吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「お笑い芸人」の言語力

吉本興業に所属するお笑い芸人の、宮迫博之さんと田村亮さんらの「闇営業」をめぐる問題と、それに続く記者会見についての報道が続いています。

 

一連の報道を見ていて、『お笑い芸人の言語学』を書いた僕の立ち位置からの考えを述べます。

それは、報道が拡散して一般化されるにしたがい、いつのまにか埋没してしまいそうな二つの点について、です。

 1つは、「お笑い芸人の言語力」。

 1つは、「お笑い芸人の非・社会性」。

 

考察にあたって、主な素材とした放送は、

720() 午後2時~430分 「宮迫博之田村亮 記者会見」(Abema TV)

720() 午後10時~1130分「新・情報7days(TBS)

721() 午前10時~1130分 「ワイドなショー」(日本テレビ)

722() 午後2時~730分 「岡本社長 記者会見」(Abema TV)

これらの番組はいずれも生放送ですべてを視聴しました。

 

で、この他に民放各局のニュース、および「アッコにおまかせ」(TBS)「スッキリ」(フジテレビ)なども参照しました。

 

1.「お笑い芸人の言語力」について

20()に行われた、「宮迫博之田村亮の記者会見」で鮮やかに浮かび上がったのは、宮迫と田村の「ことば」の強さ、でした。

それに比べて、一方で鮮やかに浮かび上がったのは、会見場に居たマスメディアの記者たちの「ことば」の弱さ、でした。

 

「お笑い芸人」という人間は、「ことば」だけを武器として生きている者なので、「ことば」の原理原則を体でよくわかっている者たち、です。

それは「話術のうまい・へた」という運用上のテクニックの問題ではありません。

 

今回の記者会見で、それがとてもよくわかりました。

宮迫・田村の記者会見の目的、つまり、二人が伝えたかった内容は、「当人による事情の説明、と、説明が遅れたことの事情の説明」でした。

 

そのことをしっかりと伝えるために、宮迫は、ゆっくりと気持ちを乗せてしゃべりました。

「今回のことは、僕の、保身からくる、軽率なウソから始まっています。今回の騒動の全責任、すべての責任は僕にあります。僕のせいです。本当にすいませんでした」

ここから始まった二人の会見は、おそらく多くの視聴者や芸人たちへ「正直」「真摯」だと受け取られたであろう、と推測されます。

 

直接話法の表現力

しかし、話す「ことば」のプロである以上、宮迫・田村の二人には「演技のしゃべり」もできるわけで、二人のしゃべりをそのまま鵜呑みにするのは危険です。

ですが、この点に関しても二人は周到に「正直さ」を担保する「ことば」を使いました。

 

それは「直接話法」です。

事後の説明ではなくて、その日、その時に、実際に「話されたことば」の再現です。

 

まず、「闇営業」でのお金の受け取りについて、

「亮くんに『いくらもらったんだ』と聞くと、『50万』だと答え、『俺はいくらもらったんだ』と聞いたら『100万』だと」

「宮迫さん、そのおつりを受け取っていました、と」

の部分です。

 

次は、吉本興行に行っつての報告の部分、です。

「もう、ひっくり返せませんよ」

「しばらく静観ですね」

「おまえら、テープ廻してないやろなぁ」

「記者会見やったらええ、その代わり全員クビや」

 

こういった「実際に話されたことば」が、宮迫・田村の二人の発言の正直さを担保しているのです。

そして、会見場に居たメディアの記者たちが、「事実の解明」を目的としていたのなら、ここにこそくらいついて追及すべきだったのです。

 

まず、前半部ですが、

この会話から考えれば、入江はギャラを、例えば封筒に入れたお金を誰に手渡したのか、が問題です。宮迫に直接にではなくて、田村に二人分の封筒で渡したのか、なのです。

では、打ち上げの飲食店ではだれが費用を払ったのか、例えば田村が宮迫の財布を預かって払ったのか、または田村が持っていた宮迫用の封筒から払って、そのお釣りの現金を宮迫が店員から受け取って財布に入れたのか、が問題となります。

この状況の確認は、とても大事な点のはずです。

 

次に、吉本興行に告白に行った部分では

「もうひっくり返せませんよ」と言ったのは誰なのか?

「しばらく静観ですね」と言ったのは誰なのか?

