吉村誠ブログ「いとをかし」

元朝日放送プロデューサーで元宝塚芸術大学教授の吉村が、いろいろ書きます。

「コロナ政治」の言語学――政治家のことば

豊かな「ことば」とは何か?

「自分の言いたいことがはっきり言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができそして、聞き手も正しくそれを理解できる、そのような豊かな国語を創るため(後略)」柳田国男  1961年「豊かな国語のために」より)

 

大学の今期の授業がすべて「オンライン授業」になって、いつもの数倍ほど手間ひまがかかり忙しくてブログもしばらくお休みしていたのですが、今回ばかりは「言語」に多少ともかかわる者として黙ってるわけにはいかない、と思い書くことにしました。

 

それは、加藤厚労相PCR検査をめぐる先日の発言です。

37.5度以上の発熱が4日続く――目安ということが、相談とか、あるいは受診の一つの基準のようにとられた――我々からみれば誤解でありますけれど――」です。

 

テレビ報道でこれを聞いた私のとっさの突っこみは、

「おいおい、おっさん、何言うてんねん。それはないやろ!」でした。

 

一国の大臣の発言と、町の民衆の一人である私の感想と、この二つの「言葉の落差」にこそ、実は現代日本の「政治」と「生活」をめぐるとても大きくて重要な問題がはらまれている、と私は考えています。

 

加藤厚労相の「ことば」の誤解

根本的な問題は何か、というと、現代の日本の政治家の使う「言葉」は、大切なところがすべて「漢字語」であり、政治家の発言の多くは「漢字語を中心にして書かれた文を読んでいる」ということです。

これこそが、「日本の政治家の言葉」がわかりにくい理由であり、「日本の政治家の言葉」を弱くしている理由なのです。

 

上で取り上げた加藤厚労相の発言の「政治的な側面」はマスコミに出る政治評論家にまかせておいて、これを「言葉」の面から考えてみることの方が、より大切です。

 

「目安・相談・基準・誤解」など、漢字語で書くと、いかにも賢そうに偉そうに見えますし聞こえますが、それは決して本当に賢いことや偉いことを意味しません。

そもそも、漢字語はとても不正確な「言葉」なのです。

その意味するところが、とてもあいまいな「言葉」なのです。

 

そんな不正確な漢字語の意味を明瞭にしよう、と努力したり、漢字語を使ってでも、ぼんやりとした心の内や頭の中をはっきりとさせ、相手にしっかりと伝えよう、とするのが「文字を使う者」の誠実な営みのはずなのですが。

なかには、その不正確さを利用して、人をだましたり、煙に巻こうという人間が現われるのです。

 

加藤厚労相は、残念ながらその典型だと言わざるを得ません。

 

「書き言葉」に通じていて、「書き言葉」の修練を重ねることによって社会的高位置を獲得した「官僚」や「官僚上がりの政治家」は、「書き言葉」の特性をよく知っています。

加藤厚労相も、もともとは大蔵省の官僚です。

きっと、自分の優秀な「書き言葉・言語力」をもってしたら、一般民衆など簡単に言いくるめられる、と思ったのでしょう。

あえて意味の不正確な「目安・相談・基準」という漢字語を連ねておいて、「だから、みなさんが誤解したんだ」と言い逃れることができる、と考えたのでしょう。

 

そして、それはある程度は通用しました。

当日の記者会見に立ち会っていた、新聞やテレビなどの大手マスコミの記者たちは、目の前で発言された「言葉」に対して、突っこみを入れることをしなかった、からです。

それは、彼らもまた、加藤厚労相と同じく「漢字語の書き言葉」によって社会的高位置を獲得してきた人間だからだと僕は思います。

 

それに対して、町の一般民衆は、身近な「生活ことば」の地平から、

「おいおい、おっさん、それはないやろ。わしら、みな、37.5度で4日間、で動いてきたで。医療の現場の人間もそうやで」

と言ったのです。

かつては一般民衆は社会に対して発言する機会を持たない「情報下層者」だったのですが、現在はインターネット、SNSという発信機会を持っています。

また、「書き言葉」によって立身出世をしたわけではない「テレビタレント」たちが、一般民衆の「生活ことば」の反応をすくい上げたのです。

 

「漢字語の書き言葉」と「身近な生活ことば」と。

人間の使う「言語」として、どちらの「ことば」が強いか!

明らかです。

読書の中から得た「漢字語の書き言葉」より、暮らしの中で得た「生活ことば」の方が強い、のです。

ここに、「言語の本質」があります。

 

現代日本の政治家の「ことば」

さて、「漢字語で語る」のは加藤厚労相だけではありません。

「コロナ問題担当大臣」となった西村経済再生相もまた、「34県の多くは解除が視野に入ってくる」などと言います。

どんな日本語なんでしょう。

ふつうの日本語で言えば、「縛りを解くことを考えてもよい」ですよね。

なぜ、わざわざわかりにくい「漢字語」を連ねるのでしょう。

その方が、何だか偉そうに聞こえるし、賢そうに聞こえるからですよね。

西村経済再生相もまた、経済産業省の官僚から政治家になった人です。

 

また、与野党の政治家たちが、

スピード感欠如などと言います。

どうして、「おそい」や「おそすぎる」ではいけないのでしょうか。

「すばやく」や「もっと早く」ではいけないのでしょうか。

その方が、だれにでもわかる日本語です。

 

政治家の使うような日本語をこども達に教えてはいけません。

こういう「言葉」が、日本の政治を私たちの「暮らし」から遠ざけてきたのです。

民衆がふだんの「暮らし」の中では使わないような「賢こそうな言葉」で政治を語ろう、とする意識とは、それによって自分を言語的な優位者に持ちあげようとする偽エリートの考えです。

 

安倍首相にしても同様です。

9月入学問題に関しては、前広に検討したい」

この数十年間で私は初めて「まえびろ」という日本語を聞きました。

無理やり漢字語風にしたら、何だかもっともらしく聞こえるだろう、と思っている官僚が書いた用語を読んでいるのが明らかな答弁です。

 

また、

「学生支援に関して――速やかな対策を講じていって、ご判断をいただく

おそらく「専門家会議にご判断いただく」と読みたかったのでしょうが、思わず「えっ、判断するのはあなたでしょう」と突っこみました。

他にも、ひんぱんに出てくる「ことば」に、「認識しているところでございます」や「承知しているところでございます」などがあります。

誰も、家庭の中や、親しい友達との会話の中で、こんな「ことば」は絶対に使いません。

 

ここにも「言語の本質」の捕らえ間違い、が表れています。

「読む」と「しゃべる」は違うのです!

 

「しゃべる」と「読む」の違い

ヒトは、身体や頭の中にある「ことば」しか「しゃべる」ことはできません。

しかし、身体や頭の中にない「言葉」でも「読む」ことはできるのです。

「文字」は、ヒトの身体の外にあるもの、だからです。

 

 

今回の「コロナ事態」で、世界の政治家と日本の政治家が大きく違うところがはっきりと見えました。

世界各国の政治家は、「しゃべっている」のです。

日本の政治家は「読んでいる」のです。

だから、あらかじめ質問書として提出された質問に対して、あらかじめ用意された「文章」だけしか答弁できないのです。

野党議員のほうも、そのほとんどは質問書を読んでいます。

だから、蓮舫議員のように、「質問文章」から外れて「しゃべってしまった」時には、「大学生、このまま授業料が払えなくてやめたら高卒ですよ」などという偽エリートの本心が表れてしまいます。

 

政治家のこのような「言葉」は弱くて、聞いている民衆の身体と心には届かないのです。

 

 

吉村・大阪府知事が、一般民衆から高い評価を受けている最大の理由は、彼が「読んでいる」のではなく、「しゃべっている」から、だと私は考えています。

それは「政策の内容」とは別の次元の「ことば」の次元の話、です。

 

安倍首相や、西村大臣や加藤大臣と比べてみたら一目瞭然です。

吉村知事は、会見の時や、テレビ番組に出演した時に、ほとんど目の前にスピーチ原稿を置いていません。数字の資料メモは持つことがあっても、カメラに向かってしゃべっています。

頭の中から出てくる「ことば」でしゃべっています。

それだけ、数値や医療用語を頭の中にしっかりと入れているのだ、ということが見て取れます。

 

「知識の言葉」ではなく「暮らしのことば」で

一般民衆というものは、その日その日を「しゃべって」懸命に生きている人間なので、どのような「ことば」が自分の暮らしにとって大切なものなのかを、身体で見極めるのです。

「知識の言葉」ではなく、「暮らしのことば」で、ヒトは生きているのです。

 

もう一つ。

ふだんの暮らしの中では使わないような「難しい漢字語」を使うことで、自分の知的な優位性を誇示しようと思う小汚い心根は、「漢字語」ではダメだと思ったら、次には「カタカナ外来語」をもってきてその優位性を誇示しようと企みます。

「ガバナンス」や「コンプライアンス」や「ダイバーシティ」や「サスティナビリティ」といった類の「言葉」です。

 

今回の「コロナ事態」でも、やはりそれが表れてきました。

クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」

始めは専門用語だったのでしょうが、いつのまにかそれを使うことが知的な特権階級の証のようになってきました。

そして、本来はそういった「言葉」を民衆にわかりやすく翻訳することが役目だったはずのマスコミもそこに加担するようになりました。

 

この視点から考えると、小池・東京都知事は「難しい漢字語」や「新奇なカタカナ外来語」を使うことによって自分の優位性を誇示しようとする「古いタイプの政治家」だと言えます。

「私は出口戦略という言葉を使いません。その代わりロードマップをお示しします」

決して「出口戦略」という言葉が最適だとは思いませんが、民衆の多くがその言葉に共通したイメージを抱くことができるようになったのなら、その言葉を使って多くの人のイメージ喚起力をまとめるのが良い「民衆政治家」だと思います。

 

使う「ことば」によって、政治的なヘゲモニー(主導性)をにぎろうとするのは、姑息な権力主義者の考えです。

 

 

「自分の言いたいことがはっきりと言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、聞き手も正しくそれを理解できる」ような「身近な生活のことば」で語ってこそ、「政治」は本当に私たち一般民衆のものになるのだと思います。

柳田国男は、

「日本語を『漢語』だらけにして、本来の豊かな表現力を失わせたのは『明治維新を引っ張った書生たち』である」と言いました。

また、

「うわべばかりのことばを雄弁に唱えるものがばっこする機会を作っている」とも言いました(「国語教育の古さと新しさ」1953年)。

 

明治維新から150年、新型コロナウイルスは「日本の政治のことば」を変える絶好の機会ではないか、と私は思っています。

「M-1」2019所感――「関西弁」が強いのではなく、「生活ことば」が強いのです!!

