それ違うんじゃないの?――新聞の小説評について
さて、少ししつこいようですが、芥川賞受賞作『あらおらでひとりいぐも』を巡る言説の中でどうしても見逃すことのできないのが新聞記者の論評です。
多くの新聞が、この小説を「老境を生きるための小説」だとか、著者を「こども時代の夢を叶えた人」だとか評しています。全くの「筋違い」だと僕は思います。
読売新聞「編集手帳」1・18朝刊
「若竹さん自身、岩手県出身で、作家をめざして何年も苦闘をかさねたが、かつてなじんだ方言に着目したとたん、筆が進んだという」
――この記者は、「方言」を小説を書くためのひとつの「文章手法」「テクニック」としてしか捉えていない、のが明らかです。
読売新聞「よみうり寸評」1・19夕刊
「子供の頃の自分を呼び戻す。それが生き生きとした第二の人生につながるという」
「若竹千佐子さんも、作家になることが小学校時代からの夢だったとか。ときには後ろを振り返るのもいい、」
――小説は、老後を生きるための「人生のハウツー本」ではありません。
――「言語」は、社会的栄達を手にするための「手段」ではありません。
「豊饒な東北言葉を駆使し、孤独を生きる女性を描いた」
「健康や家計と並んで備えておきたいのは、孤独の飼いならし方、老後の慈しみ方ではないか。『玄冬小説』の広がりに期待したい。」
――どうやったら、こんな読み違いに辿り着けるのでしょうか。
――この文章の書き手は、小説を読む時に楽しさなんて感じていないことが明白です。
この人たちは「ことば・言葉」を、単なる「道具」や「手段」としてしか捉えていません。
芥川賞を獲るための「道具」、夢を叶えるための「道具」、孤独な老後を生きるための「道具」、だと考えているのです。
そして、「文字」を駆使して、褒められる「上手い文章」を書いて、金を稼いで飯を食うための「道具」なのです。
これが、「文字優位の価値観」と「書き言葉・話しことばの標準語主義」に誑かされて、「書き言葉の標準語」で社会的上昇を手にした人の言語観なのです。
(僕は、拙著『お笑い芸人の言語学』で、東北大震災を巡る「天声人語」と「編集手帳」を酷評しました。そのせいかどうか、朝日新聞と読売新聞には拙著は完全に無視されました)
繰り返し、繰り返し、僕は言います。
「ことば」は、決して「何かをするための道具」ではありません。
「ことば」は、ヒトが人であるための存在基盤なのです。
「ことば」は、「生活」であり、「人生」そのものなのです。
若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、「わたし」の奥に潜む「おら」を取り戻すことによる「人生の再生の物語」に他ならないのです。