吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

M-1審査員コメントの読み解き方と炎上への感想

大学で「マスコミニュケーション論」なる授業をやっています。

講義の核にしているのは、「表現」の背後にある「表現発信者」の気持ちや意図を読み解く、ということです。

で、学生たちの間でも「M-1」が話題となっており、先週も何人かの学生から「M-1審査員のコメント」をどう理解すればよいか、の質問がありました。

そこで、学生への返答かたがた、それについての私の考えを、以下に書いてみます。

 

おりしも、ネット上では、「M-1」終了後にネット配信された、「とろサーモン」の久保田さんと「スーパーマラドーナ」の武智さんの発言が問題になっています。

私は、直接その場で(打ち上げの居酒屋の場で)音声を聞いていないので、考える根拠としてネット上のニュース配信や5ちゃんねる、まとめサイト等で読んだ文章と、Youtubeで見たその動画に頼ることにします。

 

例の動画とは

さて、ニュース配信等によれば、久保田さんと武智さんは、審査員であった上沼恵美子さんの評価コメントに対して以下の発言を自分のスマホを通して配信した、というものでした。

酒に酔った勢いと思われる語尾部分などを捨象して、二人の発言の要旨を抜き出してみましょう。

 

久保田「自分の感情だけで審査せんとってください」

   「審査員の方、1回劇場に出てください」

   「お前だよ、一番お前だよ。わかんだろ、右側のな、クソが」

   「演者やから、あんたがつけた点数とこっちが付けた点数一緒でありたいやん」

 

武智「嫌いです、って言われたら更年期障害かって思いますよね」

  「売れるために審査員するんやったら辞めてほしい」

 

??「暗いのよ、って言われたら、じゃぁ明るかったらオモロイんか、っていう話

 

こういったところでしょうか。

さて、それではお二人の発言と行為について、

①その発言内容

②発言を流布した行為

の、二つの点から考えてみましょう。

 

発言内容の問題点

①久保田さんと武智さんの発言内容、についてです。

まず、久保田さんですが、前提となるべき「演じることと評価すること」の関係がまったく理解できていません。

そして「M-1」なるイベントの意義も理解できていません。

更には、先輩芸人さんたちの過去の実績について、あまりにも無知すぎます。

そして、武智さんですが、彼も「漫才」という話芸のことがわかっていないし、久保田さんと同様に、前提となる事実について、あまりにも無知すぎます。

何より、「漫才」という話芸は「ことば」を使って、お客さんを笑わせる芸能です。

それなのに、これほど自分が使う「ことば」について鈍感で、傲慢で、ひとりよがりの人間は、大衆を相手にする「漫才」という芸能には向いていない、と私は思います。

 

さて、このことを、順を追って見てゆきます。

結論から言うと、私の考えでは、久保田さんと武智さんは「上沼さんのコメント」の意図を正しく読み取るべき「言語リテラシー能力」に欠けています。

このことは、上に書いたことの裏表で、自分の使う「ことば」について鈍感で傲慢な人は、他人の「ことば」に対しても鈍感で、「ことば」の奥にある気持ちを感じ取ろうとしていないことから起こるものです。

そして、他人の「ことば」を読み取れない、ということは、上沼さんのコメントだけでなく、同時に松本人志さんや立川志らくさんら、他の審査員のコメントをも正しくは読み取れていない、ことを表しています。

 

M-1」という大舞台で、それこそ多くの若手漫才師が人生のかなりの物を賭けて登場している場で、審査員として壇上に居るベテラン芸人さん達が、単なる「好き・嫌い」で評価点を出しているわけがありません。

大人なら、少し冷静に考えればわかることです。

もちろん、人間ですので「好き・嫌い」の感情的な評価要素は入りますが、審査員諸氏は豊富な経験に立脚して、感情を上廻るほどの論理的な評価基準を持っていて、それを基に判定を出しているのです。

審査員も、自分たちの「芸能評価眼」を賭けて、コメントを発しているのです。

 

例えば上沼さんの場合、それこそ芸歴50年の人生の中で、数多くのコンテストの場に立ち、数多くの評価コメントに晒され、更には視聴者からの無数の批評コメントを浴び、そこを勝ち抜き生き抜いて、現在の立ち位置を獲得しているのです。

彼女は「審査員コメント」の持つ重さを、誰よりも知っている人です。

熾烈な芸能の世界において、全国ネットのテレビ番組の司会の位置や、自分の名前を冠した番組を持って、それを長年にわたって維持することが、どれだけ大変なことであるか。

M-1」の決勝戦に出るくらいのお笑い芸人なら、そういった事実への敬意を忘れてはなりません。

 

さて、久保田さんの「審査員の方、一回舞台に出てください」ですが、多分これは上沼さんに対してのことなのでしょう。

久保田さん、武智さん、まさかこんな事も知らないとは信じられないのですが、上沼さんは「海原千里・万理」として十五歳から漫才を始めて、あなたがたの何十倍もの舞台を経験してきた人なのです。

