2019冬ドラマから見える、テレビ制作者の「表現者の志」
今年の冬ドラマが、第4話~第5話を終えたところで、私なりの作品評をしてみます。
作り手としての「裏事情」をも読み取りながら、です。
そこから、サラリーマンでありながらも「テレビドラマ」という「表現作品」に取り組んでいるテレビマン達の「表現者としての志」を汲みたい、と思いつつ。
今期見逃せないドラマ
今期のドラマで、作り手のチャレンジ精神を、私が感じることができるドラマは、
の二つ、だけです。
この二つ以外は、既成の「刑事もの」と「弁護士もの」の焼き直しです。
これに「医療もの」を加えれば、作今の日本のテレビドラマのほとんどが分類できてしまいます。つまりは、それほど、現在の日本のテレビドラマは狭い領域の題材しか扱えていない、ということです。
私たちの暮らしや仕事の中には、もっとたくさんの様態があり、社会の深部にはもっと大きな思潮があるのに、です。
かつて、視聴率30%や40%を取っていた「ドラマ」という表現形式が、最近ではせいぜい10%前後の視聴率しか取れなくなっている最大の理由はここにある、と私は考えています。つまりは、ドラマの作り手達が「社会の表層の一部分」しか捕えられてない、のだと思います。だから「ドラマ」が弱くなったのです。
テレビ朝日
さて、そんな流れの中で民放各局のドラマのラインナップを並べてみると、色々なことが透けて見えてきます。
まずは、
・水曜ドラマ『相棒』
・木曜ドラマ『刑事ゼロ』
・木曜ドラマ『ハケン占い師 アタル』
『相棒』は、さすが刑事バディ物の老舗で、ドラマの出来映えレベルが高く安定しており、視聴率も15%前後と、民放ドラマの中では最も高い数字です。
『刑事ゼロ』
これは、木曜の20時の「木曜ミステリー」枠。
あの沢口靖子の『科捜研の女』を放送している枠で、制作は東映京都のスタッフ。で、明らかに『科捜研の女』を見てきた視聴者層を狙って、設定場所は京都府警で、ドラマの中には鴨川や木屋町など、京都ならではの観光名所の景色が盛りだくさん。
舞台が京都であるにも拘わらず、出演者の刑事は「こんなんじゃ納得いかねえなぁ」と言い、地元の高校生は「だって僕のだもん、わけわかんないよ」と完全な「東京弁」言語的リアリティはゼロなのですが、視聴率は10%超えで安定。
『アタル』のチャレンジを可能にしたもの
で、3枠ある中で、二つのドラマが一定の視聴率を取っているからこそ、実は『ハケン占い師 アタル』という新しいチャレンジが成立してるんですね。
視聴率とは、テレビというビジネスの世界では売上としてのCM料金を決めるための 指標ですから、3枠のうち2枠が安定していれば冒険が可能になります。
そこで新しいものを試してみて次世代のドラマの可能性を探る、という循環トライが上手くいってるところが、最近のテレビ朝日ドラマ好調の理由です。
ちなみに、『ハケン占い師アタル』の担当Pである山田兼司は、「刑事ものや医療ものであれば解決する対象も事件や病気でわかりやすい。しかし『働くことの悩み』は切実だがわかりやすい解決策がない。だからこそドラマで描くにふさわしいと脚本の遊川和彦さんと挑戦した」と語っています(朝日新聞ラテ欄「撮影5分前」より)。
遊川和彦が第1話・第2話を自ら演出したことも、意欲の表れだと見取れます。
主演・杉咲花の、耳を隠したボブカットと大きな瞳を活かしたキャラクター設定、そして45分過ぎの「自己啓発風の分析説教」は、現代日本の産業社会や若者像に対して軽いけれども的確なジャブであることは確かです。
テレビ朝日の「松本清張ドラマ」
さて、テレビ朝日のドラマを考える際に忘れてはならないのは、「松本清張ドラマ」の存在です。おりしも、2月3日(日)にスペシャルドラマとして、『疑惑』が放送されました。
今回の『疑惑』は、ドラマの出来としては決して良くはありませんでした。
米倉涼子の演技はステレオタイプの大仰さが目立ち、黒木華の不気味さあふれる怪演や、余貴美子の落ち着いた演技のほうが勝っていました。
遠藤憲一のナレーションも、語り手の人称と立場が不明でよくわからず、住友紀人の音楽も変にリズミカルで、内容とはミスマッチでした。
ですが、1990年代にテレビ朝日のドラマが低調で、当時は絶頂にあったフジテレビのドラマ路線の二番煎じや三番煎じを続けていた中で、テレビ朝日ドラマがやっと独自の路線を作ることができたのは「松本清張ドラマ」のおかげだったのです。
それは、『月9』に代表されるようにフジテレビのドラマが、高度経済成長の成果としての「都会生活者の軽やかな夢」を描き続けたのに対し、結抗できるドラマツルギーとして「過去を背負った犯罪者の心理」という「松本清張の生活リアリティ」を見出したところにあるのです。
このメルクマールが、2004年の米倉涼子主演の『黒革の手帖』です。
これを成立させたプロデューサーとして、テレビ朝日の内山聖子・五十嵐文郎の二人を私は高く評価するものです。
経済成長の余韻の奥で進行していた階層化や格差化という「不満の社会心理」を、「松本清張ドラマ」は原作の時代設定を変えてゆくことで、あぶり出してゆきました。その影響は現在の「刑事もの」や「弁護士もの」ドラマに確実に引き継がれています。
ドラマの新しいトレンドを作る、とはこういうこと、なのです。
ドラマの作り手達が時代や社会をどう捉えるか、が新しいものを産み出す源なのです。
フジテレビ
これと対照的なのが現在のフジテレビのドラマです。
・月9『トレース~科捜研の男~』
・火曜ドラマ『後妻業』
『トレース~科捜研の男~』
おそらく局内で、編成主導で作られたドラマだと推測されますが、どんな狙いがあるにせよ、このタイトルはないでしょう。
かつては見下ろす対象だったテレビ朝日のドラマタイトル『科捜研の女』をもじるなんて。このタイトル付けは、きっとフジテレビ局内のドラマ制作者達の士気とプライドを限りなく傷つけていることと思います。おそらく屈辱感すら抱いているでしょう。
目先獲得した10%の視聴率に対して、失ったもの大きさに気付く日は遠くはない、と思います。
制作に「大映テレビ」が入っていることにも驚きました。
これも、おそらく編成からの発注だと推測されますが、「大映テレビ」と言えば「赤い霊柩車」などの「赤シリーズ」で有名な特色ある制作会社です。
かつての「月9」は、当然のことながらフジテレビの社員スタッフが制作・演出をし切磋琢磨しながら自社ブランドを築き上げて誇った枠です。
その枠を外部発注してしまったら社内の制作者・演出者たちの立場がありません。
もはやフジテレビの社内では編成・営業と制作とに信頼関係はない、のだと思わざるを得ません。
「月9」が消滅する日は近いのかも、と思いました。
『スキャンダル弁護士~Queen』
目先の視聴率を取りに行こうと、竹内結子と水川あさみをキャスティングしたものの中途はんぱなコミカルさと事件解決時のシリアスさがちぐはぐで番組内分裂してます。
低視聴率が続いて苦しい時こそ、新しいドラマ作りにチャレンジして次の時代を引っぱるようなものを探り当てなければならないのですが、現在のフジにはもはやその余裕がない、と見取れます。悪循環の連鎖ですね。
『風のガーデン』の宮本理江子や、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の並木道子など、社会の深部に手を入れようとしたドラマの作り手がまだフジに居ることを高く評価しているのですが、フジ社内ではそういった試行が認められていないのでしょうね。
『後妻業』
木村佳乃は熱演してるのですが、映画の軽妙な味には至らず。
その理由は、本来なら極悪非道な犯罪物語であるところを、黒川博行の小説は悪女の憎めないひょうきんさや、探偵役たちの滑稽さを救いとして軽やかなクライムノベルにしているのに、このドラマでは「愛情不足の生い立ち」などといった陳腐な理由設定を持ちだして、中途はんぱに深刻な犯罪ものにしてしまったこと。
