吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

『響-HIBIKI-』が予想外におもしろかった

今日は目下公開中の新作響-HIBIKI-の、僕なりの感想です。

この映画、僕には「表現作品」と「表現者」の関係性について、また、「表現作品の質」と「商業性」の関係性について、という、結構「表現行為の本質」に迫る問題意識をはらんだ、意欲的な作品だと思われました。

単なるアイドル映画にはおさまりきらないオモシロサを感じました。

もっとも、こんな見方は一般的ではなくて、ひねくれているかも知れませんが。

 

 

 

アイドル映画かと思いきや

さて、『響き-HIBIKI-』は、アイドルグループ「欅坂46」のセンター・平手友梨奈(ひらてゆりな)の初主演作。

世間の関心は、もっぱら人気アイドル・平手友梨奈ちゃんの魅力の発揮度合いにあったようですね。

映画館の客席のほとんどは、高校生や大学生など若い人たちでしたから。

僕は、平手友梨奈のことは良く知らず、近頃テレビで見る「飲むヨーグルト~ヤクルト・ミルミル」のCMに出てくる、ちょっとクールな短髪の女の子、がそうなんだ、というくらいしかわかっていなかったんです。

 

ですが、主演が人気アイドルグループのセンター歌手で、原作がマンガ大賞2017で大賞を受賞した『響~小説家になる方法~』で、監督が『君の膵臓を食べたい』月川翔で、製作・配給が東宝、という枠組みからして、きっと月並みなアイドル映画だろう、と予測してたんです。

ところがどっこい、予想は裏切られました。

 

あらすじ

話の筋立ては、すごい文才をもつ高校一年生・15歳の主人公、鮎喰響(あくいひびき)が、新人文学賞に『お伽の庭』なる小説原稿を送るものの、住所などの記載事項不備のためボツ原稿になるところを若い女性編集者が目にとめ、そこからやがて芥川賞直木賞の同時受賞にまでに至り、文学界や世間を揺るがしてゆくことになる、という物語。

 

 

情緒的な劇伴音楽のない造り

映画が始まってしばらくしたらわかるのですが、この手の映画には付きものの「感情移入を誘う、情緒的な劇伴音楽」がありません。

そう、美男美女の主人公への感情移入を強要する、わかりやすい安直な作り、ではないんですよね。基本的に台詞劇です。

 

 

この映画の音質の悪さは俳優のせいじゃない

ただ、残念なことに、台詞劇なのに、映画の音質が悪い。

特に映画の前半部は、声がとても不明瞭です。

これは、役者のせいではなく、たまたま僕が見た大阪・梅田TOHOのスクリーン8の再生機材の問題のせいもあるのでしょうが、多くは撮影時の録音担当さん、あるいは、編集時の整音担当さんの問題だと思われます。

(すみません、これは映画の制作プロデューサーをやっていた僕の推測ですが)

 

 

書きたいから書く?売れたいから書く?

高校の文芸部の失礼な先輩に対して、指の骨を折るほどの怪力を発するとか、校舎の屋上から飛び降りて無傷であるとか、マンガチックなところはあるのですが、後半になって、「作品~評価~出版~受賞」のくだりになると、俄然おもしろくなってきます。

 

それは、主人公の鮎喰響が、「私は書きたいから書く」「書きたいものを書くんだ」という態度を貫くのに対して、彼女以外の登場人物の多くが「書いて売れたい」という功利的な姿勢の持ち主たちだ、ということが明らかになってくるからです。

この対比の描き方が、とても面白いです。

 

祖父江凛子アヤカ・ウィルソン)――高校の文芸部の部長であり、響の友人でもある。

その父親は、ヒット作を次々と産み出す世界的な人気作家であり、ソフエストなる熱狂的なファンを持つ祖父江秋人。これって、村上春樹のパロディーですよね。で、その父親の威光を借りてでも有名小説家になろうとする凛子と、それを商売に利用せんとする出版社の編集長。

鬼島仁北村有起哉)――過去に芥川賞を獲ったが、それ以降はちゃんとした作品が書けずに、今はテレビなどの露出で稼いでいる小説家。

田中康平(柳楽優也)――響と同じタイミングで「木蓮」新人賞を受賞するが、授賞式で、響にパイプ椅子で殴られる。

山本春平小栗旬)――工事現場で肉体労働をしながら芥川賞を狙う青年作家。

矢野浩明野間口徹)――週刊誌の記者で、響をしつこく追いかける。

芥川賞直木賞の受賞会見の時に、響から飛び蹴りをくらう。

 

こういった登場人物たちは、みんな「出版ビジネス」にとり憑かれています。

彼らの立ち居振る舞いは、少しはカリカチュアされていますが、「うん、あるある」「居る、居る、こんな人」とクスクス笑えました。

「書きたいから書くんだ」という信念を貫こうとする主人公の響は、こういう「売れてナンボ」という商業主義と立ち向かっているのです。

 

 

芸術と商業の相克

一見すると、現在の出版業界への軽い揶揄に過ぎないとも見えるのですが、一歩突っ込んで考えれば、実はここには表現者にとっての表現行為」と「表現作品の質と商業性」という、かなり深い問題意識が植えこまれている、と僕は思うのです。

それは、小説に限らず、詩・短歌、そして絵画・彫刻、さらには音楽・演劇、テレビ番組や映画そのもの、といった「表現」すべてにあてはまる問題なのです。

 

作者は人間として大嫌いな奴だが、作品はオモシロイ、

ものすごい努力をしているが、作品はオモシロクない、

良質な作品だが、売れない、

こういったことは、どんな「表現」の世界でも良くあることです。

 

 

