吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

『響-HIBIKI-』が予想外におもしろかった

今日は目下公開中の新作響-HIBIKI-の、僕なりの感想です。

この映画、僕には「表現作品」と「表現者」の関係性について、また、「表現作品の質」と「商業性」の関係性について、という、結構「表現行為の本質」に迫る問題意識をはらんだ、意欲的な作品だと思われました。

単なるアイドル映画にはおさまりきらないオモシロサを感じました。

もっとも、こんな見方は一般的ではなくて、ひねくれているかも知れませんが。

 

 

 

アイドル映画かと思いきや

さて、『響き-HIBIKI-』は、アイドルグループ「欅坂46」のセンター・平手友梨奈(ひらてゆりな)の初主演作。

世間の関心は、もっぱら人気アイドル・平手友梨奈ちゃんの魅力の発揮度合いにあったようですね。

映画館の客席のほとんどは、高校生や大学生など若い人たちでしたから。

僕は、平手友梨奈のことは良く知らず、近頃テレビで見る「飲むヨーグルト~ヤクルト・ミルミル」のCMに出てくる、ちょっとクールな短髪の女の子、がそうなんだ、というくらいしかわかっていなかったんです。

 

ですが、主演が人気アイドルグループのセンター歌手で、原作がマンガ大賞2017で大賞を受賞した『響~小説家になる方法~』で、監督が『君の膵臓を食べたい』月川翔で、製作・配給が東宝、という枠組みからして、きっと月並みなアイドル映画だろう、と予測してたんです。

ところがどっこい、予想は裏切られました。

 

あらすじ

話の筋立ては、すごい文才をもつ高校一年生・15歳の主人公、鮎喰響(あくいひびき)が、新人文学賞に『お伽の庭』なる小説原稿を送るものの、住所などの記載事項不備のためボツ原稿になるところを若い女性編集者が目にとめ、そこからやがて芥川賞直木賞の同時受賞にまでに至り、文学界や世間を揺るがしてゆくことになる、という物語。

 

 

情緒的な劇伴音楽のない造り

映画が始まってしばらくしたらわかるのですが、この手の映画には付きものの「感情移入を誘う、情緒的な劇伴音楽」がありません。

そう、美男美女の主人公への感情移入を強要する、わかりやすい安直な作り、ではないんですよね。基本的に台詞劇です。

 

 

この映画の音質の悪さは俳優のせいじゃない

ただ、残念なことに、台詞劇なのに、映画の音質が悪い。

特に映画の前半部は、声がとても不明瞭です。

これは、役者のせいではなく、たまたま僕が見た大阪・梅田TOHOのスクリーン8の再生機材の問題のせいもあるのでしょうが、多くは撮影時の録音担当さん、あるいは、編集時の整音担当さんの問題だと思われます。

(すみません、これは映画の制作プロデューサーをやっていた僕の推測ですが)

 

 

書きたいから書く?売れたいから書く?

高校の文芸部の失礼な先輩に対して、指の骨を折るほどの怪力を発するとか、校舎の屋上から飛び降りて無傷であるとか、マンガチックなところはあるのですが、後半になって、「作品~評価~出版~受賞」のくだりになると、俄然おもしろくなってきます。

 

それは、主人公の鮎喰響が、「私は書きたいから書く」「書きたいものを書くんだ」という態度を貫くのに対して、彼女以外の登場人物の多くが「書いて売れたい」という功利的な姿勢の持ち主たちだ、ということが明らかになってくるからです。

この対比の描き方が、とても面白いです。

 

祖父江凛子アヤカ・ウィルソン)――高校の文芸部の部長であり、響の友人でもある。

その父親は、ヒット作を次々と産み出す世界的な人気作家であり、ソフエストなる熱狂的なファンを持つ祖父江秋人。これって、村上春樹のパロディーですよね。で、その父親の威光を借りてでも有名小説家になろうとする凛子と、それを商売に利用せんとする出版社の編集長。

鬼島仁北村有起哉)――過去に芥川賞を獲ったが、それ以降はちゃんとした作品が書けずに、今はテレビなどの露出で稼いでいる小説家。

田中康平(柳楽優也)――響と同じタイミングで「木蓮」新人賞を受賞するが、授賞式で、響にパイプ椅子で殴られる。

山本春平小栗旬)――工事現場で肉体労働をしながら芥川賞を狙う青年作家。

矢野浩明野間口徹)――週刊誌の記者で、響をしつこく追いかける。

芥川賞直木賞の受賞会見の時に、響から飛び蹴りをくらう。

 