どうせなら、救いようないけど天性の可愛い悪女にすればドラマならではの新しさが出せたのに、そこまでの覚悟はなかったのかな。
とは言え、フジテレビのドラマが目先の安全策ばかりを追いかけている中で、関西テレビのこの枠は、いつも独自の方向性を追っているところは評価すべき。
日本テレビ
続いては日本テレビ。
・水曜ドラマ『家売るオンナの逆襲』
・日曜ドラマ『3年A組~今日から皆さんは人質です』
『家売るオンナの逆襲』、北川景子・主演の『家売るオンナ』のシリーズもの、での安定路線。
『イノセンス』
これは、古家和尚(ふるやかずなお)の脚本を、『金田一少年の事件簿』や『ハケンの品格』の南雲聖一が演出。
南雲の演出はさすがに手馴れており、安心して見れる「弁護士もの」ですが、作中で「日本の刑事裁判は100%近くが有罪になります」というセリフは、本来なら「99%が有罪になります」と言うべきところですよね。それを、先行したTBSの松本潤主演の『99.9~刑事専門弁護士』を意識したのか「100%近く」と言わせなければいけない、というところに制作者の忸怩たる内心を感じてしまいます。
心ある作り手は決して「二番煎じ」を望んでやってる訳ではないんですよね。
『3年A組』への期待
さて、テレビ朝日ドラマの場合と同様で、全体視聴率の好調とドラマ2枠の安定のおかげで、日本テレビも新しいドラマにチャレンジ出来る機会を得ています。
それが今期では、『3年A組~今日から皆さんは人質です』です。
CP・西憲彦で、脚本・武藤将吾、チーフ演出は『校閲ガール』の小室直子。
高校卒業を控えた29人の生徒を、担任教師が人質にして教室に閉じこめ、ある女子生徒の自殺の理由を探してゆく、という設定の学園ミステリー。
菅田将暉の迫力ある演技に引っ張られて第6話まで見ました。
さて、制作者たちが突きたいものは何なのか、「スクールカーストに象徴される学校社会の実態」「SNSに振り回される情報社会の実態」「無責任な教育者たち」「いかにもらしく他人事の解説をするマスメディアと有名人」――現実に起こっている出来ごととのリンクも多く、興味ある展開が今のところは続いています。
ただ、この手のドラマは最終的な帰結点がもっとも大事で、これまでに何度も見たことのあるような「浅はかなヒューマニズム的帰着」に収束されないことを願っています。
TBSドラマ
・火曜ドラマ『初めて恋をした日に読む話』
・金曜ドラマ『メゾン・ド・ポリス』
・日曜劇場『グッドワイフ』
『初めて恋をした日に読む話』
既に出来上がっている「深田恭子」という女優のイメ-ジだけに拠りかかったドラマ作りに新鮮味は皆無です。新人ディレクターの訓練場としての役割はあるかもしれませんが。
『メゾン・ド・ポリス』
「刑事もの」の変種ですが、面白く仕上がっています。
退職警察官が住むシェアハウスを舞台に、高畑充希の演じる若手女性刑事が事件を解明してゆくストーリー。
何といっても、西島秀俊や小日向文世や角野卓造や近藤正臣など元・刑事の演技のアンサンブルが良い。野口五郎も好演。
「共テレ」は、元来フジテレビ傘下の制作会社なのですが、星田良子という優れたプロデューサー演出家がいて、その配下として育った佐藤祐市や河野圭太という優秀な作り手たちがいる会社です。
主演女優が可愛く見える、ということはドラマ作りがうまくいってる、ということの一つの指標です。
『グッドワイフ』
「弁護士もの」とは言いながら、さすがアメリカのヒットドラマを下敷きにしているだけあって、レベルが高いです。
ミステリーの基礎がしっかりしています。エリート検事である夫が巻きこまれた事件の解明を連続ドラマの縦軸にして、毎回起こる1話完結の事件の解明を横軸にする、という構成は近頃はやりのパターンですが、上手く興味をつないでます。
チーフ演出は『Nのために』『アンナチュラル』を手がけた塚原あゆ子。
TBSは、福沢克雄チームが手掛けた『半沢直樹』で42%の視聴率を取ったことにより、決して若い人気男優や人気女優のキャスティングだけがドラマ作りの重要な要素ではないことに気がつきました。今回の常盤貴子主演も、その流れにあるトライだと思います。
今回は視聴率的にはヒットにはなりませんでしたが、こういう試みを続けることは必ず次につながります。
最後に
「テレビドラマ」という表現形式でも、社会事象の奥に潜んでいる「社会意識」や「大衆意識」をしっかりと捕えたものは、30%や40%という高い視聴率を今でも取れるのです。
多くのテレビマンたちに期待します。
さて、今回は民放ドラマだけを論評しましたが、ここ数年NHKの「地域発ドラマ」に、テレビドラマの将来を感じさせるものが幾つかあります。
それについては改めて論じたいと思っています。
M-1審査員コメントの読み解き方と炎上への感想
大学で「マスコミニュケーション論」なる授業をやっています。
講義の核にしているのは、「表現」の背後にある「表現発信者」の気持ちや意図を読み解く、ということです。
で、学生たちの間でも「M-1」が話題となっており、先週も何人かの学生から「M-1審査員のコメント」をどう理解すればよいか、の質問がありました。
そこで、学生への返答かたがた、それについての私の考えを、以下に書いてみます。
おりしも、ネット上では、「M-1」終了後にネット配信された、「とろサーモン」の久保田さんと「スーパーマラドーナ」の武智さんの発言が問題になっています。
私は、直接その場で(打ち上げの居酒屋の場で)音声を聞いていないので、考える根拠としてネット上のニュース配信や5ちゃんねる、まとめサイト等で読んだ文章と、Youtubeで見たその動画に頼ることにします。
例の動画とは
さて、ニュース配信等によれば、久保田さんと武智さんは、審査員であった上沼恵美子さんの評価コメントに対して以下の発言を自分のスマホを通して配信した、というものでした。
酒に酔った勢いと思われる語尾部分などを捨象して、二人の発言の要旨を抜き出してみましょう。
久保田「自分の感情だけで審査せんとってください」
「審査員の方、1回劇場に出てください」
「お前だよ、一番お前だよ。わかんだろ、右側のな、クソが」
「演者やから、あんたがつけた点数とこっちが付けた点数一緒でありたいやん」
武智「嫌いです、って言われたら更年期障害かって思いますよね」
「売れるために審査員するんやったら辞めてほしい」
??「暗いのよ、って言われたら、じゃぁ明るかったらオモロイんか、っていう話」
こういったところでしょうか。
さて、それではお二人の発言と行為について、
①その発言内容
②発言を流布した行為
の、二つの点から考えてみましょう。
発言内容の問題点
①久保田さんと武智さんの発言内容、についてです。
まず、久保田さんですが、前提となるべき「演じることと評価すること」の関係がまったく理解できていません。
そして「M-1」なるイベントの意義も理解できていません。
更には、先輩芸人さんたちの過去の実績について、あまりにも無知すぎます。
そして、武智さんですが、彼も「漫才」という話芸のことがわかっていないし、久保田さんと同様に、前提となる事実について、あまりにも無知すぎます。
何より、「漫才」という話芸は「ことば」を使って、お客さんを笑わせる芸能です。
それなのに、これほど自分が使う「ことば」について鈍感で、傲慢で、ひとりよがりの人間は、大衆を相手にする「漫才」という芸能には向いていない、と私は思います。
さて、このことを、順を追って見てゆきます。
結論から言うと、私の考えでは、久保田さんと武智さんは「上沼さんのコメント」の意図を正しく読み取るべき「言語リテラシー能力」に欠けています。
このことは、上に書いたことの裏表で、自分の使う「ことば」について鈍感で傲慢な人は、他人の「ことば」に対しても鈍感で、「ことば」の奥にある気持ちを感じ取ろうとしていないことから起こるものです。