鮎喰響は、ボツ原稿箱から原稿を拾ってくれた編集者・花井ふみ(北川景子)に対して、「あなたが、原稿をオモシロイと思ってくれたらそれでいい」と言います。

また、週刊誌記者の矢野が、「人格的に問題のある作家の作品を世間の人は読もうと思わないでしょう」と言ったのに対して、「世間なんてどうでもいい、あなたが私の作品を読んでどう思ったのかよ」と言います。

ここには、「表現を作る人間」と「表現されたもの」との対自的な関係についてのしっかりとした洞察が潜んでいます。

 

 

映画監督月川翔の問題提起

そして、この映画を作ったのが東宝であり、月川翔(つきかわしょう)と言う映画監督である、ということがとても興味深いのです。

なぜなら、東宝は何よりも「客の入る映画」であることを映画製作の第一義にしてやってきて、その結果「邦画は東宝のひとり勝ち」という寡占状況を作り上げてきました。

そして、月川翔『黒崎くんの言いなりになんかならない』や、『君と100回目の恋』『君の膵臓を食べたい』など、美男美女の俳優を使って、それこそ「確実に売れる映画」を作ってきた映画監督だから、です。

その月川翔が、あえて「商業主義」に対抗する「表現者の志」を内包した映画を作ったのです。

月川翔は、単なる「青春恋愛映画のうまい作り手」ではなかったんだ、と思い直しました。

そして、東宝の映画製作者たちにも「ベタベタな映画」作りだけではなく、こういった問題意識を表現する気概があるんだ、と見直しました。

もっとも逆に、東宝だからこそ出来る余裕なのかも知れませんが。

 

 

 

いずれにしても、おそらく、映画『響-HIBIKI-』にアイドル映画の爽快感を期待して見に行った人たちは、肩すかしをくらっただろう、と思います。

しかし、僕は、「商業映画」の枠組みを外さないで、そこに確信犯的に「表現者の志」を忍びこませた『響-HIBIKI-』の作り手たちの心意気に、拍手を送りたい、と思うのです。

そして、「欅坂46」のセンター歌手・平手友梨奈ちゃんは、なるほど近頃では珍しいクールな魅力を備えた可愛いい女の子、でありました。

 

 

 

 

 

8月の半ば以降、少々、ブログ書くのを怠ってました。

「まことさん、大丈夫ですか、倒れてませんか?」と心配メール送ってくださった方々、ありがとうございました。大丈夫です、吉村は元気です。

8月の死ぬような暑さ、大雨と停電、北海道の地震、と続き、一方ではボクシング協会の問題から体操界のパワハラ問題と、めまぐるしく動く世の中にキョロキョロしてるうちに時間がたった、という次第。

で、その間、実は映画漬けの日々でした。

きっかけは、日本ボクシング協会の山根会長の携帯着メロが「ゴッドファーザー」だったことで、あれをきっかけに映画「ゴッドファーザー」をパートⅠ・Ⅱ・Ⅲ、と久しぶりに通して見たんですね。

そしたら、何だか「いい映画、もっと見た~い」心に火がついて、名作旧作の鑑賞連鎖にはまってしまいまして、結局8月半ばから今日までのひと月で、新作旧作合わせて50本を見てしまいました。

今問われる「弁護士の倫理」―日本ボクシング連盟、日本大学の問題

日大アメフト部の問題から、今度は日本ボクシング連盟の問題へと、週刊誌とワイドショーの話題はつきないですね。

二つの問題を通して、実は大きく問われているのが「弁護士の倫理」だ、ということを言いたい、と僕は思うのです。

 

 

弁護士の倫理とは

弁護士法の第一条は、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」という文章から始まっています。

しかし、世間の多くの人が気付いているように、「弁護士」は決して正義の味方ではありません。

それどころか、多くの弁護士は「経営者側」や「権力者側」からの依頼を受けて、「依頼人の利益のために」という名目のもとに、社会正義に反することを堂々とやっています。

このことを僕は過去に身をもって体験しました。

 

僕が刑事告発したとき

4年前に僕は、とある私立大学の専任教員でしたが、大学理事会の教学現場を全く無視した運営と、理事長の給与不正受給と公私混同の経費使用などに異を唱えて、教職員組合を立ち上げると同時に、理事長を「業務上横領・背任罪」で刑事告発しました。

もちろん刑事告発の前後に、文部科学省の高等教育局へは再三訴えていますが、結果として指導すらありませんでした。

その時に、弱者である僕たちの味方になってくれたのは、ほんとうにひとにぎりの良心的な弁護士だけでした。

権力を握っている理事長と理事会は一体化して、潤沢な金を使って「大手弁護士事務所」を抱え込んでいました。

たしかに「弁護士」も商売ですから、僕たちのような金のない依頼者よりは、「カネとヒト」を握っている強者の側につく方が、ビジネスとしておいしい、ですよね。

しかし、その頃の僕は「弁護士法・第一条」に、まだささやかな期待を抱いていたのです。

結果、その期待は見事に裏切られ、僕たちは大学理事会お抱えの「大手弁護士事務所」側のあきれるほどの厚顔無恥な論理を相手に格闘をよぎなくされました。

最終的には、味方になってくれた弁護士さんのおかげもあり、教員の不当解雇をめぐる民事訴訟では完全に勝ったのですが、刑事告発の方は「証拠不十分につき不起訴」で終わりました。

 

刑事告発してわかったこと

こういった経験を通してよくわかったこと、それは、

①独裁的権力者には、追随しておこぼれにあずかる卑劣な人間が必ず群がる

②上級官庁である文部科学省は、強者たる権力者側の味方である

③弁護士の多くも、強者たる権力者につくことによって利益を得ている

と、いうことでした。

 

この観点から、今回の「日本ボクシング連盟」の問題と、「日本大学」の問題を見てみます。

 