「漫才・頂上決戦」と銘打って、すっかり年末の風物詩となった「M-1」ですが、今回は決勝初出場の「ミルクボーイ」が優勝するという思わぬ展開で盛り上がって幕を閉じました。

さて、一昨年2018年版の時は、番組終了後の場外で予期せぬ「SNS乱闘」があったので、テレビ番組「M-1」を立ち上げたプロデューサーとして早い時点で所感をブログに上げたのですが、今回はあえてお正月番組などの熱気が落ち着いた時点で、私なりの所感を述べることにします。

 

 

そして、この所感の中には、もう時効だから話しても良いだろうと思う「M-1制作秘話」と、最近読んだ集英社新書『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(著者:ナイツ・塙宣之)に対する私なりの批評、ならびに小学館新書『芸人と影』(著者:ビートたけし)への書評が含まれていることを、あらかじめお断りしておきます。

 

 2000年代の「M-1」と2015年からの「M-1

現在の「M-1」の位置

2001年に始めたM-1ですが、20年も続くとその存在意義が変質してしまうのは、ある意味で仕方ないことだとは思います。

現在の「M-1」は、「4分間の競技漫才グランプリ」です。

それはそれで価値のあるテレビ番組だと思います。

今やM-1は、「漫才の頂上決戦」としての全国規模のイベントになり、テレビ番組としては高い視聴率を取れるキラーコンテンツとなりました。

優勝者には1000万円という破格の賞金が与えられ、多くのテレビ番組への出演機会が与えられるので、多くの漫才師たちにとって「金」と「名声」を得るための「夢」となっています。

 

つまり、今や、「M-1で優勝すること」が参加者たちの目的となっている訳です。

しかし、そもそもM-1の企画意図はそうではありませんでした。

 

最初の企画意図――芸人の武器を磨く場を作る

2000年に、ABC朝日放送のテレビ楽屋で島田紳助さんと初めてM-1についての話をした時の彼の発言は、

「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」

「芸人の武器は『ことば』しかありません。武器を磨くためには『戦いの場』が必要なんですわ」でした。

 

私は、この発言に賛同したのです。

私なりの解釈では、そこに1980年代の「漫才ブーム」を牽引してきた島田紳助という漫才師ならではの「言語思想観」がある、と思ったからです。

 

漫才ブーム」とそれに続く「お笑いブーム」の結果、既に2000年の時点ではたくさんのお笑い芸人たちがテレビタレントとしての活躍の場を占めていました。

多くの若者たちは、「金」を稼ぐために、「有名」になりたいために、「お笑い芸人」を目指すようになっていました。

そんな風潮を作りだしたのは、私が働いていたテレビ業界です。

 

しかし、紳助さんは、そのように「お笑い芸人」が一般的な社会上昇の仕組みにからめとられてきてしまっていること、あたかもてっとりばやい就職口であるかのような風潮になっていることは、根本的に間違っている、と思っていたのだと推測します。

このことは、ビートたけしさんが小学館新書『芸人と影』でも書いているように、「芸人は、社会の底辺なんだ。世の中から落ちこぼれた人間で、夢見られるようなものや憧れられるようなもんではないんだ。」という認識と共通しています。

 

もう一つ、紳助さんがよく言っていたセリフに、

「お笑い芸人は、いつも何かと闘うてないとあかんのです」があります。

ここで「何か」とは、決して同僚の漫才師たちやお笑い芸人たちのみを意味してはいません。

「何か」とは、私たち民衆が日々の暮らしの中に持ちこまされている「社会規範」や「倫理観」や「道徳観」のことをも含んでいるのです。

 

本来、お笑い芸人という者は、一般社会の価値規範からは外れたところに生きていて、その位置から「世間の人を笑わせ」て金を稼いでいる者、のことです。

つまり、ビートたけしさんも言うように「お笑い芸人」とは本質的に「反・社会的、非・社会的」な存在なのです。

そして、そんな「お笑い芸人」の唯一の武器が「ことば」なのです。

 

第一回目「M-1」の成立過程~制作秘話~

島田紳助さんの企画意図に賛同したのは、私(当時、朝日放送制作部長)と私の上司であった和田省一氏(当時、朝日放送編成制作局長・常務)、そして吉本興業内部では谷良一プロデューサーとその上司である木村政雄氏(当時、吉本興業常務)でした。

この4人は、紳助さんとの付き合いも長く、彼の発言の真意をそれぞれが理解していたからです。

 

さて、ここからは、制作秘話になります。

今やM-1が押しも押されぬキラーコンテンツになったこともあり、多くの関係者も現役を引退しているので「時効」だと許してもらえるだろうと思い、これまで表に出さなかったことを書きます。

そのことによって、M-1を巡る様々な言説の不明な点が明らかになる、と考えるからです。

 

M-1」を朝日放送が作る理由

私が勤務していた朝日放送は大阪にあります。

ANN朝日ネットワークは、東京のテレビ朝日全国朝日放送)をキー局としています。

当然のことながら、全国ネットのテレビ番組を作って放送するには、東京のキー局で制作して放送する方が予算的にも宣伝的にも波及力の点からしても有利です。

また、吉本興業1980年以降の東京各局との仕事上の付き合いから考えれば、フジテレビが最も深いという事情もありました。

そこで、私たちは、「最終的には朝日放送が必ず番組化するから」との約束をした上で、それぞれ会社員としての筋を通す道を取りました。

 

まず、吉本興業からはフジテレビに、朝日放送からはテレビ朝日に、「M-1」の企画意図と紳助さんの発言を伝えてテレビ番組化を打診したのです。

その結果、返ってきたことばは、「今さら、漫才のグランプリを決める番組なんて」でした。

おそらく打診を受けた両社の当事者にとっては、「最近、お笑い芸人のことばが弱うなってきてる、と思うんです」という紳助さんの意味するところが正確には理解できなかったのだ、と思います。

 

こうして、私は「待ってました!」とばかりに、吉本興業の谷プロデューサーとタッグを組んでテレビ番組「M-1」の実現化へと向かったのです。

朝日放送テレビ制作局と吉本興業制作部との全面的な協力体制で進めました。

 

全国展開する予選の場所を選ぶにあたっての谷プロデューサーの努力は、並み大抵ではありませんでした。

日本全国に予選のできる場所を持っている企業ということで、オートバックスさんの協力を得られたことがアイデア具現化への大きな一歩となりました。

始まって数回の「M-1一次予選」は、各地のオートバックス店舗の店先広場だったのです。

山積みされたタイヤの前での予選風景を覚えていらっしゃる方もいるでしょう。

 

朝日放送としては、まずは「賞金1000万円」を含む製作費や放送枠を設定するための社内各部署への説明と説得をする難儀な会議を繰り返しました。

そして、出場資格者として、吉本興業だけではなく全ての芸能事務所に門戸を開くこと、すべての漫才師にチャンスを与えること、を宣言しました。

 

ちなみに、朝日放送は大阪にありますので、東京で番組制作をする際にはどこかのテレビスタジオを借りなければいけないのですが、当初はキー局テレビ朝日はスタジオを貸してくれませんでした。

1回目は世田谷にあるレモンスタジオ、2回目~4回目は有明スタジオから放送しました。

テレビ朝日が局内のスタジオを貸してくれるようになったのは、M-1が高い人気を得て定着した第5回目からです。

東京キー局と大阪準キー局との関係は、通常のニュース情報の集積や番組配信においては基本的には協力関係にあるのですが、このようにソフト制作においては競合関係でもあるのです。

 

塙宣之の誤謬1――『言い訳』の間違い

制作秘話に属することを書いたことで、なぜ「M-1」が東京のキー局での制作ではなく、大阪にあるABC朝日放送の制作するテレビ番組になったのか、がわかっていただけたと思います。

そして、ナイツ・塙さんが『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』で書かれた、

 

「そもそもM-1は吉本がお金を出し、吉本が立ち上げたイベントです。いわば、吉本が所属芸人のために設えた発表会なのです。」(同書・110P

 

というのは、まったくの事実誤認であることがわかっていただけたと思います。

M-1」は、朝日放送吉本興業が力を合わせて、島田紳助という希代のお笑い芸人が考えたことを現実化させようとして作ったテレビ番組なのです。

 

なぜ「出場資格は結成10年以内」だったのか 

さて、当初の「出場資格はコンビ結成10年以内」はなぜそうしたか、について。

その理由は、M-1が意図したものが「弱くなった『お笑い芸人のことば』を強くする」ことであり、「お笑い芸人の本来的な有り様」を認識してもらうことにあったからです。

 

つまり、「お笑い芸人」なんてものは決して「夢みるもの」や「憧れの対象」なんてものでなく、一般社会とは全く異なる物差しでしか計れない異質の社会だから、そこに勘違いして入ってきた若者に対して、10年経って芽が出ないなら早く気付いて正業の社会に帰って欲しい、間違えた「夢」からは早く醒めて欲しい、と考えたからです。

 

これが「参加資格10年」の理由です。

この点からしても、2015年以降に再開した「第二次M-1」では「参加資格15年」であり、当初とは異なる「漫才コンテスト」に変質したことがわかると思います。

 

 審査員の設定

さて、漫才は「話しことば」を使う笑芸です。

M-1の設立意図は、「お笑い芸人の『ことば』を強くする」でしたから、単に「漫才のおもしろさ」のみを評価するだけではなく、漫才を成り立たせる前提となる「ことば」について評価軸を持っている人を審査員にしよう、と私たちは考えました。

その現れとして、劇作家であり演出家でもある鴻上尚史さんや、落語家の春風亭小朝さんや、番組構成作家から小説家になった青島幸男さん、といった方々に審査員を依頼したのです。

 

もちろん、笑芸ですから「おもしろく」てたくさん笑わせてくれる方が良いのは当然なので、ネタの選び方や話の構成力や展開のさせかたといった技量も大きな要素ではあります。

その視点からの審査員としてはベテラン漫才師が適格な訳ですから、当初は西川きよしさんに、後にはオール巨人さんに審査員を勤めていただきました。

 

この点、ここ数年の審査員の多くがベテラン漫才師である、というのは設立当初の意図からは大きく変わってきていると思います。

漫才師さんは、当然のごとく「ネタ」や「話のころがし」や「ボケ・ツッコミ」といった技量を重視し、「おもしろい漫才」「受けの大きな漫才」に高い得点をつけるでしょうから。

この結果として、最近の「M-1」は、「壮大にして空虚な漫才グランプリ」になってきているのではないか、と私は少し残念に感じています。

ただしこれは、審査員諸氏の責任ではなくて、番組を作っている制作者たちの意図の問題です。

 

もっとも、最初に書いたように、どんな事象も歳月を経るうちに変質してしまうのは仕方のないことではありますが。

 

松本人志さんと上沼恵美子さんの意義

そんな中で、M-1当初の紳助さんの意図していた部分を今も引き継いでくれているのは、松本人志さんと上沼恵美子さんだと私は見ています。

 

松本人志さんは、ある意味で島田紳助さんの「言語思想」の正統な継承者です。

その「言語思想」とは、「標準化されない生活ことばで笑いを産む!」です。

80年代の「漫才ブーム」において、「ツービート」や「紳助・竜介」が闘った相手は、しっかりと構成された台本に基づいて丹念に練習された「構築された話芸」でした。

それに対抗するために新参者の彼らが意識的に選び取った武器が、「未熟な若者の生活ことば」だったのです。

 

しかし、その時代において既成の先輩漫才師たちと闘うためには「新しいことば」という武器だけでは不十分であり、それをブンブン振り回す「しゃべりの猛烈なスピード」というテクニックまでもが必要だったのです。

漫才ブーム」の先駆者であった「BB」「ツービート」「紳助・竜介」の「猛烈なスピードのしゃべくり」は、いわばあの時代に闘うための時代的要請とも言える戦法だったのです。

 

そして、10年後NSC1期生として現れた松本人志さんは、先輩たる紳助さんの「言語思想」を正しく受け止めながらも、「猛烈なスピード」という戦法とは違う「ゆっくりとした日常会話」という新たな戦法で登場したのです。

紳助さんが松本さんを見て、「あのスピードであの中味をやられたらかなわん、俺らの漫才の時代は終わった」と言ったという伝説は、こうして理解することができるのです。

 

そして、上沼恵美子さん

一昨年のM1終了後に起こったSNS問題の際にも書きましたが、読み違えていけないのは彼女が天才女流漫才師と言われた「海原千里さんの熟年後の現在形」ではなく、「主婦・上沼恵美子というお笑いタレント」であるということです。