そして、他人の「ことば」を読み取れない、ということは、上沼さんのコメントだけでなく、同時に松本人志さんや立川志らくさんら、他の審査員のコメントをも正しくは読み取れていない、ことを表しています。
「M-1」という大舞台で、それこそ多くの若手漫才師が人生のかなりの物を賭けて登場している場で、審査員として壇上に居るベテラン芸人さん達が、単なる「好き・嫌い」で評価点を出しているわけがありません。
大人なら、少し冷静に考えればわかることです。
もちろん、人間ですので「好き・嫌い」の感情的な評価要素は入りますが、審査員諸氏は豊富な経験に立脚して、感情を上廻るほどの論理的な評価基準を持っていて、それを基に判定を出しているのです。
審査員も、自分たちの「芸能評価眼」を賭けて、コメントを発しているのです。
例えば上沼さんの場合、それこそ芸歴50年の人生の中で、数多くのコンテストの場に立ち、数多くの評価コメントに晒され、更には視聴者からの無数の批評コメントを浴び、そこを勝ち抜き生き抜いて、現在の立ち位置を獲得しているのです。
彼女は「審査員コメント」の持つ重さを、誰よりも知っている人です。
熾烈な芸能の世界において、全国ネットのテレビ番組の司会の位置や、自分の名前を冠した番組を持って、それを長年にわたって維持することが、どれだけ大変なことであるか。
「M-1」の決勝戦に出るくらいのお笑い芸人なら、そういった事実への敬意を忘れてはなりません。
さて、久保田さんの「審査員の方、一回舞台に出てください」ですが、多分これは上沼さんに対してのことなのでしょう。
久保田さん、武智さん、まさかこんな事も知らないとは信じられないのですが、上沼さんは「海原千里・万理」として十五歳から漫才を始めて、あなたがたの何十倍もの舞台を経験してきた人なのです。
念のためにお教えしておきます。
「権力」ではなく「能力」
さて、久保田さんは、上記の発言の後、「abemaTV」で放送された番組「NEWS RAP JAPAN」で、次のようなラップを披露しています。
「年長者、権力者に意見をすることは正しいことでも罪人悪人のように吊るし上げられ」
「権力に逆らえない自分の生き方を変える勇気がないのか」
これがもし自身へのバッシングに対する答えなら、全く筋の違った勘違い発言です。
「権力」「意見」「正しいこと」「勇気」、すべての単語の意味と使い方を間違えています。
上沼さんや、松本さんや、オール巨人さんが、今の立ち位置にあるのは「権力」の問題ではなくて、「能力」の問題です。
そして、久保田さんが言ってるのは「意見」ではなく、ただの「悪口」に過ぎません。
それこそ、低いレベルでの「好き嫌い」であり、ひとりよがりの「正しさ」です。
さきほど述べたように、「ことば」を生業とする人間が、このような間違った手前勝手な「ことば」づかいをするようでは、およそプロとは言えません。
さて、「M-1の審査」という場において、審査員から発せられる「好き」や「嫌い」のコメントは、単なる感情表明ではなく、象徴的な批評語だと受け取るべきだと思います。
それらは、前後の発言や文脈をよく聞いていれば、内実が明らかになってきます。
いわば、「上沼語」「松本語」「志らく語」なのです。
その背後に、その審査員ならではの評価基準に裏打ちされた、たくさんの批評コメントが隠されている、ことを読み取らなければいけない、のです。
「ことば」を生業とするお笑い芸人なら、もっと「ことば」について繊細で敏感でなければいけない、と思います。
「M-1」の場合、審査員諸氏は、登場してきた若手芸人に対して、直接にコメントをぶつけてゆきます。
それは、一般視聴者が聞けばよくわからないようなコメントであっても、そこに出てくるほどのお笑い芸人ならばわかってくれるよね、という思いの込もったコメントです。
そして、芸能には、独特の比喩や表象の「ことば」でなければ語れないことがあります。
ですから、一般の視聴者には、かなりの翻訳が要る場合も出てきます。
ギャロップとミキの違い
「いうほど禿げてないよなぁ」と言い、
上沼さんが、
「自虐ネタはあかんのよ、10年間、何してたん」
と、重ねて言ったコメントは、松本さんと上沼さんに共通理解があることを表しています。
二人が言ってることの意味は、
――林さんの頭は、かなり綺麗なハゲ頭で、どちらかと言えば可愛く見える。
単に、頭が禿げてるから、と言って、それがネタになると思うのは思慮が浅い。
世間の人が、自分の容姿やその頭をどう受け止めて見ているか、という冷静な自己認識と相対化の視点があって初めて「笑える自虐ネタ」が成立するんだよ。
と、いうことなのです。
瞬時にして、隣同士でこのことが理解できるのが、松本さんと上沼さんのレベルなのです。
話芸のスタイルは違っていても、一流のお笑い芸人同士は、お互いの力量を認め合っているのです。
だからこそ、島田紳助さんも松本人志さんも、上沼恵美子さんに直接に「M-1」の審査員をお願いしたのです。
そして、一瞬キョトンとしていた「ギャロップ」が、このコメントの意図を正しく理解できたら、彼らの芸は上達するでしょう。
松本さんのコメント、上沼さんのコメントは、一見わかりづらくて、ややもすれば否定的コメントのように聞こえますが、実はとっても建設的な批評コメントなのです。
こういったことが見抜けない芸人は、そこまでの芸人だと言って構わないでしょう。
「ギャロップ」に対するコメントが正しく理解できた人には、「ミキ」に対する上沼さんの、
「この自虐ネタは、突き抜けている」
が、理解できることでしょう。
それは、決して「ミキ」の芸を「好き・嫌い」の次元で判断していコるメントではありません。
今回の「ミキ」のネタでは、お兄ちゃんのブサイクが芯になっています。
が、ふつうの眼で見れば、お兄ちゃんの「昴生」くんは、それほどのブサイクでもデブでもありません。
しかし、比較対照としての「ジャニーズ」を設定したことにより、それとの比較で、さらには横に居る弟の「亜生」との比較で、自虐の笑いが成立していくのです。
この点を、上沼さんは「比較の対象に設定した地平がいい、そことの比較があるから自虐がはじけて明るく笑える」と、的確に評しているのです。
同じ自虐ネタに見えますが、「ギャロップ」と「ミキ」では相当の開きがあるのです。
この点を、上沼さんは両者の点数の差に示しているのです。
この意味するところを、「ギャロップ」さんにわかって欲しいのです。
そして、その上でオール巨人さんが、
「うるさい、と感じられなければええんやけどね」と、二人の欠点を指摘しています。
一流芸人の審査員同士による、見事な連携プレーのコメントです。
漫才は「大衆芸能」
「漫才」はお客さんが楽しく笑ってナンボの「大衆芸能」です。
暗かったらアカンのです、明るくないとアカンのです。
久保田さん、「漫才」の最終評価は幅広い不特定多数のお客さんが採点するのです、決して演者自身の自己評価点が絶対ではないのです。
そのためにこそ審査員が存在しているのです。
自分の採点だけが絶対なら、ファンだけ集めた仲間内ライブをしていてください。
志らくさんの、
「とてもうまい、うまいけど魅力ある人格が出てきたら負けるよね」も、
――芸能にとって技量は大切な要素だが、演者の人間的な魅力の方がもっと重要だーーという、彼なりの演芸観を言い表していて含蓄がありました。
久保田さんと武智さんには否定的な評価をこそ聞いてほしい
さて、もう、ここまで解説すれば明らかです。
「とろサーモン」の久保田さん、「スーパーマラドーナ」の武智さん、のお二人には一流先輩芸人の「ことば」の奥を読み取る想像力と言語能力が欠けている、と僕は言わざるを得ません。