刑事告発でしか収束できない「日本ボクシング連盟」問題

絶対権力者たる山根会長の側近として、吉森照夫という弁護士が専務理事の地位にいることが明らかになりました。

ああいう人が、司法試験に合格して、エスタブリッシュメントと呼ばれる「弁護士」さんなのです。

メディアでの言動で一目瞭然のように、吉森氏は、山根氏の絶大なる権力の行使に加担していたと推測できます。

権力とは、具体的には「カネ」と「ヒト」です。金銭差配権と人事権です。

もう一人、「カネ」を動かしていた人間として、内海祥子という常務理事の存在が明らかになっています。

山根氏や吉森氏や内海氏の行っていたことは、最終的には「刑事告発」でしか収束できない、と思います。

 

刑事告発の難しさ

警察や検察という司直の手を入れるしか、全容の解明には至りません。

しかし、たとえば「業務上横領」や「背任」を問うには、まず告訴の主体が「社団法人・日本ボクシング連盟」であること、あるいはその構成員であること、が前提となります。つまり、「一般社団法人日本ボクシング連盟」自らが、自らの組織体に損害を与えたとして「山根氏・吉森氏・内海氏」を訴える、という形式を取らなければならないのです。

現体制を改めたいと思っている現役の理事が一人でもいれば出来るのですが、山根氏の追随者ばかりの現状ではとうてい無理でしょう。

したがって、この「刑事告発」は、山根氏の取り巻きばかりで形成されている現在の理事会を一掃した後でないと出来ません。

おそらく、「再興する会」の人たちと、その側の弁護士は、そこまで考えているでしょう。

 

それと、「業務上横領」や「背任」を立件するためには、それを証拠立てるための「内部資料」が必要となります。

今は、出納簿や出入金伝票などの内部資料はすべて現執行部が握っているわけで、「再興する会」の人たちが出す資料はまだ傍証にしかすぎません。

こういう場合、経理担当者など内部の人間に現体制に批判的な情報提供者が居れば、犯罪を立証するに足る資料が集まります。

 

僕の場合、段ボール箱に3つ分の資料をそろえて検察官に出しましたが、それでも「嫌疑は充分」だが「証拠が不充分」と言われました。

 

権力は悪ではないが……

ドイツ・ファシズムを分析した有名な哲学者にハンナ・アーレントが居ます。

彼女は、あのアイヒマン裁判の過程において、ドイツ・ファシズムを支えて遂行した者たちの多くが「特別な悪人」ではなく、「権力に追随して思考停止した、ふつうの人間」であった、ことを明らかにしました。

 

「権力」そのものは、善でも悪でもありません。

「権力」は、組織体や社会を運営するのに必要な機能なのです。

悪いのは「権力の悪用」であって、「権力」を行使するに際して、それが必要な「運用」なのか、社会正義に反する「悪用」なのかを判断して導くことこそが、「選良たる弁護士」の使命だと、僕は思うのです。

しかし、残念ながら、現在の日本の弁護士たちに、この「弁護士の倫理観」を持っている人間は少ない、と言わざるを得ません。

 

日本大学」には、顧問弁護士だけでなく、弁護士資格を持つ多くの法学部教授がいます。

日本ボクシング協会」には、弁護士である吉森照夫氏がいます。

彼らの「社会正義と倫理観」はどこへ行ったのでしょうか。

彼らは、今こそ「弁護士法・第一条」の精神に立ち返るべき、だと思います。

 

ゴシップ・スキャンダルは「権力への抵抗」

僕は、決してゴシップとスキャンダルは好きではありません。

しかし、「弁護士」や「高級官僚」などのエスタブリッシュメントが社会正義を忘れて私益に走っている時には、スキャンダリズムは権力を持たない民衆にとって「権力への抵抗」の意義を有します。

週刊文春」や「週刊新潮」や「テレビのワイドショー」が、これだけ活況を呈しているということは、そのぶんだけ、日本の選良たちが倫理観を喪失していることの裏返しに他ならない、と僕は思うのです。

『Mrサンデー』西日本豪雨の報道―日本のテレビマンの倫理意識の堕落

大学の前期授業の終わりにあたって、女子大生たちの「近頃、気になったニュース報道」として、

西日本豪雨の際の、『Mrサンデー』の水没する車」のことを初めて知りました。

 

大学で「マスコミュニケーション論」を教えている立場として、日々のデイリーのニュースはかなりの程度チェックしてるつもりだったのですが、日曜日放送のフジテレビ『Mrサンデー』は抜け落ちていたので、知らなかったのです。

で、おくればせながら、ネットでチェックしてみました。

そして、本当に驚きました。

何に驚いたかというと、この映像を撮った撮影クルーの倫理観の欠如と、それ以上にこの映像をOAにかけたフジテレビの報道局社員たちの倫理観の欠落、に、です。

 

フジテレビ 『Mr サンデー』の豪雨報道

問題のニュース映像は、フジテレビで7月8日(日)の22時~23時15分にかけて

『Mrサンデー』で放送されたもので、水没しつつある軽自動車に取り残されている運転者を地元の青年が、あわやのところで救出した、というもの。

で、ネット上で批判が続出し、多くの学生たちにもそこから情報が伝わった、ということでした。

 

さて、この問題について、私なりの考えを述べます。

 

今回の件について、最も重い責任を負うべきは、フジテレビ報道局の社員プロデューサー及び社員ディレクター、です。

なぜなら、現場からどのような素材が上がってきたとしても、それを放送OAにかけるかどうかを判断し、その放送内容に責任を負うべきは、社員のPおよびDおよびデスクだからです。

 

まっとうな放送局のまっとうな社員ならば、この映像がOA素材として不適切であることくらいは即座に判断できなければいけません。

現場のスタッフの目の前で、実際に人の生死がかかった現実が起こっており、しかも救出に向かおうとしている人が周囲に助力を求めている状況が明らかな事態で、傍観者としてカメラを回していることは、人間として失格であることは明白です。

