吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「日本のテレビ報道」の歪みをチェックする

大学で「マスコミ論」を講義しています。

日々の新聞やテレビニュースを題材にして、その「ニュース表現」に込められた「表現者の意図」を読み取る力を身に付けよう、という授業です。

読み取る入口となるのは、「表現」を成している「ことば」と「映像」です。

 

で、ここ1週間の「ニュース番組」をチェックしていて、特筆すべきものが2つありました。

1つは、テレビ朝日報道ステーション1つはよみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.です。

授業でも扱ったのですが、ここでもう一度私なりの解析と感想を書きます。

 

 

 

514放送 テレビ朝日報道ステーション

「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群、世界文化遺産へ」というニュースから

報ステ独特の取り上げ方

ほとんどの局のニュースでは、歓迎すべき「明るいニュース」として取り上げていたのですが、『報ステ』だけは、とても特異な取り上げ方をしていました。

 

まず、ニュースのリード(導入部)で、徳永有美アナが、

仁徳天皇陵古墳と呼んでいますが、多くの謎に包まれています」と、入りました。

うん、日本の古代史を巡る「謎」の話題かな? と思って見ていたのですが、富川アナの進行や、間に挟み込まれた学者のインタビューを聞いていたら、話の流れは違う方向のようです。

 

話は、「謎の多い日本の古代史」を巡る歴史ロマンについてではなく、「イコモス(国際記念物遺跡会議)」へ世界文化遺産登録を申請した文化庁の「施策の進め方」へと焦点が合わされていきます。

やがて、「学術的な面からして、被葬者が特定されていないのだから『大仙(だいせん)古墳』と呼ぶのが適切であり、それを『仁徳天皇陵』との呼び名だけで申請した文化庁の方針は良くない」という主張がわかってきました。

 

後藤謙次氏のトンでも主張

そして、VTRやパネル説明が済んだ後で、スタジオに居る解説者の後藤謙次共同通信客員論説委員)氏がしゃべり始めるのを聞いていて驚きました。

「今回のことは、維新と安倍政権の距離の近さの現れ、です。

大阪府政・市政を押さえている維新のために、政府が全力をあげて進めたのです。

その向こうには憲法改正を目指している安倍政権が補完勢力としての維新を応援した、という見方が成立するのです」と。

 

「えっ?」と、思いました。

後藤さん、いくらなんでも無茶苦茶な論理でしょう。

報道ステーション』の基本的なスタンスが、ここ数年の放送内容からして、反・憲法改正であり、反・安倍政権であり、反・維新であることは、もはや一般視聴者の目には明らかなことですが、それにしても、これは「無理くり」というものでしょう。

 

「安倍政権のあらゆる施策には、最終目的として憲法改正があり、今回の文化施策もその一環ととしてとらえるべきである」との意味合いの後藤氏の結語に対して、

「ふんふん、色々なことがつながっているんですね」と徳永アナが応え、後藤氏は満足気にうなずいているように私には見えました。

 

ここに至って、冒頭リード部の徳永アナの「多くの謎に包まれています」が、単に「仁徳天皇陵」を巡っての「謎」ではなく、今回の「世界遺産指定を目指す安倍内閣文化政策」そのものの「謎」という含意であったことが明らかになりました。

 

報ステに見るイデオロギー報道

何でもかんでも政権と官邸のせいなの?

これは、どう考えても「論理の飛躍」です。

世界遺産指定を目指す施策」と「憲法改正に向けた政治的意図」が結びついているとは、私のような一般の視聴者にはとうてい思いつかない論理です。

だとしたら、後藤氏や『報ステ』は、これまでに尽力した地元の自治体や住民たちのことは、どう評価するのでしょう。

また、先例としての「宗像・沖ノ島と関連遺産群」のケースや、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産群」のケースについては、どういう「政治的意図」があったと説明するのでしょうか。

 

「百舌鳥・古市古墳群世界遺産勧告へ」という今回の『報ステ』のニュース報道は、反・憲法改正、反・安倍内閣、反・維新勢力という政治的信条が先に「表現製作者」の頭の中にあって、その考えに事象の一部分をつなぎ合わせて編集するという「イデオロギー報道」の典型だ、といわざるを得ません。

 