上沼さんのみならず、審査員諸氏の「好きやわぁ」や「嫌いです」などの短いコメントの背後には、とても豊かで役に立つ批評が隠されているのに、それを、まるで素人のようなレベルで「好き嫌いで判断してる」と受け取ることしか出来なかったお二人。
しかも、自分の理解能力の無さを、実に多くの視聴者に露呈してしまったお二人。
残念です。
人は、自分に好意的な評価は耳に入り易く、否定的な評価は聞きづらい、ものです。
しかし、否定的な評価こそが、人を磨いて育てることが多々あります。
特に、芸能の世界では。
そして、一流になる芸人さんたちは、必ず他人の意見を謙虚に聞いて、そこから自分の技量を高める努力をしてゆきます。
SNSで流しちゃいかんよ
さて、②の、発言を流布した行為、についてです。
ちょうど金曜日の大学の授業でも「SNSの功罪」を説明したところでした。
久保田さん、武智さん、の発言が飲み屋での私的な会話ならば何も問題はありません。
誰だって、愚痴や悪口は吐くものですから。
しかし、お二人は自ら進んで、この発言をSNSで生中継して発信されました。
今や、中高生でもわかるように、生中継をするスマホ画面の向こうには数百万人の、いや数千万人の視聴者が居ますよね。
SNSは、誰もが情報の発信者になれると同時に、その反面、実に多くの受信者を相手に情報発信の責任を取ることをしなければいけません。
これが、SNSについてのメディア・リテラシーの基本です。
お二人が、これから、発言を撤回しようと、上沼さんに謝罪しようと、今回の情報発信の事実をナシにすることはできません。
SNSはとても便利ですが、とても怖いメディア、なのです。
問題を起こしたタレントが「干される」理由
そして、もし私が現役のテレビ局のプロデューサーであったとしたら、今後お二人を私が担当するテレビ番組で使うことはありません。
なぜなら、テレビとは「国民共有の財産」である電波を使って、「公共の福祉」に資する目的のために許認可されているメディア、だからです。
そういったメディアにおいて、メディア・リテラシーの根本を理解しておらず、「更年期障害のオバハン」などと言う、差別的な発言を平気でする人は、出演者として適格性を欠いている、と思うからです。
こわくて使えないのです。
久保田さんは、昨年、1000万円の賞金を獲得されましたが、今回のことで1億円の出費をされたに等しく、武智さんは賞金を獲得することなく、1000万円の出費をされたに等しい、と思います。
お二人が失ったものは、あまりに大きかった、と言わざるを得ません。
マス・メディアの中で働く、ということは、本来かくも難しいことなのです。
一流のお笑い芸人になるためには、こういったことを、独りで熟考し、独りで悩み、独りで苦しまなければならないのです。
そういった苦闘の果てに、大衆に届く「自分のことば」を見出した人だけが、数少ないスターになれるのであり、「M-1審査員」の席に座れるのです。
先輩芸人たちの苦闘や、数えきれない屍のおかげで、今やたくさんのお笑い芸人さんたちが、社会的な地位の向上を勝ち得、マスメディア出演者の位置を得るに至りました。
しかし、その多くの人たちが、単にテレビに出て有名人になること、金儲けの手段としてお笑い芸人の道を選んでいること、その結果として「お笑い芸人のことば」が弱く貧しくなっていることが、今回はからずも明らかになったのは皮肉です。
どうか、たくさんの「お笑い芸人」のみなさん、そしてたくさんのテレビ制作者のみなさん、もう一度、初心に帰って自分の立ち位置を考えようではありませんか。
「笑いの神様」が与えてくれた格好の機会だ、と思って。
審査員に求める「言語化」能力――M-1感想へのコメントに答えて
様々なコメントを頂きました。
お礼と捕捉の意味を込めて、このブログを更新します。
なるほどなぁ、そういう受け止め方も確かにあるな、と思いつつ皆さんのコメントをじっくりと読ませていただきました。
もちろん、芸能であれ、文章であれ、「表現」は受け取る人間の百人が百様に自由に解釈すれば良いので、今回の「M1」についての私のブログも、読んでくださった皆様に私の考えを押しつけるものではありません。
皆さんのお返事の文章から、いくつかの思考のヒントを得ることができたことを、とてもありがたく感謝しています。
前回のブログでは書ききれなかったことを、少し捕捉しつつ、以下を書きますね。
テレビにも思想性が必要なのだ
まず、私がもっとも言いたかったことは、「M-1」がスタートから18年を経て、なまじビッグなテレビ番組になったがゆえに、少し変質してしまい、企画当初に内包していた「思想性」を忘れつつあるのではないか、ということです。
これは、主に、私の後輩たちであるテレビ制作者に対するメッセージ、です。
たかがテレビのお笑い番組に、「思想性」なんかあるのか、と思われるかもしれませんが、時代を画するような番組には、必ず「思想」の裏付けがあるのだ、と私は考えています。
これは、私が拙著『お笑い芸人の言語学』にも書いたことですが、1980年代の「漫才ブーム」が、なぜあれほどの時代思潮に成りえたかの理由は、ブームを牽引した島田紳助とビートたけしの二人が、戦後日本の「標準化思想」に対抗して、「標準語化されたお笑いの『ことば』への反逆」を意図していたから、だと私はとらえています。
その結果として生まれた「漫才ブーム」は、やがてブームが去ったあとも、テレビの中の「ことば」を変え、私たち一般大衆の日常生活の「ことば」さえ変えるほどの大きな社会的余波をもたらしてくれました。
それまで、「標準語」の下に劣位言語として低く見られていた「方言」――関西弁や東北弁や博多弁や沖縄ことば、など――が、テレビの中でも、丸の内のオフィスでも、ある程度ですが堂々と使えるようになった、ことなどが、その社会生活上の現れです。
「思想」に裏付けられていない「表現」は劣化する
さて、「M-1」を紳助さんが発案し、私と意見を交わしたのが2000年、すでに「漫才ブーム」から20年が過ぎていました。
紳助さんや、たけしさんや、さんまさん、ダウンタウン、などの活躍のおかげで、多くのお笑い芸人がテレビ出演者の位置を獲得することができるようにはなりました。
が、その人たちの多くは、有名になりたい、や、金を儲けたい、などの目先の欲望だけが契機となっていて、「時代と社会」に何かをぶつけたい、という「志」が欠けているのではないか、というのが紳助さんと私との共有認識でした。
これが、紳助さんの「今の若手芸人の『ことば』は弱くなっている」の真意だと、私は今でも思っています。
そこから、「M-1」の現実化が始まったのですが、番組の形態としては「漫才コンテスト」という形を取りました。
その結果、「M-1」はテレビソフトとしては成功したのですが、だんだんと「コンテスト」の要素だけが突出するようになりました。
しかし、「思想」に裏付けられていない「表現」は、次第に劣化するものです。
私は、ここ数年の「M1」に、その現れを感じているのです。
古来、どのような「表現」も、歳月を経て、広がるに連れて、変質してゆくのは仕方のないことではあるのですが。
「勢い」を言語化できる審査員が欲しかった
さて、以上のことを踏まえて、今年の「M1」の作りを構造的に見てみます。
まずは、審査員の選定ですが、7人中の6人が「漫才のベテラン先達」になっています。
これでは、審査の基準の根底が「漫才という話芸」の中だけでの優劣、になりますよね。
私は、もう少し視野を広げて「ことば芸」全般の視野でとらえた方が良い、と考えます。
ちなみに、1回目、2回目では、劇作家の鴻上尚史さんや、落語家の立川談志さんや、小説家の青島幸男さんに審査員として入ってもらいました。
それと、野球において「名プレイヤー、必ずしも名監督ならず」と同じで、「名・漫才師、必ずしも名審査員ならず」です。
実演の技能と、評価の技能、は違うものだと思います。