 

彼女は、結婚していったん引退した後、再び「主婦・上沼恵美子」として再登場しました。

その時、彼女が武器とした「ことば」は、「関西のオバちゃんの生活ことば」だったのです。

一見、社会規範などで標準化を余儀なくされているかに見える「主婦の生活」の中にある「標準化されない生活」を語るには、「標準化されないことば」が最適なんだということを自覚して再登場したところが、上沼恵美子さんの凄いところなのです。

 

今回の審査においても、「かまいたち」の講評をした際に、「腕上げたなぁ、あんたらフリートークできるわぁ」というコメントがありました。

「フリートーク」とは、作り上げられた「ネタ」を披露するしゃべりではなく、日常会話の延長上にしか成立しないものであることがとても良くわかっており、彼女が「ことば」についてのしっかりとした見識を持っていることの証左です。

 

こういった審査員の本質的な力量を見抜けないで、「M-1で優勝すること」のみを目的として登場する漫才師の何人かが、「好き嫌いで点数付けられたらかなわん。更年期障害やで」などと全く見当違いの場外発言をしてしまうのです。

 

芸人の武器はことばである

塙宣之の誤謬2――「関西弁が強い」のはなく「生活ことばが強い」

さて、集英社新書『言い訳』でナイツ・塙宣之さんは、「関東芸人はM-1で勝てないと思っている」と言い、その理由として「漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできている」と書いています。

そして、自分たちの漫才の「ことば」は「現在の関東の日常言葉であり、感情を乗せにくい。漫才に不向きなのでは」と書いています。

だから、「ヤホー漫才のように気持ちを入れない機械的な漫才に行きついた」と。

 

残念ながら、ここには「ことば」についての基本的な考え違いがある、と私は思います。

塙さんが、舞台の上でしゃべっている「ことば」は、塙さんが「人間として家庭生活で使っている生活ことば」ではなくて、漫才師として「職業用に使っている不自然なことば」だから弱いのです。

その「標準化された弱いことば」でおもしろいことをしゃべろうとするから、すべてを「ネタ、ネタ、ネタ」に作り上げるしかなくなるのです。

無理な「キャラ設定」をもしなくてはならなくなるのです。

こんなに不自然でしんどい言語生活はない、と思います。

 

「現在の関東の日常言葉」であっても、電車の中で交わされている若い女の子たちの「いやぁ、今年もクリぼっち、サミシマス。空から素敵な彼ピ、降ってこないかぁ、ぴぇん」なんて自然な会話は、感情の溢れるとても活き活きとした「ことば」です。

 

塙さんはこうも書いています。

「今でも佐賀弁は話せますし、感情移入しやすい部分もあります。ただ、現実問題として今さら僕が佐賀弁で漫才を始めるのも不自然ですし、僕が佐賀弁、土屋が東京言葉というのも明らかにおかしいでしょう。」と。

そんなことはありません。

佐賀で生まれ育った人間が東京に出て行ったのなら、「佐賀弁なまりの混じった東京ことば」でしゃべるのが最も自然なことは明らかです。

それでこそ初めて、「塙宣之」さんという人間にしか使えない「生活ことば」が表れ、「塙宣之さん」という生身の人間味が現れるのではないでしょうか。

 

「東京言葉が弱い」のではなく、「不自然に標準化されたことばが弱い」のです。

ビートたけしさんの「ことば」は「江戸下町弁」だから強いのではなく、「ビートたけし弁」だからいまだに強いのです。

島田紳助さんは、「島田紳助弁」を駆使することによって、やすし・きよしに代表されていた「ネタ構築漫才」を打破しました。

明石家さんまさんは「明石家さんま弁」によって、恋愛や若者風俗や世相に潜む「標準の不自然さ」をあぶり出してきました。

(このあたりについては、拙著『お笑い芸人の言語学』に詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください)

そして、松本人志さんは世代を超えて、先輩諸氏の「ことばについての考え」を継承発展させたのです。

おそらく松本さんが今後目指しているところは、「日常のおもしろさ」を「日常の生活ことば」で語って笑いにすること、更には「日常生活そのもの」を「笑える」ほどオモシロイことにすることではないか、と私は見ています。

 

 芸人とことば

さて、これは塙さんが『言い訳』にも書いていらっしゃるように、「ことば」は意味伝達のための道具でなく、その前提として情緒・気持ちの交換という機能があり、人類ホモサピエンスがいつのまにか身につけた力です。

いわば「ことば」は、その人ならではの人生を物語る「存在の表象」なのです。

同時に、「ことば」は制度でもあります。

最も意識されにくい社会制度なのです。

 

私たちが、意識しないで、あるいは少し意識してしゃべっている「ことば」の奥には、その人が生きている社会の「規範」や「倫理」や「道徳」が深く深く潜んでいます。

そして、「お笑い芸人」とは、一般民衆が気づかないうちに絡め取られている「規範」や「倫理」や「道徳」を笑いによって価値紊乱させることのできる稀有な存在なのです。

 

ちなみに、私はナイツの漫才が嫌いな訳ではありません。

色々なスタイルの漫才や笑芸があっていいし、「弱いことば」であることを自覚した上で、「ネタ」を構築し磨きあげて「笑い」を産み出そうとしているナイツの話芸には、感嘆しながらいつも笑わされています。

 

M-1優勝」は到達点ではない

M-1は、「漫才」という1つの笑芸の形式での「闘い」を通して、私たちの人生の最大の武器である「ことば」についての新たな気づきをもたらしてくれる好機なのです。

ネタやテクニックという技量をも競いながら、漫才師たちが自分の唯一の武器である「ことば」について、何かを発見したり、何かの自覚を得られればいい、と思って始めたつもりです。

ですから、「M1優勝」は決して到達点ではありません。

次の段階への出発点であって欲しい、と思っています。

 

昨年暮れの1222日に、「M-1グランプリ2019」のOAが終わった後、テレビでは引き続いて「テレビ千鳥年末SPが流れてきました。

大悟とノブが、とても自然に「岡山弁なまりの関西弁」で楽しく料理を作っていました。

私は、M-1以上に楽しく笑いながら見ました。

 

「千鳥」の二人も、M-1で優勝したコンビではありません。しかし、二人はM-1への出場をきっかけに何かをつかんだのだと思います。

M-1に優勝したけれどもその後にはあまり活躍していない人、逆にM-1に優勝はしなかったけれどもその後に大きく飛躍した人、色んな人たちがいます。

私たちが作り出した「闘いの場」は、「M-14分間の競技漫才グランプリ」というテレビ番組へと変質してしまいましたが、やはり最初に意図したものが何がしかの役には立っているのかなと、少し嬉しくなりました。

 

そして、願わくは、茨城弁なまりや山形弁なまりや東北弁なまりの「東京弁」など、もっと「活き活きとして自然な日本語」がテレビの中や一般社会の中で堂々と話されるようになって欲しいものだと思っています。

150年に及ぶ「日本の近代化」は、社会のあらゆる局面に「東京一極集中」をもたらしました。

そろそろ、私たちは歪んだ「一極集中」から卒業する時に来ているのではないでしょうか。

そして、「心の地方分権」は、まずは「生活のことば」からではないのかな、と私は思うのです。

 

2019年の「M-1」を見て感じたこと、それは言語の本質としての「話されるオトのことば」というものの面白さと、それを使った「漫才」という芸能の素晴らしさ、なのでありました。

台風19号の情報をテレビは事前にどれだけ伝えたか

大きな被害をもたらした台風19号。

今夜16日(水)も、民放の各テレビでは11時台のニュースで、その被害状況を伝えている。

しかし、その報道姿勢は果たして「公器」として適正なものだろうか。

 

そんな疑問を抱いていたところ、メディア・コンサルタント境治さんが、「通常編成を飛ばして、台風を伝え続けたNHK」との論稿をブログに上げてくださった。

news.yahoo.co.jp

一読して、「そのとおり」と思い、触発された私の考えを書く。

 

 

12,13日の台風情報

まず、私は12日(土)朝から13日(日)の夜にかけて、ほとんどテレビをつけっぱなしで台風情報を見ていた。

それは私が大阪に住んでいるにもかかわらず、今回の台風が並みはずれて規模が大きくて、近畿にもその影響が少なからずはあるだろう、と予測していたからであり、去年の台風では2日間にわたっての停電を経験していたからであり、更にはさかのぼって1995年の「阪神淡路大震災」をテレビマンとして伝えた体験があるからである。

 

で、12日、13日の2日間テレビを見ていたのだが、まともに台風情報を伝えてくれていたのはNHKだけだった。途中で何回もチャンネルを回してみたが、民放テレビは既存のニュース枠と報道番組枠では台風情報を流していたが、それ以外はほとんどが通常編成のバラエティやスポーツ番組をやっていた。

 

この間の、「台風情報」に費やされた時間配分を、境治さんの論稿は明確に図表であらわしてくれている。それを見て、「あぁ、やっぱりそうだったんだ」と納得した。

境さんの解析によれば、NHKは12日(土)の朝から13日(日)の20時にかけて、「通常編成を飛ばして、台風を伝えつづけていた」のである。

民放の中では、テレビ朝日TBSがある程度の時間を割いていて、日本テレビとフジは少なく、テレビ東京はほとんど伝えていなかった。

やはり、というか、さすが、というか、NHKはなんだかんだと言っても「電波は公共の財産」であり、「放送は公益に資するためのもの」という電波使用の原則をよく理解している電波事業者だと改めて思った。

 

気象庁の情報発表を十分に報道しないメディア 

そもそも気象庁が、10月9日から「特別な大きさの台風」とか、「これまでに経験したことのないような大雨」という異例の表現情報を流し続けてくれていたのである。

伊勢湾台風狩野川台風や、それ以上だとも言っていたのだ。

それを受けてNHKは、「まだ風や雨がひどくならない金曜日までに準備を」との情報を、数日前から伝え続けた。

ネット上でもネットユーザーらが気象庁の発表より前から大型台風発生の可能性を指摘していた。

それに対して、民放のテレビ局はどれだけの情報を国民に伝えたであろうか。

台風が最も接近した12日(土)の夜のゴールデンタイムにおいても、民放は通常のバラエティやドラマやスポーツ番組を放送し、申し訳程度のL字画面で台風情報を流していた。

 

電波は国民共有の財産である 

営利企業である民間放送といえども、テレビ局の事業は「国民共有の財産である電波」を特権的に使うことを許された免許事業者である。

放送は、あくまで「公共の利益に資するため」と放送法にも明記されている。

こんな、「未曾有の天災」が予測される時こそ、テレビは「国民のための電波使用」という大原則の精神を発揮すべきではなかったのか。

 

それなのに、である。

台風が去って、大きな被害が明らかになってきた後で、民放テレビはその被害状況をこれでもかこれでもか、と伝える。

もちろん、被害を報道することにも意味はある。

それは、次なる事態に備えてであり、次の被害を少なくするためであろう。

しかし、被害状況にあれだけの人員や機材を投入するなら、なぜ事前にもっと大切で緊急な情報を伝えることに力を注がないのだろうか。

歴史にIF(イフ・もしも)はないが、これまでにないほど大きな台風が襲来する直前の12日に民放テレビの各局が、通常番組を飛ばしてその迫りくる台風情報を伝えてくれていたら、視聴者の避難行動を促して今回の被害のいくらかは防ぐことができたのではないだろうか。

 