 文体が嘘をつく――客観風文体

こういう報道においては「ことばの現れ」として必ず、「叙述の主語」を隠して「客観報道」の態を取る、という文章スタイルが特徴的に出てきます。

つまり、「そういう見方が成立するなどという客観風文体です。

そうではなく「私はこう見ます」という常識的な日本語で言えば、「あ、これは後藤謙次さんという人の個人的な事象解釈なんだな。それにしても、とても変わった見方をするもんだなぁ」と視聴者は受け止めることができます。

 

同様に、『報ステ』における後藤謙次さんの「ことば」では、「政権は」とか「官邸は」とかを形式上の主語にした解説がしばしば使われます。

この場合でも私はそう思う」という、本来の叙述上の主語は隠されています

 

嘘を補強する 映像演出

こういった「客観性を装った主観的な報道文体」こそが、『報道ステーション』だけでなく日本のマスコミが抱えている最大の病理だと、私は考えています。

また、こういった「隠された恣意性」は「映像」にも良く表れていて、今回の「報ステ」のニュースでワイプ用にとあらかじめ用意された「維新」の映像は、去る地方選の際の「にこやかな顔の松井市長&吉村知事」の2Sの顔でした。

それはいかにも時代劇の「越後屋」風に、「この二人は安倍政権の官邸とつながっていて、悪事を企んでいるんですよ」とでも思わせるような「映像」の使い方です。

このような「姑息な映像演出」は、視聴者にはとっくに感じ取られているのだ、ということにマスコミはそろそろ気づくべきだ、と私は思います。

 

 

こうして、「ことば」や「映像」を、「表現を作る人間」の立場から見ていくと、その「表現」に込めた「製作者の意図」を読み取ることができます。

今回の『報ステ』の「百舌鳥・古市古墳群世界遺産へ」というニュースは、まさしく「その向こう」に、「安倍政権や維新は、憲法改正を目指す悪い政治勢力なのだ」という政治的メッセージを含んだ「企み」だった、ということがとても良くわかるニュースでした。

 

 

510日(金)放送  よみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.

 性に関わる人権感覚の欠如

学生たちからの指摘を聞いて、確認しました。

関西ローカルの「報道情報番組」である『ten.』の中の、「町歩きYTR」コーナーで今回は、大阪・十三(じゅうそう)をロケしていた「お笑い芸人・藤崎マーケット」の二人が、たまたま小型犬を散歩させていた人に「いきなりインタビュー」をした、というもの。

 

その内容は、「あの人は、うちの店に来る人なんやけど、男か女かわからんから確かめてや」との飲食店の女将さんと思しき人からの耳打ち相談を受けて、「藤崎マーケット」の二人が、その方に、「彼女はいますか?」と尋ねて性別を確認したり、保険証の性別欄を確認したり、「おっぱいあります?」と聞いて胸を触るなどして、「正真正銘の男でしたわ。これで疑問は解決!」というロケVTRでした。コーナータイトルは『迷ってナンボ!』。

 

で、VTRが終わって、スタジオで中谷しのぶキャスターが「十三には色んな人がいらっしゃいますねぇ」などとニコニコ笑いながらV受けトークを展開し始めたところ、出演パネラーの一人である若一光司(わかいちこうじ)さんが、

「今のVTR、二人目の方のインタビューですが、許しがたい人権感覚の欠如です。個人のセクシュアリティに関して、こういう形で踏み込むべきじゃないです。いったい、どういう感覚なんですか、この番組は。報道番組ではないのですか」と怒りをあらわにしました。

予期せぬ反応に、中谷キャスターともう一人の女子アナは表情が凍りつき、なんら返答することも出来ないまま、慌てて誤魔化してCMに入りました。

 

さて、この放送についての私の感想です。

まったくもって、若一さんの反応の方が社会常識にのっとっており、「出演者と製作者」全員としての「よみうりテレビ」の方が間違っていると思います。

あの取材VTRは、「性に関わる人権」の感覚を著しく欠いています。

知らない人に、いきなり「性」に関わる個人的なことを聞き、保険証の性別欄を見せてくれるよう依頼したり、胸を触る、などの行為は明らかな「セクハラ」です。

 

