吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「お笑い芸人」の言語力

吉本興業に所属するお笑い芸人の、宮迫博之さんと田村亮さんらの「闇営業」をめぐる問題と、それに続く記者会見についての報道が続いています。

 

一連の報道を見ていて、『お笑い芸人の言語学』を書いた僕の立ち位置からの考えを述べます。

それは、報道が拡散して一般化されるにしたがい、いつのまにか埋没してしまいそうな二つの点について、です。

 1つは、「お笑い芸人の言語力」。

 1つは、「お笑い芸人の非・社会性」。

 

考察にあたって、主な素材とした放送は、

720() 午後2時~430分 「宮迫博之田村亮 記者会見」(Abema TV)

720() 午後10時~1130分「新・情報7days(TBS)

721() 午前10時~1130分 「ワイドなショー」(日本テレビ)

722() 午後2時~730分 「岡本社長 記者会見」(Abema TV)

これらの番組はいずれも生放送ですべてを視聴しました。

 

で、この他に民放各局のニュース、および「アッコにおまかせ」(TBS)「スッキリ」(フジテレビ)なども参照しました。

 

1.「お笑い芸人の言語力」について

20()に行われた、「宮迫博之田村亮の記者会見」で鮮やかに浮かび上がったのは、宮迫と田村の「ことば」の強さ、でした。

それに比べて、一方で鮮やかに浮かび上がったのは、会見場に居たマスメディアの記者たちの「ことば」の弱さ、でした。

 

「お笑い芸人」という人間は、「ことば」だけを武器として生きている者なので、「ことば」の原理原則を体でよくわかっている者たち、です。

それは「話術のうまい・へた」という運用上のテクニックの問題ではありません。

 

今回の記者会見で、それがとてもよくわかりました。

宮迫・田村の記者会見の目的、つまり、二人が伝えたかった内容は、「当人による事情の説明、と、説明が遅れたことの事情の説明」でした。

 

そのことをしっかりと伝えるために、宮迫は、ゆっくりと気持ちを乗せてしゃべりました。

「今回のことは、僕の、保身からくる、軽率なウソから始まっています。今回の騒動の全責任、すべての責任は僕にあります。僕のせいです。本当にすいませんでした」

ここから始まった二人の会見は、おそらく多くの視聴者や芸人たちへ「正直」「真摯」だと受け取られたであろう、と推測されます。

 

直接話法の表現力

しかし、話す「ことば」のプロである以上、宮迫・田村の二人には「演技のしゃべり」もできるわけで、二人のしゃべりをそのまま鵜呑みにするのは危険です。

ですが、この点に関しても二人は周到に「正直さ」を担保する「ことば」を使いました。

 

それは「直接話法」です。

事後の説明ではなくて、その日、その時に、実際に「話されたことば」の再現です。

 

まず、「闇営業」でのお金の受け取りについて、

「亮くんに『いくらもらったんだ』と聞くと、『50万』だと答え、『俺はいくらもらったんだ』と聞いたら『100万』だと」

「宮迫さん、そのおつりを受け取っていました、と」

の部分です。

 

次は、吉本興行に行っつての報告の部分、です。

「もう、ひっくり返せませんよ」

「しばらく静観ですね」

「おまえら、テープ廻してないやろなぁ」

「記者会見やったらええ、その代わり全員クビや」

 

こういった「実際に話されたことば」が、宮迫・田村の二人の発言の正直さを担保しているのです。

そして、会見場に居たメディアの記者たちが、「事実の解明」を目的としていたのなら、ここにこそくらいついて追及すべきだったのです。

 

まず、前半部ですが、

この会話から考えれば、入江はギャラを、例えば封筒に入れたお金を誰に手渡したのか、が問題です。宮迫に直接にではなくて、田村に二人分の封筒で渡したのか、なのです。

では、打ち上げの飲食店ではだれが費用を払ったのか、例えば田村が宮迫の財布を預かって払ったのか、または田村が持っていた宮迫用の封筒から払って、そのお釣りの現金を宮迫が店員から受け取って財布に入れたのか、が問題となります。

この状況の確認は、とても大事な点のはずです。

 

次に、吉本興行に告白に行った部分では

「もうひっくり返せませんよ」と言ったのは誰なのか?

「しばらく静観ですね」と言ったのは誰なのか?

 

あれだけの記者たちが居たのに、この肝心な点を問うた記者は一人もいませんでした。

僕は、まず、このことにマスメディア記者たちの「ことば聞き取り能力の低さ」を感じました。

そして、とても重要だと思われる上記二つの発言者を特定するための質問は、今日に至るまでなされていません。

おそらく岡本社長が言ったのではないか、という推測で動いています。

僕は、そうではなくて、社内弁護士の小林氏か社外弁護士だと思います。

 

⑤⑥は、岡本社長の発言だという事は宮迫の説明で明らかで、宮迫・田村の記者会見以降は、こちらの「吉本興行の体質」という問題に論点が移ってゆきました。

しかし、事実解明を目指すのであれば、③と④の発言者の特定と、それが発言された状況の特定は欠かせない要件だと思います。

 

記者の言葉のナンセンスさ

さて、宮迫と田村の「想いの込められた強いことば」に対して、マスメディアの記者たちの「ことば」には弱くて薄汚いものがたくさんありました。

まずは、自分の所属と姓名をはっきりと名乗らない者。

同じ質問を繰り返して、肝心なことを聞かない質問。

 

ただし、記者会見においては、わざと時間差をつけて同じ質問をすることはあり得ます。それは、同じ質問を何回も繰り返すことで、会見する側の発言の「食い違い」を引き出したり、「ボロ」を引き出す目的です。

しかし、今回の記者会見でのカブり質問はそうではなく、特にテレビ記者による質問では、質問の頭に「〇〇テレビの〇〇ですが」と番組名を名乗り、目的が自分の属するテレビ番組でのインタビュー使用にあることが明らかでした。

薄汚い目的で発せられた「ことば」でした。

 

この点で最もひどかったのは、TBSの「アッコにおまかせ」の記者で、質問は、「宮迫さん、かっての浮気騒動の時はオフホワイトとおっしゃいましたが、今は何色ですか?」というもの。

このバカげた質問に、宮迫は冷静に「すいません、本当に謝罪をしたいという会見でしたので、ちょっと話が違いますので、すいません、申し訳ないです」と答えていました。

当該の記者は、TBSの社員なのか、制作プロダクションの者なのか、契約のレポーターなのかは分かりません。

すぐさまネット上には、この質問者に対する批判が続出しましたが、それは多くの視聴者のしごく健全な反応というべきで、日本の芸能ジャーナリズムの低劣さを露呈したものでした。

 

また、宮迫が吉本興行側からの「静観ですね」という発言を明らかにしたことに対して、執拗に「そういう隠蔽をしようとしたんですね」と誘導尋問を繰り返して、なんとかして宮迫と田村の口から「隠蔽」という単語を引き出そうとした記者もいました。

それに対しても、宮迫は、「静観という言葉しか使われていないので、そこを言い換えるというのは語弊があるような気がします」と誘導には乗りませんでした。

 

この記者の質問も、薄汚い意図をもった「ことば」です。

そういった、マスメディア従事者たちの、「ことば」に比べて、

「こんなアホを……30年間も育ててくれた吉本興行に対しては……感謝しかないですよ。こんなこと、したいわけないじゃないですか……」

という「ことば」が、どれだけ「美しい・正しい・強い」日本語であるかを、私たちは気付くべきだと思います。

 

さて、「ことば」から聞き取る「発言者の心」の判定、は、これ以降のニュース報道や情報番組の中で展開される言説についても、また、「岡本社長の記者会見」についても同様にあてはめることができます。

 

22()の「岡本社長 記者会見」での「ことば」については、お笑い芸人・学天則奥田修二の、「芸人は、本気と冗談を見分けられます。だから、芸人なんやもん」というTwitterがすべてを表しています。

 

2.「お笑い芸人の非・社会性」について

720()の「宮迫・亮の記者会見」で明らかになった事柄の中の、「しばらく静観ですね」と、「全員クビにしたる、わしにはそんだけの力があるんや」という発言から、一連の騒動は「吉本興行のパワハラ体質・前近代的経営」へと論点が移っていっています。

が、今後を考えるためにも、絶対に忘れてはならない論点があると、私は思います。

それは、「お笑い芸人」とはどんな存在か?ということです。

 

「お笑い芸人」という存在

そのことを、とても正確に言い当てているのはビートたけしです。

たけしは、22()夜放送の「新・情報7days ニュースキャスター」で、「芸人というのは猿回しと同じで、俺らは猿で、猿が噛んだ時は飼ってる奴が謝るの」と言いました。

たけし発言のこの部分は、近藤春菜らの引用で広まりましたが、本当に大事なのは、それに続いた次の部分です。

 

「本当のこと言うと、お笑い芸人に社会性とかすごい安定したことを望む社会が変だよ。俺ら、それが嫌でやってんだから」

「品行方正とかを漫才芸人に求めちゃダメで」

「俺ら、綱渡りしなきゃいけないんで大変なんだって」

 

ここに、「お笑い芸人」という存在の本質的意味が込められています。

 

「お笑い芸人」とは、ことの本質からして「非・社会的な存在」なのです。

 

「お笑い芸人」は、魚1匹獲りはしない、野菜1つ育てはしない、ネジ1つ生産はしない。

つまり、産業社会における「生産行為」から逸脱した「ハズレ者」なのです。

 

産業社会を成り立たせている、「知識」や「学歴」や「地位」という基準からすれば、彼ら彼女らは「落ちこぼれた者たち」なのです。

学校の成績は悪かったり、美しい容姿にも恵まれていなかったり、優れた筋力があるわけでもなかったり、育った家庭環境も複雑だったり。

そんな人間たちにできることは、親からもらった身体と口を使って人を笑わせることだけです。

だから彼ら彼女らは、産業社会の周辺に居て、社会の中で正業を営む人たちに「笑い」という慰藉を与えることにより生きるのです。

 

「お笑い芸人」とは、本来的に、社会とは転倒した価値観を生きる人間のことなのです。

しかし、だからこそ、産業社会を構成している社会的な価値規範――性や金銭や社会的倫理など――に縛られることなく、それらの価値規範にとらわれている大衆を笑わせることができるのです。

 

これが「お笑い芸人に社会性を望むことが変だよ」の意味です。

そして、社会の周縁で生きている「非・社会的存在」である「お笑い芸人」は、ややもすれば社会から完全に外れたり、社会に牙を剥いた「反・社会的存在」になる危険性を常にはらんでいます。

このことを、たけしは「猿回しの猿が人を噛む時がある」と言っているのです。

その危険な壁ぎわを生きていることが、「綱渡りを生きている」という意味なのです。

 

で、狭くて危険な壁ぎわを歩いてゆく猿の手綱をゆるめたり引っ張ったりする役目の「猿回し役」が、マネージャーやプロデューサーという名前で呼ばれる者のことです。

 

このことを理解しなければ「お笑い芸人」の発掘や育成はできません。

ここが、一般社会の企業とは全く違うところであり、俳優やアイドルという同業他種の人材会社とも違うところです。

 

吉本興業という会社

なぜ吉本興業が現在のような「お笑い界の大企業」になれたか、というと、こういった「お笑い芸人」という者の特殊性をよく理解していたプロデューサーやマネージャー達が大勢いたからです。

だから、世の「ハズレ者」たちがたくさん吉本に集まることができたのです。

今回のことで多くの所属芸人たちが言っている「吉本は昔の吉本とは変わった」というのは、この点だと思います。

かつては、「ハズレ者」たる「お笑い芸人」のことをよく理解して、そんな「お笑い芸人」のことが好きな人間たちが吉本の社員としてたくさん働いていました。

楽屋や、近くの飲食店では、芸人と社員が一緒になって軽口をたたき、社会の悪口を言い、規範に縛られて生きている一般大衆のことを笑いながらしゃべっていました。

「猿」も「猿回し」も一緒に生きていたのです。

 

