ハリウッド映画と日本のテレビドラマを、比べてはいけないけど
先週、アメリカのアカデミー賞が発表され、日本人として初めて辻一弘さんがメーキャップ賞を受賞したことが大きく報道されました。拍手!拍手!です。
で、その映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』。
チャーチルを演じた俳優、ゲイリー・オールドマンは主演男優賞に輝きました。
ハリウッド俳優の役作りは「ことば」から
一般公開に先立って、試写を見ました。
スゴイ!って、何が凄いかと言うと、スクリーンに映ってしゃべっている人間が、かのウィンストン・チャーチルその人にしか見えないんですよね。
もちろん、僕は本物のチャーチルに会ったことはないんですが、きっとチャーチルと言う人はこんな人間だったんだろうなぁ、と素直に思えるんです。
授賞式で映っていたゲイリー・オールドマンを見た時にその別人ぶりに改めて驚きました。
それほどまでに辻さんのメイクは素晴らしかったのですが、もう一つ忘れてならないのはゲイリー・オールドマンの役作りの努力です。
彼は、チャーチルの演説が英国民の心にしっかりと届くようにするために、まずは役作りを「声」から始めた、と言っています。
そして、「アクセントから訛りまで完璧なチャ―チルのトーンで話しながら」撮影現場に現れた、のだそうです。
「ことば」は、その人の人生そのもの、です。
産まれ育った地域、家庭の社会的な階層、によって必ずその人なりに訛っています。
チャーチルなら、オックスフォードの公爵家に生まれアイルランドで幼少期を過ごしたという、彼だけの歴史を背負った「ことば」で暮らしていたはずです。
こういうところに、ハリウッド映画の「ことば」についての見識を、僕は痛感するのです。
「ことば」に無頓着な日本のテレビドラマ
さて、翻って日本のテレビドラマについて。
2月28日にNHK・BSで、埼玉発地域ドラマ「越谷サイコー!」が放送されました。
NHKさいたまの制作という触れ込みでもあり、かなり期待して見たのですが、やはりザンネン!でした。
「越谷」だから、と言って僕が特別な「越谷なまり」を望んでいた訳ではありません。
が、あまりにも無思慮に、登場人物たちの誰もが「現代東京ことば」でしゃべっているのです。
お話は、埼玉県の越谷で長年続いている老舗の「伝助商店」を舞台に、おばあちゃんの病気をきっかけにして、若い孫娘が「わが町越谷」の魅力に気がついてゆく、というもの。
主人公の浦井加奈子には、あの『ひよっこ』で、有村架純のおさななじみ時子を演じて花開いた佐久間由衣。奥茨城訛りが可愛いかったです。
おばあちゃんの浦井良枝には竹下景子。
おちゃめな幽霊として出てくるご先祖さま役に佐藤二郎。
埼玉県は、今や東京のベッドタウンであるくらいに時間的にも東京に近いので、若い人が「東京ことば」にかなり近いことはよくわかります。
ですが、もともと埼玉県で暮らしている人たちの日常の「生活ことば」は、武州弁や茨城弁や秩父弁や群馬弁が混合しているのが自然です。
代表的な語尾でいえば、「~だいねぇ」とか「~だがねぇ」とか「~だべぇ」。
アクセントやイントネーションも微妙に「東京ことば」とは違います。
まして、竹下景子が演じていた良枝ばあちゃんは、産まれてからずっと越谷に住んでいる77歳なのですから、なにか訛りがあるのが自然です。
そして「伝助商店」に集う年寄りたちも、なにか訛りがあるのが自然です。
なのに、じいちゃんもばあちゃんも、みんな「現代の東京ことば」でした。
江戸時代から出て来たご先祖さまの伝助さんが、
「あのー、ウチがさぁー、日光街道の途中にあってさぁ」
「~しちゃってさぁ」「よくわかんないなぁー」
としゃべるのはファンキーなご先祖幽霊だから、と許せるかも知れません。
それにしても、これでは、いくら徳川家康の御屋敷跡や、三宮卯之助の力石や、桃の花の名所である川端、などの風景を映して、
「なんにもないように見えるけど、越谷には歴史があるんです」
「越谷は、いい町なんです」
と力説しても、「暮らしの魅力」は伝わらないのです。
それは、むりやりドラマの形を取った〈観光ビデオ〉でしかありません。
きっと「越谷」の町中の魚屋さんやコロッケ屋さんの店先では、そこで暮らしている人たちの、もっと活き活きとした会話が飛び交っていることでしょう。
川べりで犬を散歩させている人たちのすれ違いでは、もっと普段の挨拶ことばが交わされていることでしょう。
最近のNHKは、「地域再発見」や「新しいローカリズム」をうたって多くの番組を作るようになりました。
そのことはとても良いことだと思うのですが、制作者たちが取り組むべきは、美しい風景や歴史的建造物の皮相な紹介ではなく、「ローカリズム」の根本である「ことばと暮らし」について知ろうとする努力を深めることだ、と僕は思うのです。
ドラマ『天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~』が良かった!