 責任は誰にあるのか?――番組制作の構造

そして次に、今回の問題を「番組製作の構造・仕組み」の視点から解析してみます。

これは、私自身が「ニュース」を含む「情報番組」を長年にわたって製作してきた経験に基づいての解析です。

(昨日の、515日(水)の『ten.』において「検証番組」が20分にわたり放送されたそうですが、私はそれを見ていません。この「検証番組」については16日木曜日の朝日新聞朝刊の記事に依拠して論じます。その「検証番組」の中で、以下に挙げるような点がきちんと説明されていれば良いのですがーーどなたか、このブログを読んだ方、後刻教えてくださると嬉しいです)

 

1.取材VTRの編集担当ディレクター

さて、誰もがわかるように「表現の責任」は、まずは「取材VTR」の担当ディレクターにあります。

ロケ当日に、吉本興行所属のタレント「藤崎マーケット」の二人を使って町ロケをして、その取材VTRを後日に編集したディレクター氏です。

そのディレクター氏は、あの内容を「人権上の問題があるインタビュー」だとは認識していなかったから放送の素材として使ったのでしょう。

もしも「問題がある」と認識していたのなら、ロケはしたけれども放送には使わない、という選択ができたはずですから。

 

そしてここでは、そのディレクター氏がよみうりテレビの社員であるのか、または下請けの制作会社の社員であったのか、も大切な要素です。「反省を踏まえた今後」につながる、からです。

報道番組だからと言って必ずしもテレビ局の社員である報道部員がディレクターをしているわけではありません。

制作会社のディレクターやフリーの契約ディレクターがコーナー担当をしていることは良くあることです。特にタレントを使う場合には社外スタッフの方が多いです。

そして、もし今回の場合、町ロケ担当が社員以外であった場合に気を付けなければいけないのは、その担当者だけが責任を負わされる、つまり発注を切られて終わり、になるケースが多い事です。

 

 2.藤崎マーケットの責任は軽微である

さて、それでは映像の末端として、実際にインタビューをしたタレント「藤崎マーケット」二人の責任はどうでしょう。

私の考えでは、二人にも「表現責任」の一端はあるけれどそれは軽微である、と思います。

なぜなら、タレントはテレビ局から出演の発注を受けて仕事をする立場、つまり「表現制作」の構造においては権力的に下位の位置にあるからです。

特に、まだ若いタレントの場合には「これは何やおかしいなぁ」と思いながらも、だからといって現場で「この内容ではロケできません」とは言いにくいでしょうし、出来ることといったら頑張って「笑いを産むような面白いロケ」に尽力することでしょう、から。

 

 3.放送日の全体ディレクター

問題は、ここから先、つまり「ロケ現場」を離れた先、です。

ten.』は、午後350分~午後6時まで、2時間10分枠の報道情報番組で、(月)~(金)のベルト番組です。

放送に際して、その日の全体を統括してスタジオのD卓(番組進行や映像切り替えを指示するポジション)に座っているのは、よみうりテレビの社員ディレクター(D)だと考えられます。

なぜなら、放送責任は最終的には「公共財である電波を使って放送すること」を許認可されている放送局にあるので、通常D卓には放送局の社員が座ります

 

2時間に及ぶ番組なので、番組内にはいくつかのコーナーがあって、そのそれぞれを担当するコーナーディレクターが複数人居て、その上には必ず当日の番組全体を統括してスタジオ展開を司る全体ディレクターが居ます。

そのディレクターが、各コーナーの素材VTRの時間や内容をチェックして放送に臨むのです。

通常で考えて、各曜日には一人の責任ディレクターが居り、その上に担当プロデューサー(Pが居ます。更に、その上に全曜日の放送枠に責任を持つ総括プロデューサーが居ます。

 

4.組織構造上の問題と担当者の意識の問題

また、メイン司会者は番組進行のために事前に素材V制作担当Dや進行担当Dと一緒になって素材のVTRを見て、内容を確認することが多いです。(見ない場合もあります。)

更には、素材VTRを完成させるまでには、編集マンや音付け担当のSEマンの作業も必要です。

この編集マンやSEマンは、制作会社所属のスタッフであることの方が多いです。

 

これでわかるように、通常では素材VTRは放送に至るまでに幾つかの段階で複数の人間の目に触れています。そこで、「これ面白うないで」とか「ちょっと短くしようや」とか「ここちょっと危ないんちゃうの」とかの様々なチェック作用が働きます。

 

今回の『ten.』の「検証報道」では、事前にVTR素材を見ていたのがロケV制作担当者とよみうりテレビの担当Pの二人で、「担当Pが事前に2回にわたって見ていながらチェックが働かなかった」(16日付け朝日新聞による)となっています。

