吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「M-1」2019所感――「関西弁」が強いのではなく、「生活ことば」が強いのです!!

「漫才・頂上決戦」と銘打って、すっかり年末の風物詩となった「M-1」ですが、今回は決勝初出場の「ミルクボーイ」が優勝するという思わぬ展開で盛り上がって幕を閉じました。

さて、一昨年2018年版の時は、番組終了後の場外で予期せぬ「SNS乱闘」があったので、テレビ番組「M-1」を立ち上げたプロデューサーとして早い時点で所感をブログに上げたのですが、今回はあえてお正月番組などの熱気が落ち着いた時点で、私なりの所感を述べることにします。

 

 

そして、この所感の中には、もう時効だから話しても良いだろうと思う「M-1制作秘話」と、最近読んだ集英社新書『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(著者:ナイツ・塙宣之)に対する私なりの批評、ならびに小学館新書『芸人と影』(著者:ビートたけし)への書評が含まれていることを、あらかじめお断りしておきます。

 

 2000年代の「M-1」と2015年からの「M-1

現在の「M-1」の位置

2001年に始めたM-1ですが、20年も続くとその存在意義が変質してしまうのは、ある意味で仕方ないことだとは思います。

現在の「M-1」は、「4分間の競技漫才グランプリ」です。

それはそれで価値のあるテレビ番組だと思います。

今やM-1は、「漫才の頂上決戦」としての全国規模のイベントになり、テレビ番組としては高い視聴率を取れるキラーコンテンツとなりました。

優勝者には1000万円という破格の賞金が与えられ、多くのテレビ番組への出演機会が与えられるので、多くの漫才師たちにとって「金」と「名声」を得るための「夢」となっています。

 

つまり、今や、「M-1で優勝すること」が参加者たちの目的となっている訳です。

しかし、そもそもM-1の企画意図はそうではありませんでした。

 

最初の企画意図――芸人の武器を磨く場を作る

2000年に、ABC朝日放送のテレビ楽屋で島田紳助さんと初めてM-1についての話をした時の彼の発言は、

「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」

「芸人の武器は『ことば』しかありません。武器を磨くためには『戦いの場』が必要なんですわ」でした。

 

私は、この発言に賛同したのです。

私なりの解釈では、そこに1980年代の「漫才ブーム」を牽引してきた島田紳助という漫才師ならではの「言語思想観」がある、と思ったからです。

 

漫才ブーム」とそれに続く「お笑いブーム」の結果、既に2000年の時点ではたくさんのお笑い芸人たちがテレビタレントとしての活躍の場を占めていました。

多くの若者たちは、「金」を稼ぐために、「有名」になりたいために、「お笑い芸人」を目指すようになっていました。

そんな風潮を作りだしたのは、私が働いていたテレビ業界です。

 

しかし、紳助さんは、そのように「お笑い芸人」が一般的な社会上昇の仕組みにからめとられてきてしまっていること、あたかもてっとりばやい就職口であるかのような風潮になっていることは、根本的に間違っている、と思っていたのだと推測します。

このことは、ビートたけしさんが小学館新書『芸人と影』でも書いているように、「芸人は、社会の底辺なんだ。世の中から落ちこぼれた人間で、夢見られるようなものや憧れられるようなもんではないんだ。」という認識と共通しています。

 

もう一つ、紳助さんがよく言っていたセリフに、

「お笑い芸人は、いつも何かと闘うてないとあかんのです」があります。

ここで「何か」とは、決して同僚の漫才師たちやお笑い芸人たちのみを意味してはいません。

「何か」とは、私たち民衆が日々の暮らしの中に持ちこまされている「社会規範」や「倫理観」や「道徳観」のことをも含んでいるのです。

 

本来、お笑い芸人という者は、一般社会の価値規範からは外れたところに生きていて、その位置から「世間の人を笑わせ」て金を稼いでいる者、のことです。

つまり、ビートたけしさんも言うように「お笑い芸人」とは本質的に「反・社会的、非・社会的」な存在なのです。

そして、そんな「お笑い芸人」の唯一の武器が「ことば」なのです。

 

