と思います。

 

思えば、2000年の春の時点で、「漫才師は闘わないと強くならないんです。強い漫才師を育てるためのイベントを作りたいんです」と言いだした時に、島田紳助の真意を汲み取れる人間は業界にはほとんどいませんでした。

拙著お笑い芸人の言語学にも書きましたが、最初に彼の意図を正しく理解したのが吉本興業谷良一プロデューサー。谷くんは全国規模のスポンサーとして「オートバックス」を口説いて、その店舗空間を使って日本全国からの予選を組み立てて頂上を目指す、というイベントの枠組みを構築しました。

そして、それを「テレビ番組 M-1グランプリ」として番組立てして電波に乗せる、という役割を勤めたのが、僕でした。

当初の社内会議で、営業・編成から「えーっ、漫才の勝ち抜きイベントに賞金が1000万、何考えてんねん」と言われたことを良く覚えています。

大阪の朝日放送の立派なキラーコンテンツになりました。

それどころか「M-1」は日本の笑芸界の最高のコンテンツになりました。

紳助さん、ありがとう!です。

 

 吉村誠の「M-1グランプリ」採点

さて、僕なりに「M-1」出場者の何組かの、ファーストラウンドの採点を書いてみます。

僕の判定基準は「声」と「ことば」です。

「声」とは、大きいか小さいかではなくて、お客さんの身体にちゃんと届く「声」が出せているかどうか、です。

「ことば」とは、お客さんの頭と心にちゃんと届く「ことば」を使えているかどうかです。

その上に「ネタ」や「テクニック」が成立すると僕は考えているからです。

 

「和牛」98点

最終決戦に出るだけあって、10組のレベルはとても高かったのですが、その中で最もしっかりとした「声」で、最も自然な「ことば」でしゃべりが出来ていたのは「和牛」でした。川西君も水田君も、決して大きな声でしゃべくるわけではありませんが、全身を使って「声」を出しているので、最初のひとことから明瞭に聞き取れます。

しかも誰にでもわかる「生活ことば」でネタを展開、既に一流漫才師のしゃべくりになっている、と思います。

特に、一回戦での「ウェディングプランナー」のネタは秀逸で、前半でのプランナーと新婦、後半での新郎と新婦の切り替わりが抜群でした。

あれを決勝戦でやっていたら、と思うのですが、そこがガチンコ勝負の「M-1」の非情さ面白さ、でもあるので仕方ないと言えば仕方ないですね。

 

優勝したとろサーモン」95点

面白いし、声もよく出ているのですが「ことば」に生硬さが時々出るのが僕は気になりました。それはオール巨人さんが指摘したように「北朝鮮」だとか「日馬富士」だとかの生乾きの時事ネタ用語もそうなのですが、根底には宮崎出身の二人が「漫才のための関西弁」に合わせている不自然さと、それを補うために久保田くんがかなり無理してキャラクター作りをしている所にあるのではないか、と思います。

きっと、このあたりが「とろサーモン」の今後の課題となるでしょう。

でも、素直に、「優勝おめでとう!」です。

 

「ミキ」92点

すごい頑張りでしたね。

でも、その「すごく頑張ってるーッ」と見えてしまうことが残念なところです。

僕が思うには、胸から上だけを使って一生懸命に声を張り上げているので、どんなに大きな声でしゃべっても音が拡散して、自分たちが思うほどにはお客さんには届いていないんです。本人も疲れるでしょうし、お客さんにも「ことば」が明瞭には届かないので「うるさい」と感じられてしまいます。

だから逆に声を出さずに身体で「金」や「令」を表現した時に大きな笑いになりましたよね。あれはとっても面白かったです。

彼らのスピード感は若手ならではの魅力でした。

 

「カミナリ」

今回の10組のうちで、関西弁の話者でなかったのは「カミナリ」と「マジカルラブリー」と「ゆにばーす・はら」でした。

その意味もあって、僕は「カミナリ」にはかなり期待をしてたのですが。

竹内くんと石田くんは、茨城県(いばらき)出身の幼馴染みらしいのですが、石田くんがせっかく活き活きとした「茨城なまりのことば」でツッコミを入れているのに対して、ボケの竹内くんの「ことば」が「中途はんぱな標準語」になっている分、弱いんです。

二人の使う「ことば」の落差がネックになっているのではないでしょうか。

キャラクターとしての立ち位置をしっかりさせること、それを踏まえて「しゃべることば」をしっかりさせること、が課題だと思いました。

 

 

いずれにしても、「M-1グランプリ 2017」本当に見ごたえがありました。

テレビを見て久しぶりにワクワク・ドキドキしました。

テレビって、まだまだ素敵なことがたくさん出来るメディアなんですよね。

島田紳助さん、素晴らしい置き土産をありがとう!