ytv・大阪よみうりテレビの60周年スペシャルドラマ『天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~』
選手へのインタビューのことば
NHK朝ドラ『わろてんか』を、業界人的に楽しんでます!
NHKの朝ドラ『わろてんか』が、終盤にさしかかり、やっと「女興業師・北村てん」の話になってきました。
で、登場する芸人たちが「笑芸・現代史」につながってき始めたので、僕は少し変わった楽しみ方でこの頃ずっと見ています。
それは、『わろてんか』に出てくる芸人たちは誰をモデルにしているのか、そして実際にあったエピソードをどのように翻案・脚色しているのか、を比べながら見るという、いわばちょっと業界人的な見方です。
数日分のOAを見た後で手にするのは、『吉本興業百五年史』。
この本、吉本興業の社史編纂部の面々が厖大な資料を数年間かけて編年的にまとめたもので実に優れた「演芸資料本」です。
去年の12月に完成して、一般発売もされているものですが、お値段は1万円超。
個人で買うには、ちょっと高いですが、「お笑い」に関心のある人には絶対のオススメです。
800Pに及ぶ「笑芸」の記述と、貴重な写真の数々。
よく、まぁ、これだけの資料を集めたもんだ、と感心しながら見ています。
僕は、自分が『M-1グランプリ』始め幾つかのお笑い番組をやっていたこともあり、また特別寄稿をしたこともあり、一冊をありがたくいただいたので、それを数十ページずつ読んでいるんです。
で、これを読みながらドラマを見ると色んなことがわかります。
「キース・アサリ」のコンビが「しゃべくり漫才」を形にしてゆくのは、「横山エンタツ・花菱アチャコ」のことですね。
着物から洋服への変化、「キミ・ボク」と口語体での呼び合い、日常をテーマにした新しさ。
「エンタツ・アチャコ」の人気を決定づけた「早慶戦」が、ドラマ内では「相撲中継」になっていたのには少し笑ってしまいました。
いやぁ、実録物の脚色はかえって難しいもんだなぁ、と制作者に同情しました。
そして、先週の「ミス・リリコ&シロー」の誕生話。
これは「ミスワカナ・玉松一郎」の翻案ですよね。
おしとやかな美人女性が、しゃべりまくって相方の男をやり込める、という男女コンビ漫才の典型。
今、残っている写真を見ても「ミス・ワカナ」さんは綺麗で可愛い!