 

ネット上に飛び交った「人命より特ダネかよ」という多くの意見は、視聴者としてしごくまっとうな感想です。

 

で、この現場にいてカメラを回し続けたカメラマンが、フジテレビ報道技術局の社員なのか、それとも下請け制作技術会社のカメラマンなのかは、わかりません。

また、その現場にいたのがカメラマン一人だったのか、あるいはディレクターや音声担当スタッフをも含む複数だったのかもわかりません。

 

そして、そのいずれであるとしても、東京のフジテレビの社内にいて、現場から上がってきた映像素材をOA素材として使うにふさわしいか否か、を判断する内勤の社員ディレクターやデスクやプロデューサーがいたはずです。

テレビ表現において、局社員はメディア・ヒエラルヒーの上位者の地位にあります。

結果として、この映像が『Mrサンデー』で放送された、ということは、それらのディレクターやデスクやプロデューサーという複数段階での社員がみなそろって、この映像を「問題なし」とし、「おいしい特ダネ映像」と考えた、ということを表わしているのです。

 

ここ、こそが重要な問題、なのです。

取材現場にいた人間から、東京本社にいるディレクターから、デスクからプロデューサーから、はては当日スタジオに居たMCからゲスト出演者に至るまで、何段階もあったであろうチェックレベルで、この映像が素通りしたことが問題なのです。

 

電波は国民共有の財産

このブログでも何回か書きましたが、放送局は私企業ではありますが、そのインフラである「電波」は国民共有の財産であり、だからこそ放送局は許認可事業者として独占的に電波を使うことを許されているのです。

この原点に立ち返れば明らかなように、テレビ局の基本的な責務は、「公共の利益」に資するためのものでなければならず、だからこそ「ニュース報道」が放送番組の基礎となっているのです。

そして、「公共の利益」とは、視聴者たる国民一人一人の利益の総体であることからして、その国民のある一人の生命が危機に瀕しているような事態にあっては、「特ダネ映像」よりも、その人の救出の方が優先するのが当然なのだ、という論理が自然に導かれるのです。

「特ダネ映像」を優先させる論理と意識は、「公益」を忘れて「私企業の利益」を優先させる論理と意識に他なりません。

 

今回のフジテレビの『Mrサンデー・軽自動車水没映像』は、フジテレビという会社全体に「国民共有の財産である電波を使わせてもらっている」という考えが欠落している、ということを露呈させているのです。

 

日本のテレビメディアの病理

このことは、決してフジテレビだけの問題ではありません。

先日の「オウム真理教事件・死刑執行」の際のブログ

makochan5.hatenablog.com

でも書きましたが、あの「オウム真理教事件」の萌芽となった「坂本弁護士一家殺人事件」の際にTBSは、取材現場スタッフのレベルからデスクやプロデューサーに至るまで何段階にもわたって大きな過ちを犯しました。

しかし、今回の「死刑執行」の報道に際して、自分たちの組織が過去に起こした事実について、しっかりとした自己批判の報道をやりませんでした。

坂本弁護士事件がきちんと捜査されていたら、その後のサリン事件は起こらなかったかも知れない」と言われているにもかかわらず、です。

当時のテレビが、どこもこぞって「オウムを『半笑い』で取り上げた。半笑いで付き合っていれば危うくない、と考えた」ことは斉藤環さんが鋭く指摘しているとおりです(7・27読売新聞 朝刊)。

 

同様に、目の前の人命よりも「特ダネ映像」をありがたがり、さらには後続のニュース番組では「誰かー!」という救助の声をカットして、大仰なナレーションを付けて報道するというフジテレビの報道姿勢は、災害報道すらも「半笑い」で、しょせんは他人事として扱っている、という日本のテレビメディアの病理と現実を表わしています。

 

日本のすべてのテレビ局は、今一度、「電波の公共性」という原点に立ち返って、経営者から社員に至るまで再教育をすべきである、と私は考えます。

オウム事件とマスコミの報道責任について―今、もう一度、自己批判が必要ではないのか

今日、7月6日(金)に、麻原彰晃こと松本智津夫オウム真理教の元幹部7人の死刑が執行されたことが大きなニュースとして、新聞やテレビで報じられた。

それらの報道は、概して「この事件を風化させてはならない」とか、「二度とこのような事件を起こしてはいけない」などの文言で締めくくられているが、肝心なことが抜け落ちている。

それは、オウム真理教事件を伝えたマスコミ」の自己批評である。

 

オウム事件とマスコミ

オウム真理教事件」で、最も「風化させてはならない」のは、新聞・テレビといったマスメディアの反省である、と私は考えている。

それは、地下鉄サリン事件が起きた1995年時点において、大阪の民放テレビ局で情報番組のプロデューサーを担当しており、東京から発信される情報を受けて放送を続けていた私自身の経験と反省につながっているからだ。

 

しかしながら、今日の新聞各紙の夕刊や、テレビのニュース番組や情報番組を見ている限りにおいて、「マスコミの責任」について触れたものは全く無かった。

(もし、私が見逃した新聞やテレビ番組で「マスコミの責任」について発言したものがあったなら、是非教えていただきたい)

在京テレビ局の中では、フジテレビだけが夜8時から10時の「金曜プレミアム」枠で放送予定の内容を変更して、『緊急スペシャル 教祖麻原ら7人死刑執行 日本が震えたオウム事件の“真相”』を放送した。

内容は、一連の事件の時系列的な確認ではあったが、特番を組んで放送したという点においては評価すべきだと思う。

 

今年の3月に、東京拘置所に収容されていた13人の死刑囚のうち7人が全国5か所の拘置所に移送された時点で、死刑の執行が近日中に行われるであろうことはマスコミ人なら誰もが予想できることだ。

