吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「日本のテレビ報道」の歪みをチェックする

大学で「マスコミ論」を講義しています。

日々の新聞やテレビニュースを題材にして、その「ニュース表現」に込められた「表現者の意図」を読み取る力を身に付けよう、という授業です。

読み取る入口となるのは、「表現」を成している「ことば」と「映像」です。

 

で、ここ1週間の「ニュース番組」をチェックしていて、特筆すべきものが2つありました。

1つは、テレビ朝日報道ステーション1つはよみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.です。

授業でも扱ったのですが、ここでもう一度私なりの解析と感想を書きます。

 

 

 

514放送 テレビ朝日報道ステーション

「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群、世界文化遺産へ」というニュースから

報ステ独特の取り上げ方

ほとんどの局のニュースでは、歓迎すべき「明るいニュース」として取り上げていたのですが、『報ステ』だけは、とても特異な取り上げ方をしていました。

 

まず、ニュースのリード(導入部)で、徳永有美アナが、

仁徳天皇陵古墳と呼んでいますが、多くの謎に包まれています」と、入りました。

うん、日本の古代史を巡る「謎」の話題かな? と思って見ていたのですが、富川アナの進行や、間に挟み込まれた学者のインタビューを聞いていたら、話の流れは違う方向のようです。

 

話は、「謎の多い日本の古代史」を巡る歴史ロマンについてではなく、「イコモス(国際記念物遺跡会議)」へ世界文化遺産登録を申請した文化庁の「施策の進め方」へと焦点が合わされていきます。

やがて、「学術的な面からして、被葬者が特定されていないのだから『大仙(だいせん)古墳』と呼ぶのが適切であり、それを『仁徳天皇陵』との呼び名だけで申請した文化庁の方針は良くない」という主張がわかってきました。

 

後藤謙次氏のトンでも主張

そして、VTRやパネル説明が済んだ後で、スタジオに居る解説者の後藤謙次共同通信客員論説委員)氏がしゃべり始めるのを聞いていて驚きました。

「今回のことは、維新と安倍政権の距離の近さの現れ、です。

大阪府政・市政を押さえている維新のために、政府が全力をあげて進めたのです。

その向こうには憲法改正を目指している安倍政権が補完勢力としての維新を応援した、という見方が成立するのです」と。

 

「えっ?」と、思いました。

後藤さん、いくらなんでも無茶苦茶な論理でしょう。

報道ステーション』の基本的なスタンスが、ここ数年の放送内容からして、反・憲法改正であり、反・安倍政権であり、反・維新であることは、もはや一般視聴者の目には明らかなことですが、それにしても、これは「無理くり」というものでしょう。

 

「安倍政権のあらゆる施策には、最終目的として憲法改正があり、今回の文化施策もその一環ととしてとらえるべきである」との意味合いの後藤氏の結語に対して、

「ふんふん、色々なことがつながっているんですね」と徳永アナが応え、後藤氏は満足気にうなずいているように私には見えました。

 

ここに至って、冒頭リード部の徳永アナの「多くの謎に包まれています」が、単に「仁徳天皇陵」を巡っての「謎」ではなく、今回の「世界遺産指定を目指す安倍内閣文化政策」そのものの「謎」という含意であったことが明らかになりました。

 

報ステに見るイデオロギー報道

何でもかんでも政権と官邸のせいなの?

これは、どう考えても「論理の飛躍」です。

世界遺産指定を目指す施策」と「憲法改正に向けた政治的意図」が結びついているとは、私のような一般の視聴者にはとうてい思いつかない論理です。

だとしたら、後藤氏や『報ステ』は、これまでに尽力した地元の自治体や住民たちのことは、どう評価するのでしょう。

また、先例としての「宗像・沖ノ島と関連遺産群」のケースや、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産群」のケースについては、どういう「政治的意図」があったと説明するのでしょうか。

 

「百舌鳥・古市古墳群世界遺産勧告へ」という今回の『報ステ』のニュース報道は、反・憲法改正、反・安倍内閣、反・維新勢力という政治的信条が先に「表現製作者」の頭の中にあって、その考えに事象の一部分をつなぎ合わせて編集するという「イデオロギー報道」の典型だ、といわざるを得ません。

 

 文体が嘘をつく――客観風文体

こういう報道においては「ことばの現れ」として必ず、「叙述の主語」を隠して「客観報道」の態を取る、という文章スタイルが特徴的に出てきます。

つまり、「そういう見方が成立するなどという客観風文体です。

そうではなく「私はこう見ます」という常識的な日本語で言えば、「あ、これは後藤謙次さんという人の個人的な事象解釈なんだな。それにしても、とても変わった見方をするもんだなぁ」と視聴者は受け止めることができます。

 

同様に、『報ステ』における後藤謙次さんの「ことば」では、「政権は」とか「官邸は」とかを形式上の主語にした解説がしばしば使われます。

この場合でも私はそう思う」という、本来の叙述上の主語は隠されています

 

嘘を補強する 映像演出

こういった「客観性を装った主観的な報道文体」こそが、『報道ステーション』だけでなく日本のマスコミが抱えている最大の病理だと、私は考えています。

また、こういった「隠された恣意性」は「映像」にも良く表れていて、今回の「報ステ」のニュースでワイプ用にとあらかじめ用意された「維新」の映像は、去る地方選の際の「にこやかな顔の松井市長&吉村知事」の2Sの顔でした。

それはいかにも時代劇の「越後屋」風に、「この二人は安倍政権の官邸とつながっていて、悪事を企んでいるんですよ」とでも思わせるような「映像」の使い方です。

このような「姑息な映像演出」は、視聴者にはとっくに感じ取られているのだ、ということにマスコミはそろそろ気づくべきだ、と私は思います。

 

 

こうして、「ことば」や「映像」を、「表現を作る人間」の立場から見ていくと、その「表現」に込めた「製作者の意図」を読み取ることができます。

今回の『報ステ』の「百舌鳥・古市古墳群世界遺産へ」というニュースは、まさしく「その向こう」に、「安倍政権や維新は、憲法改正を目指す悪い政治勢力なのだ」という政治的メッセージを含んだ「企み」だった、ということがとても良くわかるニュースでした。

 

 

510日(金)放送  よみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.

 性に関わる人権感覚の欠如

学生たちからの指摘を聞いて、確認しました。

関西ローカルの「報道情報番組」である『ten.』の中の、「町歩きYTR」コーナーで今回は、大阪・十三(じゅうそう)をロケしていた「お笑い芸人・藤崎マーケット」の二人が、たまたま小型犬を散歩させていた人に「いきなりインタビュー」をした、というもの。

 

その内容は、「あの人は、うちの店に来る人なんやけど、男か女かわからんから確かめてや」との飲食店の女将さんと思しき人からの耳打ち相談を受けて、「藤崎マーケット」の二人が、その方に、「彼女はいますか?」と尋ねて性別を確認したり、保険証の性別欄を確認したり、「おっぱいあります?」と聞いて胸を触るなどして、「正真正銘の男でしたわ。これで疑問は解決!」というロケVTRでした。コーナータイトルは『迷ってナンボ!』。

 

で、VTRが終わって、スタジオで中谷しのぶキャスターが「十三には色んな人がいらっしゃいますねぇ」などとニコニコ笑いながらV受けトークを展開し始めたところ、出演パネラーの一人である若一光司(わかいちこうじ)さんが、

「今のVTR、二人目の方のインタビューですが、許しがたい人権感覚の欠如です。個人のセクシュアリティに関して、こういう形で踏み込むべきじゃないです。いったい、どういう感覚なんですか、この番組は。報道番組ではないのですか」と怒りをあらわにしました。

予期せぬ反応に、中谷キャスターともう一人の女子アナは表情が凍りつき、なんら返答することも出来ないまま、慌てて誤魔化してCMに入りました。

 

さて、この放送についての私の感想です。

まったくもって、若一さんの反応の方が社会常識にのっとっており、「出演者と製作者」全員としての「よみうりテレビ」の方が間違っていると思います。

あの取材VTRは、「性に関わる人権」の感覚を著しく欠いています。

知らない人に、いきなり「性」に関わる個人的なことを聞き、保険証の性別欄を見せてくれるよう依頼したり、胸を触る、などの行為は明らかな「セクハラ」です。

 

 責任は誰にあるのか?――番組制作の構造

そして次に、今回の問題を「番組製作の構造・仕組み」の視点から解析してみます。

これは、私自身が「ニュース」を含む「情報番組」を長年にわたって製作してきた経験に基づいての解析です。

(昨日の、515日(水)の『ten.』において「検証番組」が20分にわたり放送されたそうですが、私はそれを見ていません。この「検証番組」については16日木曜日の朝日新聞朝刊の記事に依拠して論じます。その「検証番組」の中で、以下に挙げるような点がきちんと説明されていれば良いのですがーーどなたか、このブログを読んだ方、後刻教えてくださると嬉しいです)

 

1.取材VTRの編集担当ディレクター

さて、誰もがわかるように「表現の責任」は、まずは「取材VTR」の担当ディレクターにあります。

ロケ当日に、吉本興行所属のタレント「藤崎マーケット」の二人を使って町ロケをして、その取材VTRを後日に編集したディレクター氏です。

そのディレクター氏は、あの内容を「人権上の問題があるインタビュー」だとは認識していなかったから放送の素材として使ったのでしょう。

もしも「問題がある」と認識していたのなら、ロケはしたけれども放送には使わない、という選択ができたはずですから。

 

そしてここでは、そのディレクター氏がよみうりテレビの社員であるのか、または下請けの制作会社の社員であったのか、も大切な要素です。「反省を踏まえた今後」につながる、からです。

報道番組だからと言って必ずしもテレビ局の社員である報道部員がディレクターをしているわけではありません。

制作会社のディレクターやフリーの契約ディレクターがコーナー担当をしていることは良くあることです。特にタレントを使う場合には社外スタッフの方が多いです。

そして、もし今回の場合、町ロケ担当が社員以外であった場合に気を付けなければいけないのは、その担当者だけが責任を負わされる、つまり発注を切られて終わり、になるケースが多い事です。

 