これが、後に「ミヤコ蝶々・南都雄二」に引き継がれ、現在の「宮川大助・花子」につながるんですよね。
先々週あたりに出てきた「全国大漫才大会」。
見ていて、「あーっ、これって、まさに当時のM-1グランプリじゃん!」と感慨ひとしおでした。
『漫才のてっぺん取ったるわ!』というセリフを聞いた時に、これまで付き合ってきた芸人さんたちの顔が幾つか浮かんできました。
これまでの『わろてんか』は、松阪桃李演じる北村藤吉と、葵わかな演じる北村てん、との夫婦純愛苦労話で僕にはもうひとつ面白くありませんでした。
ドラマ展開のスピード感も乏しく、映像の作りもオーソドックスで、せっかく『ひよっこ』や『あまちゃん』で新風を吹き込んだ朝ドラが先祖帰りしたような残念さに満ちていました。
残る2ケ月の展開に期待したいもんです。
そうそう、もう一つ、とても個人的に嬉しかったことがありました。
それは、「風鳥亭」のたち上げ期に尽力した「怪力の岩さん」のことです。
「岩さん」を演じた役者さんは、「岡大介」さんと言います。
岡さんは、僕が20代の頃からの40年にわたる古く長い知り合いです。
まだ独身だった僕の新大阪近くのアパートに、数人で集まっては酒を飲んだりカード遊びをしたりした仲間です。
役者として、ホントに地道な苦労を重ねながらもなかなか陽が当たらず、それでも好きな役者を辞めないで今日まで続けて来た「ホントの役者バカ」です。
その彼が、NHKの朝ドラで、いい役をもらいました。
先々週、彼の出番の最後となる場面だったのでしょうか、画面は数秒間「岩さんのアップ」になりました。
多分、演出家の粋なはからい、だったのだと思います。
「大ちゃん、良かったなぁ、役者続けてて良かったなぁ、NHKでアップやでぇ」
その画面を見ながら、僕は不覚にも泣いてしまいました。
「お笑い」もそうです、「役者」もそうです。
産業社会の世間から見たら、何の生産的な物も産み出しはしない営みかも知れません。
ですが、そんな「芸能」が好きでたまらくて人生の情熱を賭ける人間がいるのです。
僕は、そんな「バカ」がたまらなく好きなのです。
圧巻の演技と演出――NHK「西郷どん」渡辺謙vs鹿賀丈史――ドラマのリアリティ
大学の前期授業終わり、なんだかんだで、twitterの更新も「いとをかし」ブログの更新も滞ってしまいました。「インフルエンザで倒れてるんちゃうかぁ」とメールで安否を気遣って下さった方々、ありがとうございました。誠さんは元気です。
真剣に見てるドラマってありますか?
さてさて、先日、女子大生たちと「ドラマのことば」とリアリティについて話をしていたら、学生に「せんせぇ、大丈夫ですよー」って言われました。
うんっ、どういうこと? と思う僕に、
「誰も、テレビのドラマがリアルなんて思ってませんからぁ。だってぇ、山田涼介や藤ケ谷大輔みたいな男子が身近にいるわけないしー、私たちだって広瀬すずや吉岡里帆みたいに女子力パンパンじゃないですからぁ」
「みんな、ファンタジーだと思って見てるから安心して下さーい」
「それより、先生みたいに真剣にドラマ見てたら、面白くないでしょう」
うーんっ、なるほど!
と、変に納得させられたのでありました。
現代の若者にとって「テレビドラマ」はそんな位置付けなのかも知れませんね。
かつて「テレビドラマ」を喰い入るように見ていた僕達世代とは大きく違うようです。
でも翻って考えれば、それだけ「真剣に見る」に値するドラマが今は無い!って言うことの証しなんでしょうけどね。
さて、そんな中で、「生活ことば」の強さをしっかり認識しようと言っている僕としては、今期ドラマの最高作として、NHK大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』を強く推奨します。
前回のブログにも少し書きましたが、『西郷どん』は脚本・演出のレベルが違います。そして、それに応える俳優たちの演技力が素晴らしい、のです。
渡辺健と鹿賀丈史、圧巻の演技!