 

あれだけの記者たちが居たのに、この肝心な点を問うた記者は一人もいませんでした。

僕は、まず、このことにマスメディア記者たちの「ことば聞き取り能力の低さ」を感じました。

そして、とても重要だと思われる上記二つの発言者を特定するための質問は、今日に至るまでなされていません。

おそらく岡本社長が言ったのではないか、という推測で動いています。

僕は、そうではなくて、社内弁護士の小林氏か社外弁護士だと思います。

 

⑤⑥は、岡本社長の発言だという事は宮迫の説明で明らかで、宮迫・田村の記者会見以降は、こちらの「吉本興行の体質」という問題に論点が移ってゆきました。

しかし、事実解明を目指すのであれば、③と④の発言者の特定と、それが発言された状況の特定は欠かせない要件だと思います。

 

記者の言葉のナンセンスさ

さて、宮迫と田村の「想いの込められた強いことば」に対して、マスメディアの記者たちの「ことば」には弱くて薄汚いものがたくさんありました。

まずは、自分の所属と姓名をはっきりと名乗らない者。

同じ質問を繰り返して、肝心なことを聞かない質問。

 

ただし、記者会見においては、わざと時間差をつけて同じ質問をすることはあり得ます。それは、同じ質問を何回も繰り返すことで、会見する側の発言の「食い違い」を引き出したり、「ボロ」を引き出す目的です。

しかし、今回の記者会見でのカブり質問はそうではなく、特にテレビ記者による質問では、質問の頭に「〇〇テレビの〇〇ですが」と番組名を名乗り、目的が自分の属するテレビ番組でのインタビュー使用にあることが明らかでした。

薄汚い目的で発せられた「ことば」でした。

 

この点で最もひどかったのは、TBSの「アッコにおまかせ」の記者で、質問は、「宮迫さん、かっての浮気騒動の時はオフホワイトとおっしゃいましたが、今は何色ですか?」というもの。

このバカげた質問に、宮迫は冷静に「すいません、本当に謝罪をしたいという会見でしたので、ちょっと話が違いますので、すいません、申し訳ないです」と答えていました。

当該の記者は、TBSの社員なのか、制作プロダクションの者なのか、契約のレポーターなのかは分かりません。

すぐさまネット上には、この質問者に対する批判が続出しましたが、それは多くの視聴者のしごく健全な反応というべきで、日本の芸能ジャーナリズムの低劣さを露呈したものでした。

 

また、宮迫が吉本興行側からの「静観ですね」という発言を明らかにしたことに対して、執拗に「そういう隠蔽をしようとしたんですね」と誘導尋問を繰り返して、なんとかして宮迫と田村の口から「隠蔽」という単語を引き出そうとした記者もいました。

それに対しても、宮迫は、「静観という言葉しか使われていないので、そこを言い換えるというのは語弊があるような気がします」と誘導には乗りませんでした。

 

この記者の質問も、薄汚い意図をもった「ことば」です。

そういった、マスメディア従事者たちの、「ことば」に比べて、

「こんなアホを……30年間も育ててくれた吉本興行に対しては……感謝しかないですよ。こんなこと、したいわけないじゃないですか……」

という「ことば」が、どれだけ「美しい・正しい・強い」日本語であるかを、私たちは気付くべきだと思います。

 

さて、「ことば」から聞き取る「発言者の心」の判定、は、これ以降のニュース報道や情報番組の中で展開される言説についても、また、「岡本社長の記者会見」についても同様にあてはめることができます。

 

22()の「岡本社長 記者会見」での「ことば」については、お笑い芸人・学天則奥田修二の、「芸人は、本気と冗談を見分けられます。だから、芸人なんやもん」というTwitterがすべてを表しています。

 

2.「お笑い芸人の非・社会性」について

720()の「宮迫・亮の記者会見」で明らかになった事柄の中の、「しばらく静観ですね」と、「全員クビにしたる、わしにはそんだけの力があるんや」という発言から、一連の騒動は「吉本興行のパワハラ体質・前近代的経営」へと論点が移っていっています。

が、今後を考えるためにも、絶対に忘れてはならない論点があると、私は思います。

それは、「お笑い芸人」とはどんな存在か?ということです。

 