 2.藤崎マーケットの責任は軽微である

さて、それでは映像の末端として、実際にインタビューをしたタレント「藤崎マーケット」二人の責任はどうでしょう。

私の考えでは、二人にも「表現責任」の一端はあるけれどそれは軽微である、と思います。

なぜなら、タレントはテレビ局から出演の発注を受けて仕事をする立場、つまり「表現制作」の構造においては権力的に下位の位置にあるからです。

特に、まだ若いタレントの場合には「これは何やおかしいなぁ」と思いながらも、だからといって現場で「この内容ではロケできません」とは言いにくいでしょうし、出来ることといったら頑張って「笑いを産むような面白いロケ」に尽力することでしょう、から。

 

 3.放送日の全体ディレクター

問題は、ここから先、つまり「ロケ現場」を離れた先、です。

ten.』は、午後350分~午後6時まで、2時間10分枠の報道情報番組で、(月)~(金)のベルト番組です。

放送に際して、その日の全体を統括してスタジオのD卓(番組進行や映像切り替えを指示するポジション)に座っているのは、よみうりテレビの社員ディレクター(D)だと考えられます。

なぜなら、放送責任は最終的には「公共財である電波を使って放送すること」を許認可されている放送局にあるので、通常D卓には放送局の社員が座ります

 

2時間に及ぶ番組なので、番組内にはいくつかのコーナーがあって、そのそれぞれを担当するコーナーディレクターが複数人居て、その上には必ず当日の番組全体を統括してスタジオ展開を司る全体ディレクターが居ます。

そのディレクターが、各コーナーの素材VTRの時間や内容をチェックして放送に臨むのです。

通常で考えて、各曜日には一人の責任ディレクターが居り、その上に担当プロデューサー(Pが居ます。更に、その上に全曜日の放送枠に責任を持つ総括プロデューサーが居ます。

 

4.組織構造上の問題と担当者の意識の問題

また、メイン司会者は番組進行のために事前に素材V制作担当Dや進行担当Dと一緒になって素材のVTRを見て、内容を確認することが多いです。(見ない場合もあります。)

更には、素材VTRを完成させるまでには、編集マンや音付け担当のSEマンの作業も必要です。

この編集マンやSEマンは、制作会社所属のスタッフであることの方が多いです。

 

これでわかるように、通常では素材VTRは放送に至るまでに幾つかの段階で複数の人間の目に触れています。そこで、「これ面白うないで」とか「ちょっと短くしようや」とか「ここちょっと危ないんちゃうの」とかの様々なチェック作用が働きます。

 

今回の『ten.』の「検証報道」では、事前にVTR素材を見ていたのがロケV制作担当者とよみうりテレビの担当Pの二人で、「担当Pが事前に2回にわたって見ていながらチェックが働かなかった」(16日付け朝日新聞による)となっています。

そこで、浮かび上がってくるのは「組織」の構造上の問題と、担当者の「意識」の問題です。

 

 5.手薄で安易な制作体制

まず、「組織」の構造上の問題から。

素材VTRを事前に見ていたのが、ロケV担当のDと局の担当Pの二人だけだった、というのはさすがに手薄で安易な制作体制だと言わざるを得ません。

これでは「人権」の要素だけでなく、「面白さ」や「スーパー表示の正誤」や「スポンサーの商品底触」などの他の諸要素をチェックできるのが担当P一人の段階で終わるからです。

(ただ、格別のケースもありまして、ロケV担当のDがそれまでの実績からしてとても信頼に足る優秀なDの場合は「スタジオ初見で、見てのお楽しみ」という場合もあるのは事実です)

しかし、この点については、今後複数の人間が事前にVTRPV(プレビュー・事前に見ること)に関わることによって補正できるでしょう。

 

 6.放送局社員の意識の低さ

次に、担当者の「意識」の問題です。

言わずもがなですが、こちらの方がより一層大切な問題です。

いくら10人が関わって10の段階でチェックしても「意識」が伴っていなければ問題の素材VTRはチェック機能をスルーしてしまいます。

今回の『ten.』で問うべきは、こちらの方、つまり「よみうりテレビ」全体としての「表現意識」の問題だと思います。

もちろん、事前チェックの役割を担うべきだった担当Pの「人権意識への鈍感さ」は責任を免れるものではありませんが、若一光司さんに指摘されるまで気が付かなかった中谷キャスター(社員アナウンサー)、スタジオに居たという報道局解説デスクの小島康弘さんの「人権意識の低さ」も、責任を免れるものではありません。

また、当日スタジオには技術系の社員や、営業・編成の複数の社員居たはずです。

その中から「これはアカンやろ」という声は上がらなかったのでしょうか。

その人たちが、当該VTRを見てどのように感じたのか、感じなかったのかを自覚的に問うことが本当の意味での「検証」の第一歩だと思います。

 

そして、多くの「よみうりテレビ社員の目」をスルーしてVTRが流れた中で「このVTRは人権感覚を欠いている」と声を出した若一光司さんに敬意を表します。

なかなか、生番組の際中にこのような発言はできないものです。

 

 本当の「再生」のために

重ねて言います。

515日(水)の「検証番組」を見ずに私はこのブログを書いているのですが、「検証」が、番組制作上の構造や、各段階で従事している社員の「表現意識」の実情をきちんと把握したものでないかぎり、「再生への一歩」とはなりません。

今回の出来事はとおりいっぺんの「謝罪」や「コーナーの廃止」で終わるものではなく、もっともっと根深いものを含んでいます。

今回の出来事で、常日ごろ「人権」や「性の多様性」を声高に標榜している日本のテレビメディアの内情はこの程度なのだ、ということが露わになりました。

そして、よみうりテレビの出来事を取り上げて非難している他のテレビ局や新聞メディアもさして大差はありません。

 

公共性の自覚が薄れているマスメディア

今回の出来事を引き起こした根本的な要因は、新聞やテレビといった旧来のマスメディアに従事している人間が「公共性」という視点を薄弱化させている点にある、と私は考えています。

テレビに関して言えば、「テレビ局は『国民共有の財産である電波』を使わせてもらっている許認可事業であり特権的な位置を賦与されている」ことへの自覚を欠いている、と私は思います。

「電波の独占的使用」という特権を与えられているからこそ、テレビ産業は他に比べて高い利益を出せるのであり、テレビマンは社会的に高い地位を付与されているのです。

しかし、「特権」にはそれを裏付ける「相応の責務」が存在しています。

それは「放送は多くの人の利益に資するためのもの」という「放送表現の公共性」に対する自覚です。

NHKだけでなく民間放送にあっても、この「公共性」は法律的にも倫理的にも要請されているものなのです。

 

 みんな放送法を読もう

今回の事例は、「情報産業の特権的地位」に安住して「倫理感覚」を低減した、日本のテレビ産業従事者たちの「意識」の現れ、だと私は見ます。

繰り返し、繰り返し、言っていることですが、すべてのテレビ局は社員教育の第一歩として経営者と従業員が一緒になって「放送法」の条文を熟読するところから始めるべき、だと思うのです。

ある大阪人から見た「大阪ダブル選挙の結果」の読み方

東京に住んでいる友人からメールが入りました。

「大阪のダブル選挙の結果がよくわからない。

 なぜ大阪維新の会は、大阪都構想にこだわるのか、関東の私には理解不可能です。

 W選で勝っても民意を問えば負けてしまうのに。

 なにか関西独特の政治思想があるのでしょうか? 教えて」

と、いうもの。

 

その友人への返答メールを書いていたらかなり長くなりました。

で、それをリライトして、首都圏に住んでいる他の知人たちへも、大阪人である僕からの解析文に替えようと思います。

 

 

都構想云々の前にやなあ

今回の「大阪ダブル選挙」ーー「地方VS中央」

最大のポイントは、『地域政党大阪維新 VS 国政政党大連合』です。

「都構想」は、実は最大のポイントではありません。

ここを、東京に居る政治家やメディアや学者たちは読み取れていないのです。

そして、首都圏に暮らしている僕の友人たちにも、この感覚がわからないのだと思います。

 

今回のダブル選挙で、「反・維新」の連合を組んだのは、自民・公明・立憲民主・国民民主・共産、という中央の国政政党の集結勢力でした。

彼らのスローガンは「維新政治に終わりを!」でした。

自民党からは二階幹事長、立憲民主からは枝野党首、共産からは志位委員長がキタやミナミの街頭演説で、「維新政治を終わらせて、大阪に新しい未来を」と叫ぶのを聞いて、私たち大阪人が思った事、それは、

「おいおい、どの口が言うとんねん。

あんたら、ふだん、国会で角突き合わせてお互いのことボロクソに言い合うてる間柄やないの。あれ、嘘なん? ほんまは仲良しなん?

ほんで、あんたら日頃から大阪のことなんか絶対考えてないやろ」でした。

もう一つ言い足せば、「大阪のこと言うんなら、大阪弁でしゃべってみいや」です。

 

大阪維新の会」は地域政党である

実はここに、今回の「大阪ダブル選挙」を読み解くカギが詰まっています。

「維新」は、正しくは「大阪維新の会」であり、地域政党なのです。

大阪の閉塞状況を変えるために、と、橋下徹松井一郎らが中心となって2008年に結成した地域政党であり、その設立趣意には「大阪人の大阪人による大阪人のための政治」という理念が内在されていました。

つまり、防衛や外交といった国全体の政治を司る国政政党とはフィールドを異にして、地域の政治を変えようとした動きだったのです。

今回の選挙は、「反・維新」の勢力が、自民党から共産党までという大連合を組んでしまったせいで、大阪人たちに、はからずもこの原点を思い起こさせてしまったのです。

 

つまり、

「大阪のことは、わしら大阪人にまかせといてくれや。

こんな時だけ東京からやってきて偉そうに言わんといて。

大阪のことはわしらが考えるわ、大阪弁でな。」

「都構想がええかどうかは、ほんまはようわからへんねんやけどな」なのです。

 

そうなのです、「都構想」が本当に大阪人にとって将来的に有効な政策であると考えて「維新」候補に投票した有権者は少ない、と思います。

そうではなくて、相変わらず東京中央の政治力学を地域にまで持ち込もうとする政治思想に対して、大阪人は「少なくとも維新の方が大阪のことを真剣に考えてるんやろなぁ」と素朴に感じたのです。

「都構想」は、「維新」という政治動向のシンボルワードに過ぎないのです。

したがって、今後「大阪都」が本当に出来るように進むかどうかは大阪人にとっても未知の事であり、それは「まだ、ようわからん」事なのです。

多くの学者やマスコミは「都構想についての論議を深めよ」と高みから言いましたが、大阪人にとっては「都構想はようわからんけど、それはそんなに大したことちゃうで」というのが実感なのです。