つまり、各テレビ局では、その日に向けて素材映像の編集は既に仕上がっていたはずだ。

 

であるからこそ、本来なら、どこの局よりも先駆けて「オウム特番」を放送しなければならないのはTBSであるはずだ。

なぜなら、オウム真理教事件」に関してTBSは、他のどの局よりも重い放送責任と罪を背負っているからだ。

 

TBSは責任を忘れてはいけない

と言うのは、「オウム真理教事件」が「平成最大の事件」であると同様に、「オウム真理教事件でのTBSの対応」が「平成最大のテレビマスコミの罪」であるからだ。

 

オウム真理教の犯した事件について知らない若い世代の視聴者も多い。また、TBSの犯した事件を知らずに働いている若いテレビマンも多い。

そのためにも、この「TBS事件」については「風化させることなく」語り続けなければならない、と思う。

 

それは、マスコミがオウム真理教について報道を始めた平成元年(1989年)に起った。

教祖麻原彰晃のインタビューを撮ったTBSの取材陣に対し、オウム幹部が放送前に内容確認を要求し、TBSスタッフはそれに応じて編集テープを見せ、更にはオウムを追求していた坂本弁護士のインタビューテープも見せたのである。

そして、オウム幹部らによる抗議に応じて放送を中止したのである。

それから10日後の1989年11月に坂本弁護士一家は謎の行方不明を遂げた。

この時、坂本弁護士一家はオウムによって殺害されていた。

 

やがて、オウムは1994年6月に長野県松本市サリンを散布し、1995年3月に東京の地下鉄でサリン事件を起こした。

この間に至るまで、TBSは1989年に自社スタッフが行ったことについて一切を隠していた。

やがて、地下鉄サリン事件で逮捕されたオウム幹部から「TBSでビデオテープを見た」ことが明らかになったが、それでもTBSは半年にわたってそれを否定し続けた。

 

結局、供述公開の前日になってTBS磯崎社長は記者会見でこれを認め、その日平成8年(1996年)3月25日の『筑紫哲也NEWS23』において、筑紫哲也が「TBSは今日、死んだに等しいと思います」と言ったのである。

 

これが、「TBSビデオテープ事件」と呼ばれるものである。

 

誰もが、筑紫哲也氏は『NEWS23』を降板するものだ、と思っただろう。

しかし筑紫氏は2007年まで番組キャスターを勤めた。

そして、日本テレビが「TBSが放映前の坂本弁護士のインタビューテープをオウム幹部に見せた」と報道した時に、TBS社員のキャスター杉尾秀哉氏は『ニュースの森』においてこれを完全否定した。

後にこれを認めざるを得なくなったのだが、その杉尾氏は現在参議院議員である。

 

そして、今日私がこのブログを書いている6日(金)深夜の時点で、TBSは「オウム特番」を組んではいない。

ニュース23』も、今夜は「FIFAワールドカップ準々決勝」と「ハイライト」のために休みである。

明日以降、TBSがどのような番組対応するのかを注目している。

そして、その中でTBSがどのように自己批評するのかを見守りたい。

 

報道責任はTBSだけではない

オウム真理教事件の報道」については、TBSだけではなく日本のすべてのマスコミはその責任を「風化させてはいけない」のだ。

それは、1994年の「松本サリン事件」の際の報道である。

全国紙各紙、NHKをはじめとするテレビ各局、すべてのマスコミが「第一通報者の河野義行さん」を被疑者として報道した。

捜査当局の見立てに追随した「横並び記者クラブ報道」の結果である。

 

河野さんの名誉が回復されたのは、1995年3月の地下鉄サリン事件の後、捜査当局が松本サリン事件もオウムによる犯行だと断定してからである。

この間の事情を追った『ニュースがまちがった日~高校生が追った松本サリン事件報道』を読むと、日本のマスコミの病理がよくわかる。

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「マスメディアは他人の批判は得意だが、自分が批判されることにとても弱い」という、松本美須々ヶ丘高校の高校生たちの素直な問題意識がジャーナリズムの本質を明示してくれている。

 

日本のマスコミにとって必要なもの、それは「自己批評の能力」である。

オウム事件・7人死刑執行」のニュースに接して、この30年間で日本のマスコミがどれだけ進歩したか、そこに注目したいと私は思っている。

気持ちを落ち着かせるべく『68歳の新入社員』を見ました。

昨日18日に大阪では震度6という大きな地震があって、大変な一日でした。

死傷者を知らせるアナウンサーのことばを聞き、火災の映像や噴き出す水の映像を見ながら、なんとも言えない気持ちでした。

それは、私が、1995年1月17日に起きた「阪神淡路大震災」の時に、朝日放送Cスタジオからの震災報道中継の総括ディレクターを一週間にわたってやった体験につながるものだったからです。

で、きのうは、自分の気持ちを落ち着かせるべく、倒れて散らばった本類を片付け、夜にはニュースの合間にテレビドラマを見ました。

 そんな訳で、今日は「6月のテレビドラマ」についての感想です。

 

 フジ月9枠『68歳の新入社員』 6月18日午後9時~11時

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なんと言っても注目していたのは、岡田惠和の脚本でした。

設定が、高畑充希演じる若い女性上司と草刈正雄演じる68歳の再就職オッサンとの二人物語なので、誰しもナンシー・マイヤーズ脚本・監督のマイ・インターンを思い浮かべただろうと思います。

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が、そこはさすがNHK朝ドラ『ひよっこ』を書いた岡田惠和でした。