宮迫博之の「こんなアホを、30年間育ててくれた吉本」という発言の深い意味もそこにあります。

 

そして、およそ近代的な産業社会になじむことのできない「お笑い芸人」にとって、「吉本」はとても生きやすい場所でした。

このことの象徴が「カネ・収入」の仕組みです。

今回のことで、多くのマスコミや識者たちは「吉本」の芸人たちへの金銭的側面を、否定的にのみ語るが決してそうではありません。

 

外部から見れば「前・近代的」とだけに見えるでしょうが、吉本に所属して生きている芸人たちにとってすれば合理的な面もたくさんあります。

 

芸人と契約

まず、「契約」の問題です。

およそ「契約」こそは、近代的な人間関係の集約的象徴です。

多くの「お笑い芸人」にとって、「契約」のようなややこしい社会関係は「ようわからん」世界です。

もちろん「お金」は欲しいが、「ややこしいことはかなわん」人間もたくさん居ます。

かつて、名物会長であった林正之助が「給料上げて欲しいんやったらワシのとこへ言いにこい」と言ったという伝説的エピソードがありますが、それを聞いた芸人たちがビビって恐れをなしたかと思うとさにあらずで、少なからぬ芸人たちがこの言を聞いて林会長のところへ行き、「会長、給料上げて下さい」と直談判しにいったという事実があります。

そのくらいの根性がなければ続けられないのが、芸人という生き方です。

芸人が文句を自分の口で言うことができ、それを受けいれる寛容さのある会社、それが「吉本興業」だったはずです。

 

芸人の活躍度や金銭感覚や家庭状況などを熟知した上で、勘案して報酬を決めるのが非合理だとは言い切れません。

かつては、金使いの荒い芸人にはギャラの金額を教えないで、こっそりと奥さんに報酬を渡していた場合もある、と聞いています。

これも、昔々のお話ですけどね。

 

肥大化のデメリット

で、芸人と社員とのこのような牧歌的な関係が変質せざるをえなくなってきたのは、NSC(吉本芸能学院)の事業的成功に端を発する肥大化だろうと思います。

所属芸人6000人と言われるまでに肥大化した組織では、かつてのような「猿と猿回し」の人間的な関係は維持できない。管理部門の拡大と官僚化は必然だったでしょう。

このことが、今回のことで、中堅以上の芸人たちからよく言われる「吉本は変わった」ということではないでしょうか。

 

また、エンターテイメント(娯楽)の産業化システムが整備されるに連れて、本来は「産業社会からのハズレ者」であった「お笑い芸人」という生き方が、一見「効率の良い就職先」へと変質してしまった、という側面もあります。

芸人たちの質も多様化してきたのです。

そして、特異な才能を必要とする「お笑い」の世界では、向いていない人間には薄給をもってしてその自覚を促して、「正業」の世界へと早いうちに帰農させることも企業としては大切なことです。

 

「お笑い」というものは近代的な社会関係だけでは包摂しきれないものを孕んだ営みなのです。

テレビで解説者などが今回の問題を一般的な雇用関係や契約の問題に収れんさせようとしていますが、「お笑い」というものの本質を忘れたら、単なる形式的な解決にしかならないと思います。

 

芸人という生き方――「夢」を見るな

天国か地獄か

芸人になるのは、甘いことではありません。

類まれな才能と特別な努力、そして運、これがなければ、芸人で居続けることはできません。

 

今回の件で、「若者が夢を叶えられる会社に」という言葉も聞きますが、とんでもない偽善です。

貧乏な若者が月給500円の薄給から、その才能と努力と運でもってして年収何千万何億円をつかみ取ることが夢なのです。

その夢を叶えることのできる者は、ほんの一握りなのです。

叶えられなければ、薄給のまま、地獄です。

夢は地獄と紙一重なのです。

芸人に向いていない人間は、薄給から逃げて、正業の世界に帰らせることも、エンタメ企業としての務めであると僕は思います。

 

吉本のこれから

22日の「岡本社長記者会見」で、昔の吉本興業を知る私がもっとも驚いたのは、最初に時系列を説明した人間が、「法務本部長 小林良太」氏だったこと、でした。

おそらく多くの吉本芸人たちも驚いたことでしょう。

「こんな人が社員にいるんだ」と。

小林弁護士の語る「ことば」こそ、吉本芸人たちの日常から最も遠いところにある「ことば」であることを、「お笑い芸人」は知っています。

小林弁護士は、NGKの芸人溜りで「お笑い芸人」たちと下世話な会話をしたことがあるのでしょうか。

 

今、本当に問われているのは、社会的規範を免れた「お笑い芸人」たちの「ことば」と、社会的規範を象徴する小林弁護士の「ことば」の乖離でしょう。

そして、今後、吉本興業が取り組むべきは、異種の「ことば」が同時に存在して、そこで人が生きてゆける「新しい組織」の構築だと僕は思います。

近頃の女子大生ことば

 

「せんせぇー、最近、タピってますぅ?」

 ――は、はぁ、なんて、何のこと?――キョトンとしてる私に、

「今日、めっちゃ暑いんで、みんなでタピりに行ってきま~す。授業、ちょい休み」

 ――楽しそうに、しゃべりながら歩いてゆく女子大生たち。

 

女子大で教えていると、なんとなくはわかるけど、その実よくわからない「若者ことば」に触れることがよくあります。

「うつりゆくこそ、ことばなれ」で、「ことば」は様々な要因で変化をしてゆくものです。

そんな変化の中で、「若者ことば」は制度教育や社会的権威からの押し付けによる強制変化ではなく、「ことば」を使っている人間たちの欲求や要望による変化なので、「ことばを成長させる力」をはらんでいて、とても勉強になります。

 

そんな訳で、この春学期の間でとても面白く感じた「近頃の女子大生ことば」をとりあげてみました。

言語研究をしていらっしゃる方々、参考にして下さい。

 

「タピる」

このごろ若い女の子たちに大人気という「タピオカ」を飲むこと、食べること、のようです。

「先生、タピってますぅ?」とか、

「なぁ、授業さぼってタピりにいこか

などと使うようです。

ちなみに、京都にも最近はたくさんの有名なタピオカのお店が出来ているようで、うちのクラスの学生たちに人気が高いのは、河原町にある「モッチャム」や「Sin an ju(シン・アンジュ)」だとか。

いつも修学旅行生はじめ、長い行列ができているそうです。

ちなみに私は、回転寿司「かっぱ寿司」のタピオカしか飲んだことがありません。

 

「『タピオカってキャッサバやん、芋やん』って言ってた友達が、今度タピりに行くらしくて感想を聞くのがとても楽しみ」という学生さんもいました。

 

ありよりのありであざまる水産

さぁ、次は「わかものことば」満載だったコメントカードの一部です。

あなたはどれくらいわかりますか?

 

「このまえ友達に、『オケオール、いこ』言われて、『ありよりのありやな』おもって行ったらデンモククズで、萎え

そしたら夜の2時ぐらいに、部屋まちがったオジサン入ってきて、

とりま楽しかったから良き

誘ってくれて、あざまる水産!!

 

いやぁ、おっちゃん先生にはわかりませんでした。

かなりの解説を受けて理解しました。

それでは逐語訳してみましょう。

 

「オケオール」……カラオケのオールナイト、ですね。

カラオケボックスで朝まで歌おうよ」ということ。

「ありよりのあり」……「有り寄り、の有り」。「それもありやな」という時の「あり」ですね。「あり(有り)」か「なし(無し)」かをゾーン分けしたら、「あり」の方に近寄っている「あり(有り)」、とのことです。意訳すると「うん、まぁ、行ってもええよ」くらいの感じ、だそうです。

デンモク……カラオケを歌う時の「電子目次(デンモクジ)」の省略形、なんだそうです。

「クズ」……乏しい、貧しい、良くない、の意味。

「萎え」……がっかりした時の「萎える」の短縮形。「萎えるわぁ」とか「萎えたわぁ」とか、と使います。

 

そして、「カラオケボックスに行ったら、曲の電子目次本が貧相で歌いたい曲目がなくて、がっかりしたわ」というところを、

デンモクがクズで萎え」!

なんとみごとな省力化、ではありませんか。

 

「ことば」は、使う人間にとって便利なように省力化され短縮化されるものなのですが、ここまでみごとに縮めるとは。脱帽!しました。

 

「草」……これは、近頃の若者が良く使う「ことば」のひとつ、ですよね。「クサ」です、「そう」ではありません。もともと、ネットやツイッターで「笑う」を意味する「w」という記号を連ねて、「wwwww」などと書いて、「失笑」や「嘲笑」を表しています。それが「草」が生えているように見えることから、の変化です。馬鹿にして笑っている、ことの文字化、です。

「とりま」……「とりあえず、ぁ」の短縮形、ですね。

 

「あざまるスイサン」

口からオトにして出してみると、とても軽やかです。

なんとなくわかりますが、よくよく解説を聞いてみると、これが結構深い言語変化のプロセスを含んでおりました。

 

「あざまる」……「ありがとうございまーす。」が短縮化して変化したもの、だそうです。

 

まず、「りがとうごす。」が、短くなって「あざま~す」に。

語尾の「~す。」の句点の「」をオトにして「まる」と発声します。

全体をつなげて「あざまる」となります。

 

つまり、原文は「ありがとうございます 。(まる)」これを「あざまる」と言っているので、軽く聞こえますが使っている人の気持ちからすれば、かなり丁寧な気持ち、なのだそうです。ほんとに?

 

「水産(すいさん)」……これは何人かの学生にたずねたのですが、今のところ明確な解説は聞けませんでした。

何人かの解説を合わせたところでは、なんでも若者がよく使う居酒屋チェーン店に「磯丸水産」というお店があり、その「いそまるすいさん」のオトが、「あざまる」のオトに語呂合わせでつながった、らしいのですが、詳しいことはわかりませんでした。

ご存じの方、いらっしゃったら、教えて下さい。

 

それにしても、感嘆すべき言語変化です。

是非とも、口から出る「オト」にしてみてください。

 

「このまえ友達に『オケオール、いこ』言われて、『ありよりのありやな』おもって、行ったらデンモクがクズで、萎え。そしたら夜の2時ぐらいに、部屋まちがったオジサンが入ってきて、草。とりま楽しかったから良き。誘ってくれてあざまる水産!!」

 

ところで、徹夜でカラオケボックスに居た女の子たちは、その後どうしたんでしょうか。

動き始めた電車に乗って家に帰り、そこから寝直したんでしょうか。それとも徹夜のまま1限目の授業に出たんでしょうか。

まぁ、僕らの頃は、キャンパス近くの雀荘で徹夜マージャンしてそのまま1限目の授業へ行き、授業中はほとんど寝てたもんですが。

 

「エモい」

決して「エロい」の同類ではありません。

「エモーショナル(Emotinal)」を語源としており、しみじみとした感動や深い感情をあらわす時に言う、のだそうです。

 

実用例としては、

「いやぁ、こないだのアニメ、めちゃめちゃエモかったわぁ!」や、

推しが、ひたすらエモい!」など。

補足ですが、「推し(おし)」とは、アイドルグループ等の中で自分が推薦しているメンバー。

 

「エモい」の段階表現としては、「激エモ」……激しく心動かされた時、に使う。

また、最高級の場合には「エモエモのエモ」という場合もある、とか。

 

別の学生によれば、「どうにも形容し難い感動があった場合に、『泣けたわ』とか言うよりも先に『エモかった』と言ってしまう」んですって。

また別の学生によれば、「深夜の高速道路や、真夜中のサービスエリアのように、独特の浮遊感や違和感を伴う、欠落のある美しさ」が「エモい」んだとか。

 

深い!じゃぁありませんか。

きっと、清少納言の「いとをかし」に通じているのでしょう。

「春はあけぼのがエモい!」

 

「しんどみが深い」

感嘆表現の続き、です。

推しの舞台を観に行きました。ファンタジーやのに激おもやし、W主演の二人の関係性が激エモで、しんどみが深かった!

