吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

審査員に求める「言語化」能力――M-1感想へのコメントに答えて

様々なコメントを頂きました。

お礼と捕捉の意味を込めて、このブログを更新します。

 

なるほどなぁ、そういう受け止め方も確かにあるな、と思いつつ皆さんのコメントをじっくりと読ませていただきました。

もちろん、芸能であれ、文章であれ、「表現」は受け取る人間の百人が百様に自由に解釈すれば良いので、今回の「M1」についての私のブログも、読んでくださった皆様に私の考えを押しつけるものではありません。

皆さんのお返事の文章から、いくつかの思考のヒントを得ることができたことを、とてもありがたく感謝しています。

前回のブログでは書ききれなかったことを、少し捕捉しつつ、以下を書きますね。

 

テレビにも思想性が必要なのだ

まず、私がもっとも言いたかったことは、「M-1」がスタートから18年を経て、なまじビッグなテレビ番組になったがゆえに、少し変質してしまい、企画当初に内包していた「思想性」を忘れつつあるのではないか、ということです。

これは、主に、私の後輩たちであるテレビ制作者に対するメッセージ、です。

 

たかがテレビのお笑い番組に、「思想性」なんかあるのか、と思われるかもしれませんが、時代を画するような番組には、必ず「思想」の裏付けがあるのだ、と私は考えています。

これは、私が拙著『お笑い芸人の言語学』にも書いたことですが、1980年代の「漫才ブーム」が、なぜあれほどの時代思潮に成りえたかの理由は、ブームを牽引した島田紳助ビートたけしの二人が、戦後日本の「標準化思想」に対抗して、「標準語化されたお笑いの『ことば』への反逆」を意図していたから、だと私はとらえています。

その結果として生まれた「漫才ブーム」は、やがてブームが去ったあとも、テレビの中の「ことば」を変え、私たち一般大衆の日常生活の「ことば」さえ変えるほどの大きな社会的余波をもたらしてくれました。

それまで、「標準語」の下に劣位言語として低く見られていた「方言」――関西弁や東北弁や博多弁や沖縄ことば、など――が、テレビの中でも、丸の内のオフィスでも、ある程度ですが堂々と使えるようになった、ことなどが、その社会生活上の現れです。

 

「思想」に裏付けられていない「表現」は劣化する

さて、「M-1」を紳助さんが発案し、私と意見を交わしたのが2000年、すでに「漫才ブーム」から20年が過ぎていました。

紳助さんや、たけしさんや、さんまさん、ダウンタウン、などの活躍のおかげで、多くのお笑い芸人がテレビ出演者の位置を獲得することができるようにはなりました。

が、その人たちの多くは、有名になりたい、や、金を儲けたい、などの目先の欲望だけが契機となっていて、「時代と社会」に何かをぶつけたい、という「志」が欠けているのではないか、というのが紳助さんと私との共有認識でした。

これが、紳助さんの「今の若手芸人の『ことば』は弱くなっている」の真意だと、私は今でも思っています。

 

そこから、「M-1」の現実化が始まったのですが、番組の形態としては「漫才コンテスト」という形を取りました。

その結果、「M-1」はテレビソフトとしては成功したのですが、だんだんと「コンテスト」の要素だけが突出するようになりました。

しかし、「思想」に裏付けられていない「表現」は、次第に劣化するものです。

私は、ここ数年の「M1」に、その現れを感じているのです。

古来、どのような「表現」も、歳月を経て、広がるに連れて、変質してゆくのは仕方のないことではあるのですが。

 

「勢い」を言語化できる審査員が欲しかった

さて、以上のことを踏まえて、今年の「M1」の作りを構造的に見てみます。

まずは、審査員の選定ですが、7人中の6人が「漫才のベテラン先達」になっています。

これでは、審査の基準の根底が「漫才という話芸」の中だけでの優劣、になりますよね。

私は、もう少し視野を広げて「ことば芸」全般の視野でとらえた方が良い、と考えます。

 

ちなみに、1回目、2回目では、劇作家の鴻上尚史さんや、落語家の立川談志さんや、小説家の青島幸男さんに審査員として入ってもらいました。

それと、野球において「名プレイヤー、必ずしも名監督ならず」と同じで、「名・漫才師、必ずしも名審査員ならず」です。

実演の技能と、評価の技能、は違うものだと思います。

審査員にとって大切な要素は、「ぶれない評価の基軸」をしっかり持っていることで、その上で初めて、「一発勝負のドラマ」性の醍醐味が増すのだ、と私は考えているのです。

 

私は決して、「勢いに乗った勝利」を否定しているわけではありません。

確かに、今年の「霜降り明星」の勢いは、目を瞠るものがありました。

ただ、願わくは、彼らの「勢い、とは何か」を明確に言語化できるだけの能力を持った審査員が欲しかったな、と思っているのです。

ここは、ひとえに、審査員をキャスティングする制作者たちの能力の問題です。

 

この「ぶれない評価の基軸」をしっかりと持っているかどうか、は採点の振幅の多少に現れます。

つまり、評価点に高低差が大きく出せるのは、良い審査員の証なのです。

逆をいうと、10組の演者に対して、さほどの高低差がつけられないのは、良き審査員とは言えないのです。

80点台が付けられるかどうか、は大事なことなのです。

また、読み違えてはいけないのは、「好きやわぁ」とか「私には、わからへん」とかの評価コメントが堂々と言えるということは、評価の論理をふまえて嗜好に達しているのであり、とても優れた批評コメントなのだ、ということです。

これを、単なる「好き嫌い」で採点しているかのように受け取るのは浅薄な間違いです。

 

ライブ観客とテレビ視聴者の相関性

さて、ご指摘のもうひとつの点、「観客」の問題について、です。

これも、私は決して、スタジオに来てくださった「若い女の子たち」を否定しているわけではありません。ありがたいお客さんだ、と感謝しています。

なのですが、スタジオのフルショットを見ればわかるように、観客席250のうち、前部の200人分がほとんど若い女の子、で、後部50に少しだけオジサン・オバサンが配席されていました。

これでは、ライブの笑いに偏りが生じますよね。

 

「M1」はテレビ番組です。

目の前の観客250人に対して、カメラの向こうには2000万人の茶の間の視聴者が居ます。

作り手は、このことを踏まえて番組を作らなければならない、と思うのです。

 

おそらく、紳助さんが言った「テレビの向こう側の兄ちゃんを笑わせなあかん」は、テレビというメディアの特性をしっかりと捉えているのだ、と思います。

後輩たる制作者たちには、客席の比率配分などを考えるよう、反省を促したいと思います。

そして、審査員の諸氏の何人かにも、目の前の客席の反応を踏まえた上で、なおかつカメラの向こう側にいる多くの視聴者の反応に思いを巡らすことのできる卓越した批評眼を望むものです。

 

 

以上のことは、テレビ表現を生業として35年、そしてたまたま「M1グランプリ」というテレビ番組の立ちあげに携わった私の個人的な批評です。

なにはともあれ、私は「テレビ」が大好きです、そして「お笑い」が大好きです。

これからも、あれこれ言いながら、神様が私の人生に与えてくれた「テレビ」を楽しみ、「お笑い」からたくさんのことを学んでゆきたい、と思っています。