1月28日(日)放送の「西郷どん・第4回 新しき藩主」
薩摩藩主の座を譲ろうとしない父・斉興(なりおき・鹿賀丈史)に、退位を迫る嫡男・斉彬(なりあきら・渡辺謙)が、まさしく身命を賭して対峙するシーンでした。
斉興「わぁしが、易々と隠居すちょぉと思うとか」
斉彬「父上、薩摩の主にふさわしき振る舞いをなされませ」
斉興「わしゃぁ、おまえが、好かぁーん!」
斉彬「これは、父上と私の、最後のいくさです」
舶来物のピストルを取り出して、ロシアンルーレットで父・斉興に迫る息子・斉彬。
先に引き金を引く斉彬の必死の形相と涙。続いてピストルを渡され、震えながら引き金を引こうとする斉興の苦悶の表情と身震い。
いやぁ、実に見ごたえがありました。
日本のテレビドラマで、これだけの殺気迫るシーンは記憶にありません。
早くも2018年のテレビドラマ・ベストシーン賞を、お二人に差し上げたいと思います。
(ちなみに2017年は朝ドラ『ひよっこ』での木村佳乃さんで、
「ちゃんと名前があります。」
「茨城の奥茨城村で生まれ育った、矢田部実という人間を探してください、とお願いしてるのです」
という台詞を、茨城訛りで涙を噛みしめてしゃべったシーン、でした。)
リアリティはことばから
で、この場面のリアリティを成立させている最も大きい要素は、父・斉興(なりおき)と息子・斉彬(なりあきら)の二人がしゃべる「ことば」です。
斉興は「薩摩ことば」で、斉彬は「江戸ことば」です。
その理由は、斉興が薩摩で生まれ育ったのに対し、斉彬は嫡男でありながら江戸で生まれて江戸で育ってきたからです。
「ことば」は、その人の「生活」と「人生」を現します。
ここを的確に押さえていることが、ドラマシーンに奥行きを与えているのです。
若き日の西郷吉之助や大久保正助の先生である赤山靭負(あかやまゆきえ)が、切腹を命じられ死を覚悟して門弟たちを集めて語るシーン。
演じる俳優は沢村一樹です。
「こげんしてみたら、おはんらもこの芋と同じじゃな。
この芋ちゅうのは、ひとつとして同じ形のもはなかぁ。
この桶ん中入れて、ごろーっと洗えばお互いにぶつかり合うて、きれぇーに泥が落ちる。
おはんらも同じじゃ。一人一人、姿、形も違えば、一人一人考え方も違う。
これからもぶつかり合い、切磋琢磨して立派な侍になってくれぇ、それがオイの最後の願いじゃ」
沢村一樹は、鹿児島県の出身なので、今回の「セリフ作り」はそんなには難しくなかったかも知れません。
が、彼は去年の朝ドラ『ひよっこ』では、有村架純演じる主人公・矢田部みね子の父親である奥茨城村の農民・矢田部実を演じました。もちろん「茨城訛り」で。
俳優vs脚本家・演出家の思考力
『西郷どん』の優れている点は、脚本家と演出家が「ことばと生活」の関係をしっかりと捉えており、俳優陣がそれに応えて、脇役から子役に至るまで各々の登場人物が使う「ことば」を、しっかりと考えて修練しているところです。
「薩摩訛り」のせいで聞き取りにくいところがある、との視聴者評もあるようですが、気にすることはありません。だいたい僕たちの日常会話は、当事者以外は聞き取れない部分があるのが普通ですからね。そして、日本語は質的な同一性が高いので少しくらい聞き取れなくても充分に意味は通じています。
で、演じている俳優からすれば、この「ことば作りから役作りへ」というプロセスはかなりの役者エネルギーを使う作業です。民放テレビドラマの、安直な「標準語セリフ・東京語セリフ」に対応するのに比べて数十倍の役者エネルギーを使います。
これは、決して『西郷どん』が歴史ドラマであるからではなくて、たとえ現代ドラマであったとしても、ひとえにドラマ制作者の「ことばと生活」に対する思考力の問題です。
俳優は、脚本や演出の力量に応じて演技力を発揮するものなのです。
『西郷どん』に比べれば、民放ドラマに費やす役者のエネルギーは全く軽いものです。
セリフは、よほどのことが無いかぎり「標準語近似値としての現代東京語」で済みますし、そもそも「配役の使うことば」について注文を出す演出家なんてほとんど居ません。
「ことば作り」にそれだけ無神経だということは、人生の背景をも含めた「役作り」にも当然無頓着だということです。