なんとなくですが、わかります。

 

学生の解説によれば「激おも」は、「重々しい、重厚である」の意味で「おもしろい」の意味ではない、のだそうです。

「激エモ」は、「激しくエモーショナル」で、いたく心を揺さぶられた、の意味。

「しんどみが深い」は、心がしんどくなるくらい感動が深い、の意味なんだそうです。

 

この「しんどみ」の「み」は、「おもしろい」に対して「おもしろに欠ける」、「高い」に対して「空の高に」や、「深い」に対して「深にはまる」のように、形容詞の語尾が変化して名詞化したもの、だと考えられます。

「しんどみが深い」と、一連で使うことが多いようです。

 

「り!」

使用例:「あした、3時、四条河原町のディズニーストアの前でな」「り!」

そうです、「了解(ょうかい)」の「り」ですね。

 

これで本当に通じているのかなぁ。

 

ある学生によれば、

「このあいだ、電車で女の子2人が、A『ま?』『ま!』と話していました。多分、推測するに、A『まじ?』B『まじ!』だと思います。いや、せめて『じ』まで言えよ!と思ってしまいました」って。

 

「ワンチャン」

実際に使う場合は、「ワンチャンあるかも」などとなるようです。

実用例として、

「私には弟がいるのですが、めっちゃウザいので、家から居なくなればいいと思って、こないだジャニーズ事務所に勝手に履歴書を送ってやりました。ワンチャンあるかも、なので。早く居なくなって欲しいです」

 

前後の文脈からすると、「もしかしたら」「ひょとして」「万が一」の意味のよう。

「ワンチャンス」の短縮形なのでしょう。

 

で、別の学生が、

「私は家でしょっちゅう『ワンチャン』を使います。すると、ある日突然、お父さんが満面の笑みで『ワンチャン』を使ってきました」と。

いやぁ、きょうび、若い娘を持つお父さんも意思疎通に苦労してるんですねぇ。

 

「フッカル」

実用例は、「先生はフッ軽ですか? 私はまわりの人から『フッ軽』と言われています。このあいだ、友達と約束をして、電車2駅ぶんくらい自転車で行きました」。

 

「フッカル」すなわち「フッ軽」、「フットワークが軽い」の短縮形、のようです。

 

「ことば」には、「言語変化における経済性理論」というものがあります。 

それは、「ことば」を使っている人間には「ことば」をより楽に使いたい、短くしたい、という気持ちが働くものだ、という考えです。

まさに、それを証明している事例だと思います。

 

「耐え(タエ)」

これはわかりますよね、「耐える」の名詞化です。

若者は、「これは耐えやな」とか「今日のテストは耐えたわぁ」とか使うんだとか。

 

「ムシル」

実用例「私の父は、家ではお酒をのんで酔っぱらってウザイので、いっつもムシられています」。

そうです、「無視する」が短縮化されて「無視る(ムシル)」になりました。

 

「詰む(ツム)」

実用例「さいきん、人間関係、詰んできました。 近々、占いに行ってこようと思います」

おそらくは「行き詰まる」の「行き」が欠けて、「詰まる」「詰む」となったものでしょう。

それにしても、打開策が「占い」でいいのかな?

 

 

さて、こういった「若者ことば」がどれだけ一般化して残っていくかはわかりません。

ですが、「若者ことば」をあなどってはいけないのです。

 

なぜなら、「ことば」というものは権力者や知識階級のものではなく、「ことば」を使って日々を生きている一般民衆のものだから、です。

無名の一般民衆が、暮らしの中で自分たちにとって使いやすいように「ことば」を変化させてゆくところにこそ、「ことば」の活力の源があるのです。

そして、その際に、一般民衆は「ことば」の本質が「オト」であることを誰よりもよく体感しており、「オト」の変化によって「ことば」が変わってゆくのだ、ということを実体験しているからです。

 

漢字や四文字熟語などの「文字の知識の価値」を押し付ける大学教授や文化人などに惑わされることなく、自在に「ことば」を使って生きている若者たちが居る!

まだまだ「日本語」には活力がある! そんなことを感じた春学期でした。

 

新装「NEWS23」を論じる―正統派の「アンカーウーマン」を目指す小川彩佳を高く評価します!

小川彩佳をキャスターに迎えた新生『NEWS23がスタートしてひと月。

視聴率的には、5月以前とそれほど変化はありませんが、内容的にはずいぶん変化しています。

その変化を、「日本のテレビニュースの作り方」という構造的な視点と、「キャスターのことば」という言語的な視点から論じてみたい、と思います。

 

 

新生『NEWS23』―アンカーウーマンの萌芽

結論から先に言うと、新生『NEWS23』は、「テレビニュース」が本来あるべき姿を、意欲を持って志向しており、小川彩佳は日本のテレビ人では久しぶりに「ちゃんとしたアンカーウーマン」を志向している、と僕は感じ取っています。

それゆえに、僕は視聴率の高低にかかわらず『新生NEWS23』を高く評価するものです。

 

 報道に「やさしい」という形容詞?

おりしも、コピーライター/メディアコンサルタント境治(さかいおさむ)さんがネット上に、

 『NEWS23』リニューアルが示す「過激で不快なテレビ」の終焉

  令和のテレビは「やさしさ」の時代へ

という論稿を載せられましたので、興味深く読ませていただきました。

gendai.ismedia.jp

 

境さんの指摘には幾つかの点で参考になる箇所もあるのですが、番組の変化の要素を、「『産み出された結果としてのニュース表現』の受け取られ方」、簡単に言うと、「ニュースの受け取られ方」の視点を中心に解析している点で的を外しています。

つまり、論稿の中心となっている部分は「世帯視聴率から個人視聴率への変化」というマーケティング手法であり、同時に「『お父さん』から『女性たち』へ」というターゲット手法です。

 

それは「ニュース表現の作り手」という「表現制作者の主体性」の立ち位置にまでは近寄れてはいない印象批評にとどまるものです。

この理由からして、境さんの論稿は「NEWS23は『やさしさ』に向かっているのではないか」との的外れな結語が出てきます。

「ニュース」を論じるのに、「やさしさ」という感情的な形容を使うのは筋違い、だと僕は考えます。

 

やさしさって?

「やさしさ」という感情的な形容はその構造的な内実を明らかにはしません。

中味のはっきりしない曖昧な言葉です。

これは、境さんに示唆を与えた、「今の若者たちは『やさしさ』を求めているのではないか」という大学教授の言説も同様です。

 

「やさしさ」って何、なんでしょうか?

一見もっともらしく聞こえるこの手の印象批評的な形容詞に出会った時に、「ニュース」のみならず現場の「表現製作者」が必ず腹の中で思うことは、「それ、具体的にわかるように言ってよ!」です。

「表現」を産み出す人間は、まず「何を、どのように、形にするか」を考えるものなのです。

 

NEWS23』の中味の変化

さて、変化の具体的な中味について、です。

これは境さんが論稿の冒頭で触れられていた「アンカー・星浩の位置」が大きなヒントになります。

 

「アンカー」って何をする人?

まずは素直に考えてみましょう。

NEWS23』というニュース番組の「アンカー」とは誰なのでしょうか。

そもそも「アンカー」とは、陸上競技のリレー走においてバトンを受け継いで走る最終走者のこと。

ですから「ニュース番組」の制作過程で言えば、多くの報道記者たちが日本や世界のあちこちで起こった

出来事を取材して集め寄り、その中からデスク担当や編集長が「テレビニュース」として伝える事柄を選択し、それらを「テレビニュース」用に編集加工して、最後には「ニュース番組」を通して視聴者に伝えるのです。

その「ニュースの最終伝達者」のことを「アンカー」と言うのです。

 

ここから明らかなように、NEWS23』の「アンカー」は小川彩佳なのです。

決して「星浩」ではないのです。

そして、「アンカー」という言葉が生まれた米国のニュース番組を見ればわかるように、「アンカー」は「アナウンサー」とは違います。

単に、報道記者が書いた原稿を読むだけではなく、自らが取材して報道記者としての経験を積み上げて、政治・経済・社会について語る知識や見識を持つ人間のことを「アンカー」と言い、それが女性の場合は「アンカーウーマン」と呼ぶのです。

 

したがって米国では「アンカー」や「アンカーウーマン」と呼ばれる人は、一流のジャーナリストであり、大統領に単独でインタビューしたり、政治家と政策論議が交わせたりするほどの人物であり、多くの人の憧れの存在であり得るのです。

 

そして、本来は「日本のニュース番組」でも、このような米国流の「アンカー」を目指した番組や人物が居たのです。

TBSでは古谷綱正田英夫日本テレビでは櫻井よしこ

年代的に言えば、1960年代から70年代、80年代にかけてです。

当然のことですが、こういった人たちの「ニュース番組」では、その人が「ニュースの最終伝達者」たりえているので、パネラーのような解説者は不要です。

よほど専門的な事柄についての解説を必要とする場合のみ、その道の専門家を呼べば良いからです。

 

ちなみに『NEWS23』が、かっては『筑紫哲也NEWS23』という名前だったのは、TBS報道のこの歴史的経緯を踏まえたものです。

また、FNNフジテレビは、この位置に、フィリピンのマルコス政権の崩壊を現地からレポートした安藤優子を起用しました。今は見る影もなく、単なる「ワイドショーの野次馬談義の仕切り役」となっているのはとても残念なのですが。

また、ANNテレビ朝日は、久和ひとみという女性をその位置に起用したのですが、彼女は40歳で早逝してしまいました。

 

「アンカー」と「アナウンサー」の違い

さて、このような経緯があった後に、「日本のテレビニュース」は「アンカー」が責任を持って情報を送り出すスタイルから、「アナウンサーが進行するニュース番組」へと変質していったのです。

「アナウンサー」はテレビ局の社員であって、100人近く居る「ニュース製作組織」の一員です。

したがって、「ニュース」という表現行為において、その責任も発言権も「アンカー」とは重みと役割が全く違います。

平たくわかりやすく言えば、「アナウンサー」にとって最も求められる機能とは、報道記者の誰かが書いた原稿を、聞き取り易い声ではっきりと読む能力、です。

「ニュース番組」の中で、「アナウンサー」は決して「私は~と思う、~と考える」という一人称を使いません。

現在の日本のテレビ報道では、進行者が「私」を使ってはいけない、という不文律が支配しているのです。

 

もっとも近頃では、「スポーツ」や「食べ物」などの趣味嗜好に関することだけは許されるようになりました。

しかし、今でも、政治・経済・社会、などの「ニュース」の根幹を成す出来事については「アナウンサー」が一人称で語ることはありません。

日本の夜ニュースに一時代を画した、あの『ニュースステーション』においてすら、久米宏は「私はニュースキャスターではありません。司会進行役にすぎません」と言っていました。

 

客観性を装うテレビニュースの構造

この原因については、いくつかあるのですが、最大の原因は「日本のテレビニュースの言語形式」が「新聞の言語形式」、つまり「『私』を排除した、無署名性の言語形式」をひな型にして始まったことにある、と僕は考えています。

もう一つの大きな理由は、1950年に「放送法」が制定された際に米国から導入された「公正原則(フェアネス・ドクトリン)」です。この時に「客観報道」という表現形式が「テレビニュース」の原則となり、客観性を保持するための外形的手段として「私」という表現主体の明示を隠すようになったのです。

 

さて、こうして「客観性の保持」の名のもとに、本来は必ず存在しているはずの「表現製作者の表現意図」を代弁する役割として、「日本のテレビニュース」は進行役以外のご意見番的解説者」を常に置くようになったのです。