「お笑い芸人」という存在

そのことを、とても正確に言い当てているのはビートたけしです。

たけしは、22()夜放送の「新・情報7days ニュースキャスター」で、「芸人というのは猿回しと同じで、俺らは猿で、猿が噛んだ時は飼ってる奴が謝るの」と言いました。

たけし発言のこの部分は、近藤春菜らの引用で広まりましたが、本当に大事なのは、それに続いた次の部分です。

 

「本当のこと言うと、お笑い芸人に社会性とかすごい安定したことを望む社会が変だよ。俺ら、それが嫌でやってんだから」

「品行方正とかを漫才芸人に求めちゃダメで」

「俺ら、綱渡りしなきゃいけないんで大変なんだって」

 

ここに、「お笑い芸人」という存在の本質的意味が込められています。

 

「お笑い芸人」とは、ことの本質からして「非・社会的な存在」なのです。

 

「お笑い芸人」は、魚1匹獲りはしない、野菜1つ育てはしない、ネジ1つ生産はしない。

つまり、産業社会における「生産行為」から逸脱した「ハズレ者」なのです。

 

産業社会を成り立たせている、「知識」や「学歴」や「地位」という基準からすれば、彼ら彼女らは「落ちこぼれた者たち」なのです。

学校の成績は悪かったり、美しい容姿にも恵まれていなかったり、優れた筋力があるわけでもなかったり、育った家庭環境も複雑だったり。

そんな人間たちにできることは、親からもらった身体と口を使って人を笑わせることだけです。

だから彼ら彼女らは、産業社会の周辺に居て、社会の中で正業を営む人たちに「笑い」という慰藉を与えることにより生きるのです。

 

「お笑い芸人」とは、本来的に、社会とは転倒した価値観を生きる人間のことなのです。

しかし、だからこそ、産業社会を構成している社会的な価値規範――性や金銭や社会的倫理など――に縛られることなく、それらの価値規範にとらわれている大衆を笑わせることができるのです。

 

これが「お笑い芸人に社会性を望むことが変だよ」の意味です。

そして、社会の周縁で生きている「非・社会的存在」である「お笑い芸人」は、ややもすれば社会から完全に外れたり、社会に牙を剥いた「反・社会的存在」になる危険性を常にはらんでいます。

このことを、たけしは「猿回しの猿が人を噛む時がある」と言っているのです。

その危険な壁ぎわを生きていることが、「綱渡りを生きている」という意味なのです。

 

で、狭くて危険な壁ぎわを歩いてゆく猿の手綱をゆるめたり引っ張ったりする役目の「猿回し役」が、マネージャーやプロデューサーという名前で呼ばれる者のことです。

 

このことを理解しなければ「お笑い芸人」の発掘や育成はできません。

ここが、一般社会の企業とは全く違うところであり、俳優やアイドルという同業他種の人材会社とも違うところです。

 

吉本興業という会社

なぜ吉本興業が現在のような「お笑い界の大企業」になれたか、というと、こういった「お笑い芸人」という者の特殊性をよく理解していたプロデューサーやマネージャー達が大勢いたからです。

だから、世の「ハズレ者」たちがたくさん吉本に集まることができたのです。

今回のことで多くの所属芸人たちが言っている「吉本は昔の吉本とは変わった」というのは、この点だと思います。

かつては、「ハズレ者」たる「お笑い芸人」のことをよく理解して、そんな「お笑い芸人」のことが好きな人間たちが吉本の社員としてたくさん働いていました。

楽屋や、近くの飲食店では、芸人と社員が一緒になって軽口をたたき、社会の悪口を言い、規範に縛られて生きている一般大衆のことを笑いながらしゃべっていました。

「猿」も「猿回し」も一緒に生きていたのです。

 

宮迫博之の「こんなアホを、30年間育ててくれた吉本」という発言の深い意味もそこにあります。

 

そして、およそ近代的な産業社会になじむことのできない「お笑い芸人」にとって、「吉本」はとても生きやすい場所でした。

このことの象徴が「カネ・収入」の仕組みです。

今回のことで、多くのマスコミや識者たちは「吉本」の芸人たちへの金銭的側面を、否定的にのみ語るが決してそうではありません。

 

外部から見れば「前・近代的」とだけに見えるでしょうが、吉本に所属して生きている芸人たちにとってすれば合理的な面もたくさんあります。

 