顔の売れているアイドル男優や美人女優のキャスティングが何より大事な要素となっているので、彼らや彼女らに「生活感のあることば」を修練させる時間もありませんし、注文しても出来ないことがわかっている、という理由もあります。
こうして、人気アイドル男優と美人女優の取り合わせの組み換え、ドラマの舞台は東京、職場でも家庭内でも故郷でも「標準語・東京語」のセリフ、というテレビドラマが飽きもせず再生産されていきます。
その実、「ことばと生活」に鈍感なテレビ演出家たちは、優れた役者たちからは表現者としては見下されているのだ、ということに早く気づいて欲しいと思うのですが。
標準語でもいいドラマとよくないドラマ
さて、安直な「標準語・東京語」セリフばかりの民放ドラマですが、逆に言うと、ドラマの舞台が東京で、しかも仕事(ビジネスシーン)が中心の展開ならば、さほど違和感を感じることなく見れる、とも言えます。
それは、「標準語・東京語」が、「ビジネス日本語」だからです。
この観点を含んで、前回に続いて幾つかの僕なりのドラマ評を。
『BG・身辺警護人』テレビ朝日・木曜9時枠
木村拓哉(キムタク)ドラマ。テレ朝として木曜9時枠は牙城のドラマ枠です。
米倉涼子演じる大門未知子の『ドクターX』を手掛けた、かの内山聖子さんがGP。
さすがに共演者の粒がそろっていて、キムタクの押さえた演技にも渋さがあり、今のところ僕は毎回見ています。
第2回目の、裁判官夫妻の苦渋を描いた井上由美子脚本は良くできていた、と思います。
ただ、第1回目のように少し砕けた会話シーンで、
「ボディガードが倒れちゃったら」「むき身になっちゃうでしょ」
「向こう、帰んないんだったら」
のように、促音便や撥音便がやたら出てくるといっぺんに興覚めします。
アイドルやアイドル出身タレントの会話には、この「~しちゃう」「~しないんだ」が頻発するもので、そこは演者本人や演出家が留意すべきでしょう。
ちなみに、これらに「~さぁ」を足すと、即席ものまね東京弁ができあがりますよね。
「僕さぁ、上野にパンダ見に行っちゃったりするんだけどさぁ」という風に。
『anone』日本テレビ・水曜10時枠
あの『カルテット』や『いつか、きっとこの恋を思い出して泣いてしまう』や、遡れば『東京ラブストーリー』を書いた阪本裕二の脚本で、演出は日テレが誇る水田伸生なので少し期待しました。
ショートカットの広瀬すずは可愛いのですが、ドラマ展開はわかりにくく複数の登場人物たちの出会いや繋がりに無理が目立つご都合主義ですね。
多分、親子関係に傷を抱える人たちをグランドホテル形式で結ぼうとしているんだと思いますが、それにしては必然性も奥行きも足りません。
田中裕子がシリアスで、小林聡美と阿部サダヲがコミカルで、広瀬すずはどっちつかずで全体として何がなんだか良くわからないです。
そもそもドラマの展開場所、どこ設定なの?
前回も取り上げましたが、
『女子的生活』NHK金曜10時
うーん、やはり神戸や兵庫県の「生活ことば」は出てきませんでしたね。
女装の主人公・小川みき、が出身地である兵庫県香住に出張で帰るのですが、ドラマ展開は標準語。父親や兄貴との会話はときどき関西弁訛りで基本的には標準語。
「ありえへん」ですよねぇ。
かろうじて、添えもの人物として出てくる地方在住デザイナーの母役である山村紅葉が「いったい何をしとるんかねぇ、どんくさいわぁ」と関西弁訛り。
日本のテレビドラマはだいたいこうなんですよね。
主要登場人物は標準語で、筋運びに関係ない点景人物だけが地方訛り、でしゃべる。
もったいなかったですね、せっかく面白い題材のドラマに取り組んだのに。
『ドキュメント72時間』がおもしろくて
で、思いがけない拾い物がありました。
それは、『女子的生活』のチャンネルをそのままにしていたら、NHKで9時50分から始まった『ドキュメント72時間』でした。
1月19日には、東京の江東区にあるパン屋さんの店前の72時間。
人気のパン屋さんの紹介番組かな、と思ったら全く違いました。
そのパン屋さんにパンを買いに来る人達へのインタビューで綴る72時間、なのでした。
いやぁ、思いがけず聞き入ってしまいました。
しょっちゅう買いに来る奥さん、家族の朝食用で買いに来た女子高生、手作り野採と買ったパンを交換する老人仲間、車いすを押して1時間かけて歩いてきた老母と中年の娘さん。