被災を娯楽のように消費するテレビメディア

そして、昨日今日の民放テレビのニュース番組や情報番組では、あいもかわらず被災者に対して、「今のお気持ちはいかがですか」と、神妙な顔をしながら無遠慮に質問する記者やアナウンサーが居る。

映像は、刺激的な画像を切り取ってくりかえし、おどろおどろしいBGMまで付けている。

それは、「世界仰天ニュース」を作っている表現姿勢と同じ心根である。

現在の日本の民放テレビは、残念ながら「災害」を「他人事の情報」として消費している、と言わざるをえない。

 

さらに、言い訳のように「寄付の呼びかけ」を行っている。

それを言うくらいなら、民放テレビ局は、12日13日に通常放送をして得た収益(一日平均で5億~7億)をこそ率先して寄付してしかるべきだろう。

 

 

現在の日本の民放テレビは、あの「阪神・淡路大震災」からも、「3・11東日本大震災」からも、何事も学んではいない。

すべての民放の経営者は、社長から編成担当取締役から編成局長・報道局長に至るまで、もう一度「放送のあり方」を自問すべきである。

 

日本人の「テレビ離れ」を招いているのは「テレビ局自体」である、と私は思う。

NHK朝ドラ『なつぞら』が終わって

昨日、928日(土)、NHK朝ドラの『なつぞら』の最終回が放送されました。

記念すべき、朝ドラ第100作目、という触れ込みもあって放送中から色んな評価が飛び交いました。

さて、僕はテレビの業界で制作者として35年働いてきた立位置から、この『なつぞら』について少し、制作過程を解析しながら書いてみます。

www.nhk.or.jp

結論から言って、『なつぞら』はテレビ番組のプロ職人たちによる【Well Made ドラマ】(とてもよく出来たドラマ)だった、と思います。

作り手として評価する『なつぞら』 

まずは制作者を労わりたい

たくさんあるNHKのドラマ枠の中でも、「朝ドラ」と「大河ドラマ」は特別に格の高いドラマで、その担当になる、ということはテレビ番組の作り手としてとても名誉なことであると同時に、ものすごいプレッシャーでもあります。

特に今回は『朝ドラ第100作目』ということもあり、その期待値や要望は並み大抵なものでなかったことは容易に推測されます。

タイトルロールに名前を連ねた、「制作統括・磯智明」さん、「プロデューサー・福岡利武」さん、「演出・木村隆文」さん、そして「脚本・大森寿美男」さんはじめ制作スタッフの皆さん、ホントに長丁場お疲れさまでした。

同じく、テレビ番組の制作現場に身を置いていた者の一人として、心から敬意を表したいと思います。

 

さて、視聴者の皆さんにとっては「制作者の苦労」などはどうでもよくて、番組が面白いかどうかが評価の軸なのですが、今回は、その「視聴者の評価」と「表現制作者の気持ち」との関係を少し説明しながら『なつぞら』を振り返ってみようと思います。

NHKに限らず、実際のドラマの制作プロセスなどは、いわば「業界秘密」に属することで、決して表には出てこないものなので、ここから先は経験に基づく僕の推測が入ります。

 

経験から推測する朝ドラ制作期間

なつぞら』は、今年2019年の4月に放送が始まりました。

で、公表されたデータによれば、撮影は2018年の6月から北海道ロケに入っています。

当然、その時点ではドラマ前半部の「北海道篇」の台本は出来上がっているわけで、主要登場人物のキャスティングも決まっています。

美術スタッフや技術スタッフの事前作業を考えると、遅くとも20183月には台本が仕上がっていたと逆算できます。

とすると、脚本家・大森寿美男さんが「北海道篇」を執筆する時間を3ケ月だと推測して、2017年の年末には『なつぞら』全体のストーリー・プロット(筋書き)が出来ていた、と考えられます。

とすると、そのストーリー・プロットを考えていたのは?

そうですよね、2017年の夏の終わる頃から秋にかけて、となります。

 

「朝ドラ」プロデューサーになるには

2017年上半期の朝ドラは『ひよっこ』でした。10月からの下半期が『わろてんか』でした。

なんと、その頃に『なつぞら』の担当者たちは、20194月から放送される『第100回目の朝ドラ』の中味や筋書きを考え始めていたのです。

これって凄いことだと思いませんか。

何もないところから、およそ2年先の「半年間の連続テレビドラマ」を考えて形にする作業!

そのためには、過去の日本の社会思潮の流れを読み、ここ数年の表層風俗の変化を見取り、数年先の社会状況を自分たちなりに予測することが必要となります。

その上で、女優や男優の人気の上昇や下降を考慮して、さらには新しい才能の発掘も欠かせません。

こういったことが、「朝ドラ」をプロデュースする作業なんだ、ということを知ってもらいたいのです。

 

ドラマや映画を形にする場合、当初はプロデューサーやメイン演出家や脚本家の3人~4人による打ち合わせからスタートします。

何もないところから、ドラマの設定や筋書きを作りあげてゆく作業は小人数でなければできません。

創作は多数決ではなく、「発案」者が多すぎると、話しがまとまらないからです。

しかも、そこには必ず【縛り(制約条件)】があります。

それは一つは【予算】であり、一つは【内容】です。

自主映画のように、制作費を自分で出して作る場合なら、自分の思うようなものを作ってよいのですが、商業作品の場合にはそうはゆきません。NHKならば制作費の大元は視聴者からの聴取料なので、いわば「スポンサーは視聴者」ということになります。

したがって「多くの視聴者の意識」に応じるもの、という内容的な【縛り】がかかります。

特に、「恋愛」や「結婚」や「家庭」や「仕事」という生活上の価値観に関しては、マジョリティとしての社会通念に従わざるをえず、『なつぞら』でもそうでしたがある程度は予定調和的な帰結になってっしまいます。

その上で、今回は「100作目記念作品」という、いつも以上の内容的な【縛り】がありました。

それは、「朝ドラ」を貫流している「女性の成長物語」であり、「地方から都会へ」であり、「放送時の社会思潮」でした。

それらを踏まえた上で、制作者たちはなおかつ自分たちならではの「表現者としての志」も盛り込もうとします。

その結果として彼らが考え出したのが、「アニメーションという仕事の世界」「女性アニメーターの草分け」「北海道の開拓者精神」「戦争で離散した家族」というストーリー・プロットの核でした。

 

「ベタ」を馬鹿にしてはいけない!

ドラマの中盤あたり、「東京篇」の始め頃に少し展開がゆるんだ部分はありましたが、全体として『なつぞら』はプロのドラマ職人達による良く出来たドラマだと思います。

大森寿美男さんの脚本は、岡田恵和さんの『ひよっこ』や北川悦吏子さんの『半分、青い。』のように、その作家ならではの特出したセリフが多くはありませんでしたが、安心して泣けるセリフが随所に散りばめられていました。

「手練れのプロ」の脚本!だったと僕は評価します。

 

第146話、神楽坂の小料理屋で末妹・千遥(ちはる)の作る天丼を食べながら、

咲太郎「父さんの味だ」

なつ「ちがう、ちがうわ、思いだした、いつもお父さんが揚げた天ぷらを横でお母さんが作ってくれてたんだ」

咲太郎「人生の二番出汁だ、一番出汁があって二番出汁がある」

 

152

泰樹じいちゃん「朝日を見ると気力が湧いてきた、ここであきらめるなと」

「なつ、おまえは、よく、東京を耕した」

これに遡るセリフですが、ドラマ前半部での、

「なつ、東京を耕してこい、開拓してこい!」

 

そして、ドラマ作りとして「上手い!」と思わせたのは、最終話の一日前155話に十勝・しばた牧場に嵐による停電騒動を起こして、乳牛たちが危険な目に合う場面を置いた所、です。

柴田家の家族たちは、昔ながらの手作業による乳絞りを余儀なくされ、過ぎし日のあれこれを嫌でも思いだすことになります。

その後で、

泰樹じいちゃん「いちばん大事なのは、働くことでも稼ぐことでもない、牛と生きることだ」

大団円前の小波乱、そして見事な「決めセリフ」でした。

 

これらを、「定番」「ベタ」と言って馬鹿にしてはいけません。

こうしたセリフを堂々と書いて使いこなすのこそ「職人技」なのです。

「ベタISベスト!」です。

「ベタ」とは、先人たちの「腕と知恵」の成果のかたまり、なのです。

若い表現制作者の中には、「ベタ」を軽視していきなり奇を衒った表現をする人がいますが、それは違います。「ベタ」を熟知した上で初めて「新奇さ」は生きるものなのです。

朝ドラ100作目の『なつぞら』は、色々なことを再発見させてくれました。

 

また、『なつぞら』によって、アニメーションにおける「作画監督」なる仕事や「キャラクター造形」なる仕事や「原画」と「動画」の違いなど、これまで良く知らなかった仕事のありさまが多くの人に知れたことも成果だと思います。

登場人物を通して、若き日の宮崎駿さんや高畑勲さんの姿を垣間見たのも楽しい出来事でした。

 

将来楽しみな若手俳優たち

『ひまわり』の松嶋菜々子から、『ちりとてちん』の貫地谷しほり、『どんど晴れ』の比嘉愛未、『おしん』の小林綾子から、『純ちゃんの応援歌』の山口智子、そして最後には『雲のじゅうたん』の浅茅陽子、と、朝ドラ歴代女優のオンパレードも話題となりました。

キャスティングを担当するプロデューサーと演出家にとっては大変な作業ですが、冥利に尽きるところでもあったことでしょう。

で、朝ドラで見逃してはいけないキャスティングは、「次代の俳優」のキャスティングです。

NHKのドラマ制作者たちが凄いなと思うのは、必要な【縛り】をこなしながら、必ず次代を担う俳優たちをキャスティングして育てている点です。

 

今回の『なつぞら』で言えば、咲太郎の子供時代を演じた「渡邉蒼(わたなべあお)」君、彼は大河ドラマ西郷どん』で西郷隆盛の子供時代も演じていました。期待の若手です。

もう一人は、なつの子供時代を演じた「粟野咲莉(あわのさり)」ちゃん。今、女の子の子役でもっとも自然な演技ができる人です。

そして、千遥を演じた清原果耶(きよはらかや)。彼女は既に『透明なゆりかご』で主役を演じており、もはや新人とは言えませんが。

 

この3人は、必ずや今後のNHKドラマのみならず日本のテレビドラマ界を背負う俳優になることでしょう。

他にもたくさん目を引く脇役の俳優が居ました。

今、日本の俳優ビジネスにおいては、NHKドラマと映画と小演劇が新人を発掘し中堅を育てて、民放テレビがその成果をいただくという構造になっています。

民放のテレビ人は、この点でもっと頑張らなければいけません。

 

近頃のNHKドラマ

さて、先日の参議院選挙で「N国(NHKから国民を守る党)」が話題を集めたことから、NHKの経営体質についての批判が数多くありますが、ことドラマについて言えば、僕は最近のNHKドラマは民放ドラマよりも意欲的なものがたくさんある、と思っています。

それは、NHKのドラマ制作者は民放のドラマ制作者に比べて時間的な余裕がある、ということや、民放のドラマ制作者ほどは目先の視聴率を気にしなくていい、という理由もあるのでしょうが。

それだけではなく、「表層現象の底を読み取ろう」という「表現者としての志」を感じることができるドラマがある、ということです。

 

その例をいくつか。

『だから私は推しました』(土曜夜1130分枠)

無名の地下アイドルグループのメンバーを熱烈に推す(応援する)オタク主人公の話。

サスペンス的な展開の中で、「承認欲求」や「自己確認」に迫られている現代の若者の心情を描き出そう、としています。

 