第一回目「M-1」の成立過程~制作秘話~

島田紳助さんの企画意図に賛同したのは、私(当時、朝日放送制作部長)と私の上司であった和田省一氏(当時、朝日放送編成制作局長・常務)、そして吉本興業内部では谷良一プロデューサーとその上司である木村政雄氏(当時、吉本興業常務)でした。

この4人は、紳助さんとの付き合いも長く、彼の発言の真意をそれぞれが理解していたからです。

 

さて、ここからは、制作秘話になります。

今やM-1が押しも押されぬキラーコンテンツになったこともあり、多くの関係者も現役を引退しているので「時効」だと許してもらえるだろうと思い、これまで表に出さなかったことを書きます。

そのことによって、M-1を巡る様々な言説の不明な点が明らかになる、と考えるからです。

 

M-1」を朝日放送が作る理由

私が勤務していた朝日放送は大阪にあります。

ANN朝日ネットワークは、東京のテレビ朝日全国朝日放送)をキー局としています。

当然のことながら、全国ネットのテレビ番組を作って放送するには、東京のキー局で制作して放送する方が予算的にも宣伝的にも波及力の点からしても有利です。

また、吉本興業1980年以降の東京各局との仕事上の付き合いから考えれば、フジテレビが最も深いという事情もありました。

そこで、私たちは、「最終的には朝日放送が必ず番組化するから」との約束をした上で、それぞれ会社員としての筋を通す道を取りました。

 

まず、吉本興業からはフジテレビに、朝日放送からはテレビ朝日に、「M-1」の企画意図と紳助さんの発言を伝えてテレビ番組化を打診したのです。

その結果、返ってきたことばは、「今さら、漫才のグランプリを決める番組なんて」でした。

おそらく打診を受けた両社の当事者にとっては、「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」という紳助さんの意味するところが正確には理解できなかったのだ、と思います。

 

こうして、私は「待ってました!」とばかりに、吉本興業の谷プロデューサーとタッグを組んでテレビ番組「M-1」の実現化へと向かったのです。

朝日放送テレビ制作局と吉本興業制作部との全面的な協力体制で進めました。

 

全国展開する予選の場所を選ぶにあたっての谷プロデューサーの努力は、並み大抵ではありませんでした。

日本全国に予選のできる場所を持っている企業ということで、オートバックスさんの協力を得られたことがアイデア具現化への大きな一歩となりました。

始まって数回の「M-1一次予選」は、各地のオートバックス店舗の店先広場だったのです。

山積みされたタイヤの前での予選風景を覚えていらっしゃる方もいるでしょう。

 

朝日放送としては、まずは「賞金1000万円」を含む製作費や放送枠を設定するための社内各部署への説明と説得をする難儀な会議を繰り返しました。

そして、出場資格者として、吉本興業だけではなく全ての芸能事務所に門戸を開くこと、すべての漫才師にチャンスを与えること、を宣言しました。

 

ちなみに、朝日放送は大阪にありますので、東京で番組制作をする際にはどこかのテレビスタジオを借りなければいけないのですが、当初はキー局テレビ朝日はスタジオを貸してくれませんでした。

1回目は世田谷にあるレモンスタジオ、2回目~4回目は有明スタジオから放送しました。

テレビ朝日が局内のスタジオを貸してくれるようになったのは、M-1が高い人気を得て定着した第5回目からです。

東京キー局と大阪準キー局との関係は、通常のニュース情報の集積や番組配信においては基本的には協力関係にあるのですが、このようにソフト制作においては競合関係でもあるのです。

 

塙宣之の誤謬1――『言い訳』の間違い

制作秘話に属することを書いたことで、なぜ「M-1」が東京のキー局での制作ではなく、大阪にあるABC朝日放送の制作するテレビ番組になったのか、がわかっていただけたと思います。

そして、ナイツ・塙さんが『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』で書かれた、

 

「そもそもM-1は吉本がお金を出し、吉本が立ち上げたイベントです。いわば、吉本が所属芸人のために設えた発表会なのです。」(同書・110P

 