 

東京を頂点とする「ピラミッド」構造の社会

今回の「維新」の街頭演説で耳に残ったフレーズに、「10年前の大阪に戻してもいいんですか?」がありました。

10年前、とは、政治家・橋下徹の現れる前のこと。大阪府知事太田房江でした。

太田房江は、広島生まれで愛知育ち、東大を出て通産省に入り、近畿通産局の部長を経て岡山県の副知事になり、その後に大阪府知事になりました。

典型的な、高級官僚の地方下りの首長です。

 

この例に顕著なように、これまで日本の地方自治は、東京をピラミッドの頂点とする政治・経済・人材の構造を下支えする植民地的組織として存在してきたのです。

それは、第二次大戦敗戦後の日本が、急速な経済復興ナショナリズムを成し遂げるために採った政策が「東京一極集中による中央集権化」だったことの歪んだ現れの一つ、です。

「ヒト・カネ・モノ」を、いったんは全て東京に吸い上げて、その後に、中央の判断で必要だと考えられる部分を地方に再配分する、という施策です。

この結果、敗戦国日本は世界が驚くほどの早さで経済大国になりました。

その一方で、日本の地方は「国内植民地」の役割を背負わされたのです。

「徴税権」や「地方交付金」という「カネ」の面と、「都から派遣された官僚」という「ヒト」の面から機能を縛られた結果、日本の地方自治は自立性を失ってゆき、東京中央の政界とつながりを持つ地方政治家が首長となったり、中央省庁の官僚が地方下りして首長になったりしました。

しかし、この流れはやがて、地方財政の貧困と地方政治の空洞化に行き着いて、今日に至るまでになったのです。

 

新しい地方自治のあり方を考えようよ

東京には地方の苦しみがわからない

今回の「大阪ダブル選挙」で、本当に考えるべき事柄は、『新しい地方政治のあり方』です。

この点において、「反・維新」勢力が立てた候補者は、府知事候補が有能な地方官僚であり、市長候補が知名度の高い世襲議員であったことが、いかにも「古い地方政治の継承」の代表として多くの大阪人には見えたのです。

 

「大阪」は、大きな「地方」です。

もっとも、「地方」の中ではかなり元気のある方であり、「中央」への反骨気風もあるのでその大阪が日本各地の「地方」の気持ちを代弁しているのだ、と言えるでしょう。

政治・経済・文化の集中極点である東京から発せられたメディア言説の多くが的を外していたのは、このポイントが読み取れなかったから、だと思います。

社会権力構造の上位者たる「中央」には、下位者たる「地方」の持つ苦しみが実感できないものだから、です。

 

朝日と報ステは的外れ

マス・メディアの中で、最も的外れな視点は「朝日新聞」と、それに依拠した「報道ステーション」でした。

朝日新聞は8日付け社説で、「都構想を最大の争点として行われた異例の4重選挙」と書き、「維新による脱法的行為は看過できない」と書き、「不意に選挙を仕掛け、自らが率いる政党の押し上げを狙った松井氏と吉村氏は反省すべきであり」と書いています。

つまり、朝日新聞は「ダブル選挙という奇策」に打って出た「維新」の政治手法を非難することで、「維新」の政治思想全体を非難しています。

 

これは朝日がよく使う論法ですが、物事の本質を捕えないで瑣末な瑕疵をつつくことで全体を否定するという論理手法です。

しかも、とても感情的な論調で、平静さや公平性に欠けていると言わざるを得ません。

まるで、朝日が「維新」と正面から戦ったかのようにすら読み取れます。

 

現在の日本各地が抱えている「地方政治」の財政的苦難や現行システムの不備、と言った本質的な問題については何も触れてはいません。

そして、何かと言えば「民意を尊重せよ」と声高に言う朝日ですが、こういう場合には決して「民意の結果」については多くは触れないのも朝日ならではの特色です。

恣意的なスタンダードの使い分けです。

 

産経新聞」は、1面の論説記事で、「反・維新」で結束した自民党公明党に対して、「『都構想を終わらせる』という主張は明確に否定された結果を重く受け止める必要がある」と冷静に解説しています。

 

また、朝日新聞などの「維新の手法」批判に対しては、橋下徹ツイッターで書いた、

「今の大阪のダブル選挙を批判しているインテリ連中よ、今の大阪の選挙以上にましだと思う選挙をあげてみろ」がぴったりした返答になっているでしょう。

事実、日本全体では投票率が前回よりも低かったのに対して、大阪は前回を上回っていて、大阪府知事選が49%・大阪市長選が52%ありました。

少なくとも、今回の大阪の選挙は大阪人にとっては「よっしゃ、今回は選挙に行ったろやないか」と思わせるほどには面白かったのです。

それでも、半分の有権者しか投票に行かないところにこそ、現在の日本の「地方政治の本質的な問題点」があるのではないでしょうか。

 

「地方選挙」の投票率が低い理由

地方選挙の投票率が低い、議員の成り手がいない、など「地方自治のあり方」をきちんと問題視できていたのは「毎日新聞」の論説記事の「風知草」でした。

『絶望の地方自治』とのタイトルで、元・総務相で元・鳥取県知事でもある片山義博氏の「地方自治を認めない国家統制」という発言を載せて、現在の政治システムの問題点を明らかにしています。

更には「人口減少、税収減少の時代でも、教育・福祉・街づくりに支出しなければならない」という別の専門家の解説も付記していました。

 

日経新聞は社説で、『選択肢がないと地方は元気になれない』と題して、

「人口減少に対応できない地方政治の現状が浮き彫りになった」と書き、「地方創生が始まって5年。将来の自治体はどうあるべきかを真剣に考えるときだ」と結んでいます。

もっともらしくは聞こえますが、残念ながら東京目線の言説ですよね。

 

「地方」が動かせるカネがあればいい

「地方」が元気ないのは、「動かせるカネ」がないからです。どんな施策をやろうにも財源がないからです。

議員になってもやることがないんです、だから議員になっても仕方ないんです、だから議員に成り手がいないのです。選挙に行っても意味がないからわざわざ選挙に行かないんです。

で、「地方創生」って言うから、泉佐野市みたいに「ふるさと納税」を有効利用して財源を集めて「小学校のプール」を作ったら、国・総務省からは怒られるし、東京都など財政豊かな自治体からは非難されたのです。

 

地方自治を元気にさせるためには「地方で使えるカネ」を増やせばいいんだ、と単純に僕は思います。もっとも、そのためには「財政の東京一極集中」という戦後の政治・経済システムを根本から変えるという大作業が必要になるのですが。

でも、そろそろ「地方は東京のための植民地」という構造と意識を変えないと、地方の衰退は止まらない事態にまでなってきた、のではないでしょうか。

 

島根県知事選挙」も見逃してはいけない

今回の選挙で、もう一つ日本の「地方自治」を考える上で見逃してならないのは「島根県知事選」でしょう。

これについては、「産経新聞」がかなりの紙面を割いて書いています。

内容は、島根選出の国会議員全員が支援した候補者が負けて、県会議員たちが支援した候補者が勝った、というものです。

産経新聞は「有力な国会議員を頂点に地方議員が連なる全国の『ピラミッド構造』が崩れた」と書いています。本質に迫ることのできている署名記事でした。

 

竹下登・首相や青木幹夫・参議院幹事長を出した島根県ですが、今や島根と言えば、「過疎化」の代表県です。

かつてのように、東京の中央権力にぶらさがっていたのでは、もう何ともならない所まで来たのです。

そこで初めて「知事は地元で選ぶべきだ」となった、ということです。

 

国政と地方行政は次元の違う機能であり、それぞれ異なる論理で動いているものなのです。

それを無理やりに一元化させて動かしてきた「日本の戦後システム」に限界が来ている、ということにあちらこちらで気が付き始めたのです。

大阪とは別の意味で「地方自治の現状と今後」を考える上で示唆するところが多い事象だ、と思います。

 

「大阪ダブル選挙」から話はあちこちに飛んでしまいました。

 

今回の統一地方選挙から見取るべき最大の問題点は、

「一極集中された中央権力」に追随することによって成立してきた「戦後日本の地方自治」に、やっと今、大きな地殻変動が起きようとしている、ことではないかと僕は思います。

 

そして、今後の「日本の地方自治」を考える際にとても参考になる本としては、あの井上ひさしが「東北弁」を駆使して書いた『吉里吉里人』ではなかろうか、と思うのです。

独自の財源確保策や、ユニークな行政システムや、奇想天外な教育制度が、実に豊かな「東北弁の生活ことば」でユーモアたっぷりに書かれている小説です。

楽しく笑いながらも、実はとても多くの「新しい地方自治の形」のヒントが埋めこまれています。

これから政治家を目指す人に、是非オススメします!