72時間の定点観測インタビューで、見事に「2018年の東京下町の生活」を描き出していました。
1月26日には、年末年始にかけての青函連絡船の72時間。
青森から函館の往き来、に船に乗る人達へのインタビューで綴りました。
新婚旅行以来36年ぶりに乗るという老夫婦、そこには娘夫婦と孫がいました。出稼ぎで東京に行ってる中年男性が、北海道への帰省を終えて正月を待たずに再び東京へ帰る。
ひときわ印象に残ったのは、21歳の長距離トラックの運転手さん。
「オヤジ、トラックの運転手で、オヤジ亡くなっでぇ・・・」
そして、高校で同級生だったという3人の若者、そのうち一人は東京で大学生、
「いいよね、帰ってきたら標準語使わなくていいからね」
「『おれ』『わたし』って言わなくても、『わ』でいいからね」
2018年、日本の各地でちゃんと「生活ことば」で生きてる人たちが居るんだなぁ、と僕はしみじみと思ったのでありました。
テレビは、現代の私たちにとって「最大の言語教育メディア」の面を持っています。
テレビ番組制作に関わる人間が、もっと「ことば」と「生活」を考えることから、新しいテレビ表現が産まれるのではないか、と僕は考えています。
それ違うんじゃないの?――新聞の小説評について
さて、少ししつこいようですが、芥川賞受賞作『あらおらでひとりいぐも』を巡る言説の中でどうしても見逃すことのできないのが新聞記者の論評です。
多くの新聞が、この小説を「老境を生きるための小説」だとか、著者を「こども時代の夢を叶えた人」だとか評しています。全くの「筋違い」だと僕は思います。
読売新聞「編集手帳」1・18朝刊
「若竹さん自身、岩手県出身で、作家をめざして何年も苦闘をかさねたが、かつてなじんだ方言に着目したとたん、筆が進んだという」
――この記者は、「方言」を小説を書くためのひとつの「文章手法」「テクニック」としてしか捉えていない、のが明らかです。
読売新聞「よみうり寸評」1・19夕刊
「子供の頃の自分を呼び戻す。それが生き生きとした第二の人生につながるという」
「若竹千佐子さんも、作家になることが小学校時代からの夢だったとか。ときには後ろを振り返るのもいい、」
――小説は、老後を生きるための「人生のハウツー本」ではありません。
――「言語」は、社会的栄達を手にするための「手段」ではありません。
「豊饒な東北言葉を駆使し、孤独を生きる女性を描いた」
「健康や家計と並んで備えておきたいのは、孤独の飼いならし方、老後の慈しみ方ではないか。『玄冬小説』の広がりに期待したい。」
――どうやったら、こんな読み違いに辿り着けるのでしょうか。
――この文章の書き手は、小説を読む時に楽しさなんて感じていないことが明白です。
この人たちは「ことば・言葉」を、単なる「道具」や「手段」としてしか捉えていません。
芥川賞を獲るための「道具」、夢を叶えるための「道具」、孤独な老後を生きるための「道具」、だと考えているのです。
そして、「文字」を駆使して、褒められる「上手い文章」を書いて、金を稼いで飯を食うための「道具」なのです。
これが、「文字優位の価値観」と「書き言葉・話しことばの標準語主義」に誑かされて、「書き言葉の標準語」で社会的上昇を手にした人の言語観なのです。
(僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』で、東北大震災を巡る「天声人語」と「編集手帳」を酷評しました。そのせいかどうか、朝日新聞と読売新聞には拙著は完全に無視されました)
繰り返し、繰り返し、僕は言います。
「ことば」は、決して「何かをするための道具」ではありません。
「ことば」は、ヒトが人であるための存在基盤なのです。
「ことば」は、「生活」であり、「人生」そのものなのです。
若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、「わたし」の奥に潜む「おら」を取り戻すことによる「人生の再生の物語」に他ならないのです。
芥川賞発表と、今期のテレビドラマの「ことば」
昨日、第157回芥川賞が発表されました。吉村がイチ押ししていた『おらおらでひとりいぐも』が見事受賞。よかったですねぇ、若竹千佐子さん、おめでとうございます。
方言は好き?嫌い?
