新装「NEWS23」を論じる―正統派の「アンカーウーマン」を目指す小川彩佳を高く評価します!
小川彩佳をキャスターに迎えた新生『NEWS23』がスタートしてひと月。
視聴率的には、5月以前とそれほど変化はありませんが、内容的にはずいぶん変化しています。
その変化を、「日本のテレビニュースの作り方」という構造的な視点と、「キャスターのことば」という言語的な視点から論じてみたい、と思います。
新生『NEWS23』―アンカーウーマンの萌芽
結論から先に言うと、新生『NEWS23』は、「テレビニュース」が本来あるべき姿を、意欲を持って志向しており、小川彩佳は日本のテレビ人では久しぶりに「ちゃんとしたアンカーウーマン」を志向している、と僕は感じ取っています。
それゆえに、僕は視聴率の高低にかかわらず『新生NEWS23』を高く評価するものです。
報道に「やさしい」という形容詞?
おりしも、コピーライター/メディアコンサルタントの境治(さかいおさむ)さんがネット上に、
『NEWS23』リニューアルが示す「過激で不快なテレビ」の終焉
令和のテレビは「やさしさ」の時代へ
という論稿を載せられましたので、興味深く読ませていただきました。
境さんの指摘には幾つかの点で参考になる箇所もあるのですが、番組の変化の要素を、「『産み出された結果としてのニュース表現』の受け取られ方」、簡単に言うと、「ニュースの受け取られ方」の視点を中心に解析している点で的を外しています。
つまり、論稿の中心となっている部分は「世帯視聴率から個人視聴率への変化」というマーケティング手法であり、同時に「『お父さん』から『女性たち』へ」というターゲット手法です。
それは「ニュース表現の作り手」という「表現制作者の主体性」の立ち位置にまでは近寄れてはいない印象批評にとどまるものです。
この理由からして、境さんの論稿は「NEWS23は『やさしさ』に向かっているのではないか」との的外れな結語が出てきます。
「ニュース」を論じるのに、「やさしさ」という感情的な形容を使うのは筋違い、だと僕は考えます。
やさしさって?
「やさしさ」という感情的な形容はその構造的な内実を明らかにはしません。
中味のはっきりしない曖昧な言葉です。
これは、境さんに示唆を与えた、「今の若者たちは『やさしさ』を求めているのではないか」という大学教授の言説も同様です。
「やさしさ」って何、なんでしょうか?
一見もっともらしく聞こえるこの手の印象批評的な形容詞に出会った時に、「ニュース」のみならず現場の「表現製作者」が必ず腹の中で思うことは、「それ、具体的にわかるように言ってよ!」です。
「表現」を産み出す人間は、まず「何を、どのように、形にするか」を考えるものなのです。
『NEWS23』の中味の変化
さて、変化の具体的な中味について、です。
これは境さんが論稿の冒頭で触れられていた「アンカー・星浩の位置」が大きなヒントになります。
「アンカー」って何をする人?
まずは素直に考えてみましょう。
『NEWS23』というニュース番組の「アンカー」とは誰なのでしょうか。
そもそも「アンカー」とは、陸上競技のリレー走においてバトンを受け継いで走る最終走者のこと。
ですから「ニュース番組」の制作過程で言えば、多くの報道記者たちが日本や世界のあちこちで起こった
出来事を取材して集め寄り、その中からデスク担当や編集長が「テレビニュース」として伝える事柄を選択し、それらを「テレビニュース」用に編集加工して、最後には「ニュース番組」を通して視聴者に伝えるのです。
その「ニュースの最終伝達者」のことを「アンカー」と言うのです。
ここから明らかなように、『NEWS23』の「アンカー」は小川彩佳なのです。
決して「星浩」ではないのです。
そして、「アンカー」という言葉が生まれた米国のニュース番組を見ればわかるように、「アンカー」は「アナウンサー」とは違います。
単に、報道記者が書いた原稿を読むだけではなく、自らが取材して報道記者としての経験を積み上げて、政治・経済・社会について語る知識や見識を持つ人間のことを「アンカー」と言い、それが女性の場合は「アンカーウーマン」と呼ぶのです。
したがって米国では「アンカー」や「アンカーウーマン」と呼ばれる人は、一流のジャーナリストであり、大統領に単独でインタビューしたり、政治家と政策論議が交わせたりするほどの人物であり、多くの人の憧れの存在であり得るのです。
そして、本来は「日本のニュース番組」でも、このような米国流の「アンカー」を目指した番組や人物が居たのです。
年代的に言えば、1960年代から70年代、80年代にかけてです。
当然のことですが、こういった人たちの「ニュース番組」では、その人が「ニュースの最終伝達者」たりえているので、パネラーのような解説者は不要です。
よほど専門的な事柄についての解説を必要とする場合のみ、その道の専門家を呼べば良いからです。
ちなみに『NEWS23』が、かっては『筑紫哲也のNEWS23』という名前だったのは、TBS報道のこの歴史的経緯を踏まえたものです。
また、FNNフジテレビは、この位置に、フィリピンのマルコス政権の崩壊を現地からレポートした安藤優子を起用しました。今は見る影もなく、単なる「ワイドショーの野次馬談義の仕切り役」となっているのはとても残念なのですが。