期末期首の特別ドラマ――『ひよっこ2』と『僕が笑うと』

3月半ばから4月半ば、にかけて、テレビは「期末・期首編成」と称してゴールデン・プライムタイムに単発の特番を並べたてます。
昔は、せいぜい4月の番組改編をはさんで前後1週間ずつくらいだったのですが、今ではおよそひと月間にわたっているので、いったいどれが本当の「特番」なのかわからない状況です。
まぁ、これも、どこかの局が先行して始めた編成に他局が追随しての結果なのでしょうが、逆にこういう状況になると、「期末・期首」を短縮して、レギュラー番組を大切にする、という編成を組むことがかえって新しい戦略になる、と思うのですが。

はたしてどの局が先陣を切って「期末・期首」編成を変えるのか。
元テレビマンとしては、うがった興味を持ちながら、ザッピングを続けています。

 

とは言いながら、「期末・期首」にはふだんは見られない「ドラマ」が見られるのが楽しみです。
「テレビの中のことば」を好奇心のテーマとしている私にとって、とても素敵な「ドラマ」があったので、ちょっと書いてみます。

 

日常性を大切にしているドラマ――『ひよっこ2』

NHKひよっこ2』(3月25日~28日 全4話 午後7時30分~8時)
2年ぶりに、「んだねぇ」や「なかっぺよぉ」などの茨城(いばらき)弁が聴けました。
いいですねぇ、やっぱり「生活ことば」は。

 

2017年4月~9月にかけて放送された朝ドラ『ひよっこ』の2年後を描いた続編もの、です。
岡田惠和さんの脚本は、「日常性」をとても大切に考えていて素晴らしい、と思います。
けっして派手な事件や出来ごとがあるわけではない「日常生活」、その中で泣いて笑って生きている民衆の暮らし。
それを捕えて表現するために絶対に欠かせないのは「暮らしのことば」です。
それは短絡的に「地方なまり」を大事がる、ということではありません。

 

今の日本のテレビドラマの作り手たちの多くがこの点について鈍感です。
岡田惠和さんは、数少ない「ことば」に敏感で繊細な作家、だと思います。
演出家たちも、このことを良く共通理解しているのでしょう。

 

岡田惠和ドラマツルギー

今夜の第3話では、主人公みね子(有村架純)の妹の大学進学を巡るシーンで、
「女の子も大学に行く時代だっぺ?」
「それは関係なかっぺよぉ」
その合間に、1960年代から70年代にかけての「高度経済成長」の社会的動向と庶民の暮らしの揺れ動きをしっかりと語らせています。

 

また、みね子の同級生で女優になった助川時子(佐久間由衣)が、東京のスタジオで共演俳優から「君には茨城なまりがある」と馬鹿にされて、ふるさとに帰ってきたシーン、
「よーし、今からみんなで標準語でしゃべっぺ!」
軽い笑いに見えますが、実はここには「ヒト・カネ・モノ・ことば」の全てを「東京一極集中」させることによって成立してきた戦後70年の経済的繁栄の暗部が潜んでいます。

 

岡田さんは、
「あれからたった2年、みね子たちの日常のドラマです。
 みんな元気です、みんな相変わらずです。そんな『相変わらず』な幸せなドラマを書いた」
と語っていますが、優れた社会批評眼に裏打ちされたドラマツルギーに拍手!です。

 

中味と劇伴――宮川彬良の音楽

そうそう、『ひよっこ』では、宮川彬良さんの音楽も忘れてはならない要素です。
アップテンポの軽やかさ、ピアノソロの感情的なバラード、使い分けが秀逸です。
ドラマを作っていて、これほど中味と劇伴が見事に合うことはめったにありません。
明日の、最終第4話が楽しみです。


子役の関西弁がよかった――『僕が笑うと』

もう一本。
『僕が笑うと』(3月26日・火曜日 夜9時30分~11時20分)
カンテレ開局60周年のドラマです。

 

めいっぱい泣かせてくれました。
ドラマで視聴者を泣かせる、のは易しいようで結構むつかしいのです。
どうしても、不自然な演技や大仰なセリフを使ってしまいがちになる、ので。

 

この点で、『僕が笑うと』は、とても自然なセリフに溢れていました。
登場人物達の使う「関西弁」が、素直に入ってきました。
特に、子供たちのセリフに、無理が感じられませんでした。
脚本と演出と演技がうまく噛み合っていた、のだと思います。

 

脚本は、尾崎将也(おざきまさや)さん。兵庫県の出身。
NHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』を書いた人です。
演出は、カンテレ社員の三宅喜重(みやけよししげ)さん、大阪府の出身。
映画の『阪急電車 片道15分の奇跡』を監督した人です。

 

在阪局カンテレの周年特番ですから、ドラマの舞台は当然のことながら大阪。
ワンカット目を見たら、「豊中」のスーパーテロップ。
なんと、私の住んでいる町なのです。これで釘付けになってしまいました。

 

とにかく関西弁が自然だった

で、戦時中の大阪・豊中を舞台に、身寄りのない子供たちを引き取って育てた夫婦の物語り。
「浩太、おらへんねん」
「なんや知らんけど」
「楽しかったなぁ、こんな時こそ、みな一緒におらんとな」
主演の夫婦、井ノ原快彦(いのはらよしひこ)と上戸彩(うえとあや)のしゃべる「関西人の生活ことば」が、なんらの違和感なく耳に入ってきました。
二人とも、東京の生まれ育ちだと思うのですが上手でした。

 

日本のドラマは「ことばの演出」が下手

そして、特に素晴らしかったのが「子役たち」でした。
日本のテレビドラマや映画は「こども」を使うのが下手なんです。
それは、「こども」たちに、不自然な「標準語・東京語」を使わせる演出が悪いのです。
この点、『僕が笑うと』では素直な「大阪のこどものことば」で演じていました。
もちろん、設定が戦前・戦中の大阪なので、そこで暮らしている「こども」である、ということを考えれば当然なのですが、なかなかそれが難しい事なのです。

 

子役・渡邉蒼くん、お見事!

中でも、長男の浩太を演じた俳優の「渡邉蒼(わたなべ・あお)」くんがうまかった。
渡邉蒼くんは、昨年のNHK大河ドラマ西郷どん』で、鈴木亮平演じる西郷隆盛の子供時代の小吉を演じた俳優さんです。
「おっ、どないしたんや」
「ホンマもんや」
また、「お父さんは戦地で闘っている兵隊さんたちより、アメリカ人のほうが大事だと言うんですか」との、軍国少年としてのセリフ。

 

西郷どん』で薩摩弁を、『僕が笑うと』で関西弁を。
演技にとって最も大切なことは、その役柄の人物が使う「ことば」である、ということを早くから身体に沁みこませた渡邉蒼くんのこれからが楽しみです。

 

この意味で言えば、残念ながら「ドラマの枠付け」として登場していた現代劇部分の俳優さんたちは「子役たち」に負けていた、と言わざるを得ません。

 

絶妙のタイミング――音響

さて、「泣かせるドラマ」にとって大切なのは音楽です。
話の内容やセリフもさることながら、それ以上に音楽は人の感情を動かします。
『僕が笑うと』では、定番ではありますが、弦楽器の繊細な音色がいいタイミングでかぶさって涙線を刺激してくれました。
実は、これ、テレビや映画を作る人間には良くわかるのですが、「音の出」が1秒早過ぎても、1秒遅過ぎても、感情移入できないものなんです。
「音響担当」スタッフさんの仕事に拍手!でした。

 

いやぁ、映画もいいです、テレビドラマもいいです、ねぇ。
この後の「期末・期首」で、また素敵なドラマに会えることを楽しみにしてま~す。

2019冬ドラマから見える、テレビ制作者の「表現者の志」

今年の冬ドラマが、第4話~第5話を終えたところで、私なりの作品評をしてみます。

作り手としての「裏事情」をも読み取りながら、です。

そこから、サラリーマンでありながらも「テレビドラマ」という「表現作品」に取り組んでいるテレビマン達の「表現者としての志」を汲みたい、と思いつつ。

  

今期見逃せないドラマ

今期のドラマで、作り手のチャレンジ精神を、私が感じることができるドラマは、

 の二つ、だけです。

 

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この二つ以外は、既成の「刑事もの」と「弁護士もの」の焼き直しです。

これに「医療もの」を加えれば、作今の日本のテレビドラマのほとんどが分類できてしまいます。つまりは、それほど、現在の日本のテレビドラマは狭い領域の題材しか扱えていない、ということです。

私たちの暮らしや仕事の中には、もっとたくさんの様態があり、社会の深部にはもっと大きな思潮があるのに、です。

かつて、視聴率30%や40%を取っていた「ドラマ」という表現形式が、最近ではせいぜい10%前後の視聴率しか取れなくなっている最大の理由はここにある、と私は考えています。つまりは、ドラマの作り手達が「社会の表層の一部分」しか捕えられてない、のだと思います。だから「ドラマ」が弱くなったのです。

 

テレビ朝日

さて、そんな流れの中で民放各局のドラマのラインナップを並べてみると、色々なことが透けて見えてきます。

まずは、

テレビ朝日

 ・水曜ドラマ『相棒』

 ・木曜ドラマ『刑事ゼロ』

 ・木曜ドラマ『ハケン占い師 アタル』

『相棒』は、さすが刑事バディ物の老舗で、ドラマの出来映えレベルが高く安定しており、視聴率も15%前後と、民放ドラマの中では最も高い数字です。

 

『刑事ゼロ』

これは、木曜の20時の「木曜ミステリー」枠。

あの沢口靖子の『科捜研の女』を放送している枠で、制作は東映京都のスタッフ。で、明らかに『科捜研の女』を見てきた視聴者層を狙って、設定場所は京都府警で、ドラマの中には鴨川や木屋町など、京都ならではの観光名所の景色が盛りだくさん。

舞台が京都であるにも拘わらず、出演者の刑事は「こんなんじゃ納得いかねえなぁ」と言い、地元の高校生は「だって僕のだもん、わけわかんないよ」と完全な「東京弁」言語的リアリティはゼロなのですが、視聴率は10%超えで安定。

 

『アタル』のチャレンジを可能にしたもの

で、3枠ある中で、二つのドラマが一定の視聴率を取っているからこそ、実はハケン占い師 アタル』という新しいチャレンジが成立してるんですね。

視聴率とは、テレビというビジネスの世界では売上としてのCM料金を決めるための 指標ですから、3枠のうち2枠が安定していれば冒険が可能になります。

そこで新しいものを試してみて次世代のドラマの可能性を探る、という循環トライが上手くいってるところが、最近のテレビ朝日ドラマ好調の理由です。

 

ちなみに、『ハケン占い師アタル』の担当Pである山田兼司は、「刑事ものや医療ものであれば解決する対象も事件や病気でわかりやすい。しかし『働くことの悩み』は切実だがわかりやすい解決策がない。だからこそドラマで描くにふさわしいと脚本の遊川和彦さんと挑戦した」と語っています(朝日新聞ラテ欄「撮影5分前」より)。

遊川和彦が第1話・第2話を自ら演出したことも、意欲の表れだと見取れます。

主演・杉咲花の、耳を隠したボブカットと大きな瞳を活かしたキャラクター設定、そして45分過ぎの「自己啓発風の分析説教」は、現代日本の産業社会や若者像に対して軽いけれども的確なジャブであることは確かです。

 

 テレビ朝日の「松本清張ドラマ」

さて、テレビ朝日のドラマを考える際に忘れてはならないのは、「松本清張ドラマ」の存在です。おりしも、2月3日(日)にスペシャルドラマとして、『疑惑』が放送されました。