というのは、まったくの事実誤認であることがわかっていただけたと思います。

M-1」は、朝日放送吉本興業が力を合わせて、島田紳助という希代のお笑い芸人が考えたことを現実化させようとして作ったテレビ番組なのです。

 

なぜ「出場資格は結成10年以内」だったのか 

さて、当初の「出場資格はコンビ結成10年以内」はなぜそうしたか、について。

その理由は、M-1が意図したものが「弱くなった『お笑い芸人のことば』を強くする」ことであり、「お笑い芸人の本来的な有り様」を認識してもらうことにあったからです。

 

つまり、「お笑い芸人」なんてものは決して「夢みるもの」や「憧れの対象」なんてものでなく、一般社会とは全く異なる物差しでしか計れない異質の社会だから、そこに勘違いして入ってきた若者に対して、10年経って芽が出ないなら早く気付いて正業の社会に帰って欲しい、間違えた「夢」からは早く醒めて欲しい、と考えたからです。

 

これが「参加資格10年」の理由です。

この点からしても、2015年以降に再開した「第二次M-1」では「参加資格15年」であり、当初とは異なる「漫才コンテスト」に変質したことがわかると思います。

 

 審査員の設定

さて、漫才は「話しことば」を使う笑芸です。

M-1の設立意図は、「お笑い芸人の『ことば』を強くする」でしたから、単に「漫才のおもしろさ」のみを評価するだけではなく、漫才を成り立たせる前提となる「ことば」について評価軸を持っている人を審査員にしよう、と私たちは考えました。

その現れとして、劇作家であり演出家でもある鴻上尚史さんや、落語家の春風亭小朝さんや、番組構成作家から小説家になった青島幸男さん、といった方々に審査員を依頼したのです。

 

もちろん、笑芸ですから「おもしろく」てたくさん笑わせてくれる方が良いのは当然なので、ネタの選び方や話の構成力や展開のさせかたといった技量も大きな要素ではあります。

その視点からの審査員としてはベテラン漫才師が適格な訳ですから、当初は西川きよしさんに、後にはオール巨人さんに審査員を勤めていただきました。

 

この点、ここ数年の審査員の多くがベテラン漫才師である、というのは設立当初の意図からは大きく変わってきていると思います。

漫才師さんは、当然のごとく「ネタ」や「話のころがし」や「ボケ・ツッコミ」といった技量を重視し、「おもしろい漫才」「受けの大きな漫才」に高い得点をつけるでしょうから。

この結果として、最近の「M-1」は、「壮大にして空虚な漫才グランプリ」になってきているのではないか、と私は少し残念に感じています。

ただしこれは、審査員諸氏の責任ではなくて、番組を作っている制作者たちの意図の問題です。

 

もっとも、最初に書いたように、どんな事象も歳月を経るうちに変質してしまうのは仕方のないことではありますが。

 

松本人志さんと上沼恵美子さんの意義

そんな中で、M-1当初の紳助さんの意図していた部分を今も引き継いでくれているのは、松本人志さんと上沼恵美子さんだと私は見ています。

 

松本人志さんは、ある意味で島田紳助さんの「言語思想」の正統な継承者です。

その「言語思想」とは、「標準化されない生活ことばで笑いを産む!」です。

80年代の「漫才ブーム」において、「ツービート」や「紳助・竜介」が闘った相手は、しっかりと構成された台本に基づいて丹念に練習された「構築された話芸」でした。

それに対抗するために新参者の彼らが意識的に選び取った武器が、「未熟な若者の生活ことば」だったのです。

 

しかし、その時代において既成の先輩漫才師たちと闘うためには「新しいことば」という武器だけでは不十分であり、それをブンブン振り回す「しゃべりの猛烈なスピード」というテクニックまでもが必要だったのです。

漫才ブーム」の先駆者であった「BB」「ツービート」「紳助・竜介」の「猛烈なスピードのしゃべくり」は、いわばあの時代に闘うための時代的要請とも言える戦法だったのです。

 

