うーん? 優勝は「和牛」でしょう!――「お笑い」と「ことば」
今年も、笑いながら、拍手しながら、ヒヤヒヤしながら「M-1グランプリ」を見ました。
自分が立ち上げに関わったテレビ番組が大きく育って、今や、押しも押されぬ「漫才界の頂点」を競うビッグな番組になったことは、とても嬉しいことです。
テレビの画面を見ながら、その裏で生番組ならではの緊張に追われている後輩スタッフたちの姿を思い浮かべつつ、OAを楽しみました。
全体として、高いレベルを保ちながら緊張感にあふれた、とても良い出来だと思いました(こう言うと、先輩ヅラした、なんだか嫌な奴だと思われそうですが、こんな批評をもきちんと受け止める謙虚さが表現制作者には必要なのです)。
素材VTRの作り方、あおりナレーションの付け方、アタックBGの選び方、最後の結果発表に至るまでの緊張感の高め方、いずれも極上のエンターテイメントになっていました。
で、今年最初に笑ったのは、審査員の立川志らくさんの、
「もう談志が今、降りてきてます」と、
ナイツ・塙さんの、
「今日、内海桂子師匠がちょっと今、降りてきてますんで」でした。
審査員の人選
この手のコンテストでは、誰が審査員であるか、は大変に大きな要素です。
その点で、志らくさんは批評のコメントも、鋭くて的確でよくわかりました。
「ホントうまいですね、ただし上手さの前に魅力が現れたら太刀打ちできないですよね」(「かまいたち」に対して)
やはり審査員には、「漫才芸の先達」だけでなく、異なる表現領域の人が入っていた方が良い、と思います。
できれば、もう一人、7人のうち2人は違う世界からの人が審査員である方が良い、と思います。
その理由は、同じく「ことば」を使う芸能ではあっても、落語や演劇など違う表現領域からの批評が、逆に「漫才」という話芸の特徴と面白さを浮かび上がらせることになるからです。
上沼恵美子さんと松本人志さんの、審査員2ショットは、さすが「M-1」ならではのインパクトがありますね。漫才手法のまったく違う二人の批評コメントは、それだけで面白い。
そして、上沼さん、松本さん、厳しくて上手い!
「自虐ネタは受けない、何してたん今まで」(「ギャロップ」に対して、上沼)
「おもろくて、さっき、屁いたわ」(「ジャルジャル」に対して、松本)
短い一言が実に正鵠を射ており、なおかつその批評コメントで笑いを取るという、最高級の話芸になっていました。
「M-1」は、審査員すらも視聴者の批評の眼にさらされている、んですね。
こわいですねぇ。
その意味では、いささか首をかしげざるをえない批評と採点もありました。
(もっとも、これは私が既に現場を離れているから言えることで、テレビマン現役の時にトップの芸人さんにはなかなか言えないものです)
決勝戦の判定は妥当か
さて、決勝戦での判定、についてです。
人間が人間の技量を判定することであり、しかも生番組内での瞬間的な判断を迫られていることなので、とても難しいことは確かです。
そして、「優勝・霜降り明星」という結果は揺るぎない事実です。
なのですが、私の採点では「和牛98点vs霜降り明星95点」だったことを、あえて書きたいと思います。
霜降り明星の若さ
私のこの採点基準の最大のよりどころは、「ことば」です。
「霜降り明星」は、確かに若者らしい勢いがあって、パワーあふれる形態模写としゃべくりの漫才でしたが、「ことば」の使い方にひとりよがりの狭さがあると思います。
例えば、入りネタの「赤ちゃんの夜泣き」では、せいやが「んぎゃー、んぎゃー」と泣いた後、「寝んねんころりよ、おころりよ」と自分で歌って「ぐぅー」と寝たところで、相方の粗品が、「セルフ!」と突っ込みます。
続いて「赤ちゃんことば」では、せいやが「バスロマン、バスロマン」と言い続けたところで、粗品が「赤ちゃんはバブやろ」と突っ込みます。
また、「転校生(てんこうせい)の紹介」で、せいやが自分の首を刀剣で刺す動きをしたところで、粗品が「プリンセス天功(てんこう)生」と突っ込みます。
「オト」の勘違いを逆用したネタですが、『セルフ』や『バスロマン――バブ』や『プリンセス・テンコー』のカタカナ語は聴衆の頭には、すぐさまイメージを湧き起こしません。
つまり、「えっ、何?」と思わせるのは良いのですが、その疑問の回収が不十分なのです。
また、その肝心な「オトのことば」が、二人の大きな声の重なりで良く聞き取れません。
なので、聴衆は「今の、なんだったの」と思っているうちに、勢いで次に進まされます。
また、山場ネタの「小学校の水泳プール」では、せいやが各コースを泳ぐ生徒の形態模写をして、粗品がフォロー解説をすることで突っ込みを入れます。
これも、面白いのですが、『クリオネ』なる生き物を知っていない人にはわかりません。
つまり、「ことばのオト」で笑いを組み立てようとしている努力は高く評価できるのですが、そこに『プリンセス・テンコー』や『クリオネ』などの消化不十分な「知識ことば」が入っている分、聴衆の多くを置き去りにしている、と思います。