『それは経費で落ちません』(金曜夜10時枠)

先進企業ではない、中堅の石鹸会社「天天コーポレーション」の経理部に勤める主人公・森若紗名子。

ありきたりの「お仕事ドラマ」ではなく、少し古めかしいと思えるような会社の経理部の仕事を通して、「人間の集団としての企業」を描こうとしています。

 

『サギデカ』(土曜9時枠)

これも民放ドラマに多い「刑事もの」とは一味違う内容。

おれおれ詐欺」など、多発する現代的な詐欺事件を通して、そういった犯罪が起こる現代日本社会の底部に迫ろうとしています。

 

民放のテレビドラマが、「刑事もの」「医学もの」「医療もの」ばかりで、売れ筋俳優のキャスティング先行で作られている中で、今、NHKのドラマが面白いです。

こういった制作者の「表現者としての志」が、昨年の『透明なゆりかご』のような優れたドラマを産み出すのだと思います。

 

フィクションとノンフィクションの相互作用

1つの局の中で、優れたフィクションの作り手たちが居ると、必ず優れたノンフィクションの作り手たちが現れます。逆もあります。

これは僕の持論です。

で、今回はNHKのドラマについて書きましたが、今年の夏のNHKのドキュメンタリーは例年になく優れた作品がたくさんあったことを書き添えておきます。

 

NHKスペシャル『全貌 二・二六事件

       『激闘ガダルカナル・悲劇の指揮官』

いずれも見ごたえがありました。

入念な調査と、貴重な証言者の発掘を積み重ねたドキュメンタリーで、昭和史にはまだまだ解き明かすべき点がたくさんあるのだ、ということを教えてくれました。

 

結論

まだまだ、日本の「テレビという表現形式」には多くの可能性がある!

と思います。

「お笑い芸人」の言語力

吉本興業に所属するお笑い芸人の、宮迫博之さんと田村亮さんらの「闇営業」をめぐる問題と、それに続く記者会見についての報道が続いています。

 

一連の報道を見ていて、『お笑い芸人の言語学』を書いた僕の立ち位置からの考えを述べます。

それは、報道が拡散して一般化されるにしたがい、いつのまにか埋没してしまいそうな二つの点について、です。

 1つは、「お笑い芸人の言語力」。

 1つは、「お笑い芸人の非・社会性」。

 

考察にあたって、主な素材とした放送は、

720() 午後2時~430分 「宮迫博之田村亮 記者会見」(Abema TV)

720() 午後10時~1130分「新・情報7days(TBS)

721() 午前10時~1130分 「ワイドなショー」(日本テレビ)

722() 午後2時~730分 「岡本社長 記者会見」(Abema TV)

これらの番組はいずれも生放送ですべてを視聴しました。

 

で、この他に民放各局のニュース、および「アッコにおまかせ」(TBS)「スッキリ」(フジテレビ)なども参照しました。

 

1.「お笑い芸人の言語力」について

20()に行われた、「宮迫博之田村亮の記者会見」で鮮やかに浮かび上がったのは、宮迫と田村の「ことば」の強さ、でした。

それに比べて、一方で鮮やかに浮かび上がったのは、会見場に居たマスメディアの記者たちの「ことば」の弱さ、でした。

 

「お笑い芸人」という人間は、「ことば」だけを武器として生きている者なので、「ことば」の原理原則を体でよくわかっている者たち、です。

それは「話術のうまい・へた」という運用上のテクニックの問題ではありません。

 

今回の記者会見で、それがとてもよくわかりました。

宮迫・田村の記者会見の目的、つまり、二人が伝えたかった内容は、「当人による事情の説明、と、説明が遅れたことの事情の説明」でした。

 

そのことをしっかりと伝えるために、宮迫は、ゆっくりと気持ちを乗せてしゃべりました。

「今回のことは、僕の、保身からくる、軽率なウソから始まっています。今回の騒動の全責任、すべての責任は僕にあります。僕のせいです。本当にすいませんでした」

ここから始まった二人の会見は、おそらく多くの視聴者や芸人たちへ「正直」「真摯」だと受け取られたであろう、と推測されます。

 

直接話法の表現力

しかし、話す「ことば」のプロである以上、宮迫・田村の二人には「演技のしゃべり」もできるわけで、二人のしゃべりをそのまま鵜呑みにするのは危険です。

ですが、この点に関しても二人は周到に「正直さ」を担保する「ことば」を使いました。

 

それは「直接話法」です。

事後の説明ではなくて、その日、その時に、実際に「話されたことば」の再現です。

 

まず、「闇営業」でのお金の受け取りについて、

「亮くんに『いくらもらったんだ』と聞くと、『50万』だと答え、『俺はいくらもらったんだ』と聞いたら『100万』だと」

「宮迫さん、そのおつりを受け取っていました、と」

の部分です。

 

次は、吉本興行に行っつての報告の部分、です。

「もう、ひっくり返せませんよ」

「しばらく静観ですね」

「おまえら、テープ廻してないやろなぁ」

「記者会見やったらええ、その代わり全員クビや」

 

こういった「実際に話されたことば」が、宮迫・田村の二人の発言の正直さを担保しているのです。

そして、会見場に居たメディアの記者たちが、「事実の解明」を目的としていたのなら、ここにこそくらいついて追及すべきだったのです。

 

まず、前半部ですが、

この会話から考えれば、入江はギャラを、例えば封筒に入れたお金を誰に手渡したのか、が問題です。宮迫に直接にではなくて、田村に二人分の封筒で渡したのか、なのです。

では、打ち上げの飲食店ではだれが費用を払ったのか、例えば田村が宮迫の財布を預かって払ったのか、または田村が持っていた宮迫用の封筒から払って、そのお釣りの現金を宮迫が店員から受け取って財布に入れたのか、が問題となります。

この状況の確認は、とても大事な点のはずです。

 

次に、吉本興行に告白に行った部分では

「もうひっくり返せませんよ」と言ったのは誰なのか?

「しばらく静観ですね」と言ったのは誰なのか?

 

あれだけの記者たちが居たのに、この肝心な点を問うた記者は一人もいませんでした。

僕は、まず、このことにマスメディア記者たちの「ことば聞き取り能力の低さ」を感じました。

そして、とても重要だと思われる上記二つの発言者を特定するための質問は、今日に至るまでなされていません。

おそらく岡本社長が言ったのではないか、という推測で動いています。

僕は、そうではなくて、社内弁護士の小林氏か社外弁護士だと思います。

 

⑤⑥は、岡本社長の発言だという事は宮迫の説明で明らかで、宮迫・田村の記者会見以降は、こちらの「吉本興行の体質」という問題に論点が移ってゆきました。

しかし、事実解明を目指すのであれば、③と④の発言者の特定と、それが発言された状況の特定は欠かせない要件だと思います。

 

記者の言葉のナンセンスさ

さて、宮迫と田村の「想いの込められた強いことば」に対して、マスメディアの記者たちの「ことば」には弱くて薄汚いものがたくさんありました。

まずは、自分の所属と姓名をはっきりと名乗らない者。

同じ質問を繰り返して、肝心なことを聞かない質問。

 

ただし、記者会見においては、わざと時間差をつけて同じ質問をすることはあり得ます。それは、同じ質問を何回も繰り返すことで、会見する側の発言の「食い違い」を引き出したり、「ボロ」を引き出す目的です。

しかし、今回の記者会見でのカブり質問はそうではなく、特にテレビ記者による質問では、質問の頭に「〇〇テレビの〇〇ですが」と番組名を名乗り、目的が自分の属するテレビ番組でのインタビュー使用にあることが明らかでした。

薄汚い目的で発せられた「ことば」でした。

 

この点で最もひどかったのは、TBSの「アッコにおまかせ」の記者で、質問は、「宮迫さん、かっての浮気騒動の時はオフホワイトとおっしゃいましたが、今は何色ですか?」というもの。

このバカげた質問に、宮迫は冷静に「すいません、本当に謝罪をしたいという会見でしたので、ちょっと話が違いますので、すいません、申し訳ないです」と答えていました。

当該の記者は、TBSの社員なのか、制作プロダクションの者なのか、契約のレポーターなのかは分かりません。

すぐさまネット上には、この質問者に対する批判が続出しましたが、それは多くの視聴者のしごく健全な反応というべきで、日本の芸能ジャーナリズムの低劣さを露呈したものでした。

 

また、宮迫が吉本興行側からの「静観ですね」という発言を明らかにしたことに対して、執拗に「そういう隠蔽をしようとしたんですね」と誘導尋問を繰り返して、なんとかして宮迫と田村の口から「隠蔽」という単語を引き出そうとした記者もいました。

それに対しても、宮迫は、「静観という言葉しか使われていないので、そこを言い換えるというのは語弊があるような気がします」と誘導には乗りませんでした。

 

この記者の質問も、薄汚い意図をもった「ことば」です。

そういった、マスメディア従事者たちの、「ことば」に比べて、

「こんなアホを……30年間も育ててくれた吉本興行に対しては……感謝しかないですよ。こんなこと、したいわけないじゃないですか……」

という「ことば」が、どれだけ「美しい・正しい・強い」日本語であるかを、私たちは気付くべきだと思います。

 

さて、「ことば」から聞き取る「発言者の心」の判定、は、これ以降のニュース報道や情報番組の中で展開される言説についても、また、「岡本社長の記者会見」についても同様にあてはめることができます。

 

22()の「岡本社長 記者会見」での「ことば」については、お笑い芸人・学天則奥田修二の、「芸人は、本気と冗談を見分けられます。だから、芸人なんやもん」というTwitterがすべてを表しています。

 

2.「お笑い芸人の非・社会性」について

720()の「宮迫・亮の記者会見」で明らかになった事柄の中の、「しばらく静観ですね」と、「全員クビにしたる、わしにはそんだけの力があるんや」という発言から、一連の騒動は「吉本興行のパワハラ体質・前近代的経営」へと論点が移っていっています。

が、今後を考えるためにも、絶対に忘れてはならない論点があると、私は思います。

それは、「お笑い芸人」とはどんな存在か?ということです。

 

「お笑い芸人」という存在

そのことを、とても正確に言い当てているのはビートたけしです。

たけしは、22()夜放送の「新・情報7days ニュースキャスター」で、「芸人というのは猿回しと同じで、俺らは猿で、猿が噛んだ時は飼ってる奴が謝るの」と言いました。

たけし発言のこの部分は、近藤春菜らの引用で広まりましたが、本当に大事なのは、それに続いた次の部分です。

 

「本当のこと言うと、お笑い芸人に社会性とかすごい安定したことを望む社会が変だよ。俺ら、それが嫌でやってんだから」

「品行方正とかを漫才芸人に求めちゃダメで」

「俺ら、綱渡りしなきゃいけないんで大変なんだって」

 

ここに、「お笑い芸人」という存在の本質的意味が込められています。

 

「お笑い芸人」とは、ことの本質からして「非・社会的な存在」なのです。

 

「お笑い芸人」は、魚1匹獲りはしない、野菜1つ育てはしない、ネジ1つ生産はしない。

つまり、産業社会における「生産行為」から逸脱した「ハズレ者」なのです。

 

産業社会を成り立たせている、「知識」や「学歴」や「地位」という基準からすれば、彼ら彼女らは「落ちこぼれた者たち」なのです。

学校の成績は悪かったり、美しい容姿にも恵まれていなかったり、優れた筋力があるわけでもなかったり、育った家庭環境も複雑だったり。

そんな人間たちにできることは、親からもらった身体と口を使って人を笑わせることだけです。

だから彼ら彼女らは、産業社会の周辺に居て、社会の中で正業を営む人たちに「笑い」という慰藉を与えることにより生きるのです。

 