今回の『疑惑』は、ドラマの出来としては決して良くはありませんでした。

米倉涼子の演技はステレオタイプの大仰さが目立ち、黒木華の不気味さあふれる怪演や、余貴美子の落ち着いた演技のほうが勝っていました。

遠藤憲一のナレーションも、語り手の人称と立場が不明でよくわからず、住友紀人の音楽も変にリズミカルで、内容とはミスマッチでした。

ですが、1990年代にテレビ朝日のドラマが低調で、当時は絶頂にあったフジテレビのドラマ路線の二番煎じや三番煎じを続けていた中で、テレビ朝日ドラマがやっと独自の路線を作ることができたのは「松本清張ドラマ」のおかげだったのです。

それは、『月9』に代表されるようにフジテレビのドラマが、高度経済成長の成果としての「都会生活者の軽やかな夢」を描き続けたのに対し、結抗できるドラマツルギーとして「過去を背負った犯罪者の心理」という「松本清張の生活リアリティ」を見出したところにあるのです。

このメルクマールが、2004年の米倉涼子主演の黒革の手帖です。

これを成立させたプロデューサーとして、テレビ朝日内山聖子五十嵐文郎の二人を私は高く評価するものです。

経済成長の余韻の奥で進行していた階層化や格差化という「不満の社会心理」を、「松本清張ドラマ」は原作の時代設定を変えてゆくことで、あぶり出してゆきました。その影響は現在の「刑事もの」や「弁護士もの」ドラマに確実に引き継がれています。

 

ドラマの新しいトレンドを作る、とはこういうこと、なのです。

ドラマの作り手達が時代や社会をどう捉えるか、が新しいものを産み出す源なのです。

 

フジテレビ

これと対照的なのが現在のフジテレビのドラマです。

 ・月9『トレース~科捜研の男~』

 ・木曜劇場『スキャンダル弁護士~Queen

 ・火曜ドラマ『後妻業』

 

『トレース~科捜研の男~』

おそらく局内で、編成主導で作られたドラマだと推測されますが、どんな狙いがあるにせよ、このタイトルはないでしょう。

かつては見下ろす対象だったテレビ朝日のドラマタイトル『科捜研の女』をもじるなんて。このタイトル付けは、きっとフジテレビ局内のドラマ制作者達の士気とプライドを限りなく傷つけていることと思います。おそらく屈辱感すら抱いているでしょう。

目先獲得した10%の視聴率に対して、失ったもの大きさに気付く日は遠くはない、と思います。

 

制作に「大映テレビ」が入っていることにも驚きました。

これも、おそらく編成からの発注だと推測されますが、「大映テレビ」と言えば「赤い霊柩車」などの「赤シリーズ」で有名な特色ある制作会社です。

かつての「月9」は、当然のことながらフジテレビの社員スタッフが制作・演出をし切磋琢磨しながら自社ブランドを築き上げて誇った枠です。

その枠を外部発注してしまったら社内の制作者・演出者たちの立場がありません。

もはやフジテレビの社内では編成・営業と制作とに信頼関係はない、のだと思わざるを得ません。

「月9」が消滅する日は近いのかも、と思いました。

 

『スキャンダル弁護士~Queen

目先の視聴率を取りに行こうと、竹内結子水川あさみをキャスティングしたものの中途はんぱなコミカルさと事件解決時のシリアスさがちぐはぐで番組内分裂してます。

低視聴率が続いて苦しい時こそ、新しいドラマ作りにチャレンジして次の時代を引っぱるようなものを探り当てなければならないのですが、現在のフジにはもはやその余裕がない、と見取れます。悪循環の連鎖ですね。

風のガーデン』の宮本理江子や、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の並木道子など、社会の深部に手を入れようとしたドラマの作り手がまだフジに居ることを高く評価しているのですが、フジ社内ではそういった試行が認められていないのでしょうね。

 

『後妻業』

この枠は関西テレビの枠で、今回は「共同テレビ」の制作。

木村佳乃は熱演してるのですが、映画の軽妙な味には至らず。

その理由は、本来なら極悪非道な犯罪物語であるところを、黒川博行の小説は悪女の憎めないひょうきんさや、探偵役たちの滑稽さを救いとして軽やかなクライムノベルにしているのに、このドラマでは「愛情不足の生い立ち」などといった陳腐な理由設定を持ちだして、中途はんぱに深刻な犯罪ものにしてしまったこと。

どうせなら、救いようないけど天性の可愛い悪女にすればドラマならではの新しさが出せたのに、そこまでの覚悟はなかったのかな。

 

とは言え、フジテレビのドラマが目先の安全策ばかりを追いかけている中で、関西テレビのこの枠は、いつも独自の方向性を追っているところは評価すべき。

 

日本テレビ

続いては日本テレビ

・水曜ドラマ『家売るオンナの逆襲』

土曜ドラマイノセンス 冤罪弁護士』

・日曜ドラマ『3年A組~今日から皆さんは人質です』

 

『家売るオンナの逆襲』北川景子・主演の『家売るオンナ』のシリーズもの、での安定路線。

 

イノセンス

これは、古家和尚(ふるやかずなお)の脚本を、『金田一少年の事件簿』や『ハケンの品格』の南雲聖一が演出。

南雲の演出はさすがに手馴れており、安心して見れる「弁護士もの」ですが、作中で「日本の刑事裁判は100%近くが有罪になります」というセリフは、本来なら「99%が有罪になります」と言うべきところですよね。それを、先行したTBSの松本潤主演の『99.9~刑事専門弁護士』を意識したのか「100%近く」と言わせなければいけない、というところに制作者の忸怩たる内心を感じてしまいます。

心ある作り手は決して「二番煎じ」を望んでやってる訳ではないんですよね。

 

『3年A組』への期待

さて、テレビ朝日ドラマの場合と同様で、全体視聴率の好調とドラマ2枠の安定のおかげで、日本テレビも新しいドラマにチャレンジ出来る機会を得ています。

それが今期では、『3年A組~今日から皆さんは人質です』です。

CP・西憲彦で、脚本・武藤将吾、チーフ演出は『校閲ガール』の小室直子。

高校卒業を控えた29人の生徒を、担任教師が人質にして教室に閉じこめ、ある女子生徒の自殺の理由を探してゆく、という設定の学園ミステリー。

菅田将暉の迫力ある演技に引っ張られて第6話まで見ました。

さて、制作者たちが突きたいものは何なのか、「スクールカーストに象徴される学校社会の実態」「SNSに振り回される情報社会の実態」「無責任な教育者たち」「いかにもらしく他人事の解説をするマスメディアと有名人」――現実に起こっている出来ごととのリンクも多く、興味ある展開が今のところは続いています。

ただ、この手のドラマは最終的な帰結点がもっとも大事で、これまでに何度も見たことのあるような「浅はかなヒューマニズム的帰着」に収束されないことを願っています。

 

TBSドラマ

 ・火曜ドラマ『初めて恋をした日に読む話』

 ・金曜ドラマ『メゾン・ド・ポリス』

 ・日曜劇場『グッドワイフ』

 

『初めて恋をした日に読む話』

既に出来上がっている「深田恭子」という女優のイメ-ジだけに拠りかかったドラマ作りに新鮮味は皆無です。新人ディレクターの訓練場としての役割はあるかもしれませんが。

 

『メゾン・ド・ポリス』

「刑事もの」の変種ですが、面白く仕上がっています。

退職警察官が住むシェアハウスを舞台に、高畑充希の演じる若手女性刑事が事件を解明してゆくストーリー。

何といっても、西島秀俊小日向文世角野卓造近藤正臣など元・刑事の演技のアンサンブルが良い。野口五郎も好演。

演出は共同テレビジョン(共テレ)の佐藤祐市で安定した力量。

共テレ」は、元来フジテレビ傘下の制作会社なのですが、星田良子という優れたプロデューサー演出家がいて、その配下として育った佐藤祐市河野圭太という優秀な作り手たちがいる会社です。

主演女優が可愛く見える、ということはドラマ作りがうまくいってる、ということの一つの指標です。

 

『グッドワイフ』

「弁護士もの」とは言いながら、さすがアメリカのヒットドラマを下敷きにしているだけあって、レベルが高いです。

ミステリーの基礎がしっかりしています。エリート検事である夫が巻きこまれた事件の解明を連続ドラマの縦軸にして、毎回起こる1話完結の事件の解明を横軸にする、という構成は近頃はやりのパターンですが、上手く興味をつないでます。

チーフ演出は『Nのために』『アンナチュラル』を手がけた塚原あゆ子

 

TBSは、福沢克雄チームが手掛けた『半沢直樹』で42%の視聴率を取ったことにより、決して若い人気男優や人気女優のキャスティングだけがドラマ作りの重要な要素ではないことに気がつきました。今回の常盤貴子主演も、その流れにあるトライだと思います。

今回は視聴率的にはヒットにはなりませんでしたが、こういう試みを続けることは必ず次につながります。

 

 

最後に

「テレビドラマ」という表現形式でも、社会事象の奥に潜んでいる「社会意識」や「大衆意識」をしっかりと捕えたものは、30%や40%という高い視聴率を今でも取れるのです。

多くのテレビマンたちに期待します。

 

さて、今回は民放ドラマだけを論評しましたが、ここ数年NHKの「地域発ドラマ」に、テレビドラマの将来を感じさせるものが幾つかあります。

それについては改めて論じたいと思っています。

M-1審査員コメントの読み解き方と炎上への感想

大学で「マスコミニュケーション論」なる授業をやっています。

講義の核にしているのは、「表現」の背後にある「表現発信者」の気持ちや意図を読み解く、ということです。

で、学生たちの間でも「M-1」が話題となっており、先週も何人かの学生から「M-1審査員のコメント」をどう理解すればよいか、の質問がありました。

そこで、学生への返答かたがた、それについての私の考えを、以下に書いてみます。

 

おりしも、ネット上では、「M-1」終了後にネット配信された、「とろサーモン」の久保田さんと「スーパーマラドーナ」の武智さんの発言が問題になっています。

私は、直接その場で(打ち上げの居酒屋の場で)音声を聞いていないので、考える根拠としてネット上のニュース配信や5ちゃんねる、まとめサイト等で読んだ文章と、Youtubeで見たその動画に頼ることにします。

 

例の動画とは

さて、ニュース配信等によれば、久保田さんと武智さんは、審査員であった上沼恵美子さんの評価コメントに対して以下の発言を自分のスマホを通して配信した、というものでした。