定年を迎えた「団塊の世代」の仕事観や家庭観と、若い世代の仕事観や恋愛観、という現代日本ならではの問題をしっかりと押さえていましたね。

笹野高史が演じる68歳の再就職オッサンが実は社長の隠密探偵であった、という面白スパイスを効かせて、予定調和ではありますが心地よい収束のさせ方でした。

視聴率は関東で7.6%、関西で9.1%。

決して高い数字ではありませんが、『68歳の新入社員』には、現代の日本社会をドラマという形式において捉えようとするテレビ制作者の心意気が感じられました。

こういうドラマをちゃんと社内で評価できるかどうか、という点にフジテレビの今後の再生がかかっている、と僕は見ています。

 

元・業界人として注目しているところ

と言うのは、元・業界人としてもう一つの注目すべき点が、このドラマがフジテレビ制作ではなく準キー局関西テレビ制作」だったということです。

関テレの局Pが萩原崇、制作プロダクションの共同テレビPが水野綾子

演出は共テレ河野圭太、ドラマ『古畑任三郎』や映画『椿山課長の七日間』を監督した演出家。

そうなんですね、月曜9時枠ということは、「月9」と呼ばれるフジテレビにとっての看板ドラマ枠なんです。

その枠で準キ―局の関西テレビが2時間ドラマを作った、ということが面白いのです。

しかも、テーマ設定と言い、高畑充希草刈正雄のキャスティングと言い、決して派手なものではありません。

でも実はそこが大事なのです。

 

フジドラマの表現思想はどこに?

前クールは、長澤まさみ東出昌大の『コンフィデンシャルSP』、前々クールは芳根京子で人気マンガ原作の『海月姫』。

この10年間のフジテレビのドラマは目先の視聴率を取るためにと、事前の派手な話題作りができそうな企画ばかりを並べて、売れっ子俳優のキャスティング優先策や人気の原作頼りで、ドラマの内容で勝負しようという作り手の表現思想性を感じさせるようなものがありませんでした。

そんな中には、地味ながらも時代を捉えようとした坂本祐二脚本のいつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうのような秀作もあったのですが、目先の視聴率という営業・編成の論理に押されて、後続を産み出すことができないで迷走に戻ってしまったのです。

視聴者だけでなく、志ある脚本家や俳優たちが離れていった理由はここにあります。

 

今回の『68歳の新入社員』は、おそらく4月クールと7月クールの「月9」の狭間に成立した「単発2時間・関西テレビ制作ドラマ」だと推測しますが、低迷著しいフジテレビドラマの再生策のヒントを孕んでいる、と思います。

たかがテレビとは言え、その根底をなしているのはやはり作り手の「表現思想」の有無と僕は考えています。

 

NHK大河ドラマ『西郷どん』 6月3日奄美大島篇「別れの朝」

以前にも取り上げましたが、「表現思想」という点において、やはり大河ドラマは格段に優れています。

すでにお話は6月17日OA「寺田屋騒動」で、幕末の男たちのドラマへと動いていますが

ここでは、5月13日・第18話から6月3日・第21話まで4回にわたって描かれた「奄美大島篇」を取り上げます。

この4話は、近年のテレビドラマで稀に見るほどの秀逸な出来映えです。

薩摩藩の裕福な財政の背後には奄美大島への植民地的な圧政があった、という歴史的な背景をしっかりと描いていること。

島の生活を描くために、島の「生活ことば」をできるだけ忠実に再現し、視聴者にわかりにくいと思われるセリフは現代共通語の字幕スーパーで表示したこと。

柄本明二階堂ふみ、らの俳優陣が「島の生活ことば」を実によく修練して演技していること。

 

何度見ても泣ける二階堂ふみの演技 

なかでも、西郷の妻の愛加那を演じる二階堂ふみは、素晴らしい演技!です。

6月3日放送の「別れの朝」で、薩摩への帰藩命令が出た西郷吉之助との離別のシーン。

吉之助「愛加那、おまえに話しがある」

愛加那「うん、わかりおした」

吉之助「まだ、なんも話しちょらん」

愛加那「ずっと前からわかってるさぁ。薩摩に帰るんだね」

吉之助「じゃっどん、必ず戻ってくる」

   「おいの役目が終わったら、おはんと菊次郎とその子のために戻ってくる」

 

愛加那――ゆっくりと島唄を歌い始める――

   「果報(かふ)なくとぅ あらしたぼれ」(幸せなことがあるように)

   「汝(な)きゃが先々」(あなたの未来に)

 

奄美大島の抜けるように美しい海に腰までつかりながら、吉之助に抱きついて、身体の奥から絞り出すように島唄を歌い続ける愛加那。

 

そして、3年の暮らしの後に薩摩に帰って行った西郷吉之助への想いを振り切るように、

「みんなぁー、あと、しゅーうきばりしゃぁ!」(もうひとがんばりだよぉー)

と、幼い菊次郎を背に抱いて、サトウキビ刈りの皆に大きく声を掛ける愛加那。

 

林真理子が降ってきた

なるほど、やっとわかった、と僕は思いました。

司馬遼太郎はじめ、多くの先人たちが既に描いた「幕末の偉人・西郷隆盛」という人物を、なぜ林真理子が、今、改めて描いたのか、がです。

林真理子は、きっと、この愛加那という女性の視点を得たことにより、林真理子ならではの「西郷どん」を観たのだ、と思います。

その意味で、愛加那こそが「林真理子の西郷どん」の主人公なのだ、と。

そして、原作者・林真理子と脚本家・中園ミホの期待を裏切ることなく、二階堂ふみは見事に「愛加那――愛しい女性」を演じたのです。

 

昨日、18日の大阪の地震で僕の本棚からはたくさんの本が散らばりました。

そして、それらの本を片付けている中に、なんと『ルンルンを買っておうちに帰ろう』があったのです。

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林真理子のデビュー作エッセイです。1982年(昭和57年)11月刊行。

とても単なる偶然とは思えませんでした。

「まえがき」には、これまでの女が描かなかった「ヒガミ・ネタミ・ソネミ」の視点から、「とにかく今まで女の人が絶対に書かなかったような本を書く」という、若き林真理子の意気込みが溢れていました。