芸人と契約

まず、「契約」の問題です。

およそ「契約」こそは、近代的な人間関係の集約的象徴です。

多くの「お笑い芸人」にとって、「契約」のようなややこしい社会関係は「ようわからん」世界です。

もちろん「お金」は欲しいが、「ややこしいことはかなわん」人間もたくさん居ます。

かつて、名物会長であった林正之助が「給料上げて欲しいんやったらワシのとこへ言いにこい」と言ったという伝説的エピソードがありますが、それを聞いた芸人たちがビビって恐れをなしたかと思うとさにあらずで、少なからぬ芸人たちがこの言を聞いて林会長のところへ行き、「会長、給料上げて下さい」と直談判しにいったという事実があります。

そのくらいの根性がなければ続けられないのが、芸人という生き方です。

芸人が文句を自分の口で言うことができ、それを受けいれる寛容さのある会社、それが「吉本興業」だったはずです。

 

芸人の活躍度や金銭感覚や家庭状況などを熟知した上で、勘案して報酬を決めるのが非合理だとは言い切れません。

かつては、金使いの荒い芸人にはギャラの金額を教えないで、こっそりと奥さんに報酬を渡していた場合もある、と聞いています。

これも、昔々のお話ですけどね。

 

肥大化のデメリット

で、芸人と社員とのこのような牧歌的な関係が変質せざるをえなくなってきたのは、NSC(吉本芸能学院)の事業的成功に端を発する肥大化だろうと思います。

所属芸人6000人と言われるまでに肥大化した組織では、かつてのような「猿と猿回し」の人間的な関係は維持できない。管理部門の拡大と官僚化は必然だったでしょう。

このことが、今回のことで、中堅以上の芸人たちからよく言われる「吉本は変わった」ということではないでしょうか。

 

また、エンターテイメント(娯楽)の産業化システムが整備されるに連れて、本来は「産業社会からのハズレ者」であった「お笑い芸人」という生き方が、一見「効率の良い就職先」へと変質してしまった、という側面もあります。

芸人たちの質も多様化してきたのです。

そして、特異な才能を必要とする「お笑い」の世界では、向いていない人間には薄給をもってしてその自覚を促して、「正業」の世界へと早いうちに帰農させることも企業としては大切なことです。

 

「お笑い」というものは近代的な社会関係だけでは包摂しきれないものを孕んだ営みなのです。

テレビで解説者などが今回の問題を一般的な雇用関係や契約の問題に収れんさせようとしていますが、「お笑い」というものの本質を忘れたら、単なる形式的な解決にしかならないと思います。

 

芸人という生き方――「夢」を見るな

天国か地獄か

芸人になるのは、甘いことではありません。

類まれな才能と特別な努力、そして運、これがなければ、芸人で居続けることはできません。

 

今回の件で、「若者が夢を叶えられる会社に」という言葉も聞きますが、とんでもない偽善です。

貧乏な若者が月給500円の薄給から、その才能と努力と運でもってして年収何千万何億円をつかみ取ることが夢なのです。

その夢を叶えることのできる者は、ほんの一握りなのです。

叶えられなければ、薄給のまま、地獄です。

夢は地獄と紙一重なのです。

芸人に向いていない人間は、薄給から逃げて、正業の世界に帰らせることも、エンタメ企業としての務めであると僕は思います。

 

吉本のこれから

22日の「岡本社長記者会見」で、昔の吉本興業を知る私がもっとも驚いたのは、最初に時系列を説明した人間が、「法務本部長 小林良太」氏だったこと、でした。

おそらく多くの吉本芸人たちも驚いたことでしょう。

「こんな人が社員にいるんだ」と。

小林弁護士の語る「ことば」こそ、吉本芸人たちの日常から最も遠いところにある「ことば」であることを、「お笑い芸人」は知っています。

小林弁護士は、NGKの芸人溜りで「お笑い芸人」たちと下世話な会話をしたことがあるのでしょうか。

 

今、本当に問われているのは、社会的規範を免れた「お笑い芸人」たちの「ことば」と、社会的規範を象徴する小林弁護士の「ことば」の乖離でしょう。

そして、今後、吉本興業が取り組むべきは、異種の「ことば」が同時に存在して、そこで人が生きてゆける「新しい組織」の構築だと僕は思います。