酒に酔った勢いと思われる語尾部分などを捨象して、二人の発言の要旨を抜き出してみましょう。

 

久保田「自分の感情だけで審査せんとってください」

   「審査員の方、1回劇場に出てください」

   「お前だよ、一番お前だよ。わかんだろ、右側のな、クソが」

   「演者やから、あんたがつけた点数とこっちが付けた点数一緒でありたいやん」

 

武智「嫌いです、って言われたら更年期障害かって思いますよね」

  「売れるために審査員するんやったら辞めてほしい」

 

??「暗いのよ、って言われたら、じゃぁ明るかったらオモロイんか、っていう話

 

こういったところでしょうか。

さて、それではお二人の発言と行為について、

①その発言内容

②発言を流布した行為

の、二つの点から考えてみましょう。

 

発言内容の問題点

①久保田さんと武智さんの発言内容、についてです。

まず、久保田さんですが、前提となるべき「演じることと評価すること」の関係がまったく理解できていません。

そして「M-1」なるイベントの意義も理解できていません。

更には、先輩芸人さんたちの過去の実績について、あまりにも無知すぎます。

そして、武智さんですが、彼も「漫才」という話芸のことがわかっていないし、久保田さんと同様に、前提となる事実について、あまりにも無知すぎます。

何より、「漫才」という話芸は「ことば」を使って、お客さんを笑わせる芸能です。

それなのに、これほど自分が使う「ことば」について鈍感で、傲慢で、ひとりよがりの人間は、大衆を相手にする「漫才」という芸能には向いていない、と私は思います。

 

さて、このことを、順を追って見てゆきます。

結論から言うと、私の考えでは、久保田さんと武智さんは「上沼さんのコメント」の意図を正しく読み取るべき「言語リテラシー能力」に欠けています。

このことは、上に書いたことの裏表で、自分の使う「ことば」について鈍感で傲慢な人は、他人の「ことば」に対しても鈍感で、「ことば」の奥にある気持ちを感じ取ろうとしていないことから起こるものです。

そして、他人の「ことば」を読み取れない、ということは、上沼さんのコメントだけでなく、同時に松本人志さんや立川志らくさんら、他の審査員のコメントをも正しくは読み取れていない、ことを表しています。

 

M-1」という大舞台で、それこそ多くの若手漫才師が人生のかなりの物を賭けて登場している場で、審査員として壇上に居るベテラン芸人さん達が、単なる「好き・嫌い」で評価点を出しているわけがありません。

大人なら、少し冷静に考えればわかることです。

もちろん、人間ですので「好き・嫌い」の感情的な評価要素は入りますが、審査員諸氏は豊富な経験に立脚して、感情を上廻るほどの論理的な評価基準を持っていて、それを基に判定を出しているのです。

審査員も、自分たちの「芸能評価眼」を賭けて、コメントを発しているのです。

 

例えば上沼さんの場合、それこそ芸歴50年の人生の中で、数多くのコンテストの場に立ち、数多くの評価コメントに晒され、更には視聴者からの無数の批評コメントを浴び、そこを勝ち抜き生き抜いて、現在の立ち位置を獲得しているのです。

彼女は「審査員コメント」の持つ重さを、誰よりも知っている人です。

熾烈な芸能の世界において、全国ネットのテレビ番組の司会の位置や、自分の名前を冠した番組を持って、それを長年にわたって維持することが、どれだけ大変なことであるか。

M-1」の決勝戦に出るくらいのお笑い芸人なら、そういった事実への敬意を忘れてはなりません。

 

さて、久保田さんの「審査員の方、一回舞台に出てください」ですが、多分これは上沼さんに対してのことなのでしょう。

久保田さん、武智さん、まさかこんな事も知らないとは信じられないのですが、上沼さんは「海原千里・万理」として十五歳から漫才を始めて、あなたがたの何十倍もの舞台を経験してきた人なのです。

念のためにお教えしておきます。

 

「権力」ではなく「能力」

さて、久保田さんは、上記の発言の後、「abemaTV」で放送された番組「NEWS RAP JAPAN」で、次のようなラップを披露しています。

 

「年長者、権力者に意見をすることは正しいことでも罪人悪人のように吊るし上げられ」

「権力に逆らえない自分の生き方を変える勇気がないのか」

 

これがもし自身へのバッシングに対する答えなら、全く筋の違った勘違い発言です。

「権力」「意見」「正しいこと」「勇気」、すべての単語の意味と使い方を間違えています。

上沼さんや、松本さんや、オール巨人さんが、今の立ち位置にあるのは「権力」の問題ではなくて、「能力」の問題です。

そして、久保田さんが言ってるのは「意見」ではなく、ただの「悪口」に過ぎません。

それこそ、低いレベルでの「好き嫌い」であり、ひとりよがりの「正しさ」です。

さきほど述べたように、「ことば」を生業とする人間が、このような間違った手前勝手な「ことば」づかいをするようでは、およそプロとは言えません。

 

さて、「M-1の審査」という場において、審査員から発せられる「好き」や「嫌い」のコメントは、単なる感情表明ではなく、象徴的な批評語だと受け取るべきだと思います。

それらは、前後の発言や文脈をよく聞いていれば、内実が明らかになってきます。

いわば、「上沼語」「松本語」「志らく語」なのです。

その背後に、その審査員ならではの評価基準に裏打ちされた、たくさんの批評コメントが隠されている、ことを読み取らなければいけない、のです。

「ことば」を生業とするお笑い芸人なら、もっと「ことば」について繊細で敏感でなければいけない、と思います。

 

M-1」の場合、審査員諸氏は、登場してきた若手芸人に対して、直接にコメントをぶつけてゆきます。

それは、一般視聴者が聞けばよくわからないようなコメントであっても、そこに出てくるほどのお笑い芸人ならばわかってくれるよね、という思いの込もったコメントです。

そして、芸能には、独特の比喩や表象の「ことば」でなければ語れないことがあります。

ですから、一般の視聴者には、かなりの翻訳が要る場合も出てきます。

 

ギャロップとミキの違い

例えば、「ギャロップ」に対して、松本人志さんが、

「いうほど禿げてないよなぁ」と言い、

上沼さんが、

「自虐ネタはあかんのよ、10年間、何してたん」

と、重ねて言ったコメントは、松本さんと上沼さんに共通理解があることを表しています。

 

二人が言ってることの意味は、

――林さんの頭は、かなり綺麗なハゲ頭で、どちらかと言えば可愛く見える。

  単に、頭が禿げてるから、と言って、それがネタになると思うのは思慮が浅い。

  世間の人が、自分の容姿やその頭をどう受け止めて見ているか、という冷静な自己認識と相対化の視点があって初めて「笑える自虐ネタ」が成立するんだよ。

と、いうことなのです。

 

瞬時にして、隣同士でこのことが理解できるのが、松本さんと上沼さんのレベルなのです。

話芸のスタイルは違っていても、一流のお笑い芸人同士は、お互いの力量を認め合っているのです。

だからこそ、島田紳助さんも松本人志さんも、上沼恵美子さんに直接に「M-1」の審査員をお願いしたのです。

そして、一瞬キョトンとしていた「ギャロップ」が、このコメントの意図を正しく理解できたら、彼らの芸は上達するでしょう。

松本さんのコメント、上沼さんのコメントは、一見わかりづらくて、ややもすれば否定的コメントのように聞こえますが、実はとっても建設的な批評コメントなのです。

 

こういったことが見抜けない芸人は、そこまでの芸人だと言って構わないでしょう。

ギャロップ」に対するコメントが正しく理解できた人には、「ミキ」に対する上沼さんの、

「この自虐ネタは、突き抜けている」

が、理解できることでしょう。

それは、決して「ミキ」の芸を「好き・嫌い」の次元で判断していコるメントではありません。

 

今回の「ミキ」のネタでは、お兄ちゃんのブサイクが芯になっています。

が、ふつうの眼で見れば、お兄ちゃんの「昴生」くんは、それほどのブサイクでもデブでもありません。

しかし、比較対照としての「ジャニーズ」を設定したことにより、それとの比較で、さらには横に居る弟の「亜生」との比較で、自虐の笑いが成立していくのです。

この点を、上沼さんは「比較の対象に設定した地平がいい、そことの比較があるから自虐がはじけて明るく笑える」と、的確に評しているのです。

同じ自虐ネタに見えますが、「ギャロップ」と「ミキ」では相当の開きがあるのです。

この点を、上沼さんは両者の点数の差に示しているのです。

この意味するところを、「ギャロップ」さんにわかって欲しいのです。

そして、その上でオール巨人さんが、

「うるさい、と感じられなければええんやけどね」と、二人の欠点を指摘しています。

一流芸人の審査員同士による、見事な連携プレーのコメントです。

 

漫才は「大衆芸能」

「漫才」はお客さんが楽しく笑ってナンボの「大衆芸能」です。

暗かったらアカンのです、明るくないとアカンのです。

久保田さん、「漫才」の最終評価は幅広い不特定多数のお客さんが採点するのです、決して演者自身の自己評価点が絶対ではないのです。

そのためにこそ審査員が存在しているのです。

自分の採点だけが絶対なら、ファンだけ集めた仲間内ライブをしていてください。

 

志らくさんの、

「とてもうまい、うまいけど魅力ある人格が出てきたら負けるよね」も、

――芸能にとって技量は大切な要素だが、演者の人間的な魅力の方がもっと重要だーーという、彼なりの演芸観を言い表していて含蓄がありました。

 

久保田さんと武智さんには否定的な評価をこそ聞いてほしい

さて、もう、ここまで解説すれば明らかです。

とろサーモン」の久保田さん、「スーパーマラドーナ」の武智さん、のお二人には一流先輩芸人の「ことば」の奥を読み取る想像力と言語能力が欠けている、と僕は言わざるを得ません。

上沼さんのみならず、審査員諸氏の「好きやわぁ」や「嫌いです」などの短いコメントの背後には、とても豊かで役に立つ批評が隠されているのに、それを、まるで素人のようなレベルで「好き嫌いで判断してる」と受け取ることしか出来なかったお二人。

しかも、自分の理解能力の無さを、実に多くの視聴者に露呈してしまったお二人。

残念です。

 