「お笑い芸人」とは、本来的に、社会とは転倒した価値観を生きる人間のことなのです。

しかし、だからこそ、産業社会を構成している社会的な価値規範――性や金銭や社会的倫理など――に縛られることなく、それらの価値規範にとらわれている大衆を笑わせることができるのです。

 

これが「お笑い芸人に社会性を望むことが変だよ」の意味です。

そして、社会の周縁で生きている「非・社会的存在」である「お笑い芸人」は、ややもすれば社会から完全に外れたり、社会に牙を剥いた「反・社会的存在」になる危険性を常にはらんでいます。

このことを、たけしは「猿回しの猿が人を噛む時がある」と言っているのです。

その危険な壁ぎわを生きていることが、「綱渡りを生きている」という意味なのです。

 

で、狭くて危険な壁ぎわを歩いてゆく猿の手綱をゆるめたり引っ張ったりする役目の「猿回し役」が、マネージャーやプロデューサーという名前で呼ばれる者のことです。

 

このことを理解しなければ「お笑い芸人」の発掘や育成はできません。

ここが、一般社会の企業とは全く違うところであり、俳優やアイドルという同業他種の人材会社とも違うところです。

 

吉本興業という会社

なぜ吉本興業が現在のような「お笑い界の大企業」になれたか、というと、こういった「お笑い芸人」という者の特殊性をよく理解していたプロデューサーやマネージャー達が大勢いたからです。

だから、世の「ハズレ者」たちがたくさん吉本に集まることができたのです。

今回のことで多くの所属芸人たちが言っている「吉本は昔の吉本とは変わった」というのは、この点だと思います。

かつては、「ハズレ者」たる「お笑い芸人」のことをよく理解して、そんな「お笑い芸人」のことが好きな人間たちが吉本の社員としてたくさん働いていました。

楽屋や、近くの飲食店では、芸人と社員が一緒になって軽口をたたき、社会の悪口を言い、規範に縛られて生きている一般大衆のことを笑いながらしゃべっていました。

「猿」も「猿回し」も一緒に生きていたのです。

 

宮迫博之の「こんなアホを、30年間育ててくれた吉本」という発言の深い意味もそこにあります。

 

そして、およそ近代的な産業社会になじむことのできない「お笑い芸人」にとって、「吉本」はとても生きやすい場所でした。

このことの象徴が「カネ・収入」の仕組みです。

今回のことで、多くのマスコミや識者たちは「吉本」の芸人たちへの金銭的側面を、否定的にのみ語るが決してそうではありません。

 

外部から見れば「前・近代的」とだけに見えるでしょうが、吉本に所属して生きている芸人たちにとってすれば合理的な面もたくさんあります。

 

芸人と契約

まず、「契約」の問題です。

およそ「契約」こそは、近代的な人間関係の集約的象徴です。

多くの「お笑い芸人」にとって、「契約」のようなややこしい社会関係は「ようわからん」世界です。

もちろん「お金」は欲しいが、「ややこしいことはかなわん」人間もたくさん居ます。

かつて、名物会長であった林正之助が「給料上げて欲しいんやったらワシのとこへ言いにこい」と言ったという伝説的エピソードがありますが、それを聞いた芸人たちがビビって恐れをなしたかと思うとさにあらずで、少なからぬ芸人たちがこの言を聞いて林会長のところへ行き、「会長、給料上げて下さい」と直談判しにいったという事実があります。

そのくらいの根性がなければ続けられないのが、芸人という生き方です。

芸人が文句を自分の口で言うことができ、それを受けいれる寛容さのある会社、それが「吉本興業」だったはずです。

 

芸人の活躍度や金銭感覚や家庭状況などを熟知した上で、勘案して報酬を決めるのが非合理だとは言い切れません。

かつては、金使いの荒い芸人にはギャラの金額を教えないで、こっそりと奥さんに報酬を渡していた場合もある、と聞いています。

これも、昔々のお話ですけどね。

 

肥大化のデメリット

で、芸人と社員とのこのような牧歌的な関係が変質せざるをえなくなってきたのは、NSC(吉本芸能学院)の事業的成功に端を発する肥大化だろうと思います。

所属芸人6000人と言われるまでに肥大化した組織では、かつてのような「猿と猿回し」の人間的な関係は維持できない。管理部門の拡大と官僚化は必然だったでしょう。

このことが、今回のことで、中堅以上の芸人たちからよく言われる「吉本は変わった」ということではないでしょうか。

 

また、エンターテイメント(娯楽)の産業化システムが整備されるに連れて、本来は「産業社会からのハズレ者」であった「お笑い芸人」という生き方が、一見「効率の良い就職先」へと変質してしまった、という側面もあります。

芸人たちの質も多様化してきたのです。

そして、特異な才能を必要とする「お笑い」の世界では、向いていない人間には薄給をもってしてその自覚を促して、「正業」の世界へと早いうちに帰農させることも企業としては大切なことです。

 

「お笑い」というものは近代的な社会関係だけでは包摂しきれないものを孕んだ営みなのです。

テレビで解説者などが今回の問題を一般的な雇用関係や契約の問題に収れんさせようとしていますが、「お笑い」というものの本質を忘れたら、単なる形式的な解決にしかならないと思います。

 

芸人という生き方――「夢」を見るな

天国か地獄か

芸人になるのは、甘いことではありません。

類まれな才能と特別な努力、そして運、これがなければ、芸人で居続けることはできません。

 

今回の件で、「若者が夢を叶えられる会社に」という言葉も聞きますが、とんでもない偽善です。

貧乏な若者が月給500円の薄給から、その才能と努力と運でもってして年収何千万何億円をつかみ取ることが夢なのです。

その夢を叶えることのできる者は、ほんの一握りなのです。

叶えられなければ、薄給のまま、地獄です。

夢は地獄と紙一重なのです。

芸人に向いていない人間は、薄給から逃げて、正業の世界に帰らせることも、エンタメ企業としての務めであると僕は思います。

 

吉本のこれから

22日の「岡本社長記者会見」で、昔の吉本興業を知る私がもっとも驚いたのは、最初に時系列を説明した人間が、「法務本部長 小林良太」氏だったこと、でした。

おそらく多くの吉本芸人たちも驚いたことでしょう。

「こんな人が社員にいるんだ」と。

小林弁護士の語る「ことば」こそ、吉本芸人たちの日常から最も遠いところにある「ことば」であることを、「お笑い芸人」は知っています。

小林弁護士は、NGKの芸人溜りで「お笑い芸人」たちと下世話な会話をしたことがあるのでしょうか。

 

今、本当に問われているのは、社会的規範を免れた「お笑い芸人」たちの「ことば」と、社会的規範を象徴する小林弁護士の「ことば」の乖離でしょう。

そして、今後、吉本興業が取り組むべきは、異種の「ことば」が同時に存在して、そこで人が生きてゆける「新しい組織」の構築だと僕は思います。

近頃の女子大生ことば

 

「せんせぇー、最近、タピってますぅ?」

 ――は、はぁ、なんて、何のこと?――キョトンとしてる私に、

「今日、めっちゃ暑いんで、みんなでタピりに行ってきま~す。授業、ちょい休み」

 ――楽しそうに、しゃべりながら歩いてゆく女子大生たち。

 

女子大で教えていると、なんとなくはわかるけど、その実よくわからない「若者ことば」に触れることがよくあります。

「うつりゆくこそ、ことばなれ」で、「ことば」は様々な要因で変化をしてゆくものです。

そんな変化の中で、「若者ことば」は制度教育や社会的権威からの押し付けによる強制変化ではなく、「ことば」を使っている人間たちの欲求や要望による変化なので、「ことばを成長させる力」をはらんでいて、とても勉強になります。

 

そんな訳で、この春学期の間でとても面白く感じた「近頃の女子大生ことば」をとりあげてみました。

言語研究をしていらっしゃる方々、参考にして下さい。

 

「タピる」

このごろ若い女の子たちに大人気という「タピオカ」を飲むこと、食べること、のようです。

「先生、タピってますぅ?」とか、

「なぁ、授業さぼってタピりにいこか

などと使うようです。

ちなみに、京都にも最近はたくさんの有名なタピオカのお店が出来ているようで、うちのクラスの学生たちに人気が高いのは、河原町にある「モッチャム」や「Sin an ju(シン・アンジュ)」だとか。

いつも修学旅行生はじめ、長い行列ができているそうです。

ちなみに私は、回転寿司「かっぱ寿司」のタピオカしか飲んだことがありません。

 

「『タピオカってキャッサバやん、芋やん』って言ってた友達が、今度タピりに行くらしくて感想を聞くのがとても楽しみ」という学生さんもいました。

 

ありよりのありであざまる水産

さぁ、次は「わかものことば」満載だったコメントカードの一部です。

あなたはどれくらいわかりますか?

 

「このまえ友達に、『オケオール、いこ』言われて、『ありよりのありやな』おもって行ったらデンモククズで、萎え

そしたら夜の2時ぐらいに、部屋まちがったオジサン入ってきて、

とりま楽しかったから良き

誘ってくれて、あざまる水産!!

 

いやぁ、おっちゃん先生にはわかりませんでした。

かなりの解説を受けて理解しました。

それでは逐語訳してみましょう。

 

「オケオール」……カラオケのオールナイト、ですね。

カラオケボックスで朝まで歌おうよ」ということ。

「ありよりのあり」……「有り寄り、の有り」。「それもありやな」という時の「あり」ですね。「あり(有り)」か「なし(無し)」かをゾーン分けしたら、「あり」の方に近寄っている「あり(有り)」、とのことです。意訳すると「うん、まぁ、行ってもええよ」くらいの感じ、だそうです。

デンモク……カラオケを歌う時の「電子目次(デンモクジ)」の省略形、なんだそうです。

「クズ」……乏しい、貧しい、良くない、の意味。

「萎え」……がっかりした時の「萎える」の短縮形。「萎えるわぁ」とか「萎えたわぁ」とか、と使います。

 

そして、「カラオケボックスに行ったら、曲の電子目次本が貧相で歌いたい曲目がなくて、がっかりしたわ」というところを、

デンモクがクズで萎え」!

なんとみごとな省力化、ではありませんか。

 

「ことば」は、使う人間にとって便利なように省力化され短縮化されるものなのですが、ここまでみごとに縮めるとは。脱帽!しました。

 

「草」……これは、近頃の若者が良く使う「ことば」のひとつ、ですよね。「クサ」です、「そう」ではありません。もともと、ネットやツイッターで「笑う」を意味する「w」という記号を連ねて、「wwwww」などと書いて、「失笑」や「嘲笑」を表しています。それが「草」が生えているように見えることから、の変化です。馬鹿にして笑っている、ことの文字化、です。

「とりま」……「とりあえず、ぁ」の短縮形、ですね。

 

「あざまるスイサン」

口からオトにして出してみると、とても軽やかです。

なんとなくわかりますが、よくよく解説を聞いてみると、これが結構深い言語変化のプロセスを含んでおりました。

 

「あざまる」……「ありがとうございまーす。」が短縮化して変化したもの、だそうです。

 

まず、「りがとうごす。」が、短くなって「あざま~す」に。

語尾の「~す。」の句点の「」をオトにして「まる」と発声します。

全体をつなげて「あざまる」となります。

 

つまり、原文は「ありがとうございます 。(まる)」これを「あざまる」と言っているので、軽く聞こえますが使っている人の気持ちからすれば、かなり丁寧な気持ち、なのだそうです。ほんとに?