こういった登場人物たちは、みんな「出版ビジネス」にとり憑かれています。

彼らの立ち居振る舞いは、少しはカリカチュアされていますが、「うん、あるある」「居る、居る、こんな人」とクスクス笑えました。

「書きたいから書くんだ」という信念を貫こうとする主人公の響は、こういう「売れてナンボ」という商業主義と立ち向かっているのです。

 

 

芸術と商業の相克

一見すると、現在の出版業界への軽い揶揄に過ぎないとも見えるのですが、一歩突っ込んで考えれば、実はここには表現者にとっての表現行為」と「表現作品の質と商業性」という、かなり深い問題意識が植えこまれている、と僕は思うのです。

それは、小説に限らず、詩・短歌、そして絵画・彫刻、さらには音楽・演劇、テレビ番組や映画そのもの、といった「表現」すべてにあてはまる問題なのです。

 

作者は人間として大嫌いな奴だが、作品はオモシロイ、

ものすごい努力をしているが、作品はオモシロクない、

良質な作品だが、売れない、

こういったことは、どんな「表現」の世界でも良くあることです。

 

 

鮎喰響は、ボツ原稿箱から原稿を拾ってくれた編集者・花井ふみ(北川景子)に対して、「あなたが、原稿をオモシロイと思ってくれたらそれでいい」と言います。

また、週刊誌記者の矢野が、「人格的に問題のある作家の作品を世間の人は読もうと思わないでしょう」と言ったのに対して、「世間なんてどうでもいい、あなたが私の作品を読んでどう思ったのかよ」と言います。

ここには、「表現を作る人間」と「表現されたもの」との対自的な関係についてのしっかりとした洞察が潜んでいます。

 

 

映画監督月川翔の問題提起

そして、この映画を作ったのが東宝であり、月川翔(つきかわしょう)と言う映画監督である、ということがとても興味深いのです。

なぜなら、東宝は何よりも「客の入る映画」であることを映画製作の第一義にしてやってきて、その結果「邦画は東宝のひとり勝ち」という寡占状況を作り上げてきました。

そして、月川翔『黒崎くんの言いなりになんかならない』や、『君と100回目の恋』『君の膵臓を食べたい』など、美男美女の俳優を使って、それこそ「確実に売れる映画」を作ってきた映画監督だから、です。

その月川翔が、あえて「商業主義」に対抗する「表現者の志」を内包した映画を作ったのです。

月川翔は、単なる「青春恋愛映画のうまい作り手」ではなかったんだ、と思い直しました。

そして、東宝の映画製作者たちにも「ベタベタな映画」作りだけではなく、こういった問題意識を表現する気概があるんだ、と見直しました。

もっとも逆に、東宝だからこそ出来る余裕なのかも知れませんが。

 

 

 

いずれにしても、おそらく、映画『響-HIBIKI-』にアイドル映画の爽快感を期待して見に行った人たちは、肩すかしをくらっただろう、と思います。

しかし、僕は、「商業映画」の枠組みを外さないで、そこに確信犯的に「表現者の志」を忍びこませた『響-HIBIKI-』の作り手たちの心意気に、拍手を送りたい、と思うのです。

そして、「欅坂46」のセンター歌手・平手友梨奈ちゃんは、なるほど近頃では珍しいクールな魅力を備えた可愛いい女の子、でありました。

 

 

 

 

 

8月の半ば以降、少々、ブログ書くのを怠ってました。

「まことさん、大丈夫ですか、倒れてませんか?」と心配メール送ってくださった方々、ありがとうございました。大丈夫です、吉村は元気です。

8月の死ぬような暑さ、大雨と停電、北海道の地震、と続き、一方ではボクシング協会の問題から体操界のパワハラ問題と、めまぐるしく動く世の中にキョロキョロしてるうちに時間がたった、という次第。

で、その間、実は映画漬けの日々でした。

きっかけは、日本ボクシング協会の山根会長の携帯着メロが「ゴッドファーザー」だったことで、あれをきっかけに映画「ゴッドファーザー」をパートⅠ・Ⅱ・Ⅲ、と久しぶりに通して見たんですね。

そしたら、何だか「いい映画、もっと見た~い」心に火がついて、名作旧作の鑑賞連鎖にはまってしまいまして、結局8月半ばから今日までのひと月で、新作旧作合わせて50本を見てしまいました。