人は、自分に好意的な評価は耳に入り易く、否定的な評価は聞きづらい、ものです。

しかし、否定的な評価こそが、人を磨いて育てることが多々あります。

特に、芸能の世界では。

そして、一流になる芸人さんたちは、必ず他人の意見を謙虚に聞いて、そこから自分の技量を高める努力をしてゆきます。

 

 SNSで流しちゃいかんよ

さて、②の、発言を流布した行為、についてです。

ちょうど金曜日の大学の授業でも「SNSの功罪」を説明したところでした。

久保田さん、武智さん、の発言が飲み屋での私的な会話ならば何も問題はありません。

誰だって、愚痴や悪口は吐くものですから。

しかし、お二人は自ら進んで、この発言をSNSで生中継して発信されました。

今や、中高生でもわかるように、生中継をするスマホ画面の向こうには数百万人の、いや数千万人の視聴者が居ますよね。

SNSは、誰もが情報の発信者になれると同時に、その反面、実に多くの受信者を相手に情報発信の責任を取ることをしなければいけません。

これが、SNSについてのメディア・リテラシーの基本です。

 

お二人が、これから、発言を撤回しようと、上沼さんに謝罪しようと、今回の情報発信の事実をナシにすることはできません。

SNSはとても便利ですが、とても怖いメディア、なのです。

 

問題を起こしたタレントが「干される」理由

そして、もし私が現役のテレビ局のプロデューサーであったとしたら、今後お二人を私が担当するテレビ番組で使うことはありません。

なぜなら、テレビとは「国民共有の財産」である電波を使って、「公共の福祉」に資する目的のために許認可されているメディア、だからです。

そういったメディアにおいて、メディア・リテラシーの根本を理解しておらず、「更年期障害のオバハン」などと言う、差別的な発言を平気でする人は、出演者として適格性を欠いている、と思うからです。

こわくて使えないのです。

 

久保田さんは、昨年、1000万円の賞金を獲得されましたが、今回のことで1億円の出費をされたに等しく、武智さんは賞金を獲得することなく、1000万円の出費をされたに等しい、と思います。

お二人が失ったものは、あまりに大きかった、と言わざるを得ません。

マス・メディアの中で働く、ということは、本来かくも難しいことなのです。

一流のお笑い芸人になるためには、こういったことを、独りで熟考し、独りで悩み、独りで苦しまなければならないのです。

そういった苦闘の果てに、大衆に届く「自分のことば」を見出した人だけが、数少ないスターになれるのであり、「M-1審査員」の席に座れるのです。

 

 

先輩芸人たちの苦闘や、数えきれない屍のおかげで、今やたくさんのお笑い芸人さんたちが、社会的な地位の向上を勝ち得、マスメディア出演者の位置を得るに至りました。

しかし、その多くの人たちが、単にテレビに出て有名人になること、金儲けの手段としてお笑い芸人の道を選んでいること、その結果として「お笑い芸人のことば」が弱く貧しくなっていることが、今回はからずも明らかになったのは皮肉です。

 

どうか、たくさんの「お笑い芸人」のみなさん、そしてたくさんのテレビ制作者のみなさん、もう一度、初心に帰って自分の立ち位置を考えようではありませんか。

「笑いの神様」が与えてくれた格好の機会だ、と思って。

審査員に求める「言語化」能力――M-1感想へのコメントに答えて

様々なコメントを頂きました。

お礼と捕捉の意味を込めて、このブログを更新します。

 

なるほどなぁ、そういう受け止め方も確かにあるな、と思いつつ皆さんのコメントをじっくりと読ませていただきました。

もちろん、芸能であれ、文章であれ、「表現」は受け取る人間の百人が百様に自由に解釈すれば良いので、今回の「M1」についての私のブログも、読んでくださった皆様に私の考えを押しつけるものではありません。

皆さんのお返事の文章から、いくつかの思考のヒントを得ることができたことを、とてもありがたく感謝しています。

前回のブログでは書ききれなかったことを、少し捕捉しつつ、以下を書きますね。

 

テレビにも思想性が必要なのだ

まず、私がもっとも言いたかったことは、「M-1」がスタートから18年を経て、なまじビッグなテレビ番組になったがゆえに、少し変質してしまい、企画当初に内包していた「思想性」を忘れつつあるのではないか、ということです。

これは、主に、私の後輩たちであるテレビ制作者に対するメッセージ、です。

 

たかがテレビのお笑い番組に、「思想性」なんかあるのか、と思われるかもしれませんが、時代を画するような番組には、必ず「思想」の裏付けがあるのだ、と私は考えています。

これは、私が拙著『お笑い芸人の言語学』にも書いたことですが、1980年代の「漫才ブーム」が、なぜあれほどの時代思潮に成りえたかの理由は、ブームを牽引した島田紳助ビートたけしの二人が、戦後日本の「標準化思想」に対抗して、「標準語化されたお笑いの『ことば』への反逆」を意図していたから、だと私はとらえています。

その結果として生まれた「漫才ブーム」は、やがてブームが去ったあとも、テレビの中の「ことば」を変え、私たち一般大衆の日常生活の「ことば」さえ変えるほどの大きな社会的余波をもたらしてくれました。

それまで、「標準語」の下に劣位言語として低く見られていた「方言」――関西弁や東北弁や博多弁や沖縄ことば、など――が、テレビの中でも、丸の内のオフィスでも、ある程度ですが堂々と使えるようになった、ことなどが、その社会生活上の現れです。

 

「思想」に裏付けられていない「表現」は劣化する

さて、「M-1」を紳助さんが発案し、私と意見を交わしたのが2000年、すでに「漫才ブーム」から20年が過ぎていました。

紳助さんや、たけしさんや、さんまさん、ダウンタウン、などの活躍のおかげで、多くのお笑い芸人がテレビ出演者の位置を獲得することができるようにはなりました。

が、その人たちの多くは、有名になりたい、や、金を儲けたい、などの目先の欲望だけが契機となっていて、「時代と社会」に何かをぶつけたい、という「志」が欠けているのではないか、というのが紳助さんと私との共有認識でした。

これが、紳助さんの「今の若手芸人の『ことば』は弱くなっている」の真意だと、私は今でも思っています。

 

そこから、「M-1」の現実化が始まったのですが、番組の形態としては「漫才コンテスト」という形を取りました。

その結果、「M-1」はテレビソフトとしては成功したのですが、だんだんと「コンテスト」の要素だけが突出するようになりました。

しかし、「思想」に裏付けられていない「表現」は、次第に劣化するものです。

私は、ここ数年の「M1」に、その現れを感じているのです。

古来、どのような「表現」も、歳月を経て、広がるに連れて、変質してゆくのは仕方のないことではあるのですが。

 

「勢い」を言語化できる審査員が欲しかった

さて、以上のことを踏まえて、今年の「M1」の作りを構造的に見てみます。

まずは、審査員の選定ですが、7人中の6人が「漫才のベテラン先達」になっています。

これでは、審査の基準の根底が「漫才という話芸」の中だけでの優劣、になりますよね。

私は、もう少し視野を広げて「ことば芸」全般の視野でとらえた方が良い、と考えます。

 

ちなみに、1回目、2回目では、劇作家の鴻上尚史さんや、落語家の立川談志さんや、小説家の青島幸男さんに審査員として入ってもらいました。

それと、野球において「名プレイヤー、必ずしも名監督ならず」と同じで、「名・漫才師、必ずしも名審査員ならず」です。

実演の技能と、評価の技能、は違うものだと思います。

審査員にとって大切な要素は、「ぶれない評価の基軸」をしっかり持っていることで、その上で初めて、「一発勝負のドラマ」性の醍醐味が増すのだ、と私は考えているのです。

 

私は決して、「勢いに乗った勝利」を否定しているわけではありません。

確かに、今年の「霜降り明星」の勢いは、目を瞠るものがありました。

ただ、願わくは、彼らの「勢い、とは何か」を明確に言語化できるだけの能力を持った審査員が欲しかったな、と思っているのです。

ここは、ひとえに、審査員をキャスティングする制作者たちの能力の問題です。

 

この「ぶれない評価の基軸」をしっかりと持っているかどうか、は採点の振幅の多少に現れます。

つまり、評価点に高低差が大きく出せるのは、良い審査員の証なのです。

逆をいうと、10組の演者に対して、さほどの高低差がつけられないのは、良き審査員とは言えないのです。

80点台が付けられるかどうか、は大事なことなのです。

また、読み違えてはいけないのは、「好きやわぁ」とか「私には、わからへん」とかの評価コメントが堂々と言えるということは、評価の論理をふまえて嗜好に達しているのであり、とても優れた批評コメントなのだ、ということです。

これを、単なる「好き嫌い」で採点しているかのように受け取るのは浅薄な間違いです。

 

ライブ観客とテレビ視聴者の相関性

さて、ご指摘のもうひとつの点、「観客」の問題について、です。

これも、私は決して、スタジオに来てくださった「若い女の子たち」を否定しているわけではありません。ありがたいお客さんだ、と感謝しています。

なのですが、スタジオのフルショットを見ればわかるように、観客席250のうち、前部の200人分がほとんど若い女の子、で、後部50に少しだけオジサン・オバサンが配席されていました。

これでは、ライブの笑いに偏りが生じますよね。

 

「M1」はテレビ番組です。

目の前の観客250人に対して、カメラの向こうには2000万人の茶の間の視聴者が居ます。

作り手は、このことを踏まえて番組を作らなければならない、と思うのです。

 

おそらく、紳助さんが言った「テレビの向こう側の兄ちゃんを笑わせなあかん」は、テレビというメディアの特性をしっかりと捉えているのだ、と思います。

後輩たる制作者たちには、客席の比率配分などを考えるよう、反省を促したいと思います。

そして、審査員の諸氏の何人かにも、目の前の客席の反応を踏まえた上で、なおかつカメラの向こう側にいる多くの視聴者の反応に思いを巡らすことのできる卓越した批評眼を望むものです。

 

 