もう一度、最初から読み直してみよう、と思います。

日大学長はなぜ真相究明に乗り気でないのか

学長の資格なし

日本大学の大塚吉兵衛学長の記者会見をニュースで見ました。

誰が見てもわかるように、内容空疎で、世間体をとりつくろう為にとりあえず格好をつけました、という記者会見でした。

これが、日本で最大の規模を誇る私立大学の学長か、と唖然としました。

 

日大の現役学生たちの幻滅した反応がテレビで報道されていました。

当然の反応であり、幻滅を感じる感覚の方が正しいことは言うまでもありません。

 

夜の各テレビ局のキャスターや、ゲスト出演している大学教授たちのコメントも的を外しています。あるいは、わかっていながらあえて的外れなコメントをしているのかも知れません。

各局のニュースキャスターたちは、そろって、「よくわからない記者会見でした」と述べていますが、そんなことはありません。

大塚学長の意図は、とても明瞭にわかります。

何が明瞭にわかるかというと、大塚学長は「私が能動的に事件の真相を解明する努力をするつもりはありません」と、態度表明しているではありませんか。

テレビメディアは、こういうことをはっきりと言わないから、多くの若者から「マスゴミ」と見離されてきているのです。

 

ポイントは「真相の解明」

日大アメフト事件で、最も大事なことは、「真相の解明」です。

宮川泰介さんの記者会見の内容と、内田監督・井上コーチの記者会見の内容、との食い違い、を解決する方法はただ一つ、「真相を明らかにすること」です。

そんなことは、誰でもがわかっていることです。

だからこそ、今日の大塚学長の記者会見に、多くの日大の学生や世間はある程度の期待を寄せたのです。

学長ともあろう人なのだから、「真相の解明」について何かは進展的なことを言ってくれるだろう、と。

それなのに大塚氏は、両者の食い違いについては、「食い違っていますね」と他人事のように述べ、さらには「最近の若者にはわからないことがある、みなさんの会社でもそうでしょう」などと小笑いしながら記者に話しかけました。

多くの日大生や保護者の期待を見事に裏切った点において、大塚学長は昨日の米倉久邦氏以上に、大きな失態を演じたと言えるでしょう。

テレビのインタビューに答えていた日大の学生の、「日大らしいですね」という自虐的な答えを聞いて、私は少し悲しくなりました。

 

私立大学の教員と経営側の権力差

大塚学長の記者会見を見て、「どうして学長は、真相解明に努力する」と言ってくれなかったんだろう、と疑問を抱いた方もいらっしゃると思います。

日本の私立大学においては、経営者たる理事長と理事会が絶大な権力をもっていて、教員は教授であろうと学部長であろうと学長であろうと、すべて雇われている従業員に過ぎないのです。

だから、大塚学長も、経営者たる内田監督に不利になるような発言はしないのです。

同様に、テレビにコメントを求められた日大の危機管理学部の教授も、「対応の仕方がまずかった」などと、事の本質からは外れた発言をしているのです。

つまり、学長も教授も、「真相の解明」が最重要なことだとわかっていたとしても、自分の立場を守るためには経営者たる内田監督に不利になるような発言をしないのです。

 

とても悲しいことですが、これが日本の私立大学の教学の実態なのです。

 

大学教授だった私が選んだ道

なぜ私が、こういう私学の実態について憚ることなく書けるか、という理由を言いますね。

それは、私が4年前に、学生をないがしろにした経営理事会に正面からぶつかり、その結果大学を辞めざるを得なくなった、という経験を持っているからです。

私が勤めていた芸術大学は、経営の論理を優先させて、教学の内容や学生生活の充溢を無視して、カリキュラム進行の半ばにもかかわらず、多くの専任教員をいきなり契約不更新するという暴挙に出たのでした。

私は、教学の内容を守るために最後まで理事会側と折衝を続けたのですが、一方では不当に解雇された教員たちを裁判で支える責務もあって、止むを得ず大学を辞めました。

 

大学の教員にとって、専任教員たる資格を失うことは大変苦しいことです。

「大学教授」という肩書も失いますし、安定した給料もなくなります。

ですから、日大の専任教員の皆さん方が、自分の立場と生活を守るために、内田監督に代表される経営者側に「真相解明」の声を上げられない、という心情もよくわかります。

しかし、およそ高等教育に携わる者であれば、何よりも「人間としてのまっとうな生き方」を学生に示すことが第一義なのではないでしょうか。

 

日本大学の専任教員のみなさん、あなたがたの教育者としての誇りを見せてください。

多くの日本大学の学生たちを失望させないでください。

 

私は、専任教員の座を捨てたことにより、経済的には苦しくなりましたが、こうしてブログやツイッターで自分の信じることを堂々と述べる精神的自由を保持することができました。

また、私の生き方に賛成してくれた多くの学生たちの信頼を得ることができました。

 

日大アメフト部の学生諸君に

こうした私の経験を踏まえた上で、日本大学アメフト部の部員のみなさんに贈るエールをさきほどツイッターに書きました。

 

 

今、日本大学の名誉を守ることができるのは、君たちだけなのです!

