吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

ある大阪人から見た「大阪ダブル選挙の結果」の読み方

東京に住んでいる友人からメールが入りました。

「大阪のダブル選挙の結果がよくわからない。

 なぜ大阪維新の会は、大阪都構想にこだわるのか、関東の私には理解不可能です。

 W選で勝っても民意を問えば負けてしまうのに。

 なにか関西独特の政治思想があるのでしょうか? 教えて」

と、いうもの。

 

その友人への返答メールを書いていたらかなり長くなりました。

で、それをリライトして、首都圏に住んでいる他の知人たちへも、大阪人である僕からの解析文に替えようと思います。

 

 

都構想云々の前にやなあ

今回の「大阪ダブル選挙」ーー「地方VS中央」

最大のポイントは、『地域政党大阪維新 VS 国政政党大連合』です。

「都構想」は、実は最大のポイントではありません。

ここを、東京に居る政治家やメディアや学者たちは読み取れていないのです。

そして、首都圏に暮らしている僕の友人たちにも、この感覚がわからないのだと思います。

 

今回のダブル選挙で、「反・維新」の連合を組んだのは、自民・公明・立憲民主・国民民主・共産、という中央の国政政党の集結勢力でした。

彼らのスローガンは「維新政治に終わりを!」でした。

自民党からは二階幹事長、立憲民主からは枝野党首、共産からは志位委員長がキタやミナミの街頭演説で、「維新政治を終わらせて、大阪に新しい未来を」と叫ぶのを聞いて、私たち大阪人が思った事、それは、

「おいおい、どの口が言うとんねん。

あんたら、ふだん、国会で角突き合わせてお互いのことボロクソに言い合うてる間柄やないの。あれ、嘘なん? ほんまは仲良しなん?

ほんで、あんたら日頃から大阪のことなんか絶対考えてないやろ」でした。

もう一つ言い足せば、「大阪のこと言うんなら、大阪弁でしゃべってみいや」です。

 

大阪維新の会」は地域政党である

実はここに、今回の「大阪ダブル選挙」を読み解くカギが詰まっています。

「維新」は、正しくは「大阪維新の会」であり、地域政党なのです。

大阪の閉塞状況を変えるために、と、橋下徹松井一郎らが中心となって2008年に結成した地域政党であり、その設立趣意には「大阪人の大阪人による大阪人のための政治」という理念が内在されていました。

つまり、防衛や外交といった国全体の政治を司る国政政党とはフィールドを異にして、地域の政治を変えようとした動きだったのです。

今回の選挙は、「反・維新」の勢力が、自民党から共産党までという大連合を組んでしまったせいで、大阪人たちに、はからずもこの原点を思い起こさせてしまったのです。

 

つまり、

「大阪のことは、わしら大阪人にまかせといてくれや。

こんな時だけ東京からやってきて偉そうに言わんといて。

大阪のことはわしらが考えるわ、大阪弁でな。」

「都構想がええかどうかは、ほんまはようわからへんねんやけどな」なのです。

 

そうなのです、「都構想」が本当に大阪人にとって将来的に有効な政策であると考えて「維新」候補に投票した有権者は少ない、と思います。

そうではなくて、相変わらず東京中央の政治力学を地域にまで持ち込もうとする政治思想に対して、大阪人は「少なくとも維新の方が大阪のことを真剣に考えてるんやろなぁ」と素朴に感じたのです。

「都構想」は、「維新」という政治動向のシンボルワードに過ぎないのです。

したがって、今後「大阪都」が本当に出来るように進むかどうかは大阪人にとっても未知の事であり、それは「まだ、ようわからん」事なのです。

多くの学者やマスコミは「都構想についての論議を深めよ」と高みから言いましたが、大阪人にとっては「都構想はようわからんけど、それはそんなに大したことちゃうで」というのが実感なのです。

 

東京を頂点とする「ピラミッド」構造の社会

今回の「維新」の街頭演説で耳に残ったフレーズに、「10年前の大阪に戻してもいいんですか?」がありました。

10年前、とは、政治家・橋下徹の現れる前のこと。大阪府知事太田房江でした。

太田房江は、広島生まれで愛知育ち、東大を出て通産省に入り、近畿通産局の部長を経て岡山県の副知事になり、その後に大阪府知事になりました。

典型的な、高級官僚の地方下りの首長です。

 