で、「63歳の新人」と言うことで、早速テレビメディアでは大きく扱っていたのですが、その扱い方に首を傾げる箇所が幾つか。
テレビ朝日「報道ステーション」では、富川アナが生インタビューで若竹さんに「遠野弁がお好きなんですね?」と質問。
いや、違うでしょ。
「方言」は、好きとか嫌いとか言う次元の問題じゃないんですよね。
人間存在の原点としての「ことば」の問題です。
少なくとも、若竹千佐子さんはこの小説を通して、「おら」と「わたし」との乖離に象徴されている2018年の日本社会の在り様と我が人生の在り方を問うているんですよね。
無頓着に「アナウンサー標準語」を使ってビジネスしている人には、この「ことばと生活」の問題はわからないんだろうなぁ、と苦笑してしまいました。
更に、フジテレビ「ニュース+α」では、ナレーション原稿を読んでいるアナウンサーのイントネーションが、「オラオラでひとりいぐも」と発音されていて爆笑してしまいました。
そりゃないでしょ。
読んでいておかしいと思わないんでしょうかね、担当ディレクターも聞いていて何か変だと思わないんでしょうかねぇ。もう少し勉強しましょうよ、「ことば」について。
いずれにしても、これで選考委員各氏の選評を読むのが楽しみです。
小説を読むのも楽しいのですが、芥川賞や直木賞は選考委員を勤めている作家諸氏の選評を読むのがもう一つの楽しみなんですよね。
今期期待のドラマは『女子的生活』
さて、今日の話題は1月スタートのテレビドラマについて、です。
各局とも今期クールのドラマが出そろいましたね。
趣味と興味から、僕は、各局のドラマのスタート1回目か2回目をOAか録画かで見ます。
そこで面白そうならば、そのドラマは続けて見ますし、ダメと思えば打ち切りします。
で、今期最も期待していたのが、NHK・金曜10時『女子的生活』なんです。
まず、設定がオモシロイ。
志尊淳が演じる主人公・小川みき、は性別は男性なんだけど女装していて内面は女性というトランスジェンダー。しかも恋愛対象は女性。この複雑な人柄をどう演じるか。
しかも、ドラマが展開される場所は神戸のファッション会社。
制作はNHK大阪(業界ではBKと言います)、制作統括は、朝ドラ『べっぴんさん』を作った三鬼一希さん。
どれだけリアルな生活感の中で、複雑な「性別違和」を描き出してくれるだろうか、と。
ここは東京?それとも神戸?
残念!でした、今のところですが。
女性そのものに見える志尊淳の立ち居ふるまいは綺麗だし、「ほっこり系」で男を惹きつける小芝風花も魅力的だし、間に挟まれる「LINE的吹き出し」による女性心理の描写もとてもよくわかるのです。
が、もっとも肝心な台詞がすべて「東京標準語」なんですよね。
それは「ありえへん!」でしょう。
神戸に住んで暮らしている人間が日常会話で、「だってさぁ」とか「男って面白いじゃん」とか「そんなわけないでしょ」とか語頭アクセントで言わへんでしょう。
原作は確か東京が舞台だったと思うのですが、それをわざわざ神戸に移した意味はどこにいったのでしょうか。
それらしき「生活ことば」をしゃべるのは、三宮の高架下商店街とおぼしき所にあるコロッケ屋さんの夫婦だけ。「いっつもきれいやなぁ、お姉ちゃん、まけとくわ」とかね。
時々映るポートタワーや、港の風景だけがここが神戸であることを示しています。
まさしく借り物の風景、神戸は「借景」に過ぎません。
港と街路のロングショット以外は、どう見てもこれは東京のビジネス街で展開されているドラマです。
リアリティはことばから生まれる
「日本のドラマにはリアリティがない。だからつまらない。日本人は2年間、テレビドラマを作るのを止めて海外ドラマを見て勉強する方がよい」と言ったのは、デーブ・スペクター氏ですが、リアリティの根本は「台詞」にあります。
とても挑戦的で斬新な設定のドラマだけに、「台詞」の標準語主義が残念です。
とは言いながら、次回の3話目には主人公・小川みきの出自や過去が語られるそうなのでそこで「生活ことば」が出てくるかどうかを期待しています。