審査員にとって大切な要素は、「ぶれない評価の基軸」をしっかり持っていることで、その上で初めて、「一発勝負のドラマ」性の醍醐味が増すのだ、と私は考えているのです。
私は決して、「勢いに乗った勝利」を否定しているわけではありません。
確かに、今年の「霜降り明星」の勢いは、目を瞠るものがありました。
ただ、願わくは、彼らの「勢い、とは何か」を明確に言語化できるだけの能力を持った審査員が欲しかったな、と思っているのです。
ここは、ひとえに、審査員をキャスティングする制作者たちの能力の問題です。
この「ぶれない評価の基軸」をしっかりと持っているかどうか、は採点の振幅の多少に現れます。
つまり、評価点に高低差が大きく出せるのは、良い審査員の証なのです。
逆をいうと、10組の演者に対して、さほどの高低差がつけられないのは、良き審査員とは言えないのです。
80点台が付けられるかどうか、は大事なことなのです。
また、読み違えてはいけないのは、「好きやわぁ」とか「私には、わからへん」とかの評価コメントが堂々と言えるということは、評価の論理をふまえて嗜好に達しているのであり、とても優れた批評コメントなのだ、ということです。
これを、単なる「好き嫌い」で採点しているかのように受け取るのは浅薄な間違いです。
ライブ観客とテレビ視聴者の相関性
さて、ご指摘のもうひとつの点、「観客」の問題について、です。
これも、私は決して、スタジオに来てくださった「若い女の子たち」を否定しているわけではありません。ありがたいお客さんだ、と感謝しています。
なのですが、スタジオのフルショットを見ればわかるように、観客席250のうち、前部の200人分がほとんど若い女の子、で、後部50に少しだけオジサン・オバサンが配席されていました。
これでは、ライブの笑いに偏りが生じますよね。
「M1」はテレビ番組です。
目の前の観客250人に対して、カメラの向こうには2000万人の茶の間の視聴者が居ます。
作り手は、このことを踏まえて番組を作らなければならない、と思うのです。
おそらく、紳助さんが言った「テレビの向こう側の兄ちゃんを笑わせなあかん」は、テレビというメディアの特性をしっかりと捉えているのだ、と思います。
後輩たる制作者たちには、客席の比率配分などを考えるよう、反省を促したいと思います。
そして、審査員の諸氏の何人かにも、目の前の客席の反応を踏まえた上で、なおかつカメラの向こう側にいる多くの視聴者の反応に思いを巡らすことのできる卓越した批評眼を望むものです。
以上のことは、テレビ表現を生業として35年、そしてたまたま「M1グランプリ」というテレビ番組の立ちあげに携わった私の個人的な批評です。
なにはともあれ、私は「テレビ」が大好きです、そして「お笑い」が大好きです。
これからも、あれこれ言いながら、神様が私の人生に与えてくれた「テレビ」を楽しみ、「お笑い」からたくさんのことを学んでゆきたい、と思っています。
うーん? 優勝は「和牛」でしょう!――「お笑い」と「ことば」
今年も、笑いながら、拍手しながら、ヒヤヒヤしながら「M-1グランプリ」を見ました。
自分が立ち上げに関わったテレビ番組が大きく育って、今や、押しも押されぬ「漫才界の頂点」を競うビッグな番組になったことは、とても嬉しいことです。
テレビの画面を見ながら、その裏で生番組ならではの緊張に追われている後輩スタッフたちの姿を思い浮かべつつ、OAを楽しみました。
全体として、高いレベルを保ちながら緊張感にあふれた、とても良い出来だと思いました(こう言うと、先輩ヅラした、なんだか嫌な奴だと思われそうですが、こんな批評をもきちんと受け止める謙虚さが表現制作者には必要なのです)。
素材VTRの作り方、あおりナレーションの付け方、アタックBGの選び方、最後の結果発表に至るまでの緊張感の高め方、いずれも極上のエンターテイメントになっていました。
で、今年最初に笑ったのは、審査員の立川志らくさんの、
「もう談志が今、降りてきてます」と、
ナイツ・塙さんの、
「今日、内海桂子師匠がちょっと今、降りてきてますんで」でした。
審査員の人選
この手のコンテストでは、誰が審査員であるか、は大変に大きな要素です。
その点で、志らくさんは批評のコメントも、鋭くて的確でよくわかりました。
「ホントうまいですね、ただし上手さの前に魅力が現れたら太刀打ちできないですよね」(「かまいたち」に対して)
やはり審査員には、「漫才芸の先達」だけでなく、異なる表現領域の人が入っていた方が良い、と思います。
できれば、もう一人、7人のうち2人は違う世界からの人が審査員である方が良い、と思います。
その理由は、同じく「ことば」を使う芸能ではあっても、落語や演劇など違う表現領域からの批評が、逆に「漫才」という話芸の特徴と面白さを浮かび上がらせることになるからです。
上沼恵美子さんと松本人志さんの、審査員2ショットは、さすが「M-1」ならではのインパクトがありますね。漫才手法のまったく違う二人の批評コメントは、それだけで面白い。
そして、上沼さん、松本さん、厳しくて上手い!
「自虐ネタは受けない、何してたん今まで」(「ギャロップ」に対して、上沼)
「おもろくて、さっき、屁いたわ」(「ジャルジャル」に対して、松本)
短い一言が実に正鵠を射ており、なおかつその批評コメントで笑いを取るという、最高級の話芸になっていました。
「M-1」は、審査員すらも視聴者の批評の眼にさらされている、んですね。
こわいですねぇ。
その意味では、いささか首をかしげざるをえない批評と採点もありました。
(もっとも、これは私が既に現場を離れているから言えることで、テレビマン現役の時にトップの芸人さんにはなかなか言えないものです)
決勝戦の判定は妥当か
さて、決勝戦での判定、についてです。
人間が人間の技量を判定することであり、しかも生番組内での瞬間的な判断を迫られていることなので、とても難しいことは確かです。
そして、「優勝・霜降り明星」という結果は揺るぎない事実です。
なのですが、私の採点では「和牛98点vs霜降り明星95点」だったことを、あえて書きたいと思います。
霜降り明星の若さ
私のこの採点基準の最大のよりどころは、「ことば」です。
「霜降り明星」は、確かに若者らしい勢いがあって、パワーあふれる形態模写としゃべくりの漫才でしたが、「ことば」の使い方にひとりよがりの狭さがあると思います。
例えば、入りネタの「赤ちゃんの夜泣き」では、せいやが「んぎゃー、んぎゃー」と泣いた後、「寝んねんころりよ、おころりよ」と自分で歌って「ぐぅー」と寝たところで、相方の粗品が、「セルフ!」と突っ込みます。
続いて「赤ちゃんことば」では、せいやが「バスロマン、バスロマン」と言い続けたところで、粗品が「赤ちゃんはバブやろ」と突っ込みます。
また、「転校生(てんこうせい)の紹介」で、せいやが自分の首を刀剣で刺す動きをしたところで、粗品が「プリンセス天功(てんこう)生」と突っ込みます。
「オト」の勘違いを逆用したネタですが、『セルフ』や『バスロマン――バブ』や『プリンセス・テンコー』のカタカナ語は聴衆の頭には、すぐさまイメージを湧き起こしません。
つまり、「えっ、何?」と思わせるのは良いのですが、その疑問の回収が不十分なのです。
また、その肝心な「オトのことば」が、二人の大きな声の重なりで良く聞き取れません。
なので、聴衆は「今の、なんだったの」と思っているうちに、勢いで次に進まされます。
また、山場ネタの「小学校の水泳プール」では、せいやが各コースを泳ぐ生徒の形態模写をして、粗品がフォロー解説をすることで突っ込みを入れます。
これも、面白いのですが、『クリオネ』なる生き物を知っていない人にはわかりません。
つまり、「ことばのオト」で笑いを組み立てようとしている努力は高く評価できるのですが、そこに『プリンセス・テンコー』や『クリオネ』などの消化不十分な「知識ことば」が入っている分、聴衆の多くを置き去りにしている、と思います。