 

「水産(すいさん)」……これは何人かの学生にたずねたのですが、今のところ明確な解説は聞けませんでした。

何人かの解説を合わせたところでは、なんでも若者がよく使う居酒屋チェーン店に「磯丸水産」というお店があり、その「いそまるすいさん」のオトが、「あざまる」のオトに語呂合わせでつながった、らしいのですが、詳しいことはわかりませんでした。

ご存じの方、いらっしゃったら、教えて下さい。

 

それにしても、感嘆すべき言語変化です。

是非とも、口から出る「オト」にしてみてください。

 

「このまえ友達に『オケオール、いこ』言われて、『ありよりのありやな』おもって、行ったらデンモクがクズで、萎え。そしたら夜の2時ぐらいに、部屋まちがったオジサンが入ってきて、草。とりま楽しかったから良き。誘ってくれてあざまる水産!!」

 

ところで、徹夜でカラオケボックスに居た女の子たちは、その後どうしたんでしょうか。

動き始めた電車に乗って家に帰り、そこから寝直したんでしょうか。それとも徹夜のまま1限目の授業に出たんでしょうか。

まぁ、僕らの頃は、キャンパス近くの雀荘で徹夜マージャンしてそのまま1限目の授業へ行き、授業中はほとんど寝てたもんですが。

 

「エモい」

決して「エロい」の同類ではありません。

「エモーショナル(Emotinal)」を語源としており、しみじみとした感動や深い感情をあらわす時に言う、のだそうです。

 

実用例としては、

「いやぁ、こないだのアニメ、めちゃめちゃエモかったわぁ!」や、

推しが、ひたすらエモい!」など。

補足ですが、「推し(おし)」とは、アイドルグループ等の中で自分が推薦しているメンバー。

 

「エモい」の段階表現としては、「激エモ」……激しく心動かされた時、に使う。

また、最高級の場合には「エモエモのエモ」という場合もある、とか。

 

別の学生によれば、「どうにも形容し難い感動があった場合に、『泣けたわ』とか言うよりも先に『エモかった』と言ってしまう」んですって。

また別の学生によれば、「深夜の高速道路や、真夜中のサービスエリアのように、独特の浮遊感や違和感を伴う、欠落のある美しさ」が「エモい」んだとか。

 

深い!じゃぁありませんか。

きっと、清少納言の「いとをかし」に通じているのでしょう。

「春はあけぼのがエモい!」

 

「しんどみが深い」

感嘆表現の続き、です。

推しの舞台を観に行きました。ファンタジーやのに激おもやし、W主演の二人の関係性が激エモで、しんどみが深かった!

なんとなくですが、わかります。

 

学生の解説によれば「激おも」は、「重々しい、重厚である」の意味で「おもしろい」の意味ではない、のだそうです。

「激エモ」は、「激しくエモーショナル」で、いたく心を揺さぶられた、の意味。

「しんどみが深い」は、心がしんどくなるくらい感動が深い、の意味なんだそうです。

 

この「しんどみ」の「み」は、「おもしろい」に対して「おもしろに欠ける」、「高い」に対して「空の高に」や、「深い」に対して「深にはまる」のように、形容詞の語尾が変化して名詞化したもの、だと考えられます。

「しんどみが深い」と、一連で使うことが多いようです。

 

「り!」

使用例:「あした、3時、四条河原町のディズニーストアの前でな」「り!」

そうです、「了解(ょうかい)」の「り」ですね。

 

これで本当に通じているのかなぁ。

 

ある学生によれば、

「このあいだ、電車で女の子2人が、A『ま?』『ま!』と話していました。多分、推測するに、A『まじ?』B『まじ!』だと思います。いや、せめて『じ』まで言えよ!と思ってしまいました」って。

 

「ワンチャン」

実際に使う場合は、「ワンチャンあるかも」などとなるようです。

実用例として、

「私には弟がいるのですが、めっちゃウザいので、家から居なくなればいいと思って、こないだジャニーズ事務所に勝手に履歴書を送ってやりました。ワンチャンあるかも、なので。早く居なくなって欲しいです」

 

前後の文脈からすると、「もしかしたら」「ひょとして」「万が一」の意味のよう。

「ワンチャンス」の短縮形なのでしょう。

 

で、別の学生が、

「私は家でしょっちゅう『ワンチャン』を使います。すると、ある日突然、お父さんが満面の笑みで『ワンチャン』を使ってきました」と。

いやぁ、きょうび、若い娘を持つお父さんも意思疎通に苦労してるんですねぇ。

 

「フッカル」

実用例は、「先生はフッ軽ですか? 私はまわりの人から『フッ軽』と言われています。このあいだ、友達と約束をして、電車2駅ぶんくらい自転車で行きました」。

 

「フッカル」すなわち「フッ軽」、「フットワークが軽い」の短縮形、のようです。

 

「ことば」には、「言語変化における経済性理論」というものがあります。 

それは、「ことば」を使っている人間には「ことば」をより楽に使いたい、短くしたい、という気持ちが働くものだ、という考えです。

まさに、それを証明している事例だと思います。

 

「耐え(タエ)」

これはわかりますよね、「耐える」の名詞化です。

若者は、「これは耐えやな」とか「今日のテストは耐えたわぁ」とか使うんだとか。

 

「ムシル」

実用例「私の父は、家ではお酒をのんで酔っぱらってウザイので、いっつもムシられています」。

そうです、「無視する」が短縮化されて「無視る(ムシル)」になりました。

 

「詰む(ツム)」

実用例「さいきん、人間関係、詰んできました。 近々、占いに行ってこようと思います」

おそらくは「行き詰まる」の「行き」が欠けて、「詰まる」「詰む」となったものでしょう。

それにしても、打開策が「占い」でいいのかな?

 

 

さて、こういった「若者ことば」がどれだけ一般化して残っていくかはわかりません。

ですが、「若者ことば」をあなどってはいけないのです。

 

なぜなら、「ことば」というものは権力者や知識階級のものではなく、「ことば」を使って日々を生きている一般民衆のものだから、です。

無名の一般民衆が、暮らしの中で自分たちにとって使いやすいように「ことば」を変化させてゆくところにこそ、「ことば」の活力の源があるのです。

そして、その際に、一般民衆は「ことば」の本質が「オト」であることを誰よりもよく体感しており、「オト」の変化によって「ことば」が変わってゆくのだ、ということを実体験しているからです。

 

漢字や四文字熟語などの「文字の知識の価値」を押し付ける大学教授や文化人などに惑わされることなく、自在に「ことば」を使って生きている若者たちが居る!

まだまだ「日本語」には活力がある! そんなことを感じた春学期でした。

 

新装「NEWS23」を論じる―正統派の「アンカーウーマン」を目指す小川彩佳を高く評価します!

小川彩佳をキャスターに迎えた新生『NEWS23がスタートしてひと月。

視聴率的には、5月以前とそれほど変化はありませんが、内容的にはずいぶん変化しています。

その変化を、「日本のテレビニュースの作り方」という構造的な視点と、「キャスターのことば」という言語的な視点から論じてみたい、と思います。

 

 

新生『NEWS23』―アンカーウーマンの萌芽

結論から先に言うと、新生『NEWS23』は、「テレビニュース」が本来あるべき姿を、意欲を持って志向しており、小川彩佳は日本のテレビ人では久しぶりに「ちゃんとしたアンカーウーマン」を志向している、と僕は感じ取っています。

それゆえに、僕は視聴率の高低にかかわらず『新生NEWS23』を高く評価するものです。

 

 報道に「やさしい」という形容詞?

おりしも、コピーライター/メディアコンサルタント境治(さかいおさむ)さんがネット上に、

 『NEWS23』リニューアルが示す「過激で不快なテレビ」の終焉

  令和のテレビは「やさしさ」の時代へ

という論稿を載せられましたので、興味深く読ませていただきました。

gendai.ismedia.jp

 

境さんの指摘には幾つかの点で参考になる箇所もあるのですが、番組の変化の要素を、「『産み出された結果としてのニュース表現』の受け取られ方」、簡単に言うと、「ニュースの受け取られ方」の視点を中心に解析している点で的を外しています。

つまり、論稿の中心となっている部分は「世帯視聴率から個人視聴率への変化」というマーケティング手法であり、同時に「『お父さん』から『女性たち』へ」というターゲット手法です。

 

それは「ニュース表現の作り手」という「表現制作者の主体性」の立ち位置にまでは近寄れてはいない印象批評にとどまるものです。

この理由からして、境さんの論稿は「NEWS23は『やさしさ』に向かっているのではないか」との的外れな結語が出てきます。

「ニュース」を論じるのに、「やさしさ」という感情的な形容を使うのは筋違い、だと僕は考えます。

 

やさしさって?

「やさしさ」という感情的な形容はその構造的な内実を明らかにはしません。

中味のはっきりしない曖昧な言葉です。

これは、境さんに示唆を与えた、「今の若者たちは『やさしさ』を求めているのではないか」という大学教授の言説も同様です。

 

「やさしさ」って何、なんでしょうか?

一見もっともらしく聞こえるこの手の印象批評的な形容詞に出会った時に、「ニュース」のみならず現場の「表現製作者」が必ず腹の中で思うことは、「それ、具体的にわかるように言ってよ!」です。

「表現」を産み出す人間は、まず「何を、どのように、形にするか」を考えるものなのです。

 

NEWS23』の中味の変化

さて、変化の具体的な中味について、です。

これは境さんが論稿の冒頭で触れられていた「アンカー・星浩の位置」が大きなヒントになります。

 

「アンカー」って何をする人?

まずは素直に考えてみましょう。

NEWS23』というニュース番組の「アンカー」とは誰なのでしょうか。

そもそも「アンカー」とは、陸上競技のリレー走においてバトンを受け継いで走る最終走者のこと。

ですから「ニュース番組」の制作過程で言えば、多くの報道記者たちが日本や世界のあちこちで起こった

出来事を取材して集め寄り、その中からデスク担当や編集長が「テレビニュース」として伝える事柄を選択し、それらを「テレビニュース」用に編集加工して、最後には「ニュース番組」を通して視聴者に伝えるのです。

その「ニュースの最終伝達者」のことを「アンカー」と言うのです。

 

ここから明らかなように、NEWS23』の「アンカー」は小川彩佳なのです。

決して「星浩」ではないのです。

そして、「アンカー」という言葉が生まれた米国のニュース番組を見ればわかるように、「アンカー」は「アナウンサー」とは違います。

単に、報道記者が書いた原稿を読むだけではなく、自らが取材して報道記者としての経験を積み上げて、政治・経済・社会について語る知識や見識を持つ人間のことを「アンカー」と言い、それが女性の場合は「アンカーウーマン」と呼ぶのです。

 

したがって米国では「アンカー」や「アンカーウーマン」と呼ばれる人は、一流のジャーナリストであり、大統領に単独でインタビューしたり、政治家と政策論議が交わせたりするほどの人物であり、多くの人の憧れの存在であり得るのです。

 

そして、本来は「日本のニュース番組」でも、このような米国流の「アンカー」を目指した番組や人物が居たのです。

TBSでは古谷綱正田英夫日本テレビでは櫻井よしこ

年代的に言えば、1960年代から70年代、80年代にかけてです。

当然のことですが、こういった人たちの「ニュース番組」では、その人が「ニュースの最終伝達者」たりえているので、パネラーのような解説者は不要です。

よほど専門的な事柄についての解説を必要とする場合のみ、その道の専門家を呼べば良いからです。

 

