吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

『Mrサンデー』西日本豪雨の報道―日本のテレビマンの倫理意識の堕落

大学の前期授業の終わりにあたって、女子大生たちの「近頃、気になったニュース報道」として、

西日本豪雨の際の、『Mrサンデー』の水没する車」のことを初めて知りました。

 

大学で「マスコミュニケーション論」を教えている立場として、日々のデイリーのニュースはかなりの程度チェックしてるつもりだったのですが、日曜日放送のフジテレビ『Mrサンデー』は抜け落ちていたので、知らなかったのです。

で、おくればせながら、ネットでチェックしてみました。

そして、本当に驚きました。

何に驚いたかというと、この映像を撮った撮影クルーの倫理観の欠如と、それ以上にこの映像をOAにかけたフジテレビの報道局社員たちの倫理観の欠落、に、です。

 

フジテレビ 『Mr サンデー』の豪雨報道

問題のニュース映像は、フジテレビで7月8日(日)の22時~23時15分にかけて

『Mrサンデー』で放送されたもので、水没しつつある軽自動車に取り残されている運転者を地元の青年が、あわやのところで救出した、というもの。

で、ネット上で批判が続出し、多くの学生たちにもそこから情報が伝わった、ということでした。

 

さて、この問題について、私なりの考えを述べます。

 

今回の件について、最も重い責任を負うべきは、フジテレビ報道局の社員プロデューサー及び社員ディレクター、です。

なぜなら、現場からどのような素材が上がってきたとしても、それを放送OAにかけるかどうかを判断し、その放送内容に責任を負うべきは、社員のPおよびDおよびデスクだからです。

 

まっとうな放送局のまっとうな社員ならば、この映像がOA素材として不適切であることくらいは即座に判断できなければいけません。

現場のスタッフの目の前で、実際に人の生死がかかった現実が起こっており、しかも救出に向かおうとしている人が周囲に助力を求めている状況が明らかな事態で、傍観者としてカメラを回していることは、人間として失格であることは明白です。

 

ネット上に飛び交った「人命より特ダネかよ」という多くの意見は、視聴者としてしごくまっとうな感想です。

 

で、この現場にいてカメラを回し続けたカメラマンが、フジテレビ報道技術局の社員なのか、それとも下請け制作技術会社のカメラマンなのかは、わかりません。

また、その現場にいたのがカメラマン一人だったのか、あるいはディレクターや音声担当スタッフをも含む複数だったのかもわかりません。

 

そして、そのいずれであるとしても、東京のフジテレビの社内にいて、現場から上がってきた映像素材をOA素材として使うにふさわしいか否か、を判断する内勤の社員ディレクターやデスクやプロデューサーがいたはずです。

テレビ表現において、局社員はメディア・ヒエラルヒーの上位者の地位にあります。

結果として、この映像が『Mrサンデー』で放送された、ということは、それらのディレクターやデスクやプロデューサーという複数段階での社員がみなそろって、この映像を「問題なし」とし、「おいしい特ダネ映像」と考えた、ということを表わしているのです。

 

ここ、こそが重要な問題、なのです。

取材現場にいた人間から、東京本社にいるディレクターから、デスクからプロデューサーから、はては当日スタジオに居たMCからゲスト出演者に至るまで、何段階もあったであろうチェックレベルで、この映像が素通りしたことが問題なのです。

 

電波は国民共有の財産

このブログでも何回か書きましたが、放送局は私企業ではありますが、そのインフラである「電波」は国民共有の財産であり、だからこそ放送局は許認可事業者として独占的に電波を使うことを許されているのです。

この原点に立ち返れば明らかなように、テレビ局の基本的な責務は、「公共の利益」に資するためのものでなければならず、だからこそ「ニュース報道」が放送番組の基礎となっているのです。

そして、「公共の利益」とは、視聴者たる国民一人一人の利益の総体であることからして、その国民のある一人の生命が危機に瀕しているような事態にあっては、「特ダネ映像」よりも、その人の救出の方が優先するのが当然なのだ、という論理が自然に導かれるのです。

「特ダネ映像」を優先させる論理と意識は、「公益」を忘れて「私企業の利益」を優先させる論理と意識に他なりません。

 

今回のフジテレビの『Mrサンデー・軽自動車水没映像』は、フジテレビという会社全体に「国民共有の財産である電波を使わせてもらっている」という考えが欠落している、ということを露呈させているのです。

 

日本のテレビメディアの病理

このことは、決してフジテレビだけの問題ではありません。

先日の「オウム真理教事件・死刑執行」の際のブログ

makochan5.hatenablog.com

でも書きましたが、あの「オウム真理教事件」の萌芽となった「坂本弁護士一家殺人事件」の際にTBSは、取材現場スタッフのレベルからデスクやプロデューサーに至るまで何段階にもわたって大きな過ちを犯しました。

しかし、今回の「死刑執行」の報道に際して、自分たちの組織が過去に起こした事実について、しっかりとした自己批判の報道をやりませんでした。

坂本弁護士事件がきちんと捜査されていたら、その後のサリン事件は起こらなかったかも知れない」と言われているにもかかわらず、です。

当時のテレビが、どこもこぞって「オウムを『半笑い』で取り上げた。半笑いで付き合っていれば危うくない、と考えた」ことは斉藤環さんが鋭く指摘しているとおりです(7・27読売新聞 朝刊)。

 

同様に、目の前の人命よりも「特ダネ映像」をありがたがり、さらには後続のニュース番組では「誰かー!」という救助の声をカットして、大仰なナレーションを付けて報道するというフジテレビの報道姿勢は、災害報道すらも「半笑い」で、しょせんは他人事として扱っている、という日本のテレビメディアの病理と現実を表わしています。

 

日本のすべてのテレビ局は、今一度、「電波の公共性」という原点に立ち返って、経営者から社員に至るまで再教育をすべきである、と私は考えます。