そして、10年後NSC1期生として現れた松本人志さんは、先輩たる紳助さんの「言語思想」を正しく受け止めながらも、「猛烈なスピード」という戦法とは違う「ゆっくりとした日常会話」という新たな戦法で登場したのです。

紳助さんが松本さんを見て、「あのスピードであの中味をやられたらかなわん、俺らの漫才の時代は終わった」と言ったという伝説は、こうして理解することができるのです。

 

そして、上沼恵美子さん

一昨年のM1終了後に起こったSNS問題の際にも書きましたが、読み違えていけないのは彼女が天才女流漫才師と言われた「海原千里さんの熟年後の現在形」ではなく、「主婦・上沼恵美子というお笑いタレント」であるということです。

 

彼女は、結婚していったん引退した後、再び「主婦・上沼恵美子」として再登場しました。

その時、彼女が武器とした「ことば」は、「関西のオバちゃんの生活ことば」だったのです。

一見、社会規範などで標準化を余儀なくされているかに見える「主婦の生活」の中にある「標準化されない生活」を語るには、「標準化されないことば」が最適なんだということを自覚して再登場したところが、上沼恵美子さんの凄いところなのです。

 

今回の審査においても、「かまいたち」の講評をした際に、「腕上げたなぁ、あんたらフリートークできるわぁ」というコメントがありました。

「フリートーク」とは、作り上げられた「ネタ」を披露するしゃべりではなく、日常会話の延長上にしか成立しないものであることがとても良くわかっており、彼女が「ことば」についてのしっかりとした見識を持っていることの証左です。

 

こういった審査員の本質的な力量を見抜けないで、「M-1で優勝すること」のみを目的として登場する漫才師の何人かが、「好き嫌いで点数付けられたらかなわん。更年期障害やで」などと全く見当違いの場外発言をしてしまうのです。

 

芸人の武器はことばである

塙宣之の誤謬2――「関西弁が強い」のはなく「生活ことばが強い」

さて、集英社新書『言い訳』でナイツ・塙宣之さんは、「関東芸人はM-1で勝てないと思っている」と言い、その理由として「漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできている」と書いています。

そして、自分たちの漫才の「ことば」は「現在の関東の日常言葉であり、感情を乗せにくい。漫才に不向きなのでは」と書いています。

だから、「ヤホー漫才のように気持ちを入れない機械的な漫才に行きついた」と。

 

残念ながら、ここには「ことば」についての基本的な考え違いがある、と私は思います。

塙さんが、舞台の上でしゃべっている「ことば」は、塙さんが「人間として家庭生活で使っている生活ことば」ではなくて、漫才師として「職業用に使っている不自然なことば」だから弱いのです。

その「標準化された弱いことば」でおもしろいことをしゃべろうとするから、すべてを「ネタ、ネタ、ネタ」に作り上げるしかなくなるのです。

無理な「キャラ設定」をもしなくてはならなくなるのです。

こんなに不自然でしんどい言語生活はない、と思います。

 

「現在の関東の日常言葉」であっても、電車の中で交わされている若い女の子たちの「いやぁ、今年もクリぼっち、サミシマス。空から素敵な彼ピ、降ってこないかぁ、ぴぇん」なんて自然な会話は、感情の溢れるとても活き活きとした「ことば」です。

 

塙さんはこうも書いています。

「今でも佐賀弁は話せますし、感情移入しやすい部分もあります。ただ、現実問題として今さら僕が佐賀弁で漫才を始めるのも不自然ですし、僕が佐賀弁、土屋が東京言葉というのも明らかにおかしいでしょう。」と。

そんなことはありません。

佐賀で生まれ育った人間が東京に出て行ったのなら、「佐賀弁なまりの混じった東京ことば」でしゃべるのが最も自然なことは明らかです。

それでこそ初めて、「塙宣之」さんという人間にしか使えない「生活ことば」が表れ、「塙宣之さん」という生身の人間味が現れるのではないでしょうか。

 