以上のことは、テレビ表現を生業として35年、そしてたまたま「M1グランプリ」というテレビ番組の立ちあげに携わった私の個人的な批評です。

なにはともあれ、私は「テレビ」が大好きです、そして「お笑い」が大好きです。

これからも、あれこれ言いながら、神様が私の人生に与えてくれた「テレビ」を楽しみ、「お笑い」からたくさんのことを学んでゆきたい、と思っています。

うーん? 優勝は「和牛」でしょう!――「お笑い」と「ことば」

今年も、笑いながら、拍手しながら、ヒヤヒヤしながら「M-1グランプリ」を見ました。

自分が立ち上げに関わったテレビ番組が大きく育って、今や、押しも押されぬ「漫才界の頂点」を競うビッグな番組になったことは、とても嬉しいことです。

テレビの画面を見ながら、その裏で生番組ならではの緊張に追われている後輩スタッフたちの姿を思い浮かべつつ、OAを楽しみました。

 

全体として、高いレベルを保ちながら緊張感にあふれた、とても良い出来だと思いました(こう言うと、先輩ヅラした、なんだか嫌な奴だと思われそうですが、こんな批評をもきちんと受け止める謙虚さが表現制作者には必要なのです)。

素材VTRの作り方、あおりナレーションの付け方、アタックBGの選び方、最後の結果発表に至るまでの緊張感の高め方、いずれも極上のエンターテイメントになっていました。

 

で、今年最初に笑ったのは、審査員の立川志らくさんの、

「もう談志が今、降りてきてます」と、

ナイツ・塙さんの、

「今日、内海桂子師匠がちょっと今、降りてきてますんで」でした。

 

審査員の人選

この手のコンテストでは、誰が審査員であるか、は大変に大きな要素です。

その点で、志らくさんは批評のコメントも、鋭くて的確でよくわかりました。

「ホントうまいですね、ただし上手さの前に魅力が現れたら太刀打ちできないですよね」(「かまいたち」に対して)

 

やはり審査員には、「漫才芸の先達」だけでなく、異なる表現領域の人が入っていた方が良い、と思います。

できれば、もう一人、7人のうち2人は違う世界からの人が審査員である方が良い、と思います。

その理由は、同じく「ことば」を使う芸能ではあっても、落語や演劇など違う表現領域からの批評が、逆に「漫才」という話芸の特徴と面白さを浮かび上がらせることになるからです。

 

上沼恵美子さんと松本人志さんの、審査員2ショットは、さすが「M-1」ならではのインパクトがありますね。漫才手法のまったく違う二人の批評コメントは、それだけで面白い。

そして、上沼さん、松本さん、厳しくて上手い!

「自虐ネタは受けない、何してたん今まで」(「ギャロップ」に対して、上沼)

「おもろくて、さっき、屁いたわ」(「ジャルジャル」に対して、松本)

短い一言が実に正鵠を射ており、なおかつその批評コメントで笑いを取るという、最高級の話芸になっていました。

「M-1」は、審査員すらも視聴者の批評の眼にさらされている、んですね。

こわいですねぇ。

その意味では、いささか首をかしげざるをえない批評と採点もありました。

(もっとも、これは私が既に現場を離れているから言えることで、テレビマン現役の時にトップの芸人さんにはなかなか言えないものです)

 

勝戦の判定は妥当か

さて、決勝戦での判定、についてです。

人間が人間の技量を判定することであり、しかも生番組内での瞬間的な判断を迫られていることなので、とても難しいことは確かです。

そして、「優勝・霜降り明星」という結果は揺るぎない事実です。

なのですが、私の採点では「和牛98点vs霜降り明星95点」だったことを、あえて書きたいと思います。

 

霜降り明星の若さ

私のこの採点基準の最大のよりどころは、「ことば」です。

霜降り明星」は、確かに若者らしい勢いがあって、パワーあふれる形態模写としゃべくりの漫才でしたが、「ことば」の使い方にひとりよがりの狭さがあると思います。

例えば、入りネタの「赤ちゃんの夜泣き」では、せいやが「んぎゃー、んぎゃー」と泣いた後、「寝んねんころりよ、おころりよ」と自分で歌って「ぐぅー」と寝たところで、相方の粗品が、「セルフ!」と突っ込みます。

続いて「赤ちゃんことば」では、せいやが「バスロマン、バスロマン」と言い続けたところで、粗品が「赤ちゃんはバブやろ」と突っ込みます。

また、「転校生(てんこうせい)の紹介」で、せいやが自分の首を刀剣で刺す動きをしたところで、粗品が「プリンセス天功(てんこう)生」と突っ込みます。

「オト」の勘違いを逆用したネタですが、『セルフ』や『バスロマン――バブ』や『プリンセス・テンコー』のカタカナ語は聴衆の頭には、すぐさまイメージを湧き起こしません。

つまり、「えっ、何?」と思わせるのは良いのですが、その疑問の回収が不十分なのです。

また、その肝心な「オトのことば」が、二人の大きな声の重なりで良く聞き取れません。

なので、聴衆は「今の、なんだったの」と思っているうちに、勢いで次に進まされます。

 

また、山場ネタの「小学校の水泳プール」では、せいやが各コースを泳ぐ生徒の形態模写をして、粗品がフォロー解説をすることで突っ込みを入れます。

「となりの第2コース、クリオネの泳ぎ方、クリオネかおまえ」

これも、面白いのですが、『クリオネ』なる生き物を知っていない人にはわかりません。

 

つまり、「ことばのオト」で笑いを組み立てようとしている努力は高く評価できるのですが、そこに『プリンセス・テンコー』や『クリオネ』などの消化不十分な「知識ことば」が入っている分、聴衆の多くを置き去りにしている、と思います。

 

確かにスタジオ観客席の笑いは多かったのですが、といって、審査員がそれを採点の軸にするのは間違いだと思います。

スタジオの観客は、ほとんどが若い女性でした。それは、生番組で、もっとも笑いが取りやすい客層だから、という番組運営サイドの理由によります。

しかし、かつて、島田紳助さんが言ったように、

若い女の子たちの客は、おれたちが活動するには大事やけど、そいつらが俺らをダメにする。テレビの向こうの兄ちゃんを笑わせなあかん」

だと思うのです。

 

ジャルジャルの「ことば遊び」芸

ジャルジャル」は、決勝戦でのネタはもうひとつでしたが、本戦での「国名わけっこ」遊びは、とっても面白かったです。

おそらく、ここ数日は全国の小学校で「ゼンチン」や「ドネシア」が連呼されていることでしょう。

彼らの「ことば遊び」の巧みさは、独自の世界を持っている、と思います。

ただ問題は、それが小学校や中学校の空間にとどまることで、これから如何にして大人の世界までを巻き込んだ「ことば遊び」芸を産み出してくれるか、を楽しみにしたいと思います。

 

和牛の「ことば」はピカイチ

さて、「霜降り明星」や「ジャルジャル」が、「よしもと漫才劇場」では間違いなく大爆笑を取るでしょう。

それに対して「和牛」は「NGK」で爆笑を取るだろう、と思います。

それは、「和牛」が使っている「ことば」が、どんな年齢層の客でも聞き違えることなく理解できる「生活ことば」で構成されているからです。

つまり、「和牛」の漫才に出てくる「ことば」は、誰にでもわかる「ことば」なのです。

 

水田信二の、

「実は今、心配ごとがありましてね」で入り、

川西賢志郎の、

「心配ごと?」に

「もし、俺の親が、オレオレ詐欺にひっかかったらどうしようかなぁ、と思って」と答え、

「まぁ、確かに、息子としては心配やなぁ」

と進んで、だましの電話をする息子と、それを受ける母親との「なりすまし」芸が始まります。

「もしもし、水田です」

「もしもしオカン、俺やねんけど」

あっ、信二?

「うん、そう、信二

「あんた、元気にしてる?」

「実は今、俺、交通事故おこしてもてさぁ、相手の方、入院することなって、病院おるんやんかぁ、今」

「事故?」

「で、どうしても今日中に示談金が必要やねん」

「示談金て、それ、いくらやのん?」

「200万、なんやけど」

「200万?」

「駅前の喫茶店に、ご家族の方がいるから、持ってきて渡して欲しいんやけど」

「わかった、ほな、すぐ行くから、向こうのご家族の方に伝えといてーー」

 

こうして、喫茶店に200万円を持ってきた母親が、だまし電話をかけた息子に叱られる、という展開になります。

二度目のだまし電話にも、

「泣いてるわが子を身捨てる母親がどこにおる」

「あの子は、私が絶対守る、おなかを痛めた子、やから」と、再び、だまされます。

 

そして、次に、母親は、

「うんっ、苦しい、心臓いたい、すみません、救急車呼んでもらえますか」と息子をだますのですが、救急車を呼んだはずの、息子の電話そのものが「だまし」だった、というオチ。

だまし合った、母と息子の、無言の睨み合いに笑いが産まれます。

 

シチュエーション設定と、なりすまし芸による笑いで、二人のしゃべる「ことば」はどれも私たちがふだんの生活で使う「生活ことば」であり、聞き違えることはありません。

なおかつ、二人の発声と滑舌はなめらかで、はっきりとしています。

実に完成度の高い、上質な「しゃべくり漫才」です。

 

漫才という芸、お笑いと「ことば」

そもそも「漫才」とは、「オトのことば」を使った「笑芸」です。

その時に大切なことは、「誰もが使えて、誰にでもわかる、ことば」による「笑い」の創造なのではないでしょうか。

勘違いしてはいけないのは、大きな声や、早い速度のしゃべりや、難しい漢字語や、高級そうに聞こえるカタカナ語、が「強いことば」ではない、ということです。

「ことば」の本質とは、「ある一連のオトのつらなり」が、「ある特定のもの・こと」を指し示す、ところにあります。

ですから、「強いことば」とは、多くの人が共通して「しっかりとした脳内イメージ」を結ぶことのできる「ことば」のこと、なのです。

 

「M-1グランプリ」を最初に発案した、島田紳助さんが私に言ったことは、

「先輩たちの苦労のおかげで、たくさんのお笑い芸人たちが飯が食えるようになりました。

 せやけど、今、お笑い芸人たちの『ことば』が弱うなってきてる、と思うんです。

 もう一回、お笑い芸人たちに『強いことば』を取り戻すチャンスを与えたいんです」

でした。

 

「M-1」が産まれて18年。

たくさんのお笑い芸人たちの、人生さえ左右するほどの番組になりました。

だからこそ、今一度、番組に関わるテレビマンたちも、出演者たる若手芸人たちも、審査員として関わるベテラン芸人たちも、誰もが、紳助さんの『発案の原点』を確かめる必要があるのではないか、と私は思うのです。