「コロナ政治」の言語学――政治家のことば
豊かな「ことば」とは何か?
「自分の言いたいことがはっきり言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、聞き手も正しくそれを理解できる、そのような豊かな国語を創るため(後略)」(柳田国男 1961年「豊かな国語のために」より)
大学の今期の授業がすべて「オンライン授業」になって、いつもの数倍ほど手間ひまがかかり忙しくてブログもしばらくお休みしていたのですが、今回ばかりは「言語」に多少ともかかわる者として黙ってるわけにはいかない、と思い書くことにしました。
「37.5度以上の発熱が4日続く――目安ということが、相談とか、あるいは受診の一つの基準のようにとられた――我々からみれば誤解でありますけれど――」です。
テレビ報道でこれを聞いた私のとっさの突っこみは、
「おいおい、おっさん、何言うてんねん。それはないやろ!」でした。
一国の大臣の発言と、町の民衆の一人である私の感想と、この二つの「言葉の落差」にこそ、実は現代日本の「政治」と「生活」をめぐるとても大きくて重要な問題がはらまれている、と私は考えています。
加藤厚労相の「ことば」の誤解
根本的な問題は何か、というと、現代の日本の政治家の使う「言葉」は、大切なところがすべて「漢字語」であり、政治家の発言の多くは「漢字語を中心にして書かれた文を読んでいる」ということです。
これこそが、「日本の政治家の言葉」がわかりにくい理由であり、「日本の政治家の言葉」を弱くしている理由なのです。
上で取り上げた加藤厚労相の発言の「政治的な側面」はマスコミに出る政治評論家にまかせておいて、これを「言葉」の面から考えてみることの方が、より大切です。
「目安・相談・基準・誤解」など、漢字語で書くと、いかにも賢そうに偉そうに見えますし聞こえますが、それは決して本当に賢いことや偉いことを意味しません。
そもそも、漢字語はとても不正確な「言葉」なのです。
その意味するところが、とてもあいまいな「言葉」なのです。
そんな不正確な漢字語の意味を明瞭にしよう、と努力したり、漢字語を使ってでも、ぼんやりとした心の内や頭の中をはっきりとさせ、相手にしっかりと伝えよう、とするのが「文字を使う者」の誠実な営みのはずなのですが。
なかには、その不正確さを利用して、人をだましたり、煙に巻こうという人間が現われるのです。
加藤厚労相は、残念ながらその典型だと言わざるを得ません。
「書き言葉」に通じていて、「書き言葉」の修練を重ねることによって社会的高位置を獲得した「官僚」や「官僚上がりの政治家」は、「書き言葉」の特性をよく知っています。
加藤厚労相も、もともとは大蔵省の官僚です。
きっと、自分の優秀な「書き言葉・言語力」をもってしたら、一般民衆など簡単に言いくるめられる、と思ったのでしょう。
あえて意味の不正確な「目安・相談・基準」という漢字語を連ねておいて、「だから、みなさんが誤解したんだ」と言い逃れることができる、と考えたのでしょう。
そして、それはある程度は通用しました。
当日の記者会見に立ち会っていた、新聞やテレビなどの大手マスコミの記者たちは、目の前で発言された「言葉」に対して、突っこみを入れることをしなかった、からです。
それは、彼らもまた、加藤厚労相と同じく「漢字語の書き言葉」によって社会的高位置を獲得してきた人間だからだと僕は思います。
それに対して、町の一般民衆は、身近な「生活ことば」の地平から、
「おいおい、おっさん、それはないやろ。わしら、みな、37.5度で4日間、で動いてきたで。医療の現場の人間もそうやで」
と言ったのです。
かつては一般民衆は社会に対して発言する機会を持たない「情報下層者」だったのですが、現在はインターネット、SNSという発信機会を持っています。
また、「書き言葉」によって立身出世をしたわけではない「テレビタレント」たちが、一般民衆の「生活ことば」の反応をすくい上げたのです。
「漢字語の書き言葉」と「身近な生活ことば」と。
人間の使う「言語」として、どちらの「ことば」が強いか!