確かにスタジオ観客席の笑いは多かったのですが、といって、審査員がそれを採点の軸にするのは間違いだと思います。
スタジオの観客は、ほとんどが若い女性でした。それは、生番組で、もっとも笑いが取りやすい客層だから、という番組運営サイドの理由によります。
しかし、かつて、島田紳助さんが言ったように、
「若い女の子たちの客は、おれたちが活動するには大事やけど、そいつらが俺らをダメにする。テレビの向こうの兄ちゃんを笑わせなあかん」
だと思うのです。
ジャルジャルの「ことば遊び」芸
「ジャルジャル」は、決勝戦でのネタはもうひとつでしたが、本戦での「国名わけっこ」遊びは、とっても面白かったです。
おそらく、ここ数日は全国の小学校で「ゼンチン」や「ドネシア」が連呼されていることでしょう。
彼らの「ことば遊び」の巧みさは、独自の世界を持っている、と思います。
ただ問題は、それが小学校や中学校の空間にとどまることで、これから如何にして大人の世界までを巻き込んだ「ことば遊び」芸を産み出してくれるか、を楽しみにしたいと思います。
和牛の「ことば」はピカイチ
さて、「霜降り明星」や「ジャルジャル」が、「よしもと漫才劇場」では間違いなく大爆笑を取るでしょう。
それに対して「和牛」は「NGK」で爆笑を取るだろう、と思います。
それは、「和牛」が使っている「ことば」が、どんな年齢層の客でも聞き違えることなく理解できる「生活ことば」で構成されているからです。
つまり、「和牛」の漫才に出てくる「ことば」は、誰にでもわかる「ことば」なのです。
水田信二の、
「実は今、心配ごとがありましてね」で入り、
川西賢志郎の、
「心配ごと?」に
「もし、俺の親が、オレオレ詐欺にひっかかったらどうしようかなぁ、と思って」と答え、
「まぁ、確かに、息子としては心配やなぁ」
と進んで、だましの電話をする息子と、それを受ける母親との「なりすまし」芸が始まります。
「もしもし、水田です」
「もしもしオカン、俺やねんけど」
「あっ、信二?」
「うん、そう、信二」
「あんた、元気にしてる?」
「実は今、俺、交通事故おこしてもてさぁ、相手の方、入院することなって、病院おるんやんかぁ、今」
「事故?」
「で、どうしても今日中に示談金が必要やねん」
「示談金て、それ、いくらやのん?」
「200万、なんやけど」
「200万?」
「駅前の喫茶店に、ご家族の方がいるから、持ってきて渡して欲しいんやけど」
「わかった、ほな、すぐ行くから、向こうのご家族の方に伝えといてーー」
こうして、喫茶店に200万円を持ってきた母親が、だまし電話をかけた息子に叱られる、という展開になります。
二度目のだまし電話にも、
「泣いてるわが子を身捨てる母親がどこにおる」
「あの子は、私が絶対守る、おなかを痛めた子、やから」と、再び、だまされます。
そして、次に、母親は、
「うんっ、苦しい、心臓いたい、すみません、救急車呼んでもらえますか」と息子をだますのですが、救急車を呼んだはずの、息子の電話そのものが「だまし」だった、というオチ。
だまし合った、母と息子の、無言の睨み合いに笑いが産まれます。
シチュエーション設定と、なりすまし芸による笑いで、二人のしゃべる「ことば」はどれも私たちがふだんの生活で使う「生活ことば」であり、聞き違えることはありません。
なおかつ、二人の発声と滑舌はなめらかで、はっきりとしています。
実に完成度の高い、上質な「しゃべくり漫才」です。
漫才という芸、お笑いと「ことば」
そもそも「漫才」とは、「オトのことば」を使った「笑芸」です。
その時に大切なことは、「誰もが使えて、誰にでもわかる、ことば」による「笑い」の創造なのではないでしょうか。
勘違いしてはいけないのは、大きな声や、早い速度のしゃべりや、難しい漢字語や、高級そうに聞こえるカタカナ語、が「強いことば」ではない、ということです。
「ことば」の本質とは、「ある一連のオトのつらなり」が、「ある特定のもの・こと」を指し示す、ところにあります。
ですから、「強いことば」とは、多くの人が共通して「しっかりとした脳内イメージ」を結ぶことのできる「ことば」のこと、なのです。
「M-1グランプリ」を最初に発案した、島田紳助さんが私に言ったことは、
「先輩たちの苦労のおかげで、たくさんのお笑い芸人たちが飯が食えるようになりました。
せやけど、今、お笑い芸人たちの『ことば』が弱うなってきてる、と思うんです。
もう一回、お笑い芸人たちに『強いことば』を取り戻すチャンスを与えたいんです」
でした。
「M-1」が産まれて18年。
たくさんのお笑い芸人たちの、人生さえ左右するほどの番組になりました。
だからこそ、今一度、番組に関わるテレビマンたちも、出演者たる若手芸人たちも、審査員として関わるベテラン芸人たちも、誰もが、紳助さんの『発案の原点』を確かめる必要があるのではないか、と私は思うのです。
NTV「ニュースZERO」の有働由美子さん
日本テレビの夜11時台のニュース「ニュースZERO」が、元NHKアナの有働由美子さんを起用して、この秋編成の大きな話題になっています。
しかし、残念ながら今日までのところ、「新生・ニュースZERO」はまったくの期待外れ!です。
この理由は、有働由美子さんが力不足なのではなく、「新生・ニュースZERO」を制作している日本テレビ報道局のプロデューサーやディレクター達の思考力不足にある、と私は見ています。
つまり、有働由美子という出演者のキャスティングと、「新生・ニュースZERO」という番組のコンセプト設定との間に、制作者たちの「思考の闘い」がまったく感じ取れない、のです。
- 視聴率の低迷は有働が原因か?
- 「『あさイチ』の有働」の成立条件
- 夜23時台に求められるニュースとキャスター有働由美子とは?
- 視聴者の正直な反応としての視聴率
- 「ZERO」の作り手がすべきこと
- 期待できるキャスター有働由美子
- オススメ映画『アンカーウーマン』
視聴率の低迷は有働が原因か?
10月1日(月)から始まった「ニュースZERO」を、2週間ほど見たかぎりでは、有働由美子さんは、かつてのNHK「あさイチ」の時と同じようにふるまっています。
明るい笑顔で、少し早口で、多くの人が知る「これまでの有働由美子」です。
これは、おそらく出演依頼時に、日本テレビの制作責任者から「これまでどおりでいいんですよ。有働さんの持ち味をそのまま出してください」と口説かれたのだ、と推測できます。
問題はここにあります。
高額なギャラを払って獲得した出演者に対して、作り手の方からの「演出がかかっていない」、つまり「表現演出上の闘いがなされていない」のです。
キャスティングだけで終わっている、ということです。
人気者のキャラクターをキャスティングして、確立されたそのイメージに合わせて「番組の中味」を変えよう、としているのです。
こういった「キャスティング先行の番組作り」が日本のテレビをつまらない物にしている最大の原因です。
ドラマの衰退も、バラエティの衰退も、また日本映画の衰退も、みな同じことを繰り返してきました。
「『あさイチ』の有働」の成立条件
朝の8時15分から10時まで放送されるNHK「あさイチ」と、夜23時から24時まで放送されるNTV「ニュースZERO」では、根本的に「枠」が違います。
見ている視聴者の生活時間が違いますし、テレビに求めている内容が違います。
「あさイチ」での有働さんが成立していた理由は、その前枠として4時30分から8時にかけて「おはよう日本」という、きちんとしたニュース番組があったからです。
出勤前、登校前の日本人にとって欠かせないニュース情報が送り出されたのを前提にして、その後で、ひと息ついた家庭内テレビで、庶民的目線での「ニュース崩しの有働由美子」が成立していたのです。
夜23時台に求められるニュースとキャスター有働由美子とは?