テレビ朝日報道ステーション』における後藤謙二の存在と役割が、その典型的な例です。

かつて後藤氏の席に座っていたのが、現役の朝日新聞論説委員であったことからもわかるように、後藤氏の意見が朝日新聞グループの政治的見解や社会的解釈を代弁していることは誰の目にも明らかです。

富川悠太アナや徳永有美アナや、背後の作り手が「思ってはいるが言えないこと」を後藤氏が代わりに言っている、という構造になっています。

 

このスタイルは、日本テレビ『ニュースZERO』においても同様で、本来はフリーのキャスターになったのですから有働由美子が彼女なりの政治・経済・社会についての見識を述べればよいのに、そうではなく必ず誰か有識者や著名人のゲストを横に相席させています。

そして、時には全くの門外漢の分野の出来事についても意見感想を求めたりするので、的外れでとんちんかんな発言が出たり、あるいは当たりさわりのない無意味な発言になったりするのです。

 

スタジオ空間の設計―『NEWS23星浩の位置の意味

さて、『NEWS23』の「星浩」の座り位置の問題、に帰りましょう。

境治さんが指摘したように、新生『NEWS23』では、星浩の座り位置が小川彩佳の並列横ではなくて、上手の90度ほど横位置になっています。

それは、境さんが解釈したように「お父さん的なご意見番」の役割縮小ではありません。

また、小川彩佳&山本恵里伽、という2Sの「女性が中心になって伝えるニュース」という意図でもありません。

ここで最も気付くべきは、「テレビカメラに正面から向き合っているのは小川彩佳だ!」という点なのです。

 

小川彩佳は、本来の「テレビニュース」があるべき「アンカーウーマン」を目指そう、としているのだと僕は思います。

そして、米田浩一郎プロデューサーを始めとするTBSの報道スタッフは、この志向性において同じ考えを共有して動いているのだと推察します。

 

「ニュース番組」のみならず、スタジオ空間を設計する時に、「表現製作者」としてプロデューサーやディレクターが最も悩み、気を使うのは、その空間がどのような表現思想を体現する空間であるか、という点です。

新生『NEWS23』において、金色のパイプオルガン風のセットの良し悪しばかりが取り上げられますが、その評価よりも、小川彩佳と山本恵里伽と星浩の3人の座り位置と顔の向き、前テーブルの形の方が重要な意味を持っている事に気づいて欲しい、と思います。

 

アンカーウーマンの萌芽

1つの「ニュース番組」の背後には、100人以上の制作スタッフが居ます。

そのスタッフ達が作った映像素材が、小川彩佳の後背部から出て小川を通してテレビカメラの向こうにいる視聴者に伝えられます。

また、山本アナは制作スタッフの編集加工した原稿を集約して小川に伝える形で読み、小川に聞かせると同時に視聴者に伝えています。

そして、小川彩佳は重要だと判断したニュースについては、彼女なりの論評コメントを述べます。

その際の言語には、まだ不十分ながらもしっかりと「私」という叙述の一人称が含まれています。

 

国際政治や国内政治の裏面の動きや意図の汲み取りなどが必要な時には、星浩の解析を求めます。

つまり、新生『NEWS23』においては、「ニュース」という情報の発信経路と伝達責任がとてもわかりやすく成されているのです。

これが新生『NEWS23』が他のニュース番組に比べてとても見やすいニュースになっている、ことの構造的な理由です。

 

このことは、ニュースの組み立て方にも良く表れています。

新生『NEWS23』では、番組頭から、国際政治・国内政治・社会的事件などが、「公益(パブリック・インタレスト)」の判断基準に従って適切な順序で並べられ、適切な尺で扱われている、と思います。

そこに、目先の視聴率を狙ったような「センセーショナルなラインアップ」は見られません。

また、映像素材の過度なBG付けや、大仰なナレーション付けもありません。

 

おそらく、プロデューサーや編集長と小川彩佳は、取り上げるニュースについてしっかりと意見交換をしていると、僕は推測します。多分、口論も交えて。

局の社員アナや、「アンカー」意識の低いキャスターが進行する「ニュース番組」ではそうではありません。

背後に居る制作スタッフが作った素材が、事前チェックなしに無批判に、生のニューススタジオに投げ出される方が多いのです。

その場合、スタジオで進行役だけを演じているキャスターは知らん顔してスルーする等、コメントなしで自分の表現責任を回避する、という方法を取ります。

 

新生『NEWS23』で記憶に残る特集

小川彩佳が、おそらく「ニュース」の選択や編集加工にも彼女なりの考えをぶつけているだろう、と推測されるのは、このひと月間の特集コーナーのラインアップから読み取れます。

特に僕の記憶に残ったものを二つほど取り上げておきます。

 

1つは、6月12日(水)放送。

「香港の民衆デモ」に関して、スタジオにゲストとして「周庭(アグネス・チョウ)」を招いた時。

「周庭」さんは、2014年の「雨傘運動」と呼ばれた民衆デモの中心メンバーの一人で、その時「民主の女神」と呼ばれた現在22歳の大学生です。

今、香港が面している政治的・社会的状況について「周庭」さんがゆっくりした日本語で懸命に話すのを、小川はゆったりと落ち着いて聞いていました。

性急な予定調和的結論をぶつけることなく、です。

簡単そうに見えますが、これは生番組をやっている人間にとってはとても大変なことなのです。

僕には、この時の「サブ(副調整室)」に居る多くの制作スタッフの苛立ちが手に取るようにわかりました。

その後に予定している「スポーツ」などの素材出しの時間に影響するからです。

しかし、小川は「周庭」さんが自分の思いを述べ終わるまで、無用な口を挟まずにしっかりと聞いていました。

 

もう1つは、6月26日(水)放送。

「Xジェンダー」について、です。

LGBTにも含まれない性的マイノリティである「Xジェンダー」の人に小川自身が面接取材したもの。

「Xジェンダー」とは「男女二分法」では捉えられない「男性・女性のどちらでもない性自認者」のことなのですが未知の概念ゆえに、なかなか理解もしにくいし説明もしにくいものなのです。

この時のインタビューは決してわかりやすい応答ではありませんでしたが、「わかりにくい事柄」にも取り組もう、という小川や制作スタッフの意図は良く伝わりました。

 

やろうとしていることを応援したい

最後に、僕は決して「小川彩佳」さんや『NEWS23』の政治的意見や社会事象解釈に賛同する者ではありません。

しかし、「小川彩佳」さんが日本で久しぶりに「アンカーウーマン」を目指そうとしていること、そして米田浩一郎さんを始め新生『NEWS23』の制作スタッフたちが、これまで歪んできた「日本のテレビニュース報道」に「署名性の言語」を持って挑戦しよう、としていることにエールを送りたい、と思うのです。

 

新番組を立ち上げて、思うように視聴率が上がらない時、現場の報道マンや制作マンには社内の営業や編成や経営上層部からさまざまなプレッシャーがかかります。
それは、商業放送たる民放の宿命ではありますが、そんな時こそ、現場の人たちは「表現製作者の志」をもって頑張って欲しい、と思います。
「ニュース報道」は、放送面積の中では少ない割合でしかありませんが、国民の共有財産たる電波を使うことを許された「放送」の基幹を成しています。
ノンフィクション領域である「ニュース」がしっかりとしていてこそ、フィクション領域である「ドラマ」や「バラエティ」が存分なエンターテイメントとして成立するのです。
 
かつてTBSは、「報道のTBS」と呼ばれていた時代がありました。
優れた「ニュース報道」が、一方でテレビ史に残るような「名作ドラマ」も産み出しました。
 
今回の、新生『NEWS23』のトライアルが、単に「報道のTBS」復活のきっかけとなるだけではなく、「無署名性言語による欺瞞的ニュース報道」や「外見容姿で選抜される女子アナ」といった日本のマスメディア特有の病理的現象の是正につながってゆくことを、僕は期待しています。

 

再び、映画『アンカーウーマン』を紹介したい

ちなみに、これまでの「日本のニュース報道」や「ニュースをネタにした情報娯楽番組」や「女子アナ」という存在が、いかに日本特有の病理的現象であるかを知りたい人のために、1本の米国映画を紹介しておきます。

 

それは、1996年・米国映画『アンカーウーマン』です。

監督:ジョン・アブネット 主演:ロバート・レッドフォードミシェル・ファイファー

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DVD・ブルーレイ: アンカ−ウ−マン/ロバート・レッドフォード限定盤:オンライン書店Honya Club com

これは、全米ネットワークのひとつ、NBCで活躍した「実在のアンカーウーマン」ジェシカ・サヴィッチをモデルとして作られた映画です。

彼女は、1983年に36歳の若さで事故死し、「悲運のアンカーウーマン」とも呼ばれています。

 

私たち「日本の近代」は、そして「日本の戦後メディア」は、決して「あたりまえ」ではなく、「表現行為の原点」から見たらとても歪んでいるのだ、という事に早く気が付いて欲しい、と僕は考えています。

「日本のテレビ報道」の歪みをチェックする

大学で「マスコミ論」を講義しています。

日々の新聞やテレビニュースを題材にして、その「ニュース表現」に込められた「表現者の意図」を読み取る力を身に付けよう、という授業です。

読み取る入口となるのは、「表現」を成している「ことば」と「映像」です。

 

で、ここ1週間の「ニュース番組」をチェックしていて、特筆すべきものが2つありました。

1つは、テレビ朝日報道ステーション1つはよみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.です。

授業でも扱ったのですが、ここでもう一度私なりの解析と感想を書きます。

 

 

 

514放送 テレビ朝日報道ステーション

「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群、世界文化遺産へ」というニュースから

報ステ独特の取り上げ方

ほとんどの局のニュースでは、歓迎すべき「明るいニュース」として取り上げていたのですが、『報ステ』だけは、とても特異な取り上げ方をしていました。

 

まず、ニュースのリード(導入部)で、徳永有美アナが、

仁徳天皇陵古墳と呼んでいますが、多くの謎に包まれています」と、入りました。

うん、日本の古代史を巡る「謎」の話題かな? と思って見ていたのですが、富川アナの進行や、間に挟み込まれた学者のインタビューを聞いていたら、話の流れは違う方向のようです。

 

話は、「謎の多い日本の古代史」を巡る歴史ロマンについてではなく、「イコモス(国際記念物遺跡会議)」へ世界文化遺産登録を申請した文化庁の「施策の進め方」へと焦点が合わされていきます。

やがて、「学術的な面からして、被葬者が特定されていないのだから『大仙(だいせん)古墳』と呼ぶのが適切であり、それを『仁徳天皇陵』との呼び名だけで申請した文化庁の方針は良くない」という主張がわかってきました。

 

後藤謙次氏のトンでも主張

そして、VTRやパネル説明が済んだ後で、スタジオに居る解説者の後藤謙次共同通信客員論説委員)氏がしゃべり始めるのを聞いていて驚きました。

「今回のことは、維新と安倍政権の距離の近さの現れ、です。

大阪府政・市政を押さえている維新のために、政府が全力をあげて進めたのです。

その向こうには憲法改正を目指している安倍政権が補完勢力としての維新を応援した、という見方が成立するのです」と。

 

「えっ?」と、思いました。

後藤さん、いくらなんでも無茶苦茶な論理でしょう。

報道ステーション』の基本的なスタンスが、ここ数年の放送内容からして、反・憲法改正であり、反・安倍政権であり、反・維新であることは、もはや一般視聴者の目には明らかなことですが、それにしても、これは「無理くり」というものでしょう。

 

「安倍政権のあらゆる施策には、最終目的として憲法改正があり、今回の文化施策もその一環ととしてとらえるべきである」との意味合いの後藤氏の結語に対して、

「ふんふん、色々なことがつながっているんですね」と徳永アナが応え、後藤氏は満足気にうなずいているように私には見えました。

 

ここに至って、冒頭リード部の徳永アナの「多くの謎に包まれています」が、単に「仁徳天皇陵」を巡っての「謎」ではなく、今回の「世界遺産指定を目指す安倍内閣文化政策」そのものの「謎」という含意であったことが明らかになりました。

 

報ステに見るイデオロギー報道

何でもかんでも政権と官邸のせいなの?