「東京言葉が弱い」のではなく、「不自然に標準化されたことばが弱い」のです。

ビートたけしさんの「ことば」は「江戸下町弁」だから強いのではなく、「ビートたけし弁」だからいまだに強いのです。

島田紳助さんは、「島田紳助弁」を駆使することによって、やすし・きよしに代表されていた「ネタ構築漫才」を打破しました。

明石家さんまさんは「明石家さんま弁」によって、恋愛や若者風俗や世相に潜む「標準の不自然さ」をあぶり出してきました。

(このあたりについては、拙著『お笑い芸人の言語学』に詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください)

そして、松本人志さんは世代を超えて、先輩諸氏の「ことばについての考え」を継承発展させたのです。

おそらく松本さんが今後目指しているところは、「日常のおもしろさ」を「日常の生活ことば」で語って笑いにすること、更には「日常生活そのもの」を「笑える」ほどオモシロイことにすることではないか、と私は見ています。

 

 芸人とことば

さて、これは塙さんが『言い訳』にも書いていらっしゃるように、「ことば」は意味伝達のための道具でなく、その前提として情緒・気持ちの交換という機能があり、人類ホモサピエンスがいつのまにか身につけた力です。

いわば「ことば」は、その人ならではの人生を物語る「存在の表象」なのです。

同時に、「ことば」は制度でもあります。

最も意識されにくい社会制度なのです。

 

私たちが、意識しないで、あるいは少し意識してしゃべっている「ことば」の奥には、その人が生きている社会の「規範」や「倫理」や「道徳」が深く深く潜んでいます。

そして、「お笑い芸人」とは、一般民衆が気づかないうちに絡め取られている「規範」や「倫理」や「道徳」を笑いによって価値紊乱させることのできる稀有な存在なのです。

 

ちなみに、私はナイツの漫才が嫌いな訳ではありません。

色々なスタイルの漫才や笑芸があっていいし、「弱いことば」であることを自覚した上で、「ネタ」を構築し磨きあげて「笑い」を産み出そうとしているナイツの話芸には、感嘆しながらいつも笑わされています。

 

M-1優勝」は到達点ではない

M-1は、「漫才」という1つの笑芸の形式での「闘い」を通して、私たちの人生の最大の武器である「ことば」についての新たな気づきをもたらしてくれる好機なのです。

ネタやテクニックという技量をも競いながら、漫才師たちが自分の唯一の武器である「ことば」について、何かを発見したり、何かの自覚を得られればいい、と思って始めたつもりです。

ですから、「M1優勝」は決して到達点ではありません。

次の段階への出発点であって欲しい、と思っています。

 

昨年暮れの1222日に、「M-1グランプリ2019」のOAが終わった後、テレビでは引き続いて「テレビ千鳥年末SPが流れてきました。

大悟とノブが、とても自然に「岡山弁なまりの関西弁」で楽しく料理を作っていました。

私は、M-1以上に楽しく笑いながら見ました。

 

「千鳥」の二人も、M-1で優勝したコンビではありません。しかし、二人はM-1への出場をきっかけに何かをつかんだのだと思います。

M-1に優勝したけれどもその後にはあまり活躍していない人、逆にM-1に優勝はしなかったけれどもその後に大きく飛躍した人、色んな人たちがいます。

私たちが作り出した「闘いの場」は、「M-14分間の競技漫才グランプリ」というテレビ番組へと変質してしまいましたが、やはり最初に意図したものが何がしかの役には立っているのかなと、少し嬉しくなりました。

 

そして、願わくは、茨城弁なまりや山形弁なまりや東北弁なまりの「東京弁」など、もっと「活き活きとして自然な日本語」がテレビの中や一般社会の中で堂々と話されるようになって欲しいものだと思っています。

150年に及ぶ「日本の近代化」は、社会のあらゆる局面に「東京一極集中」をもたらしました。

そろそろ、私たちは歪んだ「一極集中」から卒業する時に来ているのではないでしょうか。

そして、「心の地方分権」は、まずは「生活のことば」からではないのかな、と私は思うのです。

 

2019年の「M-1」を見て感じたこと、それは言語の本質としての「話されるオトのことば」というものの面白さと、それを使った「漫才」という芸能の素晴らしさ、なのでありました。