念のためにお教えしておきます。

 

「権力」ではなく「能力」

さて、久保田さんは、上記の発言の後、「abemaTV」で放送された番組「NEWS RAP JAPAN」で、次のようなラップを披露しています。

 

「年長者、権力者に意見をすることは正しいことでも罪人悪人のように吊るし上げられ」

「権力に逆らえない自分の生き方を変える勇気がないのか」

 

これがもし自身へのバッシングに対する答えなら、全く筋の違った勘違い発言です。

「権力」「意見」「正しいこと」「勇気」、すべての単語の意味と使い方を間違えています。

上沼さんや、松本さんや、オール巨人さんが、今の立ち位置にあるのは「権力」の問題ではなくて、「能力」の問題です。

そして、久保田さんが言ってるのは「意見」ではなく、ただの「悪口」に過ぎません。

それこそ、低いレベルでの「好き嫌い」であり、ひとりよがりの「正しさ」です。

さきほど述べたように、「ことば」を生業とする人間が、このような間違った手前勝手な「ことば」づかいをするようでは、およそプロとは言えません。

 

さて、「M-1の審査」という場において、審査員から発せられる「好き」や「嫌い」のコメントは、単なる感情表明ではなく、象徴的な批評語だと受け取るべきだと思います。

それらは、前後の発言や文脈をよく聞いていれば、内実が明らかになってきます。

いわば、「上沼語」「松本語」「志らく語」なのです。

その背後に、その審査員ならではの評価基準に裏打ちされた、たくさんの批評コメントが隠されている、ことを読み取らなければいけない、のです。

「ことば」を生業とするお笑い芸人なら、もっと「ことば」について繊細で敏感でなければいけない、と思います。

 

M-1」の場合、審査員諸氏は、登場してきた若手芸人に対して、直接にコメントをぶつけてゆきます。

それは、一般視聴者が聞けばよくわからないようなコメントであっても、そこに出てくるほどのお笑い芸人ならばわかってくれるよね、という思いの込もったコメントです。

そして、芸能には、独特の比喩や表象の「ことば」でなければ語れないことがあります。

ですから、一般の視聴者には、かなりの翻訳が要る場合も出てきます。

 

ギャロップとミキの違い

例えば、「ギャロップ」に対して、松本人志さんが、

「いうほど禿げてないよなぁ」と言い、

上沼さんが、

「自虐ネタはあかんのよ、10年間、何してたん」

と、重ねて言ったコメントは、松本さんと上沼さんに共通理解があることを表しています。

 

二人が言ってることの意味は、

――林さんの頭は、かなり綺麗なハゲ頭で、どちらかと言えば可愛く見える。

  単に、頭が禿げてるから、と言って、それがネタになると思うのは思慮が浅い。

  世間の人が、自分の容姿やその頭をどう受け止めて見ているか、という冷静な自己認識と相対化の視点があって初めて「笑える自虐ネタ」が成立するんだよ。

と、いうことなのです。

 

瞬時にして、隣同士でこのことが理解できるのが、松本さんと上沼さんのレベルなのです。

話芸のスタイルは違っていても、一流のお笑い芸人同士は、お互いの力量を認め合っているのです。

だからこそ、島田紳助さんも松本人志さんも、上沼恵美子さんに直接に「M-1」の審査員をお願いしたのです。

そして、一瞬キョトンとしていた「ギャロップ」が、このコメントの意図を正しく理解できたら、彼らの芸は上達するでしょう。

松本さんのコメント、上沼さんのコメントは、一見わかりづらくて、ややもすれば否定的コメントのように聞こえますが、実はとっても建設的な批評コメントなのです。

 

こういったことが見抜けない芸人は、そこまでの芸人だと言って構わないでしょう。

ギャロップ」に対するコメントが正しく理解できた人には、「ミキ」に対する上沼さんの、

「この自虐ネタは、突き抜けている」

が、理解できることでしょう。

それは、決して「ミキ」の芸を「好き・嫌い」の次元で判断していコるメントではありません。

 

今回の「ミキ」のネタでは、お兄ちゃんのブサイクが芯になっています。

が、ふつうの眼で見れば、お兄ちゃんの「昴生」くんは、それほどのブサイクでもデブでもありません。

しかし、比較対照としての「ジャニーズ」を設定したことにより、それとの比較で、さらには横に居る弟の「亜生」との比較で、自虐の笑いが成立していくのです。

この点を、上沼さんは「比較の対象に設定した地平がいい、そことの比較があるから自虐がはじけて明るく笑える」と、的確に評しているのです。

同じ自虐ネタに見えますが、「ギャロップ」と「ミキ」では相当の開きがあるのです。

この点を、上沼さんは両者の点数の差に示しているのです。

この意味するところを、「ギャロップ」さんにわかって欲しいのです。

そして、その上でオール巨人さんが、

「うるさい、と感じられなければええんやけどね」と、二人の欠点を指摘しています。

一流芸人の審査員同士による、見事な連携プレーのコメントです。

 