これは、どう考えても「論理の飛躍」です。

世界遺産指定を目指す施策」と「憲法改正に向けた政治的意図」が結びついているとは、私のような一般の視聴者にはとうてい思いつかない論理です。

だとしたら、後藤氏や『報ステ』は、これまでに尽力した地元の自治体や住民たちのことは、どう評価するのでしょう。

また、先例としての「宗像・沖ノ島と関連遺産群」のケースや、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産群」のケースについては、どういう「政治的意図」があったと説明するのでしょうか。

 

「百舌鳥・古市古墳群世界遺産勧告へ」という今回の『報ステ』のニュース報道は、反・憲法改正、反・安倍内閣、反・維新勢力という政治的信条が先に「表現製作者」の頭の中にあって、その考えに事象の一部分をつなぎ合わせて編集するという「イデオロギー報道」の典型だ、といわざるを得ません。

 

 文体が嘘をつく――客観風文体

こういう報道においては「ことばの現れ」として必ず、「叙述の主語」を隠して「客観報道」の態を取る、という文章スタイルが特徴的に出てきます。

つまり、「そういう見方が成立するなどという客観風文体です。

そうではなく「私はこう見ます」という常識的な日本語で言えば、「あ、これは後藤謙次さんという人の個人的な事象解釈なんだな。それにしても、とても変わった見方をするもんだなぁ」と視聴者は受け止めることができます。

 

同様に、『報ステ』における後藤謙次さんの「ことば」では、「政権は」とか「官邸は」とかを形式上の主語にした解説がしばしば使われます。

この場合でも私はそう思う」という、本来の叙述上の主語は隠されています

 

嘘を補強する 映像演出

こういった「客観性を装った主観的な報道文体」こそが、『報道ステーション』だけでなく日本のマスコミが抱えている最大の病理だと、私は考えています。

また、こういった「隠された恣意性」は「映像」にも良く表れていて、今回の「報ステ」のニュースでワイプ用にとあらかじめ用意された「維新」の映像は、去る地方選の際の「にこやかな顔の松井市長&吉村知事」の2Sの顔でした。

それはいかにも時代劇の「越後屋」風に、「この二人は安倍政権の官邸とつながっていて、悪事を企んでいるんですよ」とでも思わせるような「映像」の使い方です。

このような「姑息な映像演出」は、視聴者にはとっくに感じ取られているのだ、ということにマスコミはそろそろ気づくべきだ、と私は思います。

 

 

こうして、「ことば」や「映像」を、「表現を作る人間」の立場から見ていくと、その「表現」に込めた「製作者の意図」を読み取ることができます。

今回の『報ステ』の「百舌鳥・古市古墳群世界遺産へ」というニュースは、まさしく「その向こう」に、「安倍政権や維新は、憲法改正を目指す悪い政治勢力なのだ」という政治的メッセージを含んだ「企み」だった、ということがとても良くわかるニュースでした。

 

 

510日(金)放送  よみうりテレビ『かんさい情報ネット ten.

 性に関わる人権感覚の欠如

学生たちからの指摘を聞いて、確認しました。

関西ローカルの「報道情報番組」である『ten.』の中の、「町歩きYTR」コーナーで今回は、大阪・十三(じゅうそう)をロケしていた「お笑い芸人・藤崎マーケット」の二人が、たまたま小型犬を散歩させていた人に「いきなりインタビュー」をした、というもの。

 

その内容は、「あの人は、うちの店に来る人なんやけど、男か女かわからんから確かめてや」との飲食店の女将さんと思しき人からの耳打ち相談を受けて、「藤崎マーケット」の二人が、その方に、「彼女はいますか?」と尋ねて性別を確認したり、保険証の性別欄を確認したり、「おっぱいあります?」と聞いて胸を触るなどして、「正真正銘の男でしたわ。これで疑問は解決!」というロケVTRでした。コーナータイトルは『迷ってナンボ!』。

 

で、VTRが終わって、スタジオで中谷しのぶキャスターが「十三には色んな人がいらっしゃいますねぇ」などとニコニコ笑いながらV受けトークを展開し始めたところ、出演パネラーの一人である若一光司(わかいちこうじ)さんが、

「今のVTR、二人目の方のインタビューですが、許しがたい人権感覚の欠如です。個人のセクシュアリティに関して、こういう形で踏み込むべきじゃないです。いったい、どういう感覚なんですか、この番組は。報道番組ではないのですか」と怒りをあらわにしました。

予期せぬ反応に、中谷キャスターともう一人の女子アナは表情が凍りつき、なんら返答することも出来ないまま、慌てて誤魔化してCMに入りました。

 

さて、この放送についての私の感想です。

まったくもって、若一さんの反応の方が社会常識にのっとっており、「出演者と製作者」全員としての「よみうりテレビ」の方が間違っていると思います。

あの取材VTRは、「性に関わる人権」の感覚を著しく欠いています。

知らない人に、いきなり「性」に関わる個人的なことを聞き、保険証の性別欄を見せてくれるよう依頼したり、胸を触る、などの行為は明らかな「セクハラ」です。

 

 責任は誰にあるのか?――番組制作の構造

そして次に、今回の問題を「番組製作の構造・仕組み」の視点から解析してみます。

これは、私自身が「ニュース」を含む「情報番組」を長年にわたって製作してきた経験に基づいての解析です。

(昨日の、515日(水)の『ten.』において「検証番組」が20分にわたり放送されたそうですが、私はそれを見ていません。この「検証番組」については16日木曜日の朝日新聞朝刊の記事に依拠して論じます。その「検証番組」の中で、以下に挙げるような点がきちんと説明されていれば良いのですがーーどなたか、このブログを読んだ方、後刻教えてくださると嬉しいです)

 

1.取材VTRの編集担当ディレクター

さて、誰もがわかるように「表現の責任」は、まずは「取材VTR」の担当ディレクターにあります。

ロケ当日に、吉本興行所属のタレント「藤崎マーケット」の二人を使って町ロケをして、その取材VTRを後日に編集したディレクター氏です。

そのディレクター氏は、あの内容を「人権上の問題があるインタビュー」だとは認識していなかったから放送の素材として使ったのでしょう。

もしも「問題がある」と認識していたのなら、ロケはしたけれども放送には使わない、という選択ができたはずですから。

 

そしてここでは、そのディレクター氏がよみうりテレビの社員であるのか、または下請けの制作会社の社員であったのか、も大切な要素です。「反省を踏まえた今後」につながる、からです。

報道番組だからと言って必ずしもテレビ局の社員である報道部員がディレクターをしているわけではありません。

制作会社のディレクターやフリーの契約ディレクターがコーナー担当をしていることは良くあることです。特にタレントを使う場合には社外スタッフの方が多いです。

そして、もし今回の場合、町ロケ担当が社員以外であった場合に気を付けなければいけないのは、その担当者だけが責任を負わされる、つまり発注を切られて終わり、になるケースが多い事です。

 

 2.藤崎マーケットの責任は軽微である

さて、それでは映像の末端として、実際にインタビューをしたタレント「藤崎マーケット」二人の責任はどうでしょう。

私の考えでは、二人にも「表現責任」の一端はあるけれどそれは軽微である、と思います。

なぜなら、タレントはテレビ局から出演の発注を受けて仕事をする立場、つまり「表現制作」の構造においては権力的に下位の位置にあるからです。

特に、まだ若いタレントの場合には「これは何やおかしいなぁ」と思いながらも、だからといって現場で「この内容ではロケできません」とは言いにくいでしょうし、出来ることといったら頑張って「笑いを産むような面白いロケ」に尽力することでしょう、から。

 

 3.放送日の全体ディレクター

問題は、ここから先、つまり「ロケ現場」を離れた先、です。

ten.』は、午後350分~午後6時まで、2時間10分枠の報道情報番組で、(月)~(金)のベルト番組です。

放送に際して、その日の全体を統括してスタジオのD卓(番組進行や映像切り替えを指示するポジション)に座っているのは、よみうりテレビの社員ディレクター(D)だと考えられます。

なぜなら、放送責任は最終的には「公共財である電波を使って放送すること」を許認可されている放送局にあるので、通常D卓には放送局の社員が座ります

 

2時間に及ぶ番組なので、番組内にはいくつかのコーナーがあって、そのそれぞれを担当するコーナーディレクターが複数人居て、その上には必ず当日の番組全体を統括してスタジオ展開を司る全体ディレクターが居ます。

そのディレクターが、各コーナーの素材VTRの時間や内容をチェックして放送に臨むのです。

通常で考えて、各曜日には一人の責任ディレクターが居り、その上に担当プロデューサー(Pが居ます。更に、その上に全曜日の放送枠に責任を持つ総括プロデューサーが居ます。

 

4.組織構造上の問題と担当者の意識の問題

また、メイン司会者は番組進行のために事前に素材V制作担当Dや進行担当Dと一緒になって素材のVTRを見て、内容を確認することが多いです。(見ない場合もあります。)

更には、素材VTRを完成させるまでには、編集マンや音付け担当のSEマンの作業も必要です。

この編集マンやSEマンは、制作会社所属のスタッフであることの方が多いです。

 

これでわかるように、通常では素材VTRは放送に至るまでに幾つかの段階で複数の人間の目に触れています。そこで、「これ面白うないで」とか「ちょっと短くしようや」とか「ここちょっと危ないんちゃうの」とかの様々なチェック作用が働きます。

 

今回の『ten.』の「検証報道」では、事前にVTR素材を見ていたのがロケV制作担当者とよみうりテレビの担当Pの二人で、「担当Pが事前に2回にわたって見ていながらチェックが働かなかった」(16日付け朝日新聞による)となっています。

そこで、浮かび上がってくるのは「組織」の構造上の問題と、担当者の「意識」の問題です。

 

 5.手薄で安易な制作体制

まず、「組織」の構造上の問題から。

素材VTRを事前に見ていたのが、ロケV担当のDと局の担当Pの二人だけだった、というのはさすがに手薄で安易な制作体制だと言わざるを得ません。

これでは「人権」の要素だけでなく、「面白さ」や「スーパー表示の正誤」や「スポンサーの商品底触」などの他の諸要素をチェックできるのが担当P一人の段階で終わるからです。

(ただ、格別のケースもありまして、ロケV担当のDがそれまでの実績からしてとても信頼に足る優秀なDの場合は「スタジオ初見で、見てのお楽しみ」という場合もあるのは事実です)

しかし、この点については、今後複数の人間が事前にVTRPV(プレビュー・事前に見ること)に関わることによって補正できるでしょう。

 

 6.放送局社員の意識の低さ

次に、担当者の「意識」の問題です。

言わずもがなですが、こちらの方がより一層大切な問題です。

いくら10人が関わって10の段階でチェックしても「意識」が伴っていなければ問題の素材VTRはチェック機能をスルーしてしまいます。

今回の『ten.』で問うべきは、こちらの方、つまり「よみうりテレビ」全体としての「表現意識」の問題だと思います。

もちろん、事前チェックの役割を担うべきだった担当Pの「人権意識への鈍感さ」は責任を免れるものではありませんが、若一光司さんに指摘されるまで気が付かなかった中谷キャスター(社員アナウンサー)、スタジオに居たという報道局解説デスクの小島康弘さんの「人権意識の低さ」も、責任を免れるものではありません。

また、当日スタジオには技術系の社員や、営業・編成の複数の社員居たはずです。

その中から「これはアカンやろ」という声は上がらなかったのでしょうか。

その人たちが、当該VTRを見てどのように感じたのか、感じなかったのかを自覚的に問うことが本当の意味での「検証」の第一歩だと思います。

 