明らかです。
読書の中から得た「漢字語の書き言葉」より、暮らしの中で得た「生活ことば」の方が強い、のです。
ここに、「言語の本質」があります。
現代日本の政治家の「ことば」
さて、「漢字語で語る」のは加藤厚労相だけではありません。
「コロナ問題担当大臣」となった西村経済再生相もまた、「34県の多くは解除が視野に入ってくる」などと言います。
どんな日本語なんでしょう。
ふつうの日本語で言えば、「縛りを解くことを考えてもよい」ですよね。
なぜ、わざわざわかりにくい「漢字語」を連ねるのでしょう。
その方が、何だか偉そうに聞こえるし、賢そうに聞こえるからですよね。
西村経済再生相もまた、経済産業省の官僚から政治家になった人です。
また、与野党の政治家たちが、
「スピード感の欠如」などと言います。
どうして、「おそい」や「おそすぎる」ではいけないのでしょうか。
「すばやく」や「もっと早く」ではいけないのでしょうか。
その方が、だれにでもわかる日本語です。
政治家の使うような日本語をこども達に教えてはいけません。
こういう「言葉」が、日本の政治を私たちの「暮らし」から遠ざけてきたのです。
民衆がふだんの「暮らし」の中では使わないような「賢こそうな言葉」で政治を語ろう、とする意識とは、それによって自分を言語的な優位者に持ちあげようとする偽エリートの考えです。
安倍首相にしても同様です。
「9月入学問題に関しては、前広に検討したい」
この数十年間で私は初めて「まえびろ」という日本語を聞きました。
無理やり漢字語風にしたら、何だかもっともらしく聞こえるだろう、と思っている官僚が書いた用語を読んでいるのが明らかな答弁です。
また、
「学生支援に関して――速やかな対策を講じていって、ご判断をいただく」
おそらく「専門家会議にご判断いただく」と読みたかったのでしょうが、思わず「えっ、判断するのはあなたでしょう」と突っこみました。
他にも、ひんぱんに出てくる「ことば」に、「認識しているところでございます」や「承知しているところでございます」などがあります。
誰も、家庭の中や、親しい友達との会話の中で、こんな「ことば」は絶対に使いません。
ここにも「言語の本質」の捕らえ間違い、が表れています。
「読む」と「しゃべる」は違うのです!
「しゃべる」と「読む」の違い
ヒトは、身体や頭の中にある「ことば」しか「しゃべる」ことはできません。
しかし、身体や頭の中にない「言葉」でも「読む」ことはできるのです。
「文字」は、ヒトの身体の外にあるもの、だからです。
今回の「コロナ事態」で、世界の政治家と日本の政治家が大きく違うところがはっきりと見えました。
世界各国の政治家は、「しゃべっている」のです。
日本の政治家は「読んでいる」のです。
だから、あらかじめ質問書として提出された質問に対して、あらかじめ用意された「文章」だけしか答弁できないのです。
野党議員のほうも、そのほとんどは質問書を読んでいます。
だから、蓮舫議員のように、「質問文章」から外れて「しゃべってしまった」時には、「大学生、このまま授業料が払えなくてやめたら高卒ですよ」などという偽エリートの本心が表れてしまいます。
政治家のこのような「言葉」は弱くて、聞いている民衆の身体と心には届かないのです。
吉村・大阪府知事が、一般民衆から高い評価を受けている最大の理由は、彼が「読んでいる」のではなく、「しゃべっている」から、だと私は考えています。
それは「政策の内容」とは別の次元の「ことば」の次元の話、です。
安倍首相や、西村大臣や加藤大臣と比べてみたら一目瞭然です。
吉村知事は、会見の時や、テレビ番組に出演した時に、ほとんど目の前にスピーチ原稿を置いていません。数字の資料メモは持つことがあっても、カメラに向かってしゃべっています。
頭の中から出てくる「ことば」でしゃべっています。
それだけ、数値や医療用語を頭の中にしっかりと入れているのだ、ということが見て取れます。
「知識の言葉」ではなく「暮らしのことば」で
一般民衆というものは、その日その日を「しゃべって」懸命に生きている人間なので、どのような「ことば」が自分の暮らしにとって大切なものなのかを、身体で見極めるのです。
「知識の言葉」ではなく、「暮らしのことば」で、ヒトは生きているのです。
もう一つ。
ふだんの暮らしの中では使わないような「難しい漢字語」を使うことで、自分の知的な優位性を誇示しようと思う小汚い心根は、「漢字語」ではダメだと思ったら、次には「カタカナ外来語」をもってきてその優位性を誇示しようと企みます。
「ガバナンス」や「コンプライアンス」や「ダイバーシティ」や「サスティナビリティ」といった類の「言葉」です。
今回の「コロナ事態」でも、やはりそれが表れてきました。
「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」
始めは専門用語だったのでしょうが、いつのまにかそれを使うことが知的な特権階級の証のようになってきました。
そして、本来はそういった「言葉」を民衆にわかりやすく翻訳することが役目だったはずのマスコミもそこに加担するようになりました。
この視点から考えると、小池・東京都知事は「難しい漢字語」や「新奇なカタカナ外来語」を使うことによって自分の優位性を誇示しようとする「古いタイプの政治家」だと言えます。
「私は出口戦略という言葉を使いません。その代わりロードマップをお示しします」
決して「出口戦略」という言葉が最適だとは思いませんが、民衆の多くがその言葉に共通したイメージを抱くことができるようになったのなら、その言葉を使って多くの人のイメージ喚起力をまとめるのが良い「民衆政治家」だと思います。
使う「ことば」によって、政治的なヘゲモニー(主導性)をにぎろうとするのは、姑息な権力主義者の考えです。
「自分の言いたいことがはっきりと言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、聞き手も正しくそれを理解できる」ような「身近な生活のことば」で語ってこそ、「政治」は本当に私たち一般民衆のものになるのだと思います。
柳田国男は、
「日本語を『漢語』だらけにして、本来の豊かな表現力を失わせたのは『明治維新を引っ張った書生たち』である」と言いました。
また、
「うわべばかりのことばを雄弁に唱えるものがばっこする機会を作っている」とも言いました(「国語教育の古さと新しさ」1953年)。