また、ANNテレビ朝日は、久和ひとみという女性をその位置に起用したのですが、彼女は40歳で早逝してしまいました。
「アンカー」と「アナウンサー」の違い
さて、このような経緯があった後に、「日本のテレビニュース」は「アンカー」が責任を持って情報を送り出すスタイルから、「アナウンサーが進行するニュース番組」へと変質していったのです。
「アナウンサー」はテレビ局の社員であって、100人近く居る「ニュース製作組織」の一員です。
したがって、「ニュース」という表現行為において、その責任も発言権も「アンカー」とは重みと役割が全く違います。
平たくわかりやすく言えば、「アナウンサー」にとって最も求められる機能とは、報道記者の誰かが書いた原稿を、聞き取り易い声ではっきりと読む能力、です。
「ニュース番組」の中で、「アナウンサー」は決して「私は~と思う、~と考える」という一人称を使いません。
現在の日本のテレビ報道では、進行者が「私」を使ってはいけない、という不文律が支配しているのです。
もっとも近頃では、「スポーツ」や「食べ物」などの趣味嗜好に関することだけは許されるようになりました。
しかし、今でも、政治・経済・社会、などの「ニュース」の根幹を成す出来事については「アナウンサー」が一人称で語ることはありません。
日本の夜ニュースに一時代を画した、あの『ニュースステーション』においてすら、久米宏は「私はニュースキャスターではありません。司会進行役にすぎません」と言っていました。
客観性を装うテレビニュースの構造
この原因については、いくつかあるのですが、最大の原因は「日本のテレビニュースの言語形式」が「新聞の言語形式」、つまり「『私』を排除した、無署名性の言語形式」をひな型にして始まったことにある、と僕は考えています。
もう一つの大きな理由は、1950年に「放送法」が制定された際に米国から導入された「公正原則(フェアネス・ドクトリン)」です。この時に「客観報道」という表現形式が「テレビニュース」の原則となり、客観性を保持するための外形的手段として「私」という表現主体の明示を隠すようになったのです。
さて、こうして「客観性の保持」の名のもとに、本来は必ず存在しているはずの「表現製作者の表現意図」を代弁する役割として、「日本のテレビニュース」は進行役以外の「ご意見番的解説者」を常に置くようになったのです。
テレビ朝日『報道ステーション』における後藤謙二の存在と役割が、その典型的な例です。
かつて後藤氏の席に座っていたのが、現役の朝日新聞論説委員であったことからもわかるように、後藤氏の意見が朝日新聞グループの政治的見解や社会的解釈を代弁していることは誰の目にも明らかです。
富川悠太アナや徳永有美アナや、背後の作り手が「思ってはいるが言えないこと」を後藤氏が代わりに言っている、という構造になっています。
このスタイルは、日本テレビ『ニュースZERO』においても同様で、本来はフリーのキャスターになったのですから有働由美子が彼女なりの政治・経済・社会についての見識を述べればよいのに、そうではなく必ず誰か有識者や著名人のゲストを横に相席させています。
そして、時には全くの門外漢の分野の出来事についても意見感想を求めたりするので、的外れでとんちんかんな発言が出たり、あるいは当たりさわりのない無意味な発言になったりするのです。
スタジオ空間の設計―『NEWS23』星浩の位置の意味
さて、『NEWS23』の「星浩」の座り位置の問題、に帰りましょう。
境治さんが指摘したように、新生『NEWS23』では、星浩の座り位置が小川彩佳の並列横ではなくて、上手の90度ほど横位置になっています。
それは、境さんが解釈したように「お父さん的なご意見番」の役割縮小ではありません。
また、小川彩佳&山本恵里伽、という2Sの「女性が中心になって伝えるニュース」という意図でもありません。
ここで最も気付くべきは、「テレビカメラに正面から向き合っているのは小川彩佳だ!」という点なのです。
小川彩佳は、本来の「テレビニュース」があるべき「アンカーウーマン」を目指そう、としているのだと僕は思います。
そして、米田浩一郎プロデューサーを始めとするTBSの報道スタッフは、この志向性において同じ考えを共有して動いているのだと推察します。
「ニュース番組」のみならず、スタジオ空間を設計する時に、「表現製作者」としてプロデューサーやディレクターが最も悩み、気を使うのは、その空間がどのような表現思想を体現する空間であるか、という点です。
新生『NEWS23』において、金色のパイプオルガン風のセットの良し悪しばかりが取り上げられますが、その評価よりも、小川彩佳と山本恵里伽と星浩の3人の座り位置と顔の向き、前テーブルの形の方が重要な意味を持っている事に気づいて欲しい、と思います。
アンカーウーマンの萌芽
1つの「ニュース番組」の背後には、100人以上の制作スタッフが居ます。
そのスタッフ達が作った映像素材が、小川彩佳の後背部から出て小川を通してテレビカメラの向こうにいる視聴者に伝えられます。
また、山本アナは制作スタッフの編集加工した原稿を集約して小川に伝える形で読み、小川に聞かせると同時に視聴者に伝えています。