そして、多くの「よみうりテレビ社員の目」をスルーしてVTRが流れた中で「このVTRは人権感覚を欠いている」と声を出した若一光司さんに敬意を表します。

なかなか、生番組の際中にこのような発言はできないものです。

 

 本当の「再生」のために

重ねて言います。

515日(水)の「検証番組」を見ずに私はこのブログを書いているのですが、「検証」が、番組制作上の構造や、各段階で従事している社員の「表現意識」の実情をきちんと把握したものでないかぎり、「再生への一歩」とはなりません。

今回の出来事はとおりいっぺんの「謝罪」や「コーナーの廃止」で終わるものではなく、もっともっと根深いものを含んでいます。

今回の出来事で、常日ごろ「人権」や「性の多様性」を声高に標榜している日本のテレビメディアの内情はこの程度なのだ、ということが露わになりました。

そして、よみうりテレビの出来事を取り上げて非難している他のテレビ局や新聞メディアもさして大差はありません。

 

公共性の自覚が薄れているマスメディア

今回の出来事を引き起こした根本的な要因は、新聞やテレビといった旧来のマスメディアに従事している人間が「公共性」という視点を薄弱化させている点にある、と私は考えています。

テレビに関して言えば、「テレビ局は『国民共有の財産である電波』を使わせてもらっている許認可事業であり特権的な位置を賦与されている」ことへの自覚を欠いている、と私は思います。

「電波の独占的使用」という特権を与えられているからこそ、テレビ産業は他に比べて高い利益を出せるのであり、テレビマンは社会的に高い地位を付与されているのです。

しかし、「特権」にはそれを裏付ける「相応の責務」が存在しています。

それは「放送は多くの人の利益に資するためのもの」という「放送表現の公共性」に対する自覚です。

NHKだけでなく民間放送にあっても、この「公共性」は法律的にも倫理的にも要請されているものなのです。

 

 みんな放送法を読もう

今回の事例は、「情報産業の特権的地位」に安住して「倫理感覚」を低減した、日本のテレビ産業従事者たちの「意識」の現れ、だと私は見ます。

繰り返し、繰り返し、言っていることですが、すべてのテレビ局は社員教育の第一歩として経営者と従業員が一緒になって「放送法」の条文を熟読するところから始めるべき、だと思うのです。

ある大阪人から見た「大阪ダブル選挙の結果」の読み方

東京に住んでいる友人からメールが入りました。

「大阪のダブル選挙の結果がよくわからない。

 なぜ大阪維新の会は、大阪都構想にこだわるのか、関東の私には理解不可能です。

 W選で勝っても民意を問えば負けてしまうのに。

 なにか関西独特の政治思想があるのでしょうか? 教えて」

と、いうもの。

 

その友人への返答メールを書いていたらかなり長くなりました。

で、それをリライトして、首都圏に住んでいる他の知人たちへも、大阪人である僕からの解析文に替えようと思います。

 

 

都構想云々の前にやなあ

今回の「大阪ダブル選挙」ーー「地方VS中央」

最大のポイントは、『地域政党大阪維新 VS 国政政党大連合』です。

「都構想」は、実は最大のポイントではありません。

ここを、東京に居る政治家やメディアや学者たちは読み取れていないのです。

そして、首都圏に暮らしている僕の友人たちにも、この感覚がわからないのだと思います。

 

今回のダブル選挙で、「反・維新」の連合を組んだのは、自民・公明・立憲民主・国民民主・共産、という中央の国政政党の集結勢力でした。

彼らのスローガンは「維新政治に終わりを!」でした。

自民党からは二階幹事長、立憲民主からは枝野党首、共産からは志位委員長がキタやミナミの街頭演説で、「維新政治を終わらせて、大阪に新しい未来を」と叫ぶのを聞いて、私たち大阪人が思った事、それは、

「おいおい、どの口が言うとんねん。

あんたら、ふだん、国会で角突き合わせてお互いのことボロクソに言い合うてる間柄やないの。あれ、嘘なん? ほんまは仲良しなん?

ほんで、あんたら日頃から大阪のことなんか絶対考えてないやろ」でした。

もう一つ言い足せば、「大阪のこと言うんなら、大阪弁でしゃべってみいや」です。

 

大阪維新の会」は地域政党である

実はここに、今回の「大阪ダブル選挙」を読み解くカギが詰まっています。

「維新」は、正しくは「大阪維新の会」であり、地域政党なのです。

大阪の閉塞状況を変えるために、と、橋下徹松井一郎らが中心となって2008年に結成した地域政党であり、その設立趣意には「大阪人の大阪人による大阪人のための政治」という理念が内在されていました。

つまり、防衛や外交といった国全体の政治を司る国政政党とはフィールドを異にして、地域の政治を変えようとした動きだったのです。

今回の選挙は、「反・維新」の勢力が、自民党から共産党までという大連合を組んでしまったせいで、大阪人たちに、はからずもこの原点を思い起こさせてしまったのです。

 

つまり、

「大阪のことは、わしら大阪人にまかせといてくれや。

こんな時だけ東京からやってきて偉そうに言わんといて。

大阪のことはわしらが考えるわ、大阪弁でな。」

「都構想がええかどうかは、ほんまはようわからへんねんやけどな」なのです。

 

そうなのです、「都構想」が本当に大阪人にとって将来的に有効な政策であると考えて「維新」候補に投票した有権者は少ない、と思います。

そうではなくて、相変わらず東京中央の政治力学を地域にまで持ち込もうとする政治思想に対して、大阪人は「少なくとも維新の方が大阪のことを真剣に考えてるんやろなぁ」と素朴に感じたのです。

「都構想」は、「維新」という政治動向のシンボルワードに過ぎないのです。

したがって、今後「大阪都」が本当に出来るように進むかどうかは大阪人にとっても未知の事であり、それは「まだ、ようわからん」事なのです。

多くの学者やマスコミは「都構想についての論議を深めよ」と高みから言いましたが、大阪人にとっては「都構想はようわからんけど、それはそんなに大したことちゃうで」というのが実感なのです。

 

東京を頂点とする「ピラミッド」構造の社会

今回の「維新」の街頭演説で耳に残ったフレーズに、「10年前の大阪に戻してもいいんですか?」がありました。

10年前、とは、政治家・橋下徹の現れる前のこと。大阪府知事太田房江でした。

太田房江は、広島生まれで愛知育ち、東大を出て通産省に入り、近畿通産局の部長を経て岡山県の副知事になり、その後に大阪府知事になりました。

典型的な、高級官僚の地方下りの首長です。

 

この例に顕著なように、これまで日本の地方自治は、東京をピラミッドの頂点とする政治・経済・人材の構造を下支えする植民地的組織として存在してきたのです。

それは、第二次大戦敗戦後の日本が、急速な経済復興ナショナリズムを成し遂げるために採った政策が「東京一極集中による中央集権化」だったことの歪んだ現れの一つ、です。

「ヒト・カネ・モノ」を、いったんは全て東京に吸い上げて、その後に、中央の判断で必要だと考えられる部分を地方に再配分する、という施策です。

この結果、敗戦国日本は世界が驚くほどの早さで経済大国になりました。

その一方で、日本の地方は「国内植民地」の役割を背負わされたのです。

「徴税権」や「地方交付金」という「カネ」の面と、「都から派遣された官僚」という「ヒト」の面から機能を縛られた結果、日本の地方自治は自立性を失ってゆき、東京中央の政界とつながりを持つ地方政治家が首長となったり、中央省庁の官僚が地方下りして首長になったりしました。

しかし、この流れはやがて、地方財政の貧困と地方政治の空洞化に行き着いて、今日に至るまでになったのです。

 

新しい地方自治のあり方を考えようよ

東京には地方の苦しみがわからない

今回の「大阪ダブル選挙」で、本当に考えるべき事柄は、『新しい地方政治のあり方』です。

この点において、「反・維新」勢力が立てた候補者は、府知事候補が有能な地方官僚であり、市長候補が知名度の高い世襲議員であったことが、いかにも「古い地方政治の継承」の代表として多くの大阪人には見えたのです。

 

「大阪」は、大きな「地方」です。

もっとも、「地方」の中ではかなり元気のある方であり、「中央」への反骨気風もあるのでその大阪が日本各地の「地方」の気持ちを代弁しているのだ、と言えるでしょう。

政治・経済・文化の集中極点である東京から発せられたメディア言説の多くが的を外していたのは、このポイントが読み取れなかったから、だと思います。

社会権力構造の上位者たる「中央」には、下位者たる「地方」の持つ苦しみが実感できないものだから、です。

 

朝日と報ステは的外れ

マス・メディアの中で、最も的外れな視点は「朝日新聞」と、それに依拠した「報道ステーション」でした。

朝日新聞は8日付け社説で、「都構想を最大の争点として行われた異例の4重選挙」と書き、「維新による脱法的行為は看過できない」と書き、「不意に選挙を仕掛け、自らが率いる政党の押し上げを狙った松井氏と吉村氏は反省すべきであり」と書いています。

つまり、朝日新聞は「ダブル選挙という奇策」に打って出た「維新」の政治手法を非難することで、「維新」の政治思想全体を非難しています。

 

これは朝日がよく使う論法ですが、物事の本質を捕えないで瑣末な瑕疵をつつくことで全体を否定するという論理手法です。

しかも、とても感情的な論調で、平静さや公平性に欠けていると言わざるを得ません。

まるで、朝日が「維新」と正面から戦ったかのようにすら読み取れます。

 

現在の日本各地が抱えている「地方政治」の財政的苦難や現行システムの不備、と言った本質的な問題については何も触れてはいません。

そして、何かと言えば「民意を尊重せよ」と声高に言う朝日ですが、こういう場合には決して「民意の結果」については多くは触れないのも朝日ならではの特色です。

恣意的なスタンダードの使い分けです。

 

産経新聞」は、1面の論説記事で、「反・維新」で結束した自民党公明党に対して、「『都構想を終わらせる』という主張は明確に否定された結果を重く受け止める必要がある」と冷静に解説しています。

 

また、朝日新聞などの「維新の手法」批判に対しては、橋下徹ツイッターで書いた、

「今の大阪のダブル選挙を批判しているインテリ連中よ、今の大阪の選挙以上にましだと思う選挙をあげてみろ」がぴったりした返答になっているでしょう。

事実、日本全体では投票率が前回よりも低かったのに対して、大阪は前回を上回っていて、大阪府知事選が49%・大阪市長選が52%ありました。

少なくとも、今回の大阪の選挙は大阪人にとっては「よっしゃ、今回は選挙に行ったろやないか」と思わせるほどには面白かったのです。

それでも、半分の有権者しか投票に行かないところにこそ、現在の日本の「地方政治の本質的な問題点」があるのではないでしょうか。

 

「地方選挙」の投票率が低い理由

地方選挙の投票率が低い、議員の成り手がいない、など「地方自治のあり方」をきちんと問題視できていたのは「毎日新聞」の論説記事の「風知草」でした。

『絶望の地方自治』とのタイトルで、元・総務相で元・鳥取県知事でもある片山義博氏の「地方自治を認めない国家統制」という発言を載せて、現在の政治システムの問題点を明らかにしています。

更には「人口減少、税収減少の時代でも、教育・福祉・街づくりに支出しなければならない」という別の専門家の解説も付記していました。

 

日経新聞は社説で、『選択肢がないと地方は元気になれない』と題して、

「人口減少に対応できない地方政治の現状が浮き彫りになった」と書き、「地方創生が始まって5年。将来の自治体はどうあるべきかを真剣に考えるときだ」と結んでいます。

もっともらしくは聞こえますが、残念ながら東京目線の言説ですよね。

 

「地方」が動かせるカネがあればいい

「地方」が元気ないのは、「動かせるカネ」がないからです。どんな施策をやろうにも財源がないからです。

議員になってもやることがないんです、だから議員になっても仕方ないんです、だから議員に成り手がいないのです。選挙に行っても意味がないからわざわざ選挙に行かないんです。