日大アメフト部の監督・コーチの記者会見、について

日大アメフト部の悪質タックル問題については、新聞やテレビやネット上で既に多くの人が発言をしていますが、現在大学の教壇に立つ者の一人として、私は大変な怒りを感じており、このブログで私の考えを述べます。

 

結論を先に言うと、日大アメフト部の内田監督と井上コーチ、ならびに12人のコーチは大学教育に携わる資格もないし、およそ教育に携わるべきではないし、即刻退場すべきだと、私は考えます。

そして、今、大学教育に関わっている者はそれぞれの立場からこの問題に対する自分の考えを明らかにすべきであり、特に日本大学で教員の立場にある人たちは自分の考えを明らかにする責務がある、と考えます。

ことは、それほど大きな問題だと思うのです。

 

内田監督と井上コーチの記者会見

23日に行われた内田監督と井上コーチの記者会見での発言が、どれほど不誠実で愚劣なものであったかは、もはや誰の目にも明らかです。

ここでは、私なりの解析を付け加えます。

私は大学で、「ことば・言葉」から、コミュニケーション表現と表現の意図を読み取る、という講義をしています。

それは、実際に「話されたことば」、実際に「文字で書かれた言葉」から、その表現を発した人間の意図を読み解く、というものです。

 

この視点から見ると、22日に行われた宮川泰介さんの記者会見と、23日に行われた内田監督・井上コーチの記者会見、との落差は明瞭にわかります。

まず、宮川泰介さんの会見での発言では、

「監督から『日本代表に行っちゃダメだよ』と言われました」や、

「井上コーチから、『監督に、お前をどうしたら試合に出せるか聞いたら、相手のQBを1プレー目で潰せば出してやると言われた』と言われました」など、

監督やコーチが実際に「話したことば」が、きちんと記述されています。

 

それに対して、内田監督と井上コーチの会見での発言は、

「『相手のQBを1プレー目で潰したら出してやる』とは言っていない」や、

「『相手のQBがけがをして秋の試合に出られなくなったらこっちの得だろう』とは言っていない」とかで、

記者からの、「それでは、何と言ったのですか?」という質問には答えていません。

つまり、内田監督と井上コーチの会見の意図は、宮川さんの発言を否定することが目的であり、自分たちが実際にしゃべった「ことば」の事実確認にはないことが分かります。

どのように取り繕おうとも、内田監督と井上コーチと日大経営陣は、反則行為の責任は解釈間違いをした宮川泰介さんにあるのだ、という論理を展開していることが明らかです。

 

日本の情報化社会の現状を知らない日大人

今日、私は授業の中で、両者の記者会見での発言を比較対照して解析しました。

受講している多くの学生たちは、この問題については皆が強い関心を持っていました。

それは、事件の場が大学という場であること、宮川さんが20歳の大学生であるということ、からして多くの学生たちが親近感と当事者意識を持ってこの事件を見ていることを表しています。

そして、多くの学生たちが、新聞やテレビといったマスメディアからだけではなく、SNSによって、早く詳しく情報を得ているのです。

 

内田監督、ならびに日本大学の関係者諸氏は、現在の日本の情報社会の現状について無知、もしくはなめている、と言うしかありません。

誰が考えたのか、午後8時という会見時間の設定も、これまでのようなマスメディア認識からすれば、最もテレビ生中継されにくい時間を選んだつもりなのでしょうが、SNSの広まっている現状からすれば全く意味をなしていないのです。

 

旧態依然たるメディア感覚は、会見を司会していた人の対応にも表れていました。

あの方が、米倉久邦(よねくらひさくに)という人で、共同通信社論説委員長をして2002年に退社して現在は日大広報部の顧問をしている76歳だ、ということが新聞やテレビよりも早く、ネットを通して世間に知れるのが、今の日本の情報化社会なのです。

あの米倉さんの司会進行ぶりと、その意識がいかに時代遅れのものであるかが、日本大学という組織の現状を露呈してしまいました。

 

それは、米倉さんが、会見を無理やり打ち切って、予定どおりに会見最後の「内田監督と井上コーチの今後」についてを語るところにも表れていました。

「第三者委員会を立ち上げて、その結論が出るまでは謹慎して常務理事を一時停止して、その後は大学の決定にしたがいます」

もっともらしい発言の背後に、自分に都合の良いメンバーを選んで第三者委員会という体裁を整えて、それで禊が済むまではおとなしくしておけば世間は忘れるだろうから、という意図があるくらいは子どもにでもわかります。

さらに内田監督は日大の常務理事であり、「大学の決定」というのも自分の意思を反映させたものに出来うる立場です。

内田前監督と日大経営陣は、世間をなめきっています。

このような人たちが大学という教育機関に携わっていることに驚くばかりです。

 

最大の被害者は日大生

こんな日本大学に、危機管理学部が存在しているとは、もはやギャグでしかありません。

学生諸君に罪はないのですが、残念ながらこれから日大生の諸君は大きな被害をこうむることを覚悟しなければならないでしょう。

現在、就職活動中の日大の学生さんは、エントリーシートに「日本大学・危機管理学部」と書くだけで、相当のビハインドになることを覚悟しておいてください。

それは、新入社員を採用しようとする企業の立場に立てば、自分の会社の危機管理からして当然のことなのです。

日大の学生を新入社員で採ったとして、社外にその社員を紹介するとき、あるいはその社員が営業で社外で自分の経歴を紹介するとき、もしかしたらその社員を採用した会社ごと適切な評価を得られない可能性があるからです。

同程度の志望者のエントリーシートが100枚並んでいるとしたら、企業の採用担当者は、自分の会社のことを考えて選択するのは止むを得ないのです。

だからこそ、最初に書いたように、今、最も声を出さなければならないのは日本大学で教員をしている人たちなのです。

勇気を持って、一人で、日本記者クラブの会見席に出て、同席していた弁護士にも頼らずに堂々と会見をした宮川泰介さんを守るためだけではなく、現在日本大学に籍を置いている学生すべてを守るために、日大の先生たちは頑張らなければならないのです。

 

教育者とは、学識や知識を教える前に、人間としての生き方を教えるべき者でなければならないのです。

今回の、日大アメフト部の問題は、単にひとつのラフプレーを巡る問題にとどまるものではなく、日本の大学教育全体に関わる、とても大きな問題なのだ、と私は考えています。