しかし、夜23時台のニュースは、その前枠として、夜19時台・20時台・21時台・22時台、とほぼ4時間にわたってバラエティやドラマが続いた後で、多くの人がその日の終わりに「今日一日の出来事」を知りたいと思って見るものです。
まずは、「しっかりしたニュース」を見たい、と思ってテレビを付けているのです。
何よりも「しっかりとしたニュース」があって、その上で初めて「有働さんなりの崩しや軽口」が成立するのです。
それなのに、「新生ZERO」は、政治・経済・事件についての報道が、時間も少ないし内容も薄いので、有働さんの軽口や笑顔はとても軽薄なふるまいにしか見えません。
私を含めて視聴者は、「あの有働さん」が、複雑な国際政治や国内政治や経済動向や社会的事件をどれだけ真剣に、かつ分かりやすく伝えてくれるかを期待していたのではないでしょうか。
視聴者の正直な反応としての視聴率
ちなみに、昨日15日の放送内容で言えば、「消費税10%上げ」を巡るニュースでは、櫻井翔くんのボード解説がもっともニュースらしく、データ数字の理解もゆき届いていて、真剣さもあり良く伝わりました。
それに対して、有働さんの「街頭インタビュー」は、戸越銀座での人気者の顔見せにしか見えず、完全に不要なVTR素材でした。
せっかく櫻井くんが「感情的な増税反対に走ることなく、社会保障など全体的な文脈で消費税を考える」という視点を投げかけたのですが、そこから有働さんなりの論点指摘や論説委員のわかりやすい解説には至らなかったところに、「新生・ニュースZERO」の限界が見てとれました。
初日、2日目と10%あった視聴率が、日を追うに連れて下がっているという事実は期待していた視聴者の正直な落胆を表わしています。
「ZERO」の作り手がすべきこと
「ZERO」の作り手たちは、既に出来上がった「有働由美子」というキャラクターを起用したことで思考作業を終わらせずに、彼女の個性と「ニュース報道」という表現内容との格闘を続けて、「ZEROの有働由美子」という新しいキャラクターを産み出すことに力を注ぐべきだと思います。
いみじくも、初日OAの後に「月曜から夜更かし」でマツコ・デラックスが突っ込んだように、「白い丸のセット」や「丸モニター」「丸ワイプ」などが目立つということは、それだけ番組本旨としてのニュースの内容がお粗末だということの証明に他なりません。
期待できるキャスター有働由美子
有働さんは、日本のテレビでは久しぶりに現れた、庶民の生活感覚を感じさせるキャスターです。
思えば、櫻井よしこさん以来、日本に「アンカーウーマン」と呼ぶべき女性キャスターが出ていません。
安藤優子さんは、今や見る陰もなくワイドショーの廻し役に堕してしまいました。
久和ひとみさんは早逝されました。
オススメ映画『アンカーウーマン』
テレビのニュースキャスターを描いたアメリカ映画の名作に『アンカーウーマン』という作品があります。
これは実在の女性キャスターであるジェシカ・サビッチという人をモデルにした映画です。
ミシェル・ファイファー演じる女性キャスターと、彼女を育てるロバード・レッドフォード演じるプロデューサーの、「ニュース報道」を巡る格闘と愛情の物語です。
有働由美子さん、「ZERO」の制作スタッフの皆さん、是非『アンカーウーマン』を観てください。
そして、テレビにおける「ニュース報道」とは何か、ニュースキャスターとはいかにあるべきか、を初心に帰って考えてみることをお勧めします。
『響-HIBIKI-』が予想外におもしろかった
今日は目下公開中の新作『響-HIBIKI-』の、僕なりの感想です。
この映画、僕には「表現作品」と「表現者」の関係性について、また、「表現作品の質」と「商業性」の関係性について、という、結構「表現行為の本質」に迫る問題意識をはらんだ、意欲的な作品だと思われました。
単なるアイドル映画にはおさまりきらないオモシロサを感じました。
もっとも、こんな見方は一般的ではなくて、ひねくれているかも知れませんが。
アイドル映画かと思いきや
さて、『響き-HIBIKI-』は、アイドルグループ「欅坂46」のセンター・平手友梨奈(ひらてゆりな)の初主演作。
世間の関心は、もっぱら人気アイドル・平手友梨奈ちゃんの魅力の発揮度合いにあったようですね。
映画館の客席のほとんどは、高校生や大学生など若い人たちでしたから。
僕は、平手友梨奈のことは良く知らず、近頃テレビで見る「飲むヨーグルト~ヤクルト・ミルミル」のCMに出てくる、ちょっとクールな短髪の女の子、がそうなんだ、というくらいしかわかっていなかったんです。
ですが、主演が人気アイドルグループのセンター歌手で、原作がマンガ大賞2017で大賞を受賞した『響~小説家になる方法~』で、監督が『君の膵臓を食べたい』の月川翔で、製作・配給が東宝、という枠組みからして、きっと月並みなアイドル映画だろう、と予測してたんです。
ところがどっこい、予想は裏切られました。
あらすじ
話の筋立ては、すごい文才をもつ高校一年生・15歳の主人公、鮎喰響(あくいひびき)が、新人文学賞に『お伽の庭』なる小説原稿を送るものの、住所などの記載事項不備のためボツ原稿になるところを若い女性編集者が目にとめ、そこからやがて芥川賞と直木賞の同時受賞にまでに至り、文学界や世間を揺るがしてゆくことになる、という物語。
情緒的な劇伴音楽のない造り
映画が始まってしばらくしたらわかるのですが、この手の映画には付きものの「感情移入を誘う、情緒的な劇伴音楽」がありません。
そう、美男美女の主人公への感情移入を強要する、わかりやすい安直な作り、ではないんですよね。基本的に台詞劇です。
この映画の音質の悪さは俳優のせいじゃない
ただ、残念なことに、台詞劇なのに、映画の音質が悪い。
特に映画の前半部は、声がとても不明瞭です。
これは、役者のせいではなく、たまたま僕が見た大阪・梅田TOHOのスクリーン8の再生機材の問題のせいもあるのでしょうが、多くは撮影時の録音担当さん、あるいは、編集時の整音担当さんの問題だと思われます。
(すみません、これは映画の制作プロデューサーをやっていた僕の推測ですが)
書きたいから書く?売れたいから書く?
高校の文芸部の失礼な先輩に対して、指の骨を折るほどの怪力を発するとか、校舎の屋上から飛び降りて無傷であるとか、マンガチックなところはあるのですが、後半になって、「作品~評価~出版~受賞」のくだりになると、俄然おもしろくなってきます。
それは、主人公の鮎喰響が、「私は書きたいから書く」「書きたいものを書くんだ」という態度を貫くのに対して、彼女以外の登場人物の多くが「書いて売れたい」という功利的な姿勢の持ち主たちだ、ということが明らかになってくるからです。
この対比の描き方が、とても面白いです。
・祖父江凛子(アヤカ・ウィルソン)――高校の文芸部の部長であり、響の友人でもある。
その父親は、ヒット作を次々と産み出す世界的な人気作家であり、ソフエストなる熱狂的なファンを持つ祖父江秋人。これって、村上春樹のパロディーですよね。で、その父親の威光を借りてでも有名小説家になろうとする凛子と、それを商売に利用せんとする出版社の編集長。
・鬼島仁(北村有起哉)――過去に芥川賞を獲ったが、それ以降はちゃんとした作品が書けずに、今はテレビなどの露出で稼いでいる小説家。
・田中康平(柳楽優也)――響と同じタイミングで「木蓮」新人賞を受賞するが、授賞式で、響にパイプ椅子で殴られる。
・山本春平(小栗旬)――工事現場で肉体労働をしながら芥川賞を狙う青年作家。
・矢野浩明(野間口徹)――週刊誌の記者で、響をしつこく追いかける。
こういった登場人物たちは、みんな「出版ビジネス」にとり憑かれています。
彼らの立ち居振る舞いは、少しはカリカチュアされていますが、「うん、あるある」「居る、居る、こんな人」とクスクス笑えました。
「書きたいから書くんだ」という信念を貫こうとする主人公の響は、こういう「売れてナンボ」という商業主義と立ち向かっているのです。
芸術と商業の相克
一見すると、現在の出版業界への軽い揶揄に過ぎないとも見えるのですが、一歩突っ込んで考えれば、実はここには「表現者にとっての表現行為」と「表現作品の質と商業性」という、かなり深い問題意識が植えこまれている、と僕は思うのです。
それは、小説に限らず、詩・短歌、そして絵画・彫刻、さらには音楽・演劇、テレビ番組や映画そのもの、といった「表現」すべてにあてはまる問題なのです。
作者は人間として大嫌いな奴だが、作品はオモシロイ、
ものすごい努力をしているが、作品はオモシロクない、
良質な作品だが、売れない、
こういったことは、どんな「表現」の世界でも良くあることです。
鮎喰響は、ボツ原稿箱から原稿を拾ってくれた編集者・花井ふみ(北川景子)に対して、「あなたが、原稿をオモシロイと思ってくれたらそれでいい」と言います。
また、週刊誌記者の矢野が、「人格的に問題のある作家の作品を世間の人は読もうと思わないでしょう」と言ったのに対して、「世間なんてどうでもいい、あなたが私の作品を読んでどう思ったのかよ」と言います。
ここには、「表現を作る人間」と「表現されたもの」との対自的な関係についてのしっかりとした洞察が潜んでいます。
映画監督月川翔の問題提起