で、「地方創生」って言うから、泉佐野市みたいに「ふるさと納税」を有効利用して財源を集めて「小学校のプール」を作ったら、国・総務省からは怒られるし、東京都など財政豊かな自治体からは非難されたのです。

 

地方自治を元気にさせるためには「地方で使えるカネ」を増やせばいいんだ、と単純に僕は思います。もっとも、そのためには「財政の東京一極集中」という戦後の政治・経済システムを根本から変えるという大作業が必要になるのですが。

でも、そろそろ「地方は東京のための植民地」という構造と意識を変えないと、地方の衰退は止まらない事態にまでなってきた、のではないでしょうか。

 

島根県知事選挙」も見逃してはいけない

今回の選挙で、もう一つ日本の「地方自治」を考える上で見逃してならないのは「島根県知事選」でしょう。

これについては、「産経新聞」がかなりの紙面を割いて書いています。

内容は、島根選出の国会議員全員が支援した候補者が負けて、県会議員たちが支援した候補者が勝った、というものです。

産経新聞は「有力な国会議員を頂点に地方議員が連なる全国の『ピラミッド構造』が崩れた」と書いています。本質に迫ることのできている署名記事でした。

 

竹下登・首相や青木幹夫・参議院幹事長を出した島根県ですが、今や島根と言えば、「過疎化」の代表県です。

かつてのように、東京の中央権力にぶらさがっていたのでは、もう何ともならない所まで来たのです。

そこで初めて「知事は地元で選ぶべきだ」となった、ということです。

 

国政と地方行政は次元の違う機能であり、それぞれ異なる論理で動いているものなのです。

それを無理やりに一元化させて動かしてきた「日本の戦後システム」に限界が来ている、ということにあちらこちらで気が付き始めたのです。

大阪とは別の意味で「地方自治の現状と今後」を考える上で示唆するところが多い事象だ、と思います。

 

「大阪ダブル選挙」から話はあちこちに飛んでしまいました。

 

今回の統一地方選挙から見取るべき最大の問題点は、

「一極集中された中央権力」に追随することによって成立してきた「戦後日本の地方自治」に、やっと今、大きな地殻変動が起きようとしている、ことではないかと僕は思います。

 

そして、今後の「日本の地方自治」を考える際にとても参考になる本としては、あの井上ひさしが「東北弁」を駆使して書いた『吉里吉里人』ではなかろうか、と思うのです。

独自の財源確保策や、ユニークな行政システムや、奇想天外な教育制度が、実に豊かな「東北弁の生活ことば」でユーモアたっぷりに書かれている小説です。

楽しく笑いながらも、実はとても多くの「新しい地方自治の形」のヒントが埋めこまれています。

これから政治家を目指す人に、是非オススメします!

期末期首の特別ドラマ――『ひよっこ2』と『僕が笑うと』

3月半ばから4月半ば、にかけて、テレビは「期末・期首編成」と称してゴールデン・プライムタイムに単発の特番を並べたてます。
昔は、せいぜい4月の番組改編をはさんで前後1週間ずつくらいだったのですが、今ではおよそひと月間にわたっているので、いったいどれが本当の「特番」なのかわからない状況です。
まぁ、これも、どこかの局が先行して始めた編成に他局が追随しての結果なのでしょうが、逆にこういう状況になると、「期末・期首」を短縮して、レギュラー番組を大切にする、という編成を組むことがかえって新しい戦略になる、と思うのですが。

はたしてどの局が先陣を切って「期末・期首」編成を変えるのか。
元テレビマンとしては、うがった興味を持ちながら、ザッピングを続けています。

 

とは言いながら、「期末・期首」にはふだんは見られない「ドラマ」が見られるのが楽しみです。
「テレビの中のことば」を好奇心のテーマとしている私にとって、とても素敵な「ドラマ」があったので、ちょっと書いてみます。

 

日常性を大切にしているドラマ――『ひよっこ2』

NHKひよっこ2』(3月25日~28日 全4話 午後7時30分~8時)
2年ぶりに、「んだねぇ」や「なかっぺよぉ」などの茨城(いばらき)弁が聴けました。
いいですねぇ、やっぱり「生活ことば」は。

 

2017年4月~9月にかけて放送された朝ドラ『ひよっこ』の2年後を描いた続編もの、です。
岡田惠和さんの脚本は、「日常性」をとても大切に考えていて素晴らしい、と思います。
けっして派手な事件や出来ごとがあるわけではない「日常生活」、その中で泣いて笑って生きている民衆の暮らし。
それを捕えて表現するために絶対に欠かせないのは「暮らしのことば」です。
それは短絡的に「地方なまり」を大事がる、ということではありません。

 

今の日本のテレビドラマの作り手たちの多くがこの点について鈍感です。
岡田惠和さんは、数少ない「ことば」に敏感で繊細な作家、だと思います。
演出家たちも、このことを良く共通理解しているのでしょう。

 

岡田惠和ドラマツルギー

今夜の第3話では、主人公みね子(有村架純)の妹の大学進学を巡るシーンで、
「女の子も大学に行く時代だっぺ?」
「それは関係なかっぺよぉ」
その合間に、1960年代から70年代にかけての「高度経済成長」の社会的動向と庶民の暮らしの揺れ動きをしっかりと語らせています。

 

また、みね子の同級生で女優になった助川時子(佐久間由衣)が、東京のスタジオで共演俳優から「君には茨城なまりがある」と馬鹿にされて、ふるさとに帰ってきたシーン、
「よーし、今からみんなで標準語でしゃべっぺ!」
軽い笑いに見えますが、実はここには「ヒト・カネ・モノ・ことば」の全てを「東京一極集中」させることによって成立してきた戦後70年の経済的繁栄の暗部が潜んでいます。

 

岡田さんは、
「あれからたった2年、みね子たちの日常のドラマです。
 みんな元気です、みんな相変わらずです。そんな『相変わらず』な幸せなドラマを書いた」
と語っていますが、優れた社会批評眼に裏打ちされたドラマツルギーに拍手!です。

 

中味と劇伴――宮川彬良の音楽

そうそう、『ひよっこ』では、宮川彬良さんの音楽も忘れてはならない要素です。
アップテンポの軽やかさ、ピアノソロの感情的なバラード、使い分けが秀逸です。
ドラマを作っていて、これほど中味と劇伴が見事に合うことはめったにありません。
明日の、最終第4話が楽しみです。


子役の関西弁がよかった――『僕が笑うと』

もう一本。
『僕が笑うと』(3月26日・火曜日 夜9時30分~11時20分)
カンテレ開局60周年のドラマです。

 

めいっぱい泣かせてくれました。
ドラマで視聴者を泣かせる、のは易しいようで結構むつかしいのです。
どうしても、不自然な演技や大仰なセリフを使ってしまいがちになる、ので。

 

この点で、『僕が笑うと』は、とても自然なセリフに溢れていました。
登場人物達の使う「関西弁」が、素直に入ってきました。
特に、子供たちのセリフに、無理が感じられませんでした。
脚本と演出と演技がうまく噛み合っていた、のだと思います。

 

脚本は、尾崎将也(おざきまさや)さん。兵庫県の出身。
NHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』を書いた人です。
演出は、カンテレ社員の三宅喜重(みやけよししげ)さん、大阪府の出身。
映画の『阪急電車 片道15分の奇跡』を監督した人です。

 

在阪局カンテレの周年特番ですから、ドラマの舞台は当然のことながら大阪。
ワンカット目を見たら、「豊中」のスーパーテロップ。
なんと、私の住んでいる町なのです。これで釘付けになってしまいました。

 

とにかく関西弁が自然だった

で、戦時中の大阪・豊中を舞台に、身寄りのない子供たちを引き取って育てた夫婦の物語り。
「浩太、おらへんねん」
「なんや知らんけど」
「楽しかったなぁ、こんな時こそ、みな一緒におらんとな」
主演の夫婦、井ノ原快彦(いのはらよしひこ)と上戸彩(うえとあや)のしゃべる「関西人の生活ことば」が、なんらの違和感なく耳に入ってきました。
二人とも、東京の生まれ育ちだと思うのですが上手でした。

 

日本のドラマは「ことばの演出」が下手

そして、特に素晴らしかったのが「子役たち」でした。
日本のテレビドラマや映画は「こども」を使うのが下手なんです。
それは、「こども」たちに、不自然な「標準語・東京語」を使わせる演出が悪いのです。
この点、『僕が笑うと』では素直な「大阪のこどものことば」で演じていました。
もちろん、設定が戦前・戦中の大阪なので、そこで暮らしている「こども」である、ということを考えれば当然なのですが、なかなかそれが難しい事なのです。

 

子役・渡邉蒼くん、お見事!

中でも、長男の浩太を演じた俳優の「渡邉蒼(わたなべ・あお)」くんがうまかった。
渡邉蒼くんは、昨年のNHK大河ドラマ西郷どん』で、鈴木亮平演じる西郷隆盛の子供時代の小吉を演じた俳優さんです。
「おっ、どないしたんや」
「ホンマもんや」
また、「お父さんは戦地で闘っている兵隊さんたちより、アメリカ人のほうが大事だと言うんですか」との、軍国少年としてのセリフ。

 

西郷どん』で薩摩弁を、『僕が笑うと』で関西弁を。
演技にとって最も大切なことは、その役柄の人物が使う「ことば」である、ということを早くから身体に沁みこませた渡邉蒼くんのこれからが楽しみです。

 

この意味で言えば、残念ながら「ドラマの枠付け」として登場していた現代劇部分の俳優さんたちは「子役たち」に負けていた、と言わざるを得ません。

 

絶妙のタイミング――音響

さて、「泣かせるドラマ」にとって大切なのは音楽です。
話の内容やセリフもさることながら、それ以上に音楽は人の感情を動かします。
『僕が笑うと』では、定番ではありますが、弦楽器の繊細な音色がいいタイミングでかぶさって涙線を刺激してくれました。
実は、これ、テレビや映画を作る人間には良くわかるのですが、「音の出」が1秒早過ぎても、1秒遅過ぎても、感情移入できないものなんです。
「音響担当」スタッフさんの仕事に拍手!でした。

 

いやぁ、映画もいいです、テレビドラマもいいです、ねぇ。
この後の「期末・期首」で、また素敵なドラマに会えることを楽しみにしてま~す。

2019冬ドラマから見える、テレビ制作者の「表現者の志」

今年の冬ドラマが、第4話~第5話を終えたところで、私なりの作品評をしてみます。

作り手としての「裏事情」をも読み取りながら、です。

そこから、サラリーマンでありながらも「テレビドラマ」という「表現作品」に取り組んでいるテレビマン達の「表現者としての志」を汲みたい、と思いつつ。

  

今期見逃せないドラマ

今期のドラマで、作り手のチャレンジ精神を、私が感じることができるドラマは、

 の二つ、だけです。

 

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この二つ以外は、既成の「刑事もの」と「弁護士もの」の焼き直しです。

これに「医療もの」を加えれば、作今の日本のテレビドラマのほとんどが分類できてしまいます。つまりは、それほど、現在の日本のテレビドラマは狭い領域の題材しか扱えていない、ということです。

私たちの暮らしや仕事の中には、もっとたくさんの様態があり、社会の深部にはもっと大きな思潮があるのに、です。

かつて、視聴率30%や40%を取っていた「ドラマ」という表現形式が、最近ではせいぜい10%前後の視聴率しか取れなくなっている最大の理由はここにある、と私は考えています。つまりは、ドラマの作り手達が「社会の表層の一部分」しか捕えられてない、のだと思います。だから「ドラマ」が弱くなったのです。

 

