中村鋭一先輩のこと
全日本レベルで「エイちゃん」と言えば「ロックの矢沢永吉」のことでしょうが、関西圏で「エイちゃん」と言えば「六甲おろしの中村鋭一」のことなんですよね。
その「鋭ちゃん」こと中村鋭一さんが、11月6日に亡くなられました。87歳でした。
関西のスポーツ新聞は、各紙ともに裏一面で追悼記事を載せました。
中村鋭一さんは、1971年から77年にかけて朝日放送ラジオの『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、一人の出演者が生で長時間しゃべるというスタイルを初めて創りだしたことで民放ラジオの朝枠を変えました。出演者自らを「パーソナリティ」と呼び、聴取者を「リスナー」と呼ぶのも、この番組から始まったと言われています。
そして、何よりもあの「六甲おろし」ですよね。
熱烈な阪神タイガースファンだった鋭ちゃんが、「阪神タイガースの球団歌」のことを『六甲おろし』と呼んで、「さぁ、昨日は阪神が勝ったンやから朝から元気よく『六甲おろし』いこかぁ」と叫んで、「六甲颪に颯爽と、蒼天翔ける日輪の~」と高らかに歌ったところからこの歌が関西人みんなに拡がっていったんですよね。
型を破った「鋭ちゃん」ことば
で、このような功績の源はどこにあるのか、を考えてみたいのです。
中村鋭一さんの最大の功績は、「アナウンサーたる者は必ず標準語でしゃべらなければならない、そして放送は不偏不党であるべきだ」と言われていた時代に、堂々と「滋賀弁なまりの関西弁」でしゃべり、堂々と「わしは好きも嫌いもある一人のおっちゃんや」と宣言したところにあるのだ、と僕は思うのです。
つまり、「一人の生活者」として「訛りのある生活ことば」を、初めてラジオで駆使したアナウンサーであった、ということこそが日本のメディア言語史上に残る鋭ちゃんの最大の功績ではないでしょうか。
『六甲おろし』は、その現れが大きく結実した一つなんだと思います。
「鋭ちゃん」を支えたスタッフの思想
とは言いながら、鋭ちゃんのこのようなスタイルが出来上がった陰には、彼を支えた製作スタッフの優れた表現思想があったことをここで明かしておきたいと思います。
日本で初めてのパーソナリティ番組でどうしゃべったらいいのか思案していた鋭ちゃんに、プロデューサーの中川隆博さんがこう言ったのです。
「中村さんは滋賀の生まれでしょ、標準語なんかやめて関西弁で、とにかく自分の言葉でいきましょうや」
「中村さんは阪神ファンでっしゃろ、徹底的にタイガースの肩もってやりましょうや」
この言葉が、朝のラジオに革命をもたらしたのです。
名馬の陰に名伯楽あり、ですよね。
(このことは、僕が朝日放送に勤めていた時の仄聞と、「朝日放送50年史」に依ります)
「どこにもオモロイ人が生きてるなぁ」という口癖
さて、1977年に番組を降板し朝日放送も退社して中村鋭一さんは参議院選挙に出たのですが、その時は落ちました。
そして次の選挙までの間、77年~80年まで中村さんはテレビ番組『ワイドサタデー』(土曜午後3時~4時)の司会を勤めました。その時のディレクターの一人が僕だったんです。
『ワイドサタデー』は朝日放送を幹事局にして、四国放送や宮崎放送や九州朝日放送などの7局が系列をまたいだクロスネットという変形的なスタイルで共同制作する「生の旅番組」でした。西日本の各地を、海辺・山合い・町中・村の畑から生中継するという番組で、中村さんと一緒に、西日本の色々な山間海浜を旅しました。
20歳も年下の僕を「まことくん」と呼んで、「海も空も山も川も、日本は綺麗やなぁ、そんでどこにもオモロイ人が生きてるなぁ」と言うのが口癖でした。
一匹も釣れなかった『ワイドサタデー』
いまだに忘れられない『ワイドサタデー』のシーンがあります。
それは、愛媛県松山沖の来島海峡で、地元の「鯛釣り名人」に自称「釣り名人・鋭ちゃん」が挑むという企画でした。頃は4月、名物の桜鯛を釣り競う、という狙いです。
「さぁ、一時間でなんぼほど釣れるやろ。番組終わったら、鯛の刺身に鯛飯焚いて宴会やでぇ」と番組頭から張り切った中村鋭一さん。
ところが、10分経っても20分経っても、あたりの気配も無し。
「名人、どないなってますのんやろなぁ」と鋭ちゃん。
すると、名人が「ワシも長いことここで鯛釣りよるけんど、こないなことは初めてじゃなぁ。今日は来島の鯛連中は波の下でみんな横になって寝とるんじゃろ」
結局は、滋賀弁の鋭ちゃんと伊予弁の鯛釣り名人の二人が、ひねもす春の来島海峡の風景を借景に、人生のよもやま話しをする一時間となったのでした。
そして、僕が担当した『ワイドサタデー』の中で、この「一匹も釣れなかった来島海峡の鯛釣り」こそが最高の出来だったのです。
中村鋭一さまへ
「陽気に、楽しく、いきいきと」しゃべることこそが人生にとって最も大切なことなんだ、と教えてくれた中村鋭一さんに心より御礼を申し上げます。