ところで、このNHKの金曜10時枠は、今、日本のテレビドラマ界で注目すべき新しいことにどんどん挑戦しており、高く評価すべきだと僕は思っています。
昨秋には、NHK名古屋(CK)の制作で『マチ工場のオンナ』というドラマを作りました。
名古屋郊外を舞台にして、父親の残した町工場を引き継いで女社長になる専業主婦を内山理名が演じたドラマです。
これも惜しむらくは、「台詞」が「東京標準語」であったために「名古屋郊外で暮らす人たち」のリアリティを充分に出すには至りませんでした。
が、このように「東京以外」で暮らしている現代日本人をドラマで描こうとしている制作者の努力はいつか実を結ぶ時が来るだろう、と僕は考えています。
「台詞」のリアリティに最も注意と努力を払っているのは、やはりNHK「大河ドラマ」の『西郷どん(せごどん)』です。
時代物だからでもあるのですが、登場人物ひとり一人の話す「ことば」は見事に考証されており、鈴木亮平演じる西郷吉之助はじめ、若者から老人や子役に至るまでが「薩摩の生活ことば」を身に付けて演じているからこその見ごたえです。
さて、民放各局のドラマは相変わらず無邪気な「東京標準語ドラマ」が並んでいます。
で、今のところ全てを見ているわけではありませんが、幾つかについて。
民放ドラマ評――やっぱり標準語主義
TBS・日曜9時『99.9』
松潤の主演する弁護士ドラマ。今シリーズも脇には香川照之、そして女性は木村文乃。
アリバイ崩しなどの謎解きは面白く、法廷での逆転劇は痛快でした。
が、良く考えると無理なアリバイを作ってまで殺人を犯す動機も必然性もゼロ。
そしてもちろんのこと、展開されるドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。
NTV・土曜10時『もみ消して冬』
山田涼介の主演。脇に波瑠と小沢征悦。
兄が天才外科医で、姉が敏腕弁護士で、本人はキャリア警察官、ですって。
もちろんドラマ内のセリフはすべてが「東京標準語」。
生活感の伴わないセリフで成立するのは、せいぜい薄っぺらいコメディードラマです。
フジテレビ・月曜9時『海月姫』
芳根京子の主演に、女装の瀬戸康史が織りなすライトコメディ。いわゆる「フジの月9」。
セリフは基本的には「東京標準語」ですが、主人公は地方出身者なので時々言いわけのように「訛りのあることば」が使われています。
「もう来んでください、おどろしかぁ、東京には男のお姫さまがいます」
無理に挿入した「訛りことば」は、笑いの要素ではあっても、ドラマのリアリティを担保するものではありません。
フジテレビ系・火曜9時『FINAL CUT』
テレビのワイドショーの歪んだ報道のせいで自殺した母親のために復讐する主人公、を亀梨和也が演じます。
制作はKTVカンテレで、刺激的なストーリイです。
ここで余談を一つ。
東京キー局が制作するドラマに比べて、関西局が制作するドラマの方が挑戦的な内容のものが多いです。その理由は、東京キー局が潤沢な制作予算を持っている上に、人気の高い俳優のキャスティングに優位な力を持っているからで、関西局のテレビマンたちはそのビハインドを乗り越えるために「企画と脚本」で俳優事務所を口説かざるを得ないからです。
週刊誌報道に復讐すると言う内容の『ブラックリベンジ』もYTV読売テレビの制作でした。
テレビドラマを見る時は、どの局が制作しているのかを知っておくのも判断材料の一つです。
さて、こうやって見てくると、総じて日本のテレビドラマの中の「ことば」は「弱い標準語」の不自然な台詞に溢れており、お笑い芸人たちの「強い生活ことば」にはまだまだ勝てていない、と僕はしみじみ思うのです。
『おらおらでひとりいぐも』ではありませんが、標準化された「わたし」のような「ことば」ではなく、身体性と土着性に基づいた「おら」のように強い「ことば」で生活や出来事を描くドラマが現れることを僕は待っています。
近畿大学の新年広告――今年も笑わせてくれました!
新聞――お正月の楽しみは企業広告
今年も攻めていた「近大の広告」