テレビ朝日

さて、そんな流れの中で民放各局のドラマのラインナップを並べてみると、色々なことが透けて見えてきます。

まずは、

テレビ朝日

 ・水曜ドラマ『相棒』

 ・木曜ドラマ『刑事ゼロ』

 ・木曜ドラマ『ハケン占い師 アタル』

『相棒』は、さすが刑事バディ物の老舗で、ドラマの出来映えレベルが高く安定しており、視聴率も15%前後と、民放ドラマの中では最も高い数字です。

 

『刑事ゼロ』

これは、木曜の20時の「木曜ミステリー」枠。

あの沢口靖子の『科捜研の女』を放送している枠で、制作は東映京都のスタッフ。で、明らかに『科捜研の女』を見てきた視聴者層を狙って、設定場所は京都府警で、ドラマの中には鴨川や木屋町など、京都ならではの観光名所の景色が盛りだくさん。

舞台が京都であるにも拘わらず、出演者の刑事は「こんなんじゃ納得いかねえなぁ」と言い、地元の高校生は「だって僕のだもん、わけわかんないよ」と完全な「東京弁」言語的リアリティはゼロなのですが、視聴率は10%超えで安定。

 

『アタル』のチャレンジを可能にしたもの

で、3枠ある中で、二つのドラマが一定の視聴率を取っているからこそ、実はハケン占い師 アタル』という新しいチャレンジが成立してるんですね。

視聴率とは、テレビというビジネスの世界では売上としてのCM料金を決めるための 指標ですから、3枠のうち2枠が安定していれば冒険が可能になります。

そこで新しいものを試してみて次世代のドラマの可能性を探る、という循環トライが上手くいってるところが、最近のテレビ朝日ドラマ好調の理由です。

 

ちなみに、『ハケン占い師アタル』の担当Pである山田兼司は、「刑事ものや医療ものであれば解決する対象も事件や病気でわかりやすい。しかし『働くことの悩み』は切実だがわかりやすい解決策がない。だからこそドラマで描くにふさわしいと脚本の遊川和彦さんと挑戦した」と語っています(朝日新聞ラテ欄「撮影5分前」より)。

遊川和彦が第1話・第2話を自ら演出したことも、意欲の表れだと見取れます。

主演・杉咲花の、耳を隠したボブカットと大きな瞳を活かしたキャラクター設定、そして45分過ぎの「自己啓発風の分析説教」は、現代日本の産業社会や若者像に対して軽いけれども的確なジャブであることは確かです。

 

 テレビ朝日の「松本清張ドラマ」

さて、テレビ朝日のドラマを考える際に忘れてはならないのは、「松本清張ドラマ」の存在です。おりしも、2月3日(日)にスペシャルドラマとして、『疑惑』が放送されました。

今回の『疑惑』は、ドラマの出来としては決して良くはありませんでした。

米倉涼子の演技はステレオタイプの大仰さが目立ち、黒木華の不気味さあふれる怪演や、余貴美子の落ち着いた演技のほうが勝っていました。

遠藤憲一のナレーションも、語り手の人称と立場が不明でよくわからず、住友紀人の音楽も変にリズミカルで、内容とはミスマッチでした。

ですが、1990年代にテレビ朝日のドラマが低調で、当時は絶頂にあったフジテレビのドラマ路線の二番煎じや三番煎じを続けていた中で、テレビ朝日ドラマがやっと独自の路線を作ることができたのは「松本清張ドラマ」のおかげだったのです。

それは、『月9』に代表されるようにフジテレビのドラマが、高度経済成長の成果としての「都会生活者の軽やかな夢」を描き続けたのに対し、結抗できるドラマツルギーとして「過去を背負った犯罪者の心理」という「松本清張の生活リアリティ」を見出したところにあるのです。

このメルクマールが、2004年の米倉涼子主演の黒革の手帖です。

これを成立させたプロデューサーとして、テレビ朝日内山聖子五十嵐文郎の二人を私は高く評価するものです。

経済成長の余韻の奥で進行していた階層化や格差化という「不満の社会心理」を、「松本清張ドラマ」は原作の時代設定を変えてゆくことで、あぶり出してゆきました。その影響は現在の「刑事もの」や「弁護士もの」ドラマに確実に引き継がれています。

 

ドラマの新しいトレンドを作る、とはこういうこと、なのです。

ドラマの作り手達が時代や社会をどう捉えるか、が新しいものを産み出す源なのです。

 

フジテレビ

これと対照的なのが現在のフジテレビのドラマです。

 ・月9『トレース~科捜研の男~』

 ・木曜劇場『スキャンダル弁護士~Queen

 ・火曜ドラマ『後妻業』

 

『トレース~科捜研の男~』

おそらく局内で、編成主導で作られたドラマだと推測されますが、どんな狙いがあるにせよ、このタイトルはないでしょう。

かつては見下ろす対象だったテレビ朝日のドラマタイトル『科捜研の女』をもじるなんて。このタイトル付けは、きっとフジテレビ局内のドラマ制作者達の士気とプライドを限りなく傷つけていることと思います。おそらく屈辱感すら抱いているでしょう。

目先獲得した10%の視聴率に対して、失ったもの大きさに気付く日は遠くはない、と思います。

 

制作に「大映テレビ」が入っていることにも驚きました。

これも、おそらく編成からの発注だと推測されますが、「大映テレビ」と言えば「赤い霊柩車」などの「赤シリーズ」で有名な特色ある制作会社です。

かつての「月9」は、当然のことながらフジテレビの社員スタッフが制作・演出をし切磋琢磨しながら自社ブランドを築き上げて誇った枠です。

その枠を外部発注してしまったら社内の制作者・演出者たちの立場がありません。

もはやフジテレビの社内では編成・営業と制作とに信頼関係はない、のだと思わざるを得ません。

「月9」が消滅する日は近いのかも、と思いました。

 

『スキャンダル弁護士~Queen

目先の視聴率を取りに行こうと、竹内結子水川あさみをキャスティングしたものの中途はんぱなコミカルさと事件解決時のシリアスさがちぐはぐで番組内分裂してます。

低視聴率が続いて苦しい時こそ、新しいドラマ作りにチャレンジして次の時代を引っぱるようなものを探り当てなければならないのですが、現在のフジにはもはやその余裕がない、と見取れます。悪循環の連鎖ですね。

風のガーデン』の宮本理江子や、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の並木道子など、社会の深部に手を入れようとしたドラマの作り手がまだフジに居ることを高く評価しているのですが、フジ社内ではそういった試行が認められていないのでしょうね。

 

『後妻業』

この枠は関西テレビの枠で、今回は「共同テレビ」の制作。

木村佳乃は熱演してるのですが、映画の軽妙な味には至らず。

その理由は、本来なら極悪非道な犯罪物語であるところを、黒川博行の小説は悪女の憎めないひょうきんさや、探偵役たちの滑稽さを救いとして軽やかなクライムノベルにしているのに、このドラマでは「愛情不足の生い立ち」などといった陳腐な理由設定を持ちだして、中途はんぱに深刻な犯罪ものにしてしまったこと。

どうせなら、救いようないけど天性の可愛い悪女にすればドラマならではの新しさが出せたのに、そこまでの覚悟はなかったのかな。

 

とは言え、フジテレビのドラマが目先の安全策ばかりを追いかけている中で、関西テレビのこの枠は、いつも独自の方向性を追っているところは評価すべき。

 

日本テレビ

続いては日本テレビ

・水曜ドラマ『家売るオンナの逆襲』

土曜ドラマイノセンス 冤罪弁護士』

・日曜ドラマ『3年A組~今日から皆さんは人質です』

 

『家売るオンナの逆襲』北川景子・主演の『家売るオンナ』のシリーズもの、での安定路線。

 

イノセンス

これは、古家和尚(ふるやかずなお)の脚本を、『金田一少年の事件簿』や『ハケンの品格』の南雲聖一が演出。

南雲の演出はさすがに手馴れており、安心して見れる「弁護士もの」ですが、作中で「日本の刑事裁判は100%近くが有罪になります」というセリフは、本来なら「99%が有罪になります」と言うべきところですよね。それを、先行したTBSの松本潤主演の『99.9~刑事専門弁護士』を意識したのか「100%近く」と言わせなければいけない、というところに制作者の忸怩たる内心を感じてしまいます。

心ある作り手は決して「二番煎じ」を望んでやってる訳ではないんですよね。

 

『3年A組』への期待

さて、テレビ朝日ドラマの場合と同様で、全体視聴率の好調とドラマ2枠の安定のおかげで、日本テレビも新しいドラマにチャレンジ出来る機会を得ています。

それが今期では、『3年A組~今日から皆さんは人質です』です。

CP・西憲彦で、脚本・武藤将吾、チーフ演出は『校閲ガール』の小室直子。

高校卒業を控えた29人の生徒を、担任教師が人質にして教室に閉じこめ、ある女子生徒の自殺の理由を探してゆく、という設定の学園ミステリー。

菅田将暉の迫力ある演技に引っ張られて第6話まで見ました。

さて、制作者たちが突きたいものは何なのか、「スクールカーストに象徴される学校社会の実態」「SNSに振り回される情報社会の実態」「無責任な教育者たち」「いかにもらしく他人事の解説をするマスメディアと有名人」――現実に起こっている出来ごととのリンクも多く、興味ある展開が今のところは続いています。

ただ、この手のドラマは最終的な帰結点がもっとも大事で、これまでに何度も見たことのあるような「浅はかなヒューマニズム的帰着」に収束されないことを願っています。

 

TBSドラマ

 ・火曜ドラマ『初めて恋をした日に読む話』

 ・金曜ドラマ『メゾン・ド・ポリス』

 ・日曜劇場『グッドワイフ』

 

『初めて恋をした日に読む話』

既に出来上がっている「深田恭子」という女優のイメ-ジだけに拠りかかったドラマ作りに新鮮味は皆無です。新人ディレクターの訓練場としての役割はあるかもしれませんが。

 

『メゾン・ド・ポリス』

「刑事もの」の変種ですが、面白く仕上がっています。

退職警察官が住むシェアハウスを舞台に、高畑充希の演じる若手女性刑事が事件を解明してゆくストーリー。

何といっても、西島秀俊小日向文世角野卓造近藤正臣など元・刑事の演技のアンサンブルが良い。野口五郎も好演。

演出は共同テレビジョン(共テレ)の佐藤祐市で安定した力量。

共テレ」は、元来フジテレビ傘下の制作会社なのですが、星田良子という優れたプロデューサー演出家がいて、その配下として育った佐藤祐市河野圭太という優秀な作り手たちがいる会社です。

主演女優が可愛く見える、ということはドラマ作りがうまくいってる、ということの一つの指標です。

 

『グッドワイフ』

「弁護士もの」とは言いながら、さすがアメリカのヒットドラマを下敷きにしているだけあって、レベルが高いです。

ミステリーの基礎がしっかりしています。エリート検事である夫が巻きこまれた事件の解明を連続ドラマの縦軸にして、毎回起こる1話完結の事件の解明を横軸にする、という構成は近頃はやりのパターンですが、上手く興味をつないでます。

チーフ演出は『Nのために』『アンナチュラル』を手がけた塚原あゆ子

 

TBSは、福沢克雄チームが手掛けた『半沢直樹』で42%の視聴率を取ったことにより、決して若い人気男優や人気女優のキャスティングだけがドラマ作りの重要な要素ではないことに気がつきました。今回の常盤貴子主演も、その流れにあるトライだと思います。

今回は視聴率的にはヒットにはなりませんでしたが、こういう試みを続けることは必ず次につながります。

 

 

最後に

「テレビドラマ」という表現形式でも、社会事象の奥に潜んでいる「社会意識」や「大衆意識」をしっかりと捕えたものは、30%や40%という高い視聴率を今でも取れるのです。

多くのテレビマンたちに期待します。

 

さて、今回は民放ドラマだけを論評しましたが、ここ数年NHKの「地域発ドラマ」に、テレビドラマの将来を感じさせるものが幾つかあります。

それについては改めて論じたいと思っています。