「どの口が言うとんねん」――テレビ出演者の精神的堕落

前回のブログで、NHKクローズアップ現代+」のディレクターさんを始めとするテレビ制作者たちの精神的堕落について書いたのですが、今回はテレビの出演者の精神的堕落について書くことにします。

 週刊文春12月7日号に載った「宮根誠司・隠し子の母激白」という記事を巡る問題です。

記事の内容は、かって宮根くんと恋愛関係にあった女性が、彼の子供を産んで育ててきた過程において、彼のついた嘘を明らかにして不実を責める、というものでした。

 ここで、僕が「宮根くん」と呼んでいる理由は、今からもう20年ほど前になりますが、まだ彼が朝日放送の社員アナウンサーであった頃に、僕が「おはよう朝日です」という番組の担当制作部長をしていたからで、彼とは先輩後輩・上司部下の関係にあったからです。

 

問題は、「都合の悪いことは隠す」こと

で、僕が問題にするのは、文春の記事内容ではありません。

そもそも、こういったスキャンダル記事の内実は、当事者にしかわからないもので、事の真偽は他人がとやかく言っても仕方のないことだと、僕は思っています。

 

問題なのは、この「立派なスキャンダル」に対する、宮根くんを始めとするテレビ出演者たちや番組制作者たちの対応する態度です。

11月30日(木)に週刊文春が発売されてから、宮根くん本人も、テレビ番組「ミヤネ屋」も、いっさいこの問題について触れていません。

そして、他局のワイド情報番組でも、この件についてはいっさい触れてないようです。

(すべての情報番組を見ているわけではないので、もし扱った番組があったら教えて下さい)

 

これって、おかしくないですか?

視聴者一般の感覚からして、とても変ですよね。

 

ベッキー川谷絵音の不倫」「松居和代と船越栄一郎」「山尾志桜里議員の不倫」など、など。

週刊誌が発信元のスキャンダルを、大勢のスタッフを動員して追いかけて、厖大なエネルギーを費やしてパネルや素材VTRを作って長時間にわたって特集していたのは「ミヤネ屋」を始めとする情報番組でしたよね。

本来は「個人のプライバシー」に属する事柄までを、「マスコミの知る権利」なる理不尽な権力を振りかざして、世間に晒していたのはあなた達ではないのですか。

 

「政治家の疑惑」についても、「大相撲の日馬富士貴ノ岩」についても、何度も「当事者にきちんと説明して欲しいものです」という発言を聞きました。

 

他人のスキャンダルについて、あれほど厳しく執拗に迫ってきた宮根くんと「ミヤネ屋」の皆さんが、自分のことについては一切語らないというのは理屈に合いません。

自分のことは棚に上げて、他人のしくじりや失態をあげつらう、それは卑怯なふるまいであり、精神的に堕落した行いです。

 

僕が宮根誠司を評価した理由

僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』において、タレント・宮根誠司をかなり高く評価しました。それは、彼が政治や経済や国際といった、通常は「難しい業界用語」で語られているフィールドを、「まぁ、いやぁ、ほぼほぼこういうことでっしゃろ」などの庶民の生活感覚に基づく「生活ことば」で語ってくれた数少ないタレントだからです。

それこそが、宮根誠司の魅力の根源であり、「ミヤネ屋」が大阪制作にも拘わらず全国ネットたりえている本当の理由だと僕は考えています。

 

宮根くん、君が大切にすべきは「生活ことば」で語られる、庶民の「生活感覚」ではないのでしょうか。

現在の君に多くの視聴者は、その「生活感覚」に依拠してこう言うでしょう。

「宮根はん、そりゃないわ」

そして、今後あなたが政治家や有名人に「誠実な説明」を求めた時には、

「どの口が言うとんねん」と突っ込むでしょう。

 

 これは蛇足かもしれませんが……

宮根くん、あなたのしくじりは、彼女と恋愛をし子どもを設けたことではありません。

それは、あくまで個人的な恋愛の一実態です。

彼女をして、「週刊誌への告白」という「社会的な形」を取るように追いこんだことが失態なのです。

個人的な問題の範疇を超えて「社会的な形」を取ったことがらは、「社会的な対応」でしか収束できないものです。

あなたの取るべき対処法は、「公器たるテレビ」を仕事の場としているあなたが、そのテレビの中できちんと彼女に対応して、問題を個人の事柄に収納することです。

それが、はからずも「社会的な場」に引っ張り出されてしまって困惑しているであろう、あなたを大好きだと言ってくれている娘さんの個人的尊厳を守る唯一の対処法だと、僕は思うのです。

 

ジャーナリストって何をする人なんですか

そして、もっと問題にすべきは、宮根くんを取り巻いている出演者の皆さんです。

春川正明さん、あなたは読売テレビの解説委員長であり元報道部長でしょう。

橋下五郎さん、あなたは読売新聞の特別編集委員でしょう。

お二人とも、組織に属しているとはいえ、「ジャーナリスト」の肩書きを持って言説を張っている方なのではないですか。

 

「ジャーナリスト」の本旨は、「社会的権力」の不正や歪みを突くところにあります。

そして、現在の日本において「テレビ自身が強大な社会的権力」であることは明らかです。

お二人には、そのことを是非とも周囲の人々に教え諭して、テレビ制作者やテレビ出演者の精神的堕落に自覚を促して欲しい、と思うものです。

 

 

最後に、僕は決して「スキャンダル」が好きではありません。

しかし、「スキャンダル」の社会的効用は認める者です。

それは「スキャンダル」とは、権力を持たない一般民衆が「権力」に対抗できる一つの手段であるからです。

北朝鮮のような独裁国家には「スキャンダル」が存在しません。

偉い政治家や、有名なタレントを悪く言える「スキャンダル」が成立する日本は、その限りにおいて、健全な民主主義社会であると言えるのです。