そこで、浮かび上がってくるのは「組織」の構造上の問題と、担当者の「意識」の問題です。

 

 5.手薄で安易な制作体制

まず、「組織」の構造上の問題から。

素材VTRを事前に見ていたのが、ロケV担当のDと局の担当Pの二人だけだった、というのはさすがに手薄で安易な制作体制だと言わざるを得ません。

これでは「人権」の要素だけでなく、「面白さ」や「スーパー表示の正誤」や「スポンサーの商品底触」などの他の諸要素をチェックできるのが担当P一人の段階で終わるからです。

(ただ、格別のケースもありまして、ロケV担当のDがそれまでの実績からしてとても信頼に足る優秀なDの場合は「スタジオ初見で、見てのお楽しみ」という場合もあるのは事実です)

しかし、この点については、今後複数の人間が事前にVTRPV(プレビュー・事前に見ること)に関わることによって補正できるでしょう。

 

 6.放送局社員の意識の低さ

次に、担当者の「意識」の問題です。

言わずもがなですが、こちらの方がより一層大切な問題です。

いくら10人が関わって10の段階でチェックしても「意識」が伴っていなければ問題の素材VTRはチェック機能をスルーしてしまいます。

今回の『ten.』で問うべきは、こちらの方、つまり「よみうりテレビ」全体としての「表現意識」の問題だと思います。

もちろん、事前チェックの役割を担うべきだった担当Pの「人権意識への鈍感さ」は責任を免れるものではありませんが、若一光司さんに指摘されるまで気が付かなかった中谷キャスター(社員アナウンサー)、スタジオに居たという報道局解説デスクの小島康弘さんの「人権意識の低さ」も、責任を免れるものではありません。

また、当日スタジオには技術系の社員や、営業・編成の複数の社員居たはずです。

その中から「これはアカンやろ」という声は上がらなかったのでしょうか。

その人たちが、当該VTRを見てどのように感じたのか、感じなかったのかを自覚的に問うことが本当の意味での「検証」の第一歩だと思います。

 

そして、多くの「よみうりテレビ社員の目」をスルーしてVTRが流れた中で「このVTRは人権感覚を欠いている」と声を出した若一光司さんに敬意を表します。

なかなか、生番組の際中にこのような発言はできないものです。

 

 本当の「再生」のために

重ねて言います。

515日(水)の「検証番組」を見ずに私はこのブログを書いているのですが、「検証」が、番組制作上の構造や、各段階で従事している社員の「表現意識」の実情をきちんと把握したものでないかぎり、「再生への一歩」とはなりません。

今回の出来事はとおりいっぺんの「謝罪」や「コーナーの廃止」で終わるものではなく、もっともっと根深いものを含んでいます。

今回の出来事で、常日ごろ「人権」や「性の多様性」を声高に標榜している日本のテレビメディアの内情はこの程度なのだ、ということが露わになりました。

そして、よみうりテレビの出来事を取り上げて非難している他のテレビ局や新聞メディアもさして大差はありません。

 

公共性の自覚が薄れているマスメディア

今回の出来事を引き起こした根本的な要因は、新聞やテレビといった旧来のマスメディアに従事している人間が「公共性」という視点を薄弱化させている点にある、と私は考えています。

テレビに関して言えば、「テレビ局は『国民共有の財産である電波』を使わせてもらっている許認可事業であり特権的な位置を賦与されている」ことへの自覚を欠いている、と私は思います。

「電波の独占的使用」という特権を与えられているからこそ、テレビ産業は他に比べて高い利益を出せるのであり、テレビマンは社会的に高い地位を付与されているのです。

しかし、「特権」にはそれを裏付ける「相応の責務」が存在しています。

それは「放送は多くの人の利益に資するためのもの」という「放送表現の公共性」に対する自覚です。

NHKだけでなく民間放送にあっても、この「公共性」は法律的にも倫理的にも要請されているものなのです。

 

 みんな放送法を読もう

今回の事例は、「情報産業の特権的地位」に安住して「倫理感覚」を低減した、日本のテレビ産業従事者たちの「意識」の現れ、だと私は見ます。

繰り返し、繰り返し、言っていることですが、すべてのテレビ局は社員教育の第一歩として経営者と従業員が一緒になって「放送法」の条文を熟読するところから始めるべき、だと思うのです。