そして、この映画を作ったのが東宝であり、月川翔(つきかわしょう)と言う映画監督である、ということがとても興味深いのです。
なぜなら、東宝は何よりも「客の入る映画」であることを映画製作の第一義にしてやってきて、その結果「邦画は東宝のひとり勝ち」という寡占状況を作り上げてきました。
そして、月川翔は『黒崎くんの言いなりになんかならない』や、『君と100回目の恋』や『君の膵臓を食べたい』など、美男美女の俳優を使って、それこそ「確実に売れる映画」を作ってきた映画監督だから、です。
その月川翔が、あえて「商業主義」に対抗する「表現者の志」を内包した映画を作ったのです。
月川翔は、単なる「青春恋愛映画のうまい作り手」ではなかったんだ、と思い直しました。
そして、東宝の映画製作者たちにも「ベタベタな映画」作りだけではなく、こういった問題意識を表現する気概があるんだ、と見直しました。
もっとも逆に、東宝だからこそ出来る余裕なのかも知れませんが。
いずれにしても、おそらく、映画『響-HIBIKI-』にアイドル映画の爽快感を期待して見に行った人たちは、肩すかしをくらっただろう、と思います。
しかし、僕は、「商業映画」の枠組みを外さないで、そこに確信犯的に「表現者の志」を忍びこませた『響-HIBIKI-』の作り手たちの心意気に、拍手を送りたい、と思うのです。
そして、「欅坂46」のセンター歌手・平手友梨奈ちゃんは、なるほど近頃では珍しいクールな魅力を備えた可愛いい女の子、でありました。
8月の半ば以降、少々、ブログ書くのを怠ってました。
「まことさん、大丈夫ですか、倒れてませんか?」と心配メール送ってくださった方々、ありがとうございました。大丈夫です、吉村は元気です。
8月の死ぬような暑さ、大雨と停電、北海道の地震、と続き、一方ではボクシング協会の問題から体操界のパワハラ問題と、めまぐるしく動く世の中にキョロキョロしてるうちに時間がたった、という次第。
で、その間、実は映画漬けの日々でした。
きっかけは、日本ボクシング協会の山根会長の携帯着メロが「ゴッドファーザー」だったことで、あれをきっかけに映画「ゴッドファーザー」をパートⅠ・Ⅱ・Ⅲ、と久しぶりに通して見たんですね。
そしたら、何だか「いい映画、もっと見た~い」心に火がついて、名作旧作の鑑賞連鎖にはまってしまいまして、結局8月半ばから今日までのひと月で、新作旧作合わせて50本を見てしまいました。
今問われる「弁護士の倫理」―日本ボクシング連盟、日本大学の問題
日大アメフト部の問題から、今度は日本ボクシング連盟の問題へと、週刊誌とワイドショーの話題はつきないですね。
二つの問題を通して、実は大きく問われているのが「弁護士の倫理」だ、ということを言いたい、と僕は思うのです。
- 弁護士の倫理とは
- 僕が刑事告発したとき
- 刑事告発してわかったこと
- 刑事告発でしか収束できない「日本ボクシング連盟」問題
- 刑事告発の難しさ
- 権力は悪ではないが……
- ゴシップ・スキャンダルは「権力への抵抗」
弁護士の倫理とは
弁護士法の第一条は、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」という文章から始まっています。
しかし、世間の多くの人が気付いているように、「弁護士」は決して正義の味方ではありません。
それどころか、多くの弁護士は「経営者側」や「権力者側」からの依頼を受けて、「依頼人の利益のために」という名目のもとに、社会正義に反することを堂々とやっています。
このことを僕は過去に身をもって体験しました。
僕が刑事告発したとき
4年前に僕は、とある私立大学の専任教員でしたが、大学理事会の教学現場を全く無視した運営と、理事長の給与不正受給と公私混同の経費使用などに異を唱えて、教職員組合を立ち上げると同時に、理事長を「業務上横領・背任罪」で刑事告発しました。
もちろん刑事告発の前後に、文部科学省の高等教育局へは再三訴えていますが、結果として指導すらありませんでした。
その時に、弱者である僕たちの味方になってくれたのは、ほんとうにひとにぎりの良心的な弁護士だけでした。
権力を握っている理事長と理事会は一体化して、潤沢な金を使って「大手弁護士事務所」を抱え込んでいました。
たしかに「弁護士」も商売ですから、僕たちのような金のない依頼者よりは、「カネとヒト」を握っている強者の側につく方が、ビジネスとしておいしい、ですよね。
しかし、その頃の僕は「弁護士法・第一条」に、まだささやかな期待を抱いていたのです。
結果、その期待は見事に裏切られ、僕たちは大学理事会お抱えの「大手弁護士事務所」側のあきれるほどの厚顔無恥な論理を相手に格闘をよぎなくされました。
最終的には、味方になってくれた弁護士さんのおかげもあり、教員の不当解雇をめぐる民事訴訟では完全に勝ったのですが、刑事告発の方は「証拠不十分につき不起訴」で終わりました。
刑事告発してわかったこと
こういった経験を通してよくわかったこと、それは、
①独裁的権力者には、追随しておこぼれにあずかる卑劣な人間が必ず群がる
②上級官庁である文部科学省は、強者たる権力者側の味方である
③弁護士の多くも、強者たる権力者につくことによって利益を得ている
と、いうことでした。
この観点から、今回の「日本ボクシング連盟」の問題と、「日本大学」の問題を見てみます。
刑事告発でしか収束できない「日本ボクシング連盟」問題
絶対権力者たる山根会長の側近として、吉森照夫という弁護士が専務理事の地位にいることが明らかになりました。
ああいう人が、司法試験に合格して、エスタブリッシュメントと呼ばれる「弁護士」さんなのです。
メディアでの言動で一目瞭然のように、吉森氏は、山根氏の絶大なる権力の行使に加担していたと推測できます。
権力とは、具体的には「カネ」と「ヒト」です。金銭差配権と人事権です。
もう一人、「カネ」を動かしていた人間として、内海祥子という常務理事の存在が明らかになっています。
山根氏や吉森氏や内海氏の行っていたことは、最終的には「刑事告発」でしか収束できない、と思います。
刑事告発の難しさ
警察や検察という司直の手を入れるしか、全容の解明には至りません。
しかし、たとえば「業務上横領」や「背任」を問うには、まず告訴の主体が「社団法人・日本ボクシング連盟」であること、あるいはその構成員であること、が前提となります。つまり、「一般社団法人・日本ボクシング連盟」自らが、自らの組織体に損害を与えたとして「山根氏・吉森氏・内海氏」を訴える、という形式を取らなければならないのです。
現体制を改めたいと思っている現役の理事が一人でもいれば出来るのですが、山根氏の追随者ばかりの現状ではとうてい無理でしょう。
したがって、この「刑事告発」は、山根氏の取り巻きばかりで形成されている現在の理事会を一掃した後でないと出来ません。
おそらく、「再興する会」の人たちと、その側の弁護士は、そこまで考えているでしょう。
それと、「業務上横領」や「背任」を立件するためには、それを証拠立てるための「内部資料」が必要となります。
今は、出納簿や出入金伝票などの内部資料はすべて現執行部が握っているわけで、「再興する会」の人たちが出す資料はまだ傍証にしかすぎません。
こういう場合、経理担当者など内部の人間に現体制に批判的な情報提供者が居れば、犯罪を立証するに足る資料が集まります。
僕の場合、段ボール箱に3つ分の資料をそろえて検察官に出しましたが、それでも「嫌疑は充分」だが「証拠が不充分」と言われました。
権力は悪ではないが……
ドイツ・ファシズムを分析した有名な哲学者にハンナ・アーレントが居ます。
彼女は、あのアイヒマン裁判の過程において、ドイツ・ファシズムを支えて遂行した者たちの多くが「特別な悪人」ではなく、「権力に追随して思考停止した、ふつうの人間」であった、ことを明らかにしました。
「権力」そのものは、善でも悪でもありません。
「権力」は、組織体や社会を運営するのに必要な機能なのです。
悪いのは「権力の悪用」であって、「権力」を行使するに際して、それが必要な「運用」なのか、社会正義に反する「悪用」なのかを判断して導くことこそが、「選良たる弁護士」の使命だと、僕は思うのです。
しかし、残念ながら、現在の日本の弁護士たちに、この「弁護士の倫理観」を持っている人間は少ない、と言わざるを得ません。
「日本大学」には、顧問弁護士だけでなく、弁護士資格を持つ多くの法学部教授がいます。
「日本ボクシング協会」には、弁護士である吉森照夫氏がいます。
彼らの「社会正義と倫理観」はどこへ行ったのでしょうか。
彼らは、今こそ「弁護士法・第一条」の精神に立ち返るべき、だと思います。
ゴシップ・スキャンダルは「権力への抵抗」
僕は、決してゴシップとスキャンダルは好きではありません。
しかし、「弁護士」や「高級官僚」などのエスタブリッシュメントが社会正義を忘れて私益に走っている時には、スキャンダリズムは権力を持たない民衆にとって「権力への抵抗」の意義を有します。
「週刊文春」や「週刊新潮」や「テレビのワイドショー」が、これだけ活況を呈しているということは、そのぶんだけ、日本の選良たちが倫理観を喪失していることの裏返しに他ならない、と僕は思うのです。