漫才は「大衆芸能」

「漫才」はお客さんが楽しく笑ってナンボの「大衆芸能」です。

暗かったらアカンのです、明るくないとアカンのです。

久保田さん、「漫才」の最終評価は幅広い不特定多数のお客さんが採点するのです、決して演者自身の自己評価点が絶対ではないのです。

そのためにこそ審査員が存在しているのです。

自分の採点だけが絶対なら、ファンだけ集めた仲間内ライブをしていてください。

 

志らくさんの、

「とてもうまい、うまいけど魅力ある人格が出てきたら負けるよね」も、

――芸能にとって技量は大切な要素だが、演者の人間的な魅力の方がもっと重要だーーという、彼なりの演芸観を言い表していて含蓄がありました。

 

久保田さんと武智さんには否定的な評価をこそ聞いてほしい

さて、もう、ここまで解説すれば明らかです。

とろサーモン」の久保田さん、「スーパーマラドーナ」の武智さん、のお二人には一流先輩芸人の「ことば」の奥を読み取る想像力と言語能力が欠けている、と僕は言わざるを得ません。

上沼さんのみならず、審査員諸氏の「好きやわぁ」や「嫌いです」などの短いコメントの背後には、とても豊かで役に立つ批評が隠されているのに、それを、まるで素人のようなレベルで「好き嫌いで判断してる」と受け取ることしか出来なかったお二人。

しかも、自分の理解能力の無さを、実に多くの視聴者に露呈してしまったお二人。

残念です。

 

人は、自分に好意的な評価は耳に入り易く、否定的な評価は聞きづらい、ものです。

しかし、否定的な評価こそが、人を磨いて育てることが多々あります。

特に、芸能の世界では。

そして、一流になる芸人さんたちは、必ず他人の意見を謙虚に聞いて、そこから自分の技量を高める努力をしてゆきます。

 

 SNSで流しちゃいかんよ

さて、②の、発言を流布した行為、についてです。

ちょうど金曜日の大学の授業でも「SNSの功罪」を説明したところでした。

久保田さん、武智さん、の発言が飲み屋での私的な会話ならば何も問題はありません。

誰だって、愚痴や悪口は吐くものですから。

しかし、お二人は自ら進んで、この発言をSNSで生中継して発信されました。

今や、中高生でもわかるように、生中継をするスマホ画面の向こうには数百万人の、いや数千万人の視聴者が居ますよね。

SNSは、誰もが情報の発信者になれると同時に、その反面、実に多くの受信者を相手に情報発信の責任を取ることをしなければいけません。

これが、SNSについてのメディア・リテラシーの基本です。

 

お二人が、これから、発言を撤回しようと、上沼さんに謝罪しようと、今回の情報発信の事実をナシにすることはできません。

SNSはとても便利ですが、とても怖いメディア、なのです。

 

問題を起こしたタレントが「干される」理由

そして、もし私が現役のテレビ局のプロデューサーであったとしたら、今後お二人を私が担当するテレビ番組で使うことはありません。

なぜなら、テレビとは「国民共有の財産」である電波を使って、「公共の福祉」に資する目的のために許認可されているメディア、だからです。

そういったメディアにおいて、メディア・リテラシーの根本を理解しておらず、「更年期障害のオバハン」などと言う、差別的な発言を平気でする人は、出演者として適格性を欠いている、と思うからです。

こわくて使えないのです。

 

久保田さんは、昨年、1000万円の賞金を獲得されましたが、今回のことで1億円の出費をされたに等しく、武智さんは賞金を獲得することなく、1000万円の出費をされたに等しい、と思います。

お二人が失ったものは、あまりに大きかった、と言わざるを得ません。

マス・メディアの中で働く、ということは、本来かくも難しいことなのです。

一流のお笑い芸人になるためには、こういったことを、独りで熟考し、独りで悩み、独りで苦しまなければならないのです。

そういった苦闘の果てに、大衆に届く「自分のことば」を見出した人だけが、数少ないスターになれるのであり、「M-1審査員」の席に座れるのです。

 

 

先輩芸人たちの苦闘や、数えきれない屍のおかげで、今やたくさんのお笑い芸人さんたちが、社会的な地位の向上を勝ち得、マスメディア出演者の位置を得るに至りました。

しかし、その多くの人たちが、単にテレビに出て有名人になること、金儲けの手段としてお笑い芸人の道を選んでいること、その結果として「お笑い芸人のことば」が弱く貧しくなっていることが、今回はからずも明らかになったのは皮肉です。

 

どうか、たくさんの「お笑い芸人」のみなさん、そしてたくさんのテレビ制作者のみなさん、もう一度、初心に帰って自分の立ち位置を考えようではありませんか。

「笑いの神様」が与えてくれた格好の機会だ、と思って。