確かにスタジオ観客席の笑いは多かったのですが、といって、審査員がそれを採点の軸にするのは間違いだと思います。
スタジオの観客は、ほとんどが若い女性でした。それは、生番組で、もっとも笑いが取りやすい客層だから、という番組運営サイドの理由によります。
しかし、かつて、島田紳助さんが言ったように、
「若い女の子たちの客は、おれたちが活動するには大事やけど、そいつらが俺らをダメにする。テレビの向こうの兄ちゃんを笑わせなあかん」
だと思うのです。
ジャルジャルの「ことば遊び」芸
「ジャルジャル」は、決勝戦でのネタはもうひとつでしたが、本戦での「国名わけっこ」遊びは、とっても面白かったです。
おそらく、ここ数日は全国の小学校で「ゼンチン」や「ドネシア」が連呼されていることでしょう。
彼らの「ことば遊び」の巧みさは、独自の世界を持っている、と思います。
ただ問題は、それが小学校や中学校の空間にとどまることで、これから如何にして大人の世界までを巻き込んだ「ことば遊び」芸を産み出してくれるか、を楽しみにしたいと思います。
和牛の「ことば」はピカイチ
さて、「霜降り明星」や「ジャルジャル」が、「よしもと漫才劇場」では間違いなく大爆笑を取るでしょう。
それに対して「和牛」は「NGK」で爆笑を取るだろう、と思います。
それは、「和牛」が使っている「ことば」が、どんな年齢層の客でも聞き違えることなく理解できる「生活ことば」で構成されているからです。
つまり、「和牛」の漫才に出てくる「ことば」は、誰にでもわかる「ことば」なのです。
水田信二の、
「実は今、心配ごとがありましてね」で入り、
川西賢志郎の、
「心配ごと?」に
「もし、俺の親が、オレオレ詐欺にひっかかったらどうしようかなぁ、と思って」と答え、
「まぁ、確かに、息子としては心配やなぁ」
と進んで、だましの電話をする息子と、それを受ける母親との「なりすまし」芸が始まります。
「もしもし、水田です」
「もしもしオカン、俺やねんけど」
「あっ、信二?」
「うん、そう、信二」
「あんた、元気にしてる?」
「実は今、俺、交通事故おこしてもてさぁ、相手の方、入院することなって、病院おるんやんかぁ、今」
「事故?」
「で、どうしても今日中に示談金が必要やねん」
「示談金て、それ、いくらやのん?」
「200万、なんやけど」
「200万?」
「駅前の喫茶店に、ご家族の方がいるから、持ってきて渡して欲しいんやけど」
「わかった、ほな、すぐ行くから、向こうのご家族の方に伝えといてーー」
こうして、喫茶店に200万円を持ってきた母親が、だまし電話をかけた息子に叱られる、という展開になります。
二度目のだまし電話にも、
「泣いてるわが子を身捨てる母親がどこにおる」
「あの子は、私が絶対守る、おなかを痛めた子、やから」と、再び、だまされます。
そして、次に、母親は、
「うんっ、苦しい、心臓いたい、すみません、救急車呼んでもらえますか」と息子をだますのですが、救急車を呼んだはずの、息子の電話そのものが「だまし」だった、というオチ。
だまし合った、母と息子の、無言の睨み合いに笑いが産まれます。
シチュエーション設定と、なりすまし芸による笑いで、二人のしゃべる「ことば」はどれも私たちがふだんの生活で使う「生活ことば」であり、聞き違えることはありません。
なおかつ、二人の発声と滑舌はなめらかで、はっきりとしています。
実に完成度の高い、上質な「しゃべくり漫才」です。
漫才という芸、お笑いと「ことば」
そもそも「漫才」とは、「オトのことば」を使った「笑芸」です。
その時に大切なことは、「誰もが使えて、誰にでもわかる、ことば」による「笑い」の創造なのではないでしょうか。
勘違いしてはいけないのは、大きな声や、早い速度のしゃべりや、難しい漢字語や、高級そうに聞こえるカタカナ語、が「強いことば」ではない、ということです。
「ことば」の本質とは、「ある一連のオトのつらなり」が、「ある特定のもの・こと」を指し示す、ところにあります。
ですから、「強いことば」とは、多くの人が共通して「しっかりとした脳内イメージ」を結ぶことのできる「ことば」のこと、なのです。
「M-1グランプリ」を最初に発案した、島田紳助さんが私に言ったことは、
「先輩たちの苦労のおかげで、たくさんのお笑い芸人たちが飯が食えるようになりました。
せやけど、今、お笑い芸人たちの『ことば』が弱うなってきてる、と思うんです。
もう一回、お笑い芸人たちに『強いことば』を取り戻すチャンスを与えたいんです」
でした。
「M-1」が産まれて18年。
たくさんのお笑い芸人たちの、人生さえ左右するほどの番組になりました。
だからこそ、今一度、番組に関わるテレビマンたちも、出演者たる若手芸人たちも、審査員として関わるベテラン芸人たちも、誰もが、紳助さんの『発案の原点』を確かめる必要があるのではないか、と私は思うのです。