この例に顕著なように、これまで日本の地方自治は、東京をピラミッドの頂点とする政治・経済・人材の構造を下支えする植民地的組織として存在してきたのです。

それは、第二次大戦敗戦後の日本が、急速な経済復興ナショナリズムを成し遂げるために採った政策が「東京一極集中による中央集権化」だったことの歪んだ現れの一つ、です。

「ヒト・カネ・モノ」を、いったんは全て東京に吸い上げて、その後に、中央の判断で必要だと考えられる部分を地方に再配分する、という施策です。

この結果、敗戦国日本は世界が驚くほどの早さで経済大国になりました。

その一方で、日本の地方は「国内植民地」の役割を背負わされたのです。

「徴税権」や「地方交付金」という「カネ」の面と、「都から派遣された官僚」という「ヒト」の面から機能を縛られた結果、日本の地方自治は自立性を失ってゆき、東京中央の政界とつながりを持つ地方政治家が首長となったり、中央省庁の官僚が地方下りして首長になったりしました。

しかし、この流れはやがて、地方財政の貧困と地方政治の空洞化に行き着いて、今日に至るまでになったのです。

 

新しい地方自治のあり方を考えようよ

東京には地方の苦しみがわからない

今回の「大阪ダブル選挙」で、本当に考えるべき事柄は、『新しい地方政治のあり方』です。

この点において、「反・維新」勢力が立てた候補者は、府知事候補が有能な地方官僚であり、市長候補が知名度の高い世襲議員であったことが、いかにも「古い地方政治の継承」の代表として多くの大阪人には見えたのです。

 

「大阪」は、大きな「地方」です。

もっとも、「地方」の中ではかなり元気のある方であり、「中央」への反骨気風もあるのでその大阪が日本各地の「地方」の気持ちを代弁しているのだ、と言えるでしょう。

政治・経済・文化の集中極点である東京から発せられたメディア言説の多くが的を外していたのは、このポイントが読み取れなかったから、だと思います。

社会権力構造の上位者たる「中央」には、下位者たる「地方」の持つ苦しみが実感できないものだから、です。

 

朝日と報ステは的外れ

マス・メディアの中で、最も的外れな視点は「朝日新聞」と、それに依拠した「報道ステーション」でした。

朝日新聞は8日付け社説で、「都構想を最大の争点として行われた異例の4重選挙」と書き、「維新による脱法的行為は看過できない」と書き、「不意に選挙を仕掛け、自らが率いる政党の押し上げを狙った松井氏と吉村氏は反省すべきであり」と書いています。

つまり、朝日新聞は「ダブル選挙という奇策」に打って出た「維新」の政治手法を非難することで、「維新」の政治思想全体を非難しています。

 

これは朝日がよく使う論法ですが、物事の本質を捕えないで瑣末な瑕疵をつつくことで全体を否定するという論理手法です。

しかも、とても感情的な論調で、平静さや公平性に欠けていると言わざるを得ません。

まるで、朝日が「維新」と正面から戦ったかのようにすら読み取れます。

 

現在の日本各地が抱えている「地方政治」の財政的苦難や現行システムの不備、と言った本質的な問題については何も触れてはいません。

そして、何かと言えば「民意を尊重せよ」と声高に言う朝日ですが、こういう場合には決して「民意の結果」については多くは触れないのも朝日ならではの特色です。

恣意的なスタンダードの使い分けです。

 

産経新聞」は、1面の論説記事で、「反・維新」で結束した自民党公明党に対して、「『都構想を終わらせる』という主張は明確に否定された結果を重く受け止める必要がある」と冷静に解説しています。

 

また、朝日新聞などの「維新の手法」批判に対しては、橋下徹ツイッターで書いた、

「今の大阪のダブル選挙を批判しているインテリ連中よ、今の大阪の選挙以上にましだと思う選挙をあげてみろ」がぴったりした返答になっているでしょう。

事実、日本全体では投票率が前回よりも低かったのに対して、大阪は前回を上回っていて、大阪府知事選が49%・大阪市長選が52%ありました。

少なくとも、今回の大阪の選挙は大阪人にとっては「よっしゃ、今回は選挙に行ったろやないか」と思わせるほどには面白かったのです。

それでも、半分の有権者しか投票に行かないところにこそ、現在の日本の「地方政治の本質的な問題点」があるのではないでしょうか。

 

「地方選挙」の投票率が低い理由

地方選挙の投票率が低い、議員の成り手がいない、など「地方自治のあり方」をきちんと問題視できていたのは「毎日新聞」の論説記事の「風知草」でした。

『絶望の地方自治』とのタイトルで、元・総務相で元・鳥取県知事でもある片山義博氏の「地方自治を認めない国家統制」という発言を載せて、現在の政治システムの問題点を明らかにしています。

更には「人口減少、税収減少の時代でも、教育・福祉・街づくりに支出しなければならない」という別の専門家の解説も付記していました。

 

日経新聞は社説で、『選択肢がないと地方は元気になれない』と題して、

「人口減少に対応できない地方政治の現状が浮き彫りになった」と書き、「地方創生が始まって5年。将来の自治体はどうあるべきかを真剣に考えるときだ」と結んでいます。

もっともらしくは聞こえますが、残念ながら東京目線の言説ですよね。

 

「地方」が動かせるカネがあればいい

「地方」が元気ないのは、「動かせるカネ」がないからです。どんな施策をやろうにも財源がないからです。

議員になってもやることがないんです、だから議員になっても仕方ないんです、だから議員に成り手がいないのです。選挙に行っても意味がないからわざわざ選挙に行かないんです。

で、「地方創生」って言うから、泉佐野市みたいに「ふるさと納税」を有効利用して財源を集めて「小学校のプール」を作ったら、国・総務省からは怒られるし、東京都など財政豊かな自治体からは非難されたのです。

 

地方自治を元気にさせるためには「地方で使えるカネ」を増やせばいいんだ、と単純に僕は思います。もっとも、そのためには「財政の東京一極集中」という戦後の政治・経済システムを根本から変えるという大作業が必要になるのですが。

でも、そろそろ「地方は東京のための植民地」という構造と意識を変えないと、地方の衰退は止まらない事態にまでなってきた、のではないでしょうか。

 

島根県知事選挙」も見逃してはいけない

今回の選挙で、もう一つ日本の「地方自治」を考える上で見逃してならないのは「島根県知事選」でしょう。

これについては、「産経新聞」がかなりの紙面を割いて書いています。

内容は、島根選出の国会議員全員が支援した候補者が負けて、県会議員たちが支援した候補者が勝った、というものです。

産経新聞は「有力な国会議員を頂点に地方議員が連なる全国の『ピラミッド構造』が崩れた」と書いています。本質に迫ることのできている署名記事でした。

 

竹下登・首相や青木幹夫・参議院幹事長を出した島根県ですが、今や島根と言えば、「過疎化」の代表県です。

かつてのように、東京の中央権力にぶらさがっていたのでは、もう何ともならない所まで来たのです。

そこで初めて「知事は地元で選ぶべきだ」となった、ということです。

 

国政と地方行政は次元の違う機能であり、それぞれ異なる論理で動いているものなのです。

それを無理やりに一元化させて動かしてきた「日本の戦後システム」に限界が来ている、ということにあちらこちらで気が付き始めたのです。

大阪とは別の意味で「地方自治の現状と今後」を考える上で示唆するところが多い事象だ、と思います。

 

「大阪ダブル選挙」から話はあちこちに飛んでしまいました。

 

今回の統一地方選挙から見取るべき最大の問題点は、

「一極集中された中央権力」に追随することによって成立してきた「戦後日本の地方自治」に、やっと今、大きな地殻変動が起きようとしている、ことではないかと僕は思います。

 

そして、今後の「日本の地方自治」を考える際にとても参考になる本としては、あの井上ひさしが「東北弁」を駆使して書いた『吉里吉里人』ではなかろうか、と思うのです。

独自の財源確保策や、ユニークな行政システムや、奇想天外な教育制度が、実に豊かな「東北弁の生活ことば」でユーモアたっぷりに書かれている小説です。

楽しく笑いながらも、実はとても多くの「新しい地方自治の形」のヒントが埋めこまれています。

これから政治家を目指す人に、是非オススメします!