ちなみに『NEWS23』が、かっては『筑紫哲也NEWS23』という名前だったのは、TBS報道のこの歴史的経緯を踏まえたものです。

また、FNNフジテレビは、この位置に、フィリピンのマルコス政権の崩壊を現地からレポートした安藤優子を起用しました。今は見る影もなく、単なる「ワイドショーの野次馬談義の仕切り役」となっているのはとても残念なのですが。

また、ANNテレビ朝日は、久和ひとみという女性をその位置に起用したのですが、彼女は40歳で早逝してしまいました。

 

「アンカー」と「アナウンサー」の違い

さて、このような経緯があった後に、「日本のテレビニュース」は「アンカー」が責任を持って情報を送り出すスタイルから、「アナウンサーが進行するニュース番組」へと変質していったのです。

「アナウンサー」はテレビ局の社員であって、100人近く居る「ニュース製作組織」の一員です。

したがって、「ニュース」という表現行為において、その責任も発言権も「アンカー」とは重みと役割が全く違います。

平たくわかりやすく言えば、「アナウンサー」にとって最も求められる機能とは、報道記者の誰かが書いた原稿を、聞き取り易い声ではっきりと読む能力、です。

「ニュース番組」の中で、「アナウンサー」は決して「私は~と思う、~と考える」という一人称を使いません。

現在の日本のテレビ報道では、進行者が「私」を使ってはいけない、という不文律が支配しているのです。

 

もっとも近頃では、「スポーツ」や「食べ物」などの趣味嗜好に関することだけは許されるようになりました。

しかし、今でも、政治・経済・社会、などの「ニュース」の根幹を成す出来事については「アナウンサー」が一人称で語ることはありません。

日本の夜ニュースに一時代を画した、あの『ニュースステーション』においてすら、久米宏は「私はニュースキャスターではありません。司会進行役にすぎません」と言っていました。

 

客観性を装うテレビニュースの構造

この原因については、いくつかあるのですが、最大の原因は「日本のテレビニュースの言語形式」が「新聞の言語形式」、つまり「『私』を排除した、無署名性の言語形式」をひな型にして始まったことにある、と僕は考えています。

もう一つの大きな理由は、1950年に「放送法」が制定された際に米国から導入された「公正原則(フェアネス・ドクトリン)」です。この時に「客観報道」という表現形式が「テレビニュース」の原則となり、客観性を保持するための外形的手段として「私」という表現主体の明示を隠すようになったのです。

 

さて、こうして「客観性の保持」の名のもとに、本来は必ず存在しているはずの「表現製作者の表現意図」を代弁する役割として、「日本のテレビニュース」は進行役以外のご意見番的解説者」を常に置くようになったのです。

テレビ朝日報道ステーション』における後藤謙二の存在と役割が、その典型的な例です。

かつて後藤氏の席に座っていたのが、現役の朝日新聞論説委員であったことからもわかるように、後藤氏の意見が朝日新聞グループの政治的見解や社会的解釈を代弁していることは誰の目にも明らかです。

富川悠太アナや徳永有美アナや、背後の作り手が「思ってはいるが言えないこと」を後藤氏が代わりに言っている、という構造になっています。

 

このスタイルは、日本テレビ『ニュースZERO』においても同様で、本来はフリーのキャスターになったのですから有働由美子が彼女なりの政治・経済・社会についての見識を述べればよいのに、そうではなく必ず誰か有識者や著名人のゲストを横に相席させています。

そして、時には全くの門外漢の分野の出来事についても意見感想を求めたりするので、的外れでとんちんかんな発言が出たり、あるいは当たりさわりのない無意味な発言になったりするのです。

 

スタジオ空間の設計―『NEWS23星浩の位置の意味

さて、『NEWS23』の「星浩」の座り位置の問題、に帰りましょう。

境治さんが指摘したように、新生『NEWS23』では、星浩の座り位置が小川彩佳の並列横ではなくて、上手の90度ほど横位置になっています。

それは、境さんが解釈したように「お父さん的なご意見番」の役割縮小ではありません。

また、小川彩佳&山本恵里伽、という2Sの「女性が中心になって伝えるニュース」という意図でもありません。

ここで最も気付くべきは、「テレビカメラに正面から向き合っているのは小川彩佳だ!」という点なのです。

 

小川彩佳は、本来の「テレビニュース」があるべき「アンカーウーマン」を目指そう、としているのだと僕は思います。

そして、米田浩一郎プロデューサーを始めとするTBSの報道スタッフは、この志向性において同じ考えを共有して動いているのだと推察します。

 

「ニュース番組」のみならず、スタジオ空間を設計する時に、「表現製作者」としてプロデューサーやディレクターが最も悩み、気を使うのは、その空間がどのような表現思想を体現する空間であるか、という点です。

新生『NEWS23』において、金色のパイプオルガン風のセットの良し悪しばかりが取り上げられますが、その評価よりも、小川彩佳と山本恵里伽と星浩の3人の座り位置と顔の向き、前テーブルの形の方が重要な意味を持っている事に気づいて欲しい、と思います。

 

アンカーウーマンの萌芽

1つの「ニュース番組」の背後には、100人以上の制作スタッフが居ます。

そのスタッフ達が作った映像素材が、小川彩佳の後背部から出て小川を通してテレビカメラの向こうにいる視聴者に伝えられます。

また、山本アナは制作スタッフの編集加工した原稿を集約して小川に伝える形で読み、小川に聞かせると同時に視聴者に伝えています。

そして、小川彩佳は重要だと判断したニュースについては、彼女なりの論評コメントを述べます。

その際の言語には、まだ不十分ながらもしっかりと「私」という叙述の一人称が含まれています。

 

国際政治や国内政治の裏面の動きや意図の汲み取りなどが必要な時には、星浩の解析を求めます。

つまり、新生『NEWS23』においては、「ニュース」という情報の発信経路と伝達責任がとてもわかりやすく成されているのです。

これが新生『NEWS23』が他のニュース番組に比べてとても見やすいニュースになっている、ことの構造的な理由です。

 

このことは、ニュースの組み立て方にも良く表れています。

新生『NEWS23』では、番組頭から、国際政治・国内政治・社会的事件などが、「公益(パブリック・インタレスト)」の判断基準に従って適切な順序で並べられ、適切な尺で扱われている、と思います。

そこに、目先の視聴率を狙ったような「センセーショナルなラインアップ」は見られません。

また、映像素材の過度なBG付けや、大仰なナレーション付けもありません。

 

おそらく、プロデューサーや編集長と小川彩佳は、取り上げるニュースについてしっかりと意見交換をしていると、僕は推測します。多分、口論も交えて。

局の社員アナや、「アンカー」意識の低いキャスターが進行する「ニュース番組」ではそうではありません。

背後に居る制作スタッフが作った素材が、事前チェックなしに無批判に、生のニューススタジオに投げ出される方が多いのです。

その場合、スタジオで進行役だけを演じているキャスターは知らん顔してスルーする等、コメントなしで自分の表現責任を回避する、という方法を取ります。

 

新生『NEWS23』で記憶に残る特集

小川彩佳が、おそらく「ニュース」の選択や編集加工にも彼女なりの考えをぶつけているだろう、と推測されるのは、このひと月間の特集コーナーのラインアップから読み取れます。

特に僕の記憶に残ったものを二つほど取り上げておきます。

 

1つは、6月12日(水)放送。

「香港の民衆デモ」に関して、スタジオにゲストとして「周庭(アグネス・チョウ)」を招いた時。

「周庭」さんは、2014年の「雨傘運動」と呼ばれた民衆デモの中心メンバーの一人で、その時「民主の女神」と呼ばれた現在22歳の大学生です。

今、香港が面している政治的・社会的状況について「周庭」さんがゆっくりした日本語で懸命に話すのを、小川はゆったりと落ち着いて聞いていました。

性急な予定調和的結論をぶつけることなく、です。

簡単そうに見えますが、これは生番組をやっている人間にとってはとても大変なことなのです。

僕には、この時の「サブ(副調整室)」に居る多くの制作スタッフの苛立ちが手に取るようにわかりました。

その後に予定している「スポーツ」などの素材出しの時間に影響するからです。

しかし、小川は「周庭」さんが自分の思いを述べ終わるまで、無用な口を挟まずにしっかりと聞いていました。

 

もう1つは、6月26日(水)放送。

「Xジェンダー」について、です。

LGBTにも含まれない性的マイノリティである「Xジェンダー」の人に小川自身が面接取材したもの。

「Xジェンダー」とは「男女二分法」では捉えられない「男性・女性のどちらでもない性自認者」のことなのですが未知の概念ゆえに、なかなか理解もしにくいし説明もしにくいものなのです。

この時のインタビューは決してわかりやすい応答ではありませんでしたが、「わかりにくい事柄」にも取り組もう、という小川や制作スタッフの意図は良く伝わりました。

 

やろうとしていることを応援したい

最後に、僕は決して「小川彩佳」さんや『NEWS23』の政治的意見や社会事象解釈に賛同する者ではありません。

しかし、「小川彩佳」さんが日本で久しぶりに「アンカーウーマン」を目指そうとしていること、そして米田浩一郎さんを始め新生『NEWS23』の制作スタッフたちが、これまで歪んできた「日本のテレビニュース報道」に「署名性の言語」を持って挑戦しよう、としていることにエールを送りたい、と思うのです。

 

新番組を立ち上げて、思うように視聴率が上がらない時、現場の報道マンや制作マンには社内の営業や編成や経営上層部からさまざまなプレッシャーがかかります。
それは、商業放送たる民放の宿命ではありますが、そんな時こそ、現場の人たちは「表現製作者の志」をもって頑張って欲しい、と思います。
「ニュース報道」は、放送面積の中では少ない割合でしかありませんが、国民の共有財産たる電波を使うことを許された「放送」の基幹を成しています。
ノンフィクション領域である「ニュース」がしっかりとしていてこそ、フィクション領域である「ドラマ」や「バラエティ」が存分なエンターテイメントとして成立するのです。
 
かつてTBSは、「報道のTBS」と呼ばれていた時代がありました。
優れた「ニュース報道」が、一方でテレビ史に残るような「名作ドラマ」も産み出しました。
 
今回の、新生『NEWS23』のトライアルが、単に「報道のTBS」復活のきっかけとなるだけではなく、「無署名性言語による欺瞞的ニュース報道」や「外見容姿で選抜される女子アナ」といった日本のマスメディア特有の病理的現象の是正につながってゆくことを、僕は期待しています。

 

再び、映画『アンカーウーマン』を紹介したい

ちなみに、これまでの「日本のニュース報道」や「ニュースをネタにした情報娯楽番組」や「女子アナ」という存在が、いかに日本特有の病理的現象であるかを知りたい人のために、1本の米国映画を紹介しておきます。

 

それは、1996年・米国映画『アンカーウーマン』です。

監督:ジョン・アブネット 主演:ロバート・レッドフォードミシェル・ファイファー

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DVD・ブルーレイ: アンカ−ウ−マン/ロバート・レッドフォード限定盤:オンライン書店Honya Club com

これは、全米ネットワークのひとつ、NBCで活躍した「実在のアンカーウーマン」ジェシカ・サヴィッチをモデルとして作られた映画です。

彼女は、1983年に36歳の若さで事故死し、「悲運のアンカーウーマン」とも呼ばれています。

 

私たち「日本の近代」は、そして「日本の戦後メディア」は、決して「あたりまえ」ではなく、「表現行為の原点」から見たらとても歪んでいるのだ、という事に早く気が付いて欲しい、と僕は考えています。