そして、小川彩佳は重要だと判断したニュースについては、彼女なりの論評コメントを述べます。
その際の言語には、まだ不十分ながらもしっかりと「私」という叙述の一人称が含まれています。
国際政治や国内政治の裏面の動きや意図の汲み取りなどが必要な時には、星浩の解析を求めます。
つまり、新生『NEWS23』においては、「ニュース」という情報の発信経路と伝達責任がとてもわかりやすく成されているのです。
これが新生『NEWS23』が他のニュース番組に比べてとても見やすいニュースになっている、ことの構造的な理由です。
このことは、ニュースの組み立て方にも良く表れています。
新生『NEWS23』では、番組頭から、国際政治・国内政治・社会的事件などが、「公益(パブリック・インタレスト)」の判断基準に従って適切な順序で並べられ、適切な尺で扱われている、と思います。
そこに、目先の視聴率を狙ったような「センセーショナルなラインアップ」は見られません。
また、映像素材の過度なBG付けや、大仰なナレーション付けもありません。
おそらく、プロデューサーや編集長と小川彩佳は、取り上げるニュースについてしっかりと意見交換をしていると、僕は推測します。多分、口論も交えて。
局の社員アナや、「アンカー」意識の低いキャスターが進行する「ニュース番組」ではそうではありません。
背後に居る制作スタッフが作った素材が、事前チェックなしに無批判に、生のニューススタジオに投げ出される方が多いのです。
その場合、スタジオで進行役だけを演じているキャスターは知らん顔してスルーする等、コメントなしで自分の表現責任を回避する、という方法を取ります。
新生『NEWS23』で記憶に残る特集
小川彩佳が、おそらく「ニュース」の選択や編集加工にも彼女なりの考えをぶつけているだろう、と推測されるのは、このひと月間の特集コーナーのラインアップから読み取れます。
特に僕の記憶に残ったものを二つほど取り上げておきます。
1つは、6月12日(水)放送。
「香港の民衆デモ」に関して、スタジオにゲストとして「周庭(アグネス・チョウ)」を招いた時。
「周庭」さんは、2014年の「雨傘運動」と呼ばれた民衆デモの中心メンバーの一人で、その時「民主の女神」と呼ばれた現在22歳の大学生です。
今、香港が面している政治的・社会的状況について「周庭」さんがゆっくりした日本語で懸命に話すのを、小川はゆったりと落ち着いて聞いていました。
性急な予定調和的結論をぶつけることなく、です。
簡単そうに見えますが、これは生番組をやっている人間にとってはとても大変なことなのです。
僕には、この時の「サブ(副調整室)」に居る多くの制作スタッフの苛立ちが手に取るようにわかりました。
その後に予定している「スポーツ」などの素材出しの時間に影響するからです。
しかし、小川は「周庭」さんが自分の思いを述べ終わるまで、無用な口を挟まずにしっかりと聞いていました。
もう1つは、6月26日(水)放送。
「Xジェンダー」について、です。
LGBTにも含まれない性的マイノリティである「Xジェンダー」の人に小川自身が面接取材したもの。
「Xジェンダー」とは「男女二分法」では捉えられない「男性・女性のどちらでもない性自認者」のことなのですが未知の概念ゆえに、なかなか理解もしにくいし説明もしにくいものなのです。
この時のインタビューは決してわかりやすい応答ではありませんでしたが、「わかりにくい事柄」にも取り組もう、という小川や制作スタッフの意図は良く伝わりました。
やろうとしていることを応援したい
最後に、僕は決して「小川彩佳」さんや『NEWS23』の政治的意見や社会事象解釈に賛同する者ではありません。
しかし、「小川彩佳」さんが日本で久しぶりに「アンカーウーマン」を目指そうとしていること、そして米田浩一郎さんを始め新生『NEWS23』の制作スタッフたちが、これまで歪んできた「日本のテレビニュース報道」に「署名性の言語」を持って挑戦しよう、としていることにエールを送りたい、と思うのです。
再び、映画『アンカーウーマン』を紹介したい
ちなみに、これまでの「日本のニュース報道」や「ニュースをネタにした情報娯楽番組」や「女子アナ」という存在が、いかに日本特有の病理的現象であるかを知りたい人のために、1本の米国映画を紹介しておきます。
それは、1996年・米国映画『アンカーウーマン』です。
監督:ジョン・アブネット 主演:ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー
DVD・ブルーレイ: アンカ−ウ−マン/ロバート・レッドフォード限定盤:オンライン書店Honya Club com
これは、全米ネットワークのひとつ、NBCで活躍した「実在のアンカーウーマン」ジェシカ・サヴィッチをモデルとして作られた映画です。
彼女は、1983年に36歳の若さで事故死し、「悲運のアンカーウーマン」とも呼ばれています。
私たち「日本の近代」は、そして「日本の戦後メディア」は、決して「あたりまえ」ではなく、「表現行為の原点」から見たらとても歪んでいるのだ、という事に早く気